イノウーの憂鬱 (59) 広報課のお仕事
大竹社長の手によって職域接種対象者として選ばれた40 人の中に、システム開発室のメンバーは一人も入らなかった。ぼくたちは、それぞれ横浜市のワクチン接種予約サイトから、予約を試みたものの、かろうじて成功したのは木名瀬さんだけだ。基本の勤務形態がテレワークになっているし、外出も最小限度に留めているので、早急な接種の必要性を感じていたわけではないが、受けられないと思うと、逆に受けなければいけないような気になってくる。ぼくはSNS のキャンセル待ち情報などを活用して、ファイザーでもモデルナでも構わないので、予約を取ろうとアクセスを繰り返したが、今のところノーヒットに終わっている。斉木室長とマリも同じ状況で、ぼくたちは毎日のように「今日も取れなかった」「明日は朝一でアクセスしてみます」と報告しあうのが習慣になってしまっていた。
東京オリンピック閉会式の翌日、8 月9 日。この日、システム開発室で勤務をしているのは、ぼくだけだった。斉木室長とマリは今日から夏期休暇予定だし、前日に一回目の接種を受けた木名瀬さんは、副反応を警戒してあらかじめ有給休暇を設定している。ぼく自身の夏期休暇は、少しずらして9 月の第二週の予定だった。
この週に夏休みを取る社員が多いせいか、システム開発室に連絡をしてくる社員はほとんどいなかった。ぼくは来週に予定されているダリオスの小さな改修を黙々と進めていた。
夏目課長がぼくに連絡してきたのは、そろそろ仕事を終わりにするか、と思っていた18 時少し前だった。夏目課長の声を聞くのは、先月の職域接種受付フォームテスト以来だ。
「おつかれさま、イノウーくん」夏目課長は朗らかに言った。「忙しいところすまないわね」
「いえ」ぼくは短く答えた。「なんでしょう?」
「ワクチン、接種したの?」
「まだです。木名瀬さんが昨日、接種して、今日は休みになっています」
そう言うと、夏目課長は職域接種について訊いてきた。
「女子社員の申し込みは少なかったんでしょう?」
「確かに少なかったようです」
「副反応が怖いからね。モデルナだし」
「そうですね」何が言いたいのか、と訊きたい苛立ちをこらえて、ぼくは礼儀正しく答えた。「女性の方が副反応は強いとも言われてますし」
「私も申し込まなかったの。打つならファイザーがいいと考えていたから。課長職にある者が、何日も休むわけにはいきませんからね」
広報課の業務の詳細を知っているわけではないが、際だって繁忙という状況にないことは確かなようだ。コーポレートサイトの改修案、社内報の発行など、急ぎではない業務ばかりだ。コロナ禍以前は、ベンダー向けにセミナーなどを開催していたそうだが、現在は計画さえ立てられない状況だ。課長が数日休んだぐらいで、支障が出るとは思えなかったが、ぼくは黙って頷くだけにしておいた。
「それでね」夏目課長は人差し指を立てた。「社内で接種した人に、副反応の有無を訊くアンケートみたいなのを作れないかな、と思って。まとめて次のマーズ通信に載せたいから」
マーズ通信というのがマーズ・エージェンシーの社内報の名称だ。発行は不定期で、新入社員や退職する社員へのインタビューや、社内のイベントの様子など、業務とは離れた内容がほとんどである。ぼくが入社した頃は紙での配付だったが、現在はPDF ファイルに変わっている。
ぼく自身、二度、社内報に掲載されたことがある。一度目は入社直後のインタビューだったが、予定とは異なる配属となったため、質問をする側もされる側も、あたりさわりのない言葉を選ぶことになり、結果として面白みに欠ける記事となった。二度目はクリスマスパーティでのビンゴの開発について、マリと一緒に受けたインタビューだった。ぼくはSocketIO など技術的な内容を話したが、よく理解されなかったようで、活字になったのは数行で、画面デザインを担当したマリの方に多く紙面が割かれていた。
「そういう生の声の情報があれば」夏目課長は続けた。「副反応が怖くて接種を躊躇っている人の判断材料になると思わない?」
たかだか40 件程度で有意なデータになるとは思われなかったが、SNS などの情報源不明な情報よりも、身近な人の実体験を耳にすることは、メンタル面では意味があるかもしれない。ぼくは了承して訊いた。
「匿名での回答にするんですか?」
「その方がいいでしょうね。どれぐらいでできる?」
