筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

改良せよ! はじめての機械設計(3)

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 最前からダメダメ言われていた僕は、何としてでもダメじゃないところを見せなければならない。何が何でもダメな状態を脱しなければならなかった。僕はダメじゃない、僕はダメじゃない、僕はダメじゃない……。個室トイレの自己暗示。そんな朝から始まる。状況は完全な「アウェイ」な試合だ。ほとんど誰も味方ではない。優しい人も中にはいたが、良くない人はそれを上回って僕の気分を害する。そんなある日……。

【初めてのUNIXワークステーション】

 折しも、この機械の設計の途上で、僕は思いがけないプレゼントを得た。パソコンが得意で、手先が器用。ならば、新型のCADを導入しよう、ということが上層部で決定し、僕は導入指南役として頑張り、大塚商会さんとの折衝は、僕が窓口になった。

 NECのワークステーション、EWS4800/12という、今でいうBSD系のUNIXでできているCADシステム一式だった(NEC独自のUNIXという説もある)。今から思えば、プロセッサはモトローラだったような気がする。1992年の春の話なので、いま一般的に使用されている、AutoCAD LTなどはまだ登場していない頃だった。

 当時としてはハイスペックな機種で、ほかの部署からは、うらやましがられた。2次元の図面を3枚書いて、コマンドを叩くと、3次元の部品図としてレンダリングされる機能がついていた。ただし、めちゃくちゃ遅かったような記憶がある。ストリーマ(磁気テープ装置)が付いていて、それをマウント、アンマウントすることを覚えた。なので、僕のUNIXデビューは、1992年と、実はずいぶん早かったのだ。X-Yプロッタではなく、内部を黒い液体がうごめく、静電プリンタのA2サイズ対応の、ごっつい「ブツ」だった。

【大阪の機械商人とのやりとり】

 試作品加工も引き受けます、というS機工さん、という会社があって、僕は、堅いSCS300(ステンレス)を、今思えばずいぶん無茶な形状の切削加工を強いていたものだった。ある日、何でも僕が書いた図面で、フライス盤でステンレスの円柱を加工中に、職人さんの「指の先っちょを持っていかれた」らしくて、部長ともども、平謝りだった。

 僕は、そんな申し訳ないことをさせるのならば、機械材料でもっと良いものがあるはずだと思案に思案を重ね、たどりついたのが導電性の66ナイロンだった。これは強くて切削しやすく、静電気もためないので、これでカム部分の試作部品を作ってみたら、非常に軽く作れたので、カム部分はぜんぶ66ナイロンで、と進めようとしたら、部長のダメ出しキター!!

 「ワシの代では、それは技術的に責任負えないので、ダメー」ということになり、ボツになってしまった。ダメですか。ダメですねえ、どうせダメでしょうとも、僕の言うことなんか。

【ダイアフラムの半径を小さくすると、弁全体が軽量に】

 ダイアフラムという部品がある。ゴムに繊維を織り込んだ、強靱なゴムの膜だ。例えば、バネなどに力を伝える際に、ダイアフラムは欠かせない。ガスを漏らさずに、ガスの層と大気の層を分ける役割を負う。これを、3割減すると、それを包むダクタイル鋳鉄のふたや、受け皿がコンパクトになって、軽量化が最も図りやすい。問題は、半径を小さくし、バネの動きを従来通りにすると、ダイアフラムの伸びが現れやすく、最悪の場合、ダイアフラムが割けて、生ガスが大気に噴出する、といった最悪の事態を招く。

 僕は20気圧の、普通では考えられないおよそLPGの倍の圧搾空気をかけて、10万回の動作テストを行った。結果……それでもダイアフラムは破けないことが分かり、トップヘビーだった製品は一気にコンパクトになった。

【どうしても小さくならないカム部分】

 一徹、二徹、三徹と続いた割には、成果は芳しくなかった。それでも、全体のウエイトを下げ、無駄な部分を切削し、パーツを切り離してカム部分を簡素化し、飾りの矢印にも工夫を凝らせた。カムとカムの間に、波ワッシャをつけることで、カムにブレーキをかけ、動作の静粛性を図った。入れてある複数枚の波ワッシャが脱線しないよう、カムにはそれ相応のくぼみを付けた。当然、波ワッシャは、ばねとしての計算をした上での搭載だった。

 (思索と模索は続く……)

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