筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

父親との邂逅 ~神様がくれた最后の5分~

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 年老いた父親は、相変わらず「あいつ節全開」でした。おかげでCCNAを忘れそうになりました。いや、もう完全に忘れてしまったかも知れませんね(苦笑)。

【17年ぶりの東京・西新宿】

 あるCCNA系の専門学校が無料の授業を行うというので、西新宿まで夜行高速バスで向かいました。もちろん0泊2日です。CCNAの知識が身についたかどうかは不明ですが、なんせ実機を触らせてもらったのが大きかったです。シスコのカタリストスイッチ、というやつです。ヤマハやアライドのルータの方が簡単なのにな、と思いつつ……。

 西新宿の夜……夜行高速バス乗り場。ハンチング帽を目深にかぶり、むすっとふてくされた顔の老人……。すぐに父親だと分かりました。今では新小岩に住んでいるようです。

 「よお、親父」

 「何だ、お前か、よく一目でワシが分かったな」

 「……わかるわい」(苦笑)

 そんな太いツラは他にはおらん……。

 西新宿の地下にある寿司屋でひたすら昔話を聞かされ、折角美味しそうに食べていたまぐろの「ヅケ」を戻しそうになって、胃でぐっとこらえました。その後、同じ地下にある喫茶店でコーヒーをがぶがぶ飲みながら、またひたすら昔話を聞かされました。あの時、あいつがどうだった、そいつは最低だった、兄貴の葬式の「ご仏前」には9000万円の請求書を入れてやった……などなど。ぼやき話をひとしきりしゃべった後、JR新宿駅西口まで送ってくれ、というので連れて行きました。人波に飲まれながら……。

 その後、先程の喫茶店でまたコーヒーを頼み、ひたすら大きな溜息をついていると、店員さんから「お客さん、大丈夫?」と訊かれました。「ええ、大丈夫です。あれは僕の親父ですから」とまた溜息。へとへとになって夜行高速バス乗り場へ向かいました。お父さん、僕のCCNAの知識は一体どこへ消えてしまったのでしょうか……。

 新宿発の高速バスは、白馬や河口湖を目指すバスが多く、大阪行き阪急バスは22時30分発でした。京王バスの売店のおばあちゃんが、土産物をドドドッ、と落としたので、思わず拾うのを手伝いました。「あなた親切ねえ」「いえいえ」。なんだか余りにも母親の年代に近いので、かわいそうになってきて、ヴィックスドロップとか、天然水とかを購入してあげました。高速バスのアナウンスが、彼らの街行きの出発を告げ、東京でありながら、夜行高速バスの乗り場は「プチ田舎」「プチ地方」に思えてきました。ああ、あの人たちは四国へ帰るのか、あの人たちは名古屋に帰るのか……。東京って案外、地方出身者の集まりだったりするのかも知れませんね……。

 夜行バスでは、エンジンの轟音で全然眠れませんでした(苦笑)。中央自動車道経由なので、甲府あたりから小牧ジャンクションまで、ずっと坂道なのです。さっそく、夜明けの「大阪新阪急ホテル」でひと休み。当時はバスとセットで、お得な料金で昼まで泊まることができました。早朝、窓を開けて大阪市内を見渡せば、ヨドバシカメラのビルが……。東京、新宿のヨドバシカメラから、大阪、梅田のヨドバシカメラまで帰って来て……。何だか長距離旅行をした感じがしませんでした。

 親父が最后にくれたもの。「京樽」の茶巾寿司と、緑茶「若武者」。……若武者……僕はまだ若武者なのか……そういうメッセージだったのか……。お茶だけはありがたくいただいて、高速バスの熱で傷んだお寿司は、残念ながらホテルのゴミ箱へ直行……。僕はまだ「若武者」でいていいのか。まだ僕は、親父からすれば、まだ半分も生きていない35歳……。