作り自体は受付フォームと同じで、出力するjson ファイルを変更するだけだ。
「まあ、一日かそこらだと思いますが」
「じゃ、よろしく。正式な依頼は斉木くんに出しておくから」
「わかりました」
話は終わったと思ったぼくは、夏目課長が退出するのを待ったが、まだ続きがあった。
「ところで」夏目課長は浮かべていた笑みを消した。「それとは別にちょっと相談があるんだけど、まだいい?」
「なんでしょう」
「私のことじゃないんだけど」夏目課長は声を潜めた。「今、自治体の接種予約って、なかなか取れないでしょう。もちろん知ってると思うけど」
「そうらしいですね」
「それで思ったんだけど、マクロか何かで予約の空き情報を24 時間監視して、空いたらすぐに予約するみたいな仕組みって、できないものかしら」
すぐには言葉が出てこなかった。冗談を言っているのか、と夏目課長の目を見たが、本気で訊いているようだ。
「もしそういうものができれば、予約が取れなくて困ってる社員は助かると思うのよね」
「......」
「それに」夏目課長は続けた。「取引先で困っている会社にも提供できるじゃない。きっと感謝されるわよ」
「たとえばエースシステムとかですか」
そう訊くと、夏目課長は一瞬、顔を強張らせたが、すぐに微笑んだ。
「まあ、そうね。事業提携してるんだから」
そんなことだろうと思った。ぼくは首を横に振った。
「ちょっと難しいですね」
「へえ、そうなの?」夏目課長は意外そうに言った。「簡単にできそうなものだけどね」
だったら自分でやれば、とは言わず、ぼくは礼儀正しく訊ねた。
「何を根拠に簡単だと仰るんですか」
「知り合いのコンサルが言ってたから。ちょっとプログラム組める人間なら、チョチョイのチョイできるようなことを」
よほどコンサルがお好きなんですね、と言ってやろうと思ったが、何とか自制した。
「技術的にできるかできないか、といえばできますよ」
「できるんじゃない」夏目課長は笑った。「じゃ、やってよ」
「横浜市のワクチン接種予約サイトに定期的にアクセスするんですよね?」ぼくは訊いた。「うちの会社のサーバから」
「サーバじゃなくても、誰かのPC でもいいんだけど」
「デフォルトゲートウェイ通るから同じです。それ、下手すると攻撃だと判断されて遮断されるかもしれませんよ」
「えー、そんなことないでしょ。誰かがF5 連打したって同じじゃない」
「個人が手動でやるならともかく、一企業がプログラム組んでやったら問題になります」
「じゃあ問題にならない程度にアクセス間隔空ければできる?」
「それだと本来の目的を達成できないんじゃないですか」
「そこんとこ、プログラマとして最適値を調整してよ」
「仮にそれで予約取れたとして」ぼくは辛抱強く説明した。「その人が、会社でこういう仕組み作ってもらって予約ゲットしたぜ、みたいにSNS に書き込んだら、一気に大炎上しますよ」
「そういうことは禁止すればいいでしょ」
ぼくはため息をついた。
「それって業務命令ですか」
「いえ、個人的な相談だけど」
「だったら」ぼくは冷静に答えた。「上を通してもらえますか」
「上って斉木くんのこと?」
「システム開発室の室長ですから」
「うーん」夏目課長はわざとらしく唸った。「斉木くん、私のことを嫌ってるからなあ。私に対して、あたりがキツイのよね。そう思わない?」
黙っていると、夏目課長は肩をすくめた。
「じゃあ、木名瀬さんを通してみる。木名瀬さんからお願いされたらやってくれるのよね」
「業務命令でしたら」
ぼくは訂正したが、夏目課長はニヤリと笑った。
「イノウーくんって、木名瀬さんと仲良しよね」
「システム開発室はみんな仲良しですが」
「ふーん、そのようね」夏目課長はようやく話を終わらせる気になったらしくしめくくった。「邪魔したわね。アンケートの件、よろしく」
夏目課長がビデオ通話から抜けると、ぼくは首を傾げた。単にアンケートフォーム作成依頼だけが目的ではないような気もするが、では、何が本来の目的だったのか見当もつかない。
書きかけのソースに切り替えた途端、別の社員からチャットが届いた。相手の名前を見て、ぼくは少し驚いた。広報課の友成さんだった。JV 準備室のメンバーなので、そちらのグループではチャットしたことがあったが、一対一で話したことはない。
――突然、すいません。ちょっと話せますか?
