筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

幕末ドラマ 修羅の如く

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■はじめに

 変わっていく時代に応じて、人間は働き方や職業をを変えなければ生き残っていけないと考えます。今回は一例として、僕のご先祖様が、どんなふうにキャリアを変転していったのか、アメリカとの関係や、幕末からの職業の推移を、恥ずかしながらご紹介します。皆さんのキャリア構築の一助になれば幸いです。オススメするのは、いつも対外関係にアンテナを張ること。世界の中で、日本の中で、自分の貨幣価値、自分が存在することのメリットを考えていただけるように、面白い読み物として綴りました。

■河野流田所家は、土佐藩士の系譜

 江戸末期、何の変哲もない下級武士は、暇を持てあましていた。傘貼りの内職などで、細々と副業をしていた。食い扶持(ぶち)が稼げなかったからだ。平和すぎて、仕事がないからだ。武士は、子だくさんで、供給過剰気味だったのかも知れない。また、長男以下は、長男のスペアでしかなかった。そこへ、黒船が来航した。もう、アメリカは、南蛮は、長崎出島アイランド経済特区だけでは、開国したと見なさなかったからだ。何だか、遠くの方から「チェンジ!」と叫んでいる。

 一体、何のことだろう。

■黒船来襲に、士農工商は動揺した

 誰しもがその時、自分の未来を考えた。もし自分から「サムライ特権」がなくなったら。もし「ガイジン」がやってきたら。「大砲」でもぶっ放されたらたまらない。これまで、安穏と過ごしてきた士農工商すべての階層が動揺した。これまで、淡々と剣術の腕を磨いていれば良かった。田畑を耕していれば良かった。これまで、日本人以外の売買は想定外だった。刀鍛冶は、これから何を作れば良いかと考えた。

 外様大名の配下にある武士たちは考えた。これまでの権力構造をひっくり返せるかも知れないと、色めき立った。あるいは、外国の属国になるかも知れないと、我が国の未来を憂いた。いずれにせよ、安穏と過ごしてきた「サラリーマン的武士層」が、アメリカによって「チェンジ!」を強いられていることは、まず間違いなかった。

■そんな頃、田所籐次郎が土佐にいた

 瓦版なんてマスコミはいい加減かも知れないなあと思い、つぶやきながらも、黒船来襲の瓦版を手に取る、田所籐次郎という男が土佐にいた。肩書き、サムライ。何でオレはこんなことをしているんだろうなあと、傘貼りの内職に精を出していた。剣術の練習相手をしようにも、相手がみつからない。開国の噂があるとはいえ、当面、主人である山内氏を信じて付いていくしかなさそうだ、とため息をついた。

 そこへ、新たなニュースが。坂本某なる人物が、土佐藩を抜け出したというのだ。フリーエージェント宣言。つまりは、脱藩。それをするには、田所家としてリスクがあった。長男、種實(たねみ)と妻がいる。建前上、下手には動けない。時期が熟していない。ここは黙って主人に仕えよう、そう決めた矢先に、また同僚が脱藩した。なんでも、今から長州に行くと言う。だから、もう会えないかも知れないなあ、という会話を交わしたのが最後だった。

■時代が動き出す、時期をじっと待った

 瓦版なんてマスコミはいい加減かもしれないなあと思い、つぶやきながらも、長屋の六畳間で、耳かきをかきながら田所籐次郎は考えた。ついに薩長連合か。ほー、これは面白い。面白いけど、脱藩となれば、即、現金収入は断たれる。とはいえ、このまま山内氏に仕えていても食い扶持は上がらない。しかし、我が藩を裏切ることになる事を起こすのには、ためらいがあった。どうしよう。しかし、希望があった。長男の種實が、いい頃合いの青年になってきたのだ。

