筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

インベーダーゲームの頃

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 昭和50年代、誰もが「インベーダーゲーム」(正式名称:スペースインベーダー)に熱中していた。僕は、東京の新橋第一ホテル(第一ホテル東京)に宿泊した際に、ホテルのロビーで、親父と一緒にインベーダーゲームに熱中したものだった。当時、ホテルのロビーは、インベーダーゲームとその椅子に置き換わるぐらいすごかった。侵略者(インベーダー)は、ホテルのロビーをも侵略した。当時の、伊藤博文の1000円札を両替機に入れ、100円玉に両替し、うずたかく積んで、異星人を倒そうとする。ところが、なかなか反射神経が必要だった。やがて、自分の土塁はすべて崩され、最後には、上空から迫ってくる、異星人の思うがままになってしまうのだった。つまりは、ゲームオーバー。

 どうやら、のんびり屋の僕には、向かなかったのかも知れない。

■インベーダーゲームの頃

 1979(昭和54)年、僕ら一家は福岡県北九州市から逃げるように、神奈川県川崎市高津区(宮前区)に転居した。というより、叔父や叔母を頼って落ち延びた、と言った方が正しいのかも知れない。米国、サン・フランシスコのメトロ、BERT車両の妻面(先端部分)に使われていた、当時の新素材、それが、ファイバー・レインフォースト・プラスチック、略してFRP。これに目をつけた親父は、FRPの製造販売を主な役務としていた。親父は実際に、米国の車両工場を見学に行っていた。見方を変えると、これは物見遊山とも言う。

 親戚から聞くところによると、父親が、事業の失敗で約9000万円の損失を被った。というよりは、親父が手形の裏書きに、うっかり署名したために起こった損失だった。調子よく、だまされたのだ。そうして、九州グラスロンという名の、FRP製造会社は、従業員もろとも、一気に吹き飛んだ。まあ、それも難儀だが、倒産直後に、親父が、約1億円を脱税していたというのだ。呆れた話だ。どうりでいま、我が家には、余分なお金が一切ないはずだ。

 それでも、親父は親父なりに頑張って、僕らには、比較的良い暮らしをさせてもらっていた。借金が出来たので親父が蒸発、とはいかなかった。親父は親父なりに、ある程度の責任は果たしたのだろう。良い暮らしの一例として、仮住まいとして、そこそこのホテルに泊めてもらい、インベーダーゲームをさせてもらい、千葉県富里市でマンション住まいができたことなどがいい例だ。なので、僕にしてみれば、最高で、かつ、最低な親父だった。

 親父は、新日鐵化学(八丁堀)で、嘱託程度の役職を「先代の恩義で」させてもらった後、数年で肩を叩かれて退社し、よその会社で、慣れない法人営業にも挑戦し、何社か勤めたものの、すぐに辞めさせられた。思えば、威張りくさっていた二代目の、元ワンマン社長が、ある日突然ヒラ社員になったわけで、一般的な、ヒラ社員的な、どぶ板的な営業は、余り長くは続かなかったらしい。

 ある日、伯父が、K社(コンビニの冷凍鍋焼きうどんで有名な、近畿のとある会社)の、ある一定程度のポストを紹介してあげたらしいのだが、勤まる自信がないと袖にして、ぷっつりと断ったそうだ。モッタイナイ。創業者から数えて親父は二代目。「三代目は滅ぶ」というジンクスは、どうやら本当の事らしい。三代目である僕は、一体、何をどうすれば良いのか。

■子どもに夢を見させるのに大金はいらない

 なので、インベーダーゲームだけは、思う存分楽しませてもらった訳だ。たとえ「なんか、このひとしずくが」「なんか、この洟垂れが」と悪口雑言を言われても、言葉に悪意はなかったので、親しみを感じていた。ある日、僕が、クッキーを買ってきたら、ニコニコしながら、「なんか、この歯くそ菓子が」と言うような、そんな人柄である。一事が万事、そういう人なのだ。そういうキャラクターなのだ。そう思えば、別段、腹も立たなかった。ちなみに、北九州地方の人が、すべてこういう言葉遣いかというと、そうでもないのだ。

