【小説 愛しのマリナ】第七話 将来の夢
「美味しい!」
慶太は思わず声を上げた。
妻はそれを微笑んで見ている。
「今日ね、友達と会うの」
響子は突然言った。
「前の職場の人なんだけど、仕事のこととか話すの」
そう言うと、味噌汁を啜った。
慶太はやはりこの朝飯には裏があったのか、と思った。
「仕事って、復帰するの?」
「うんん、今の職場の状況を訊いてみるだけ。戻れそうだったら、また訊いてみる」
慶太は黙って聞いている。
「希優羅は、どうするんだ? 二人とも仕事したら誰が面倒みるんだ?」
「それは保育園に預けるしかないよ」
「俺は仕事がいつ暇になるか分からないから、迎えに行くの難しいぞ」
「分かってるわよ。でも、そこは相談して早く帰れるようにするとか、頑張って効率よく仕事するようにしてよ」
こちらの事情をよく分かっていない響子の言葉だった。
着任早々逃亡者と同じ会社の社員という目で見られ、欠勤した新人の分まで仕事をしクタクタになって帰ってくる。
効率良くできることならやりたいと考えている。
だけどそうしたくても出来ない職場が今の現実なのだ。
そのことを慶太は話した。
だが響子は
「何であなたばっかりそういう目に合うの、社長に相談して」
その、一点張りだった。
何となく険悪な空気が流れたまま、二人は無言で食を進めた。
「ごちそうさま」
慶太は食器を流しにおくと、歯を磨きに洗面台に向かった。
五分前行動を心情にする慶太は、慌ただしく玄関に向かう。
「ねえ、ちゃんと私の言うことも聞いてよ。そうやって仕事に逃げてないで」
響子が敢えてそうしたかのような、低く暗い声で問い掛ける。
確かに思い当たる節はあった。
家庭の問題を仕事に行くことで逃れている部分はある。
真正面からぶつからず、そのことが響子を苛立たせているのも分かる。
忙しい仕事のせいでこうなったのか、家庭の問題から逃げたからこうなったのか、どちらかと言えば、忙しすぎる仕事が発端だと思っている。
そして、忙しすぎる原因は、慶太の仕事に対する能力にも一因はあった。
真面目な慶太は派遣先の職場から嫌われることは余りないが、お世辞にもシステムエンジニア向きといった思考の持ち主では無かった。
それは文系だからという理由ではなく、プログラマやエンジニアに必要な論理的にものを考えたり、いくつかの物事を見て抽象化するといったような能力が極端に低く苦手だったのである。
何度もやった仕事や慣れたプログラミング言語なら対応可能だが、新規の言語や慣れていない業務などは苦手なのである。
努力をすれば人並みにはなるが、そうなるまでに時間が掛かるのである。
ただ、真面目で遅くまで頑張るので、周りからは嫌われるどころか職場によっては好まれることがある。
人の二倍の工数を掛けていたとしても午前様まで頑張る姿は、日本の残業体質から見た時、効率よく終わらせて定時で帰る者より評価を受けることが多い。
それを何となく感じている慶太は、遅く帰ることは正しく無いが、それは仕方が無いことと正当化している部分があった。
ただ、慶太は慶太で響子に対する不満もあった。
仕事の事情も聞かないで、自分の都合を押し付けてくる響子にも問題があると思ってる。
「今度の休み、取れるからどうか訊くから」
そう言い残すと、慶太は出て行った。
「今度の休みは、私友達と旅行に行きますからね。希優羅をお願いします」
響子の声が、閉まりかけた扉の向こうから微かに聞こえた。
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森本は九時前ギリギリに来た。
もしかしたら来ないのでは、と思っていた慶太は意外な森本の出勤に拍子抜けしていた。
実際には来てもらわないと困るのだが。
「体は大丈夫なのか」
「はい、だいぶ良くなりました」
慶太は、森本のYシャツの袖に黒いシミが付いているのに気付いた。
そのシミは面談の日に見た類のもののように見えた。
(墨?)
