ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

大竹ツカサのナラティヴ (3)

»

 「残念な連絡をしなければならん」2 日後、大竹は自社のメンバーに向かって重い声で告げた。「諸見が、一身上の都合で、来年1 月末に退職することになった」
 ざわめきがメンバーの間に広がる中、棚橋が驚きで目を大きく見開きながら訊いた。
 「冗談でしょう?」
 「事実だ。退職は人事で受理され、すでに手続きが進行中だ」
 ざわめきが大きくなった。
 「なにそれ」驚くよりも呆れた顔で言ったのは、岩名ユウコだった。「この前まで、そんな素振りも見せなかったのに。辞めるつもりなら、わざわざタスクを差し戻して混乱させなくっても」
 「ったく」別のメンバーが吐き捨てた。「さんざん人にタスク押しつけといて? 自分はクライアントや元請けにいい顔して? それを全部放り出して敵前逃亡? なんじゃそりゃ」
 「大竹さん」棚橋が詰め寄った。「知ってたんですか」
 大竹は苦い顔で首を横に振った。
 一昨日、人事課長から届いたメールには、諸見が退職届を出した、とあった。メンバーには作業を続けるように言い置き、大竹は取るものもとりあえず自社に戻った。コートも脱がずに人事課に飛び込んだが、席にいた人事課長は、大竹に劣らず困惑しているようだった。
 「前代未聞ですよ、こんなの」人事課長は怒るべきか呆れるべきかに迷う口調でこぼした。「退職願どころか、事前伺いもなく、いきなり退職届ですから」
 「受理したのか」大竹は唸った。「上司に相談してから、改めて来い、とか何とか言って突き返せばよかったじゃないか。そうでなくても、慰留するのがこういう場合の基本的なルールだろうに」
 「そうしようかとも思ったんですがね。もう、一日もこの会社にいたくないと言われたらねえ。確かに人事規程には反しますが、辞めたいという人間は規程違反なんか気にしませんよ」
 「会社にいたくないって......理由は訊いたのか」
 人事課長は困ったように視線を逸らした。
 「ま、一応。今のサガラ電装プロジェクトのメンバーから、嫌がらせに近いようなことをされたと」
 「ばかな......」
 「大竹さんもその一人だと言ってましたよ」神経質にデスクマットを指でトントンと叩きながら、人事課長は顔をしかめた。「手続きを即座に進めないなら、パワハラで訴えることも検討すると。そう言われたらどうしようもないじゃないですかね」
 「私も他のメンバーも嫌がらせなど......」
 「そのつもりはなくても、相手がそう思えば、ハラスメントは成立するらしいですよ」人事課長の声は投げやりだった。「諸見くんの実績と評判は耳にしてますよ。嫌がらせだったかどうかはしりませんが、チームのメンバーとあまりうまくいってなかったみたいじゃないですか。一人で足を引っ張ってるって話も聞きましたよ。考えようによっちゃあ、自分から辞めたいと言い出してくれて、よかったとも言えるんじゃないですか? 自己都合退職になりますしね」
 「大垣さんは承認したのか」
 当時のマーズネットでは、人事課は総務部の下にあり、社員人事手続の責任者は、大垣総務部長だった。とはいえ大垣は、人事課長が回す書類を読みもせずに押印することが多く、「ノールック」というあだ名を頂戴しているほどだ。今回も大垣はその方針を貫いたらしく、人事課長は黙って頷いた。
 「諸見と話をしたいんだが」
 「やめておいた方がいいと思いますがね。変に話がこじれても面倒ですし」
 「何か誤解しているだけかもしれない。そうでなくても、今後のためにも、何を嫌がらせだと思ったのかは聞いておきたい」
 「そうですか」人事課長は肩をすくめた。「ま、どうぞ、ご自由に。でも向こうは話したくないんじゃないですかね」
 「さっき電話してみたが出なかった」大竹は正面から人事課長の顔を見た。「たぶん私からだと出ないだろう。非通知でも出ないかもしれない。だから人事からかけてみてくれないか。業務の引き継ぎの件で私が話したがっていると伝えてくれるだけでいい」
 「まあ、伝言するぐらいなら構いませんよ。ムダだと思いますがね」
 人事課長の予想は当たった。1 時間後、人事課長は、話すことはない、という諸見からの伝言を大竹に伝えた。
 「自分のタスクはほとんどないから」人事課長はため息とともに付け加えた。「引き継ぎの必要はないでしょう、とのことでした」
