筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

エディトリアルデザイナー

»

 本文に入る前に、前回のコラムについて、ある方のリクエストにお応えしまして……。

【なぜエフ・ジャン・ムーラを1カ月に30台も売り上げられたのか】

 千葉そごうでは、自分なりの戦略、つまり、ずばり「自分戦略」で売ったのです。当時、僕がすごく若かったせいもありますが、モノを売るのも、自分を売るのも、テクを売るのも、根底にあるものは共通しているかと思います。

☆エフ・ジャン・ムーラの売り方☆

  1. ブース(什器)を、あるいは自分をきれいにする(これ基本です)
  2. デモ機は、電話回線シミュレーターを介して、商品を2個つなぎ、実際に動かして見せる(最初は電子基板の抜けた商品見本でしたが、それではダメだと僕が係長に進言)
  3. アタマを下げる(基本は前向きに30°、お買い上げいただいたら45°おじぎをする)
  4. 楽しそうに「声を出す」のと、「寄ってらっしゃい見てらっしゃい」的なアピールをする
  5. 応援の女の子は、そんな僕を見て「引いて」いました。んなもんお構いなし(笑)
  6. 感熱紙をつけたセットの値段で売る。そして「顧客の顧客」を紹介をしてもらう
  7. A4版感熱紙でも、B4版サイズを縮小して受信できることを強調する
  8. それでいて本体価格3万9800円。これはお得! 売れない訳がない!
  9. 親類と自宅、本社と支社で使うといった、2台抱き合わせのご提案をさせていただいた

 お前、情報技術者やめて、営業や販売に行け、と言われそうですが(笑)。往時のような、あんなガッツ(死語)はもう無いですなあ……。バブル末期、という時代背景も良かったですし。いまどき、ええもんが安いのは当たり前。なんしか、やりにくい世の中ですね(苦笑)。

【エディトリアルデザイナーの実際】

 さて、前回の続きです。

 CADがダメならDTPがあるさと、この時、考え方は至ってシンプルでポジティブだったのですが、後にプログラムのスキルがつかなくて、この「失われた7年間」を非常に悔いることになりました(当時の人材派遣は職種が限定されていました)。皆さん、楽な仕事をしていたら、後でそのツケが回って来ます。現在お若い方は特にご注意ください。

 兵庫県尼崎市……。合同就職面接会の会場にて……。「もうじき終了時刻なので、お早めに願います」とのアナウンスを受けて、なんだか暇そうにしていた印刷会社の人事部長のデスクを訪ねることにしました。聞けば、冷暖房完備の座り仕事。これは楽そうだ。電算写植の採字作業。聞けばPC-9821(Windows95)完備で専門知識不要。国語力が活かせてステップアップ可能。これならば続けられそうだ、得意分野だと思い、月給はこの際度外視で入社を決めました。なんでも、スカウトされて人事部長になってから初めての採用者が僕だったので、なにか事ある毎に「彼は僕が最初に入社させた人間だから……」と最後まで気に留めていただきました。

 たとえば書籍や新聞、社内報など。真っ白な紙に、版面(はんづら)を決めて、そこに何級(何ポイント)の文字を、行送り何ミリで、段間何ミリで……と決めていくと、本文を入れるスペースができます。当時の住友金属ソリューション(現:キヤノンソリューション)のSMI EDIAN PlusやEDI Color、それにもちろんPhotoshop、Illustratorなどのアドビ製品を使ってEPS画像を貼り付け、完成させます。また、モトヤのNeo AXISという版組機で同じくDTP風に連続伝票や名刺などを作っていました。

 ただ残念なのは、作った作品が商業印刷の中でも官公庁向けなので、作品として余り残らなかったので、その後クリエイティブ職種に就こうとすると「作品は?」と訊かれて平凡なものしか出せないので、よく書類選考で落とされました。1ポイントは、0.3528ミリ……1級=1歯=0.25ミリ……いろいろ学んだのですが……。