JV 準備室では、記録を残すためにグループの方で話すことになっている。そちらの話ならグループチャットでメンションしてくるはずだ。夏目課長といい、今日は広報課の社員からのアプローチが多い日らしい。
「お忙しいところすいません」
ビデオ画面に映った友成さんは、小さく頭を下げた。同じくテレワークらしく、T シャツ姿で白いイヤホンをつけている。大きなメガネをかけた姿は初見だ。普段はコンタクトレンズなのだろう。
「いや、そろそろ終わろうと思ってたから」ぼくは答えた。「JV 準備室関係の話?」
「いえ、そうじゃないんです」
ぼくは待ったが、友成さんはなかなか次の言葉を発しようとしない。カメラを正面から見ようとせず、何かを探すように視線を上下左右にせわしく移動させている。言葉を探しているのはわかるが、その理由はわからない。
ここで恋愛ドラマ的告白を期待するほど、ぼくは自分を過大評価していない。時間を節約するため水を向けてみた。
「そういえば、今さっき、夏目さんと話したよ」
「え、そうなんですか」友成さんはまっすぐぼくを見た。「通話中だったので待ってたんです。課長だったんですか。何の話だったんですか?」
「ちょっとしたフォームを作って欲しいという話だったけど」
「それだけですか?」
「他にもあったけど」ワクチン接種予約の自動取得プログラムの話は、伏せておくことにした。「後は雑談みたいな話だよ。なんで?」
「あたしから聞いたってことは内緒でお願いしたいんですけどいいですか?」
「内容によるけどね」
「えーとですね、今、うちの会社に社内SNS を導入しよう、みたいな話があるの知ってます? 広報課で主導してるんですけど」
ぼくは頷いた。以前、ミーティングの際、他部署の動向の一つとして斉木室長から聞いていた話だ。
「確か、来年4 月導入予定で、プロダクトの選定をしてるんじゃなかったっけ」
「そんなところです。でも、今、ちょっと話が止まってるんです」
「へえ、そうなんだ」
ぼくが疑問形で返さなかったので、友成さんは少し当てが外れたような顔をした。
「理由を知ってます?」
「知らない」
「斉木さんがストップかけたって話です」
ようやくぼくは興味を惹かれて座り直した。
「斉木さんがどうして、広報課の業務に口出しするわけ?」
「やっぱり聞いてないんですね。内製する案を出してるみたいなんです。もちろんシステム開発室で」
初耳だ。
「それは知らなかったな。けど、まだ正式決定じゃないんだよね?」
「まだです」
「正式決定したら、こっちに話が降りてくるんだと思うよ」
「本当にそうですか?」友成さんは言った。「斉木さんって、結構、根回ししてから物事を進める人ですよね。内製するなら、まず、イノウーさんに相談してから提案するんじゃないですか?」
「......そう言われればそうかもね」ぼくは認めた。「でも、どうしてその話をぼくに?」
友成さんはまた少し逡巡の時間を取ってから答えた。
「ここだけの話......いえ、だいたいみんな知ってますよね。夏目さんと斉木さんが仲悪いのは」
「そうらしいね」
「斉木さん、JV 準備室の室長も兼務して、最近は社内でも注目株じゃないですか。夏目さんも斉木さんには、これまでみたいに上から何か言えなくなってるみたいなんです。JV 準備室で逆襲されるのが怖くて。それをいいことに、夏目さんを追い落とそうとしてるんじゃないでしょうか」
そんなバカな、と一笑に付しかけて、ぼくは伊牟田さんのことを思い出した。どういう手段を使ったのかは、いまだにわからないが、伊牟田さんが課長職を解かれたことに斉木室長が暗躍したことは確かなようだ。同じことを夏目課長にもしないとは断言できない。