 坂本龍馬の二番煎じ、あるいは、三番煎じになるかも知れないが、取りあえずここじゃないどこかへ出よう。そう思った。なにせ信じる道は「尊皇攘夷」だったことだけは間違いない。幕藩体制は「チェンジ!」の一言で大きく揺らいでいた。家財全部を町人に売り払い、旅に出た。このへんの経緯は詳しくはないが、とにかく、京へ、江戸へ行けば、もしかすると何らかの職に重用されるかも知れない。自分には間に合わなくても、種實がいる。やがて、大政奉還。江戸城が無血開城された。

■警察署長ポジションを約束された田所種實

 田所種實は、出来たばかりの警視庁に採用された。薩摩・長州・土佐・肥前の人材が多く明治政府の新体制に登用されていった経緯があった。それまでの、同心(司法巡査)らを統括する、白金署の与力(署長)に抜擢された。白金地区は、土佐藩の藩邸、つまり、江戸中屋敷がある、ゆかりの場所である。土佐藩士をして来て良かった、と心底思ったに違いない。東京府芝区白金三光町。5万区民の治安を守るポジションであった。のどかな旧・荏原郡を含んだ、山の手の閑静な住宅街だった。腰にサーベルを刺し、馬上ゆたかに区内を闊歩した。そのへんの町民に向かって、「オイ、コラ!」などとやったかどうかは、今となっては不明だが……。

(なお、当時の写真や資料は戦前までは存在したが、阪神大空襲等で散逸した)

■学問好きの、田所末次郎

 武道一本槍の、武骨な父とは違って、養子に入った末次郎は、どちらかといえば、木にもたれて思索にふけったり、何か考え事をしていたり、そこいらの昆虫をつかまえたりして観察していたらしい。これは何だろう、不思議だなあ、何でだろう。そんな好奇心が、やがて学究心へと変わっていった。知るところによると、当時の東京職工学校(現在の東京工業大学)に入学できるほどの人物だった。

 許嫁(いいなづけ)は、滋賀県蒲生郡桜川村(現在の滋賀県東近江市)に、日永とみ、という名の女性がいた。そのふたりを結びつけたのが、偶然にも、関東大震災の罹災によるものだった。焼け出されて、西へ行く汽車に乗った。大阪で「ベンチャー企業を興そう」と思ったかどうかは定かではないが、今で言う、ベンチャー企業が出来たことだけは確かである。野田阪神に「田所機械設計研究所」という看板を上げた。複数台の製図器を持ち込んで、長男や甥っ子らに製図を手伝わせた。ジアゾコピーすらない時代の話、トレース作業も行った。

■戦時を迎えて

 時は、戦時であった。またしてもアメリカが「チェンジ!」を遠くから叫んでいる。満州へ行くのには、多分リスキーだと末次郎自身、考えていた。「産めよ増せよ」のスローガン通りに、3男5女を無事に授かった。彼自身、徴兵はされなかった。代わりに、石炭を石油に混ぜて作る「代用燃料」を作るのに必要な石炭挽き器、つまり「ボールミル」という、余りポピュラーではない機械を、何にもないところから設計する仕事を担当した。機械は加工され、大阪湾岸のコンビナートに配備され、戦時の代用燃料を支えた。

 戦局は逼迫してくるが、そんなことは国民の耳には入って来ない。劇場には陸軍省の「撃ちてし止まむ」という名の戦意高揚映画が流れ、「パーマネントはやめましょう」「兵隊さんよありがとう」「ぜいたくは敵だ」などという張り紙が、スローガンが、あちこちに流布していた。婦人は誰しも、千人針の布を用意した。15歳以上の子女は、「勤労動員」という名のもとに、あまねく軍需工場で働かされた。そうして、末次郎の次男、田所政男が、甲種合格。陸軍兵として徴兵された。

 一方、田所末次郎は聡かった。英語がネイティブで話せる人だったからだ。英文の技術書をたぐっていた人だったからだ。たとえ敵性語と呼ばれても、VOA(アメリカの声)などのラジオ放送を、真空管ラジオで密かに聴いていた人である。これでは大阪がやばい。大阪の防空力が保たない。そう思うなり、尼崎市難波中通の自宅と、野田阪神の事務所を一斉にたたむと、滋賀県大津市の三井寺下、丸屋町(現在の中央1丁目)界隈に、臨時の邸宅を建て、一家全員で転居した。そこからは、国鉄大津駅が丸見えだった。