【関西弁講座、集中マスター!!】

 関西人の悪いところは、自分はよその土地では平気で関西弁をしゃべるくせに、標準語圏から来た人間を「嫌みだ」「気障だ」と毛嫌いするところです。僕は最初、徹頭徹尾、標準語で通そうと思いましたが、周囲があまりにも無理解、もっと言えばアホだったので、この際、関西弁を徹底的にマスターしようと心に決めました。

 まずは、今は亡き「桂枝雀」さんをはじめとする関西落語を蒐集してカセットテープで聞き、関西ローカルのテレビ番組を見ようと努めました。そのうちに「あんた、土地の人でっしゃろ」と言われるまでに見事に関西ナイズされていきました。これは徹底的に勉強しないと、もし付け焼き刃的な関西弁をしゃべったら、逆に嫌みに聞こえるという、これまた難儀な県民性と言おうか、府民性と言おうか、これは一体全体何と言いましょうか……。

 今ではすっかり、首都圏の人たちがしゃべっている「何とかだってさー」「何とかしちゃってさー」といった、いわゆる「首都圏口語」が嫌みに聞こえ、神経を逆なでさせられる、といった有様。石の上にも3年。慣れというものは本当におそろしい、と感じました。

【働きながら学ぶ……通信制高校への通学】

 一種の執念といいますか、根性といいますか、自分の学歴は自分でつける! と当時は豪語していたくせに、通信制卒業後に進学、という選択肢はまるでなく、これまた後悔のタネになるわけです。あのとき進学しといたら良かった……と思うことしきりです。

 神戸市長田区に、兵庫県立青雲高校という学校があります。兵庫県立長田高校に併設されている学校です。事情によって、高校進学を断念した方、登校拒否になった方などが通う単位制通信制の高校です。平成6年4月、今までのカタルシスを解消すべく、土日はこちらにスクーリングすることに決めました。働きながら学ぶことにしたのですが、「高卒」ということで入社している手前、会社には一切言えませんでした。「月曜になると、酷く疲れているねえ」と会社で同僚や上司に言われても、「いや、ちょっと週末遊びすぎて……」といった苦しい言い訳をしていました。

 既に取ってある工業科の単位は72単位。普通科なので、取っていない科目は新たに取る必要があり、特に工業科で体育の単位を落としていますので、そこを補う必要がありました。3年次からのスタートで、4年次での卒業を目指して頑張ることにしました。ご存じの通り、高校は80単位以上取れば卒業可能です。がしかし、8単位だけ取ればOK、という訳にはいかず、普通科にあって工業科にない音楽だとか、古文だとか、数学2だとか、英語2だとかの単位を取らなければなりませんでした(当時は「オーラルコミュニケーション」という科目はありませんでした)。

【そんな僕にも6人の部下が……】

 この会社は、主任になるのに10年、係長になるのに20年、といった、おそろしく出世の遅い会社でして、もし会社が続いていたならば、もうあとちょっとで僕も主任になれたはずなのですが……。

 そんな僕にも部下というか、弟子ができまして、商業印刷の何たるかを説く男に成長していきました。JAGAT(ジャガット:社団法人 日本印刷技術協会)の講習を受けるか、DTPエキスパートの資格をみんなで取ろう取ろう、といった機運が盛り上がってきました。

【賞与? 何ですかそれは?】

 Windows3.1の頃は、まだそんなに爆発的な普及といったことはなく、取引先である官公庁や各企業などとの取引にもそれ程影響はなかったのですが、問題はインターネットと密接にリンクしたWindows98が出始めた頃から、徐々に商業印刷が「斜陽産業」と呼ばれるようになっていきました。

 まず官公庁や各企業は、伝票の内製化・電子化・ペーパーレス化を進めていくので、余程特殊な連続伝票以外はニーズがなくなりました。また、チラシやビラなんかは、自前のパソコンで印刷すればコストが抑えられます。PTA新聞や社内報も、内製化すればコストが抑えられます。締め切りも版下修正も気にせず、いつでも自力で修正が利きます。

 バスの回数券や各種乗車券ですら電子化されて行く中で、「賞与? 何ですかそれは?」といった状態にまで売り上げは急速に落ち込んでいきました。さらに、それにとどめをさしたのが、阪神大震災でした。

(まだまだ続いちゃう)

Comment(0)

コメント

コメントを投稿する