ただ、伊牟田課長の一件の時、斉木室長は持っていたカードを全部使ってしまった、という意味の言葉を話していた。それが事実なら、夏目課長の職位に干渉するようなことはできないのではないだろうか。
「そんなことはない、と、ぼくは思ってるけど」ぼくは訊いた。「何か根拠があって言ってる?」
「夏目さんがちょっと悩んでるみたいだったので。イノウーさんなら、斉木さんに言ってくれるんじゃないかと思って、直接話させてもらいました」
そんな権力闘争に興味はないから、他の人なら勝手にやってくれ、と答えるところだが、他ならぬ斉木室長とあっては、そうも言っていられない。斉木室長はシステム開発室とJV 準備室の責任者で、そのどちらにもぼくは密接に関わりがある。どちらの業務もヒマではないので、余計なゴタゴタに巻き込まれているヒマはない。もし夏目課長がパワハラだ、業務妨害だ、などと騒ぎたてれば、事は大きくならざるを得ない。
さらにぼくは不愉快な可能性に気付かざるをえなかった。夏目課長こそが斉木室長の力を削ごうとしているという可能性だってある。そのために、部下の友成さんを使って、斉木室長の印象操作を試みているのかもしれない。
「話はわかった」ぼくは迷いながら言った。「でも、ぼくがどうこう言ったところで、事態が変わるとは思えないけどね」
「斉木さんに話をしてもらうだけでもダメですか」友成さんは食い下がった。「イノウーさんは、あまりいい印象を持ってないかもれませんけど、あたしにとっては、夏目さんは仕事でちゃんと結果を出せば評価をしてくれる上司なんです。こんなことで潰れて欲しくないんですよ」
ぼくは友成さんの顔をじっと見たが、演技をしているとは思えなかった。本気で斉木室長が夏目課長に不当な圧力をかけている、と信じているようだ。もっとも友成さんの人となりを、表情だけで判断できるほど知っているわけではないので、今の会話に本心が全て現れているとは断言できないが。
「わかった」ぼくは頷いた。「じゃ、一度、斉木さんに話だけはしてみる。本当に社内SNS をシステム開発室で構築するなら、早めに知っておきたいし」
「わあ」友成さんは手を打ち合わせた。「ありがとうございます」
ただし、とぼくは釘を刺した。斉木室長に話をするだけで、どうこうしろと説得などをするつもりはない。何をどうするかは、斉木室長の考え次第だ。
「わかりました」ぼくの言葉を聞いた友成さんは頷いた。「それで十分です。お忙しいところ、お時間取ってもらってありがとうございました」
友成さんは何度も礼を言って、退出していった。
コーディングの続きをする気力など、すっかり消失してしまった。ぼくは頭の後ろで手を組んで天井を見つめた。
話をする、と言っても、斉木室長は夏期休暇中だ。休暇中でもメールとTeams ぐらいはチェックするとは言っていたが、わざわざビデオ通話に呼び出すほどの緊急の話ではない。とはいえ、このまま塩漬けにしておいたら、7 日後には面倒になっているような気がする。
考えた末、ぼくはもう一人の上長に相談してみることにした。木名瀬さんは、明日には仕事に復帰する予定だ。
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。
コメント
匿名
下手すると攻撃だと判断されて
→竜と鼠のゲーム で巻き込まれてるしね
匿名
広報ウザいな…
匿名
そういや鼠と竜のゲームがイノウーか
細川とごっちゃになる
匿名
図書館事件のときの教訓が生きてますね
匿名D
イノウーのむっつり感がすごい
匿名
こういう調整ごとってもちろん報連相の一環なんでしょうけど、
正直面倒ですよね。
直接言ってよーってケースがすごく多い気がします。
頑張れ、イノウー!