 大竹は失望したが、辞める意志を固めた人間のことを悩んでばかりもいられなかった。やらなければならないことは山積みだ。喫緊の事務手続きだけでも、キヨドメ情報システムズへの人員減の説明、サガラ電装システム部への説明が上げられる。キヨドメ情報システムズとの受託契約はSE とプログラマの人数で毎月の請求金額が決まっているので、12 月分に関しては諸見分を日割り計算に変更しなければならない。もちろんいきなり請求金額を変更したりしたら大問題になるので、早急に事情の説明の時間を取ってもらう必要があるだろう。その後、キヨドメの営業担当にも同行してもらい、サガラ電装に対して新しい開発体制図を提出する。今のところスケジュールに遅延はないが、諸見が抜けたことによって今後に影響が発生しないことの担保も要求されるに決まっている。諸見用に貸与されているデスクと開発用PC の返却手続き、入館登録データの削除依頼などの書類にも、マーズネットの責任者である大竹が押印しなければならない。
 それが終わった後には、社内向けの報告書作成が待っている。マーズネットではプロジェクトの人員やスケジュールなどに変更が発生した場合、その経緯と対策を詳述した報告書提出が必須になっている。表向きは監査対応と社員のキャリアプランへの影響をチェックするためということになっているが、実態は部課長連絡会議で俎上に載せる材料にするためだ。足の引っ張り合いが常態化しているマーズネットでは、クライアントや元請け都合のスケジュールの前倒しであっても、事前に手が打てなかったのか、などと言いがかりに近い追求をされる。それが、突然のメンバーの離脱、それも環境に不満があっての退職となれば、他の部課長は舌なめずりして大竹を非難するだろう。まずいことに、次の部課長連絡会議は翌週の月曜日で、今日は水曜日だ。部課長連絡会議での必要資料は、事前の送付が義務づけられているので、遅くとも明日の朝までには作成しておかなければならない。
 そして、大竹の頭を最も悩ませたのは、サガラ電装で実装とテストに励んでいるメンバーたちのことだった。特に同期である棚橋はどんな反応を示すのだろう。困惑か、怒りか、それとも失望か。大竹は棚橋にこの知らせを告げるのが自分であることを呪い、事務手続きに忙殺されているおかげで、その時を先延ばしできることをありがたいとさえ思った。
 今、話を聞いた棚橋は「そうですか」と呟いた後、真剣な顔で大竹に訊いた。
 「もっとあいつをサポートしてやるべきでしたかね」
 大竹が答える前に、岩名が憤然と言った。
 「そんなことないですよ。全然、ないです。あたしたちがサポートしてるのに、当然、みたいな顔して感謝の言葉もなかったじゃないですか。自分はキヨドメやサガラの人にいい顔して。スキルないから、それで仕事した気になってただけじゃないですか。挙げ句に全部放り出すって、もう何をか言わんや、って感じです。放り出した荷物はほとんどないですけどね」
 岩名は棚橋の罪悪感の軽減を意図したのだろうが、棚橋は小さく頭を動かしただけだった。
 「それで」別のメンバーが訊いた。「諸見さん、次はいつ来るんですか? 引き継ぎとか、挨拶とかで顔は出すんですよね」
 「もう来ない」大竹は事務的に答えた。「12 月の残りと、1 月は有休消化にあてるそうだ」
 「どうせ引き継ぐタスクなんかないじゃん」
 岩名がそう言い、メンバーたちはクスクス笑った。笑わなかったのは大竹と棚橋だけだった。
 「諸見の件は以上だ」大竹は告げた。「とにかくタスクにあまり影響がないのは幸いだったと言えるな。よし、みんな、作業に戻ってくれ」
 メンバーたちは囁きかわしながら、それぞれの席に戻っていった。棚橋も肩を落として踵を返しかけたが、大竹は目で合図して、休憩室へと連れて行った。
 「一身上の都合なんて口実で」棚橋は常になく消沈した口調で呟くように言った。「やっぱりこのプロジェクトが原因ですよね」
 諸見が語ったという、メンバーからの嫌がらせ云々という理由は伏せてあった。それでもメンバーの何人かは、薄々察しているようだったが、棚橋は本気で疑問を感じているようだ。
 「そうだったかもしれんな」自動販売機で買った缶コーヒーを棚橋の前に置きながら、大竹は感情を交えずに答えた。「そうだとしても、今さらどうしようもないことだ」
 「せめて最後に話ぐらいできれば、と思ったんですがね」棚橋は携帯電話のストラップに指をかけてブラブラさせた。「あいつ、電話にも出やしないし、メールも返事がないんです」