■戦後、新円切換と預金封鎖で……

 悲劇は突然にやってくる。敗戦である。政男はその後、骨ではなく、骨箱だけになって帰って来た。骨の一欠片すらも残っていない。箱の中にあるのは、死亡推定時刻と、推定位置だけが書かれた紙きれ一枚である。どうやら、あのインパール作戦で命を落としたらしい。相当なショックを受けたことだろう。

 一方、最後まで大津に残った、長女繁子(27)と、四女郁子(12)は、大津駅に面した家の中で、ある種の覚悟を決めていた。進駐軍が大挙して押しかけるに違いない。もしかしたら、自分たちが米兵に犯されるかも知れなかった。学校では毎日のように、鬼畜米英と教えられてきたためだ。だが、国鉄大津駅のプラットホームを降りて、土手を駆け上ってくる彼らは、実にフレンドリーな様子で、何より陽気だった。米兵に対し、縁側で着物を広げて見せた。

「で、でぃす、いず、きもの……」
「オー、キモノ、ビューティフル!!」
「イッツ、ソー、アメイジング!!」
「オー、イエー!!」

 米兵は、着物や帯などを一通り見ると、セーラー服の郁子のアタマをくしゃくしゃと撫でて、チョコレートやガムを置いていき、また、大津駅の東海道線プラットホームに戻ってゆくのだった。へなへなと、腰のチカラが抜けてゆくのが分かった。ともあれ、想定していたあらゆる種類の事件は、実際のところ、何もなかったのだ。

 また、末次郎は、律儀に預金を銀行に預けていた。が、しかし、想定外の事態が彼を襲った。昭和21年当時、敗戦直後の日本は、ハイパーインフレ状態だった。当時の幣原内閣が行った預金封鎖と、新円切換で、預金が紙くず同然となった。数字ばかりが書かれた過去の通帳。まるで、無価値の株券を大量に持たされたような気分になった。果てしもない無力感、脱力感が彼を襲った。また、代用燃料はその役目を終え、慣れない新しい仕事に、堺へ、布施(東大阪)へ、天王寺へと、飛び回る毎日に、ついに、身体が悲鳴を上げた。そうして、田所末次郎は、若くして夭逝する。

■アメリカがまた「チェンジ!」を叫び始めた

 そして、2010年の田所稲造。ブラック企業からの退社は果たした。しかし、時節柄、新規就業や、独立開業はまだできずにいる。ベンチャー企業などというものは、夢のまた夢である。取りあえず、激戦続きで心身が悲鳴を上げている。なので、心身の安定が必要だ。できることはやったのだが、まだ、予定している会社は「設立準備室」止まりである。大阪商工会議所をひっそりと辞め、尼崎商工会議所に、ひっそりと通ってみることにした。折しも、またアメリカが「チェンジ!」を叫び始めた。アメリカに翻弄されてきた、この血筋である。またしても、なんだか、嫌な予感がするのだった。

 平成初期、何の変哲もない、元サラリーマンは、暇を持てあましていた。名刺からは肩書きや社名がなくなった。200万円の自己破産をし、同時に免責し、一時期、酷く神経を壊したため、生活保護や障害年金などで、細々と生活をしている。何しろ、食い扶持(ぶち)が稼げないからだ。グローバル化しすぎて、日本人に仕事がないからだ。団塊ジュニアは、供給過剰気味なのかも知れない。そこへ、黒船が来航した。もう、アメリカは、「トラスト・ミー」だけでは、信頼できたとは見なさなかったからだ。何だか、遠くの方から「チェンジ!」と叫んでいる。

 一体、何のことだろう。

(このようにして、思索と模索は続く……)

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