 口癖は、「お前の為になろうなら、オレは幾らでも(金銭を)出そうばい」というシンプルな考え方の人だった。直情径行とも言う。たとえ、大きな財産を失っても、中学進学塾・日能研には行かせてくれたし、出たばかりのCDラジカセも買ってくれたし、基礎英語のテキストや、知り合いに頼んで、中古パソコンまでも手配してくれた。一軒家に住んでいた頃には、九州グラスロン特製の「FRP製で、巨大な立方体のインコの鳥かご」を社員さんに作らせた。めっぽう口が悪い割には、息子には意外にも、サービス満点な親父だった。

 いま僕は、子どもに夢を見させるのに、身分不相応な大金など必要ないと思うのだ。動機付けだけで充分だと思うのだ。自転車には、最初は補助輪をつけてやる。その程度のことで充分なのだろう。あとは、やがて子どもは補助輪を外して、勝手に走り出す。それを待てば良いだけの話だろう。親父ができる役目は、子どもの自転車に、転ばないような、補助輪をつけてあげること。補助輪を外すための工具を用意すること。ただそれだけでいいのだろう。

■横尾家の三男、屈折して育つ親父

 昔は、長男以外は全員、長男のスペアでしかなかった。食事の席次も、偉い順に決められていた。横尾熊彦の三男として生まれ落ちた親父、横尾照雄は、いつも長男に対する憎悪、コンプレックス、そしてそれの裏返しみたいな固まりのように振る舞っていた。「なにを!!」「なんか?」といった、喧嘩腰が口癖だった。非常に短気な性格だった。また、何かにつけ、非常に面倒くさい人だった。エゴイズムを固まりにしたような人だった。心からの友人もおらず、ある意味、可愛そうな人でもあった。

 それでも、昭和37年に産まれた前の奥さんとの長男には「芳彦」と「彦」を付けて名付けていたので、横尾家に対する帰属意識と同時に、「見ていろ敏彦(長男)、いつか必ず、お前を追い抜かす」といった、いわば無駄なプライドの表出でもあった。その両側面が、除籍の原本から見て取れる。なお、前妻とその長男は、何らかの理由で急死したらしい。

 なので親父は、次に出てきた子どもには、己が信じるところとする、新しい憲法から一字を取って「憲雄」と名付けることにした。こんな名前、画数が多く面倒くさい上に、某お笑い芸人みたいで、正直嫌だった。市役所が許す、限度一杯の時間を使って命名したらしい。ライオンズクラブで、親父が仲間から浴びせられた言葉が「お前、それ、何人目の子どもか」という失笑だった。

 ちなみに、僕が15歳のとき「写真でわかる日本国憲法」という本を、突然与えられたことがあった。理由を聞くと「お前の名前に問うてみろ」「きっとこの本が役に立つ」とのことだった。この人なりの「元服式」だったのかも知れない。とても屈折している人なので、一見、何のことだか分からない物言いをする人だったのだが、幼年期を戦時に過ごした人にとって、新憲法の発布、つまり、日本国憲法は、それだけありがたかったのだろう。

 去年、死ぬ間際に「何とかかんとかー」(判読不明)という名の新素材の冷媒(れいばい)を使って、温暖な地と、寒冷な地の「ビッグな熱交換」をやれば、雪国は融雪でき、南国は涼めるから良いと言っていたが、親父……配管の「圧力損失」をもっと勉強した方が良かったかも知れないなあ。そんな粘度(ねんど)の高い冷媒を配管に流すだけで、どれだけの数のパイプラインと、中継ポンプ室が必要なんだろうかということを、もっと考えるべきだったって、もう言っても遅いけどね。

 本当の友人。葬儀の時に馳せ参じてくれる人が、僕には何人いるのだろうか……。

(というわけで、三代目は非常に苦労する、というお話でした)

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