 あれからしばらくして父親は、エコノミークラス症候群か、心筋梗塞を発症し、現在寝たきりらしいです。もしかすると、植物状態でまだ生きているか、もしくは、もう亡くなってしまっているかどうかさえも、当時は分かりませんでした。たまに父親の自宅へ電話をするのですが、一切の応答がありません。父親が目の前で呆けて、死んでゆくのを看取るよりも、こうして一種の「伝説」にしておきたかった、父親なりの僕への最后の配慮なのかな、と改めて思うわけです。

【神様がくれた最后の5分】

 あれから3年。父親の親戚筋から突然電話がありました。なんでも、父親は心筋梗塞をあの後、さらに2回やって、病院でバイパス血管代わりのチューブを心臓付近に複数本入れられているらしいのです。もし今度、心筋梗塞を起こすか、エコノミークラス症候群を起こすかをすれば、その時はもう最后だから、ぜひ早いうちに病院へ見舞いに行ってくれないか、とのことでした。

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 2008年10月16日。飛び乗った「のぞみ」で新大阪から品川まで。品川から総武線快速で新小岩まで。それから都バスで江戸川区の病院まで。あくまで「偶然を装いながら来てくれないか」という無理な注文だったので「IT系のイベントに参加するので、そのついでに」というシナリオを立てて病院へ向かいました。「ちょっと別室で待っていてくださいね」と言う病棟看護士。そうして案内された病室……。

 対面した父親は、すっかり九州弁も抜け、往時の勢いもなく、ベッドにもたれかかり、何かを観念した様子で、濁った眼をこちらに向けることもなく、呆然と座っていました。僕が近づくと、親父は「なんだ、お前も来たのか……」と言ったきり、涙をぬぐうこともなく、延々と泣き続けるのでした。僕は手を執り「なんか知らんが、どんなにみっともない形でもいい、とにかく生きろ」と言いました。父親はただただ涙を流すのみ。ティッシュで顔を拭いてあげるのですが、とめどなく涙を流し続けるのです。食欲がなくなり、糖尿病になり、インシュリンを打っているとのことでした。やせ細った手を執り「がんばるな、無理……するな!!」と言って、もう何だか、その場にいるのがいたたまれなくなって、短い5分間を過ごし、病院を後にしたのでした。

 その後、秋葉原の「レム秋葉原」にチェックインし、しばらく天井をぼーっと眺めていました。幼い頃、北九州の「到津遊園」で遊んでくれたこと。喘息治療のため、北九州市営のプールで泳いでいるところを駆けつけてくれたこと。写真をいっぱい残してくれたこと。出張帰りには、沢山のおもちゃを欠かさずに買ってくれたこと。僕にだけは優しかったこと。……などなど、それまでに父親にしてもらったことを次々と思い出し、思わず、走馬燈状態になりました。

 そして、思ったのです……。父親も母親も老いていなくなれば、僕は、天涯孤独になるのだと……。

 秋葉原の深夜、ホテルで眠れることもなく、ましてやメイド喫茶などにも行く気がせず、中学校のM先生と22年ぶりに、近所のそば割烹の店で2時間ほど談笑するのが精一杯でした。とても都内を散策することなど出来ず、父親の細くなった手の感触を思い出すたびに、涙が止まらなくて、早朝まで起きていました。備え付けの電気ポットがあったので、ひたすらお茶ばかり飲んでいました。

 ……早めの新幹線で帰阪し、神様がくれた最后の5分はそうして終わったのでした。……主治医の先生がおっしゃっていたのは「今度、こちらから兵庫県に連絡するときは、その時だと思ってください」とのことでした。

【食事の摂取状況から健康面をモニターする】

 親父を担当する医師が、診療中な場合が多いので、看護士さんに電話して「親父、ちゃんとメシ食えてます?」と、こっそりと、たまーに病院へ電話しています。「ええ、以前よりは大分食べられてますよ」と聞くと、ほっとします。あの時、「どんなみっともない形でもいい、とにかく生きろ」と僕が言ったのが功を奏したのか、どんなに見た目が不元気でも、とりあえず食欲だけは復活した模様です。少し、ほっとしました。

 (次回に続きます)

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