慶太はそう思った。
それに加えて今日はシールのようなものが付着している。
「おまえ、Yシャツ汚れてるぞ」
「あ、すいません」
普通に生活してて、袖にシールや墨なんか付くか? 慶太は素朴な疑問を抱いた。
「みんな、集まってくれ」
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荒川の一声で、臨時の打ち合わせが会議卓で開催された。
今週からメンバーに加わった慶太と森本の紹介をするための打ち合わせが開かれた。
メンバーは開発リーダーの荒川、森本、田中、堀井、そして慶太の五人だった。
「昨日から参加しているダイナ情報サービスの大沢さんと、森本君です」
荒川から全員に簡単な紹介が行われた。
メンバーの中で年配の田中は、慶太と昨晩会話をしていたため笑いかけてくれた。
女性で三十代前半と思しき堀井は、軽く慶太に会釈した。
昨日、開発環境の構築で構築手順書に載っていないeclipseの設定を教えてくれたのは彼女だ。
田中は会員同士のスケジュール管理機能を担当し、堀井は会員情報登録機能の改修を担当している。
荒川が開発体制について、慶太と森本に簡単に説明した。
要件定義や設計はブレインズ情報システムの親会社であるグローバルソフト興業が行っている。
グローバルソフト興業は、ブレインズ情報システムが入居するビルの五階にサテライトオフィスを構え、そこで設計を行っているとのこと。
開発はブレインズ情報システムが行っており、開発チームは荒川チームのリアル系を担当するチームと、もう一つバッチ系を担当するチームがある。
バッチ系チームのリーダは、ブレインズ情報システムの久米という社員が行っている。
他にインフラチームがあり、このビルの六階のフロアにある開発サーバルームに普段はいる。
まれに本番環境があるデータセンターにも行くとのこと。
慶太たちリアル系チームは、普段はバッチ系チームと関わることが多い。
と、ここに来てやっと慶太にも全体の概要が理解できた。
「おっ、新しい人たちが入りましたね!」
会議卓の横を通りがかった、バッチ系チームのリーダーである久米が気さくに声を掛けて来た。
荒川は久米に目を合わせようとしなかった。
「二人はおいくつですか? お若いようですが」
優しい丁寧な口調で、慶太と森本に年齢を訊いてきた。
「二十八です」慶太は答えた。
「二十三です」森本も答えた。
「ほう、大沢さんは私と年齢が一緒なんだ。これは仲良くなれそうだ」
笑顔で答えた。
堀井も田中もその様子を見て表情が和んでいる。
「久米さん、今打ち合わせ中なんですよ、後にしてもらえませんかね」
「はい、すいません。では、バッチ系チームもよろしくお願いします」
爽やかに挨拶すると久米は席に戻った。
一方的に荒川の方が久米を嫌っているようだ。
そう言えば、同じフロアで作業している久米のバッチ系チームは慶太の見たところ昨日は一時間ほどの残業で帰っている。
メンバーは女性ばかりで、その中にあってたった一人の男である久米は、嫌われることなくむしろ、好かれているようである。
見た目がスマートで、先ほどの人当たりのよさを見るにつけ、久米という男はかなりリーダー向きなのだろうと慶太は思った。
それに引き換え、荒川の方は何だか人の心を掴むのがへたくそと言うか、そのしわ寄せが連日の無茶な作業に繋がっていると、慶太は思った。
荒川の方もそれは承知しつつ、久米が年下と言うこともあっていけ好かなく思っているのだろう、かなり嫌っている様子だった。
それにしても慶太は、久米が自分と同じ年ですでにリーダとして活躍していることに嫉妬とも憧れともつかない複雑な感情を抱いた。
慶太が属するような零細企業だと、派遣され開発メンバーになることが多い。
必然的に、リーダーとしての経験を積むのが難しい。
そう考えた時、この仕事でいずれは管理者やPMを目指す慶太にとっては、今のこの立場はジレンマを抱えるものではあった。
つづく
コメント
匿名
8話Forbiddenなんすけど
湯二
匿名さん。
すいませーん!
今は見れるようになってると思います。