 「今さら話すことはないんだろう。それより、お前に話しておかなければならんことがある。今後の体制のことだ」
 「スケジュールのことなら、あまり影響はないと思います」棚橋は先回りして苦笑した。「岩名が言ってたことは正しいですよ。正直なところ、諸見は重要なタスクを持ってたわけじゃないですからね。まあサガラ電装の人たちは、雑用を命じる相手がいなくなってがっかりするかもしれませんけど」
 「それは私もあまり心配しとらんよ。別のことだ。実は当分の間、私はこちらに顔を出せなくなる。体制表上はマーズネットチームのリーダーだが、実質的には棚橋が仕切っていくことになるんだ」
 「そうなんですか」棚橋は驚いた顔で訊いた。「諸見の件と関係があるんですか?」
 「いや、別件の方が忙しくなりそうでな」
 その言葉は半分だけ正確だった。大竹が携わっている別プロジェクトが多忙なのは事実だが、総務部から「事実関係の調査が終わるまで、サガラ電装業務への関与を最小限に留めるように」とお達しがあったのだ。それを伝えた人事課長は「調査と言っても、形式的なものなので、すぐ終わりますよ」と付け加えたが、いつになるかは明言しなかった。
 「そういうことですか」棚橋は腕を組んだ。「そうなるとマンパワーが不足しますね」
 「一応、別の人間がヘルプで入ってくれることになった」
 「誰ですか?」
 「茅森だ」
 棚橋は顔をしかめることで、その人員増強案をどう思っているかを明示した。
 「あの人、VB6 の人ですよね」
 「Java の経験はないから、実装面では戦力にならないだろうが、開発畑の人間だからな。クライアントや元請けとの交渉では力を発揮してくれるはずだ。それに私がこっちに携われなくなるってことは、メンバーの勤怠管理や連絡なんかをやる人間がいなくなるんだぞ。棚橋一人で、自分のタスクをこなしながら、それはできないだろう?」
 「確かに」
 「面倒な管理業務は押しつけてしまえよ」
 棚橋は共犯者的な笑みを浮かべた。
 「立ってる者は親でも使えってことですね」
 「そういうことだ」大竹はコーヒーを飲み干して立ち上がった。「とにかく一人で抱え込むな。言うまでもないが、サガラ電装からの雑用依頼があったら、茅森に振れ。あいつはあれでなかなか融通が利かない奴だ。開発業務ではない、とか何とか言って、うまく断ってくれる」
 「考えようによっちゃあ」棚橋も立ち上がった。「その方がうまく回るかもしれませんね」
 翌日から茅森が常駐することになり、サガラ電装プロジェクトは新体制で動き出した。大竹は二週間に一度の頻度で、進捗確認のためにサガラ電装に行くだけとなったが、棚橋を通じて報告だけは受け続けていた。大竹の読み通り、茅森はサガラ電装からの雑用依頼を、四角四面にフィルタリングし、本来の開発業務から少しでも外れるものはきっぱり断っているようだ。各メンバーが、直接頼まれることもあったが、それも次第に数を減らしていた。管理業務の専任者の役に徹してくれていたので、棚橋の言った通り、諸見がいたときよりも、タスクがスムーズに消化されるようになっている。
 結果的には、これで全員が幸せになったのかもしれない。年が明けて、いよいよ開発がピークに達してきたとき、大竹はそう考えるようになった。諸見の存在を意識しなくてよくなったメンバーたちは、多忙ではあったが、より一層熱意を持って仕事に取り組むようになっていたからだ。諸見にしても、針のむしろに座っているような状況に居続けるよりも、自分勝手な行動であっても、新しい環境へ移動した方が幸福だったのだろう。
 2008 年1 月31 日は諸見がマーズネットの社員ではなくなる日だったが、サガラ電装プロジェクトのメンバーは、ほぼ全員が諸見の存在など頭から消去していた。大竹と棚橋は「今日か」と思っていたが、重要なトピックでないことは確かだった。宣言した通り、諸見は書類の押印のために一日だけ出社した他は、誰とも会おうとしなかったし、話をしようともしなかった。棚橋だけは、何度か連絡を取ろうとするのを諦めていなかったらしいが、その試みは全て失敗していた。送別会の類いも、諸見が属していたどんな集団においても話にすら登らなかったから、その存在感が、まるで最初からいなかったかのように希薄になっているのは当然だと言えた。
 だから、その日の朝、進捗確認ミーティングのためにサガラ電装に出社した大竹は、システム部の社員から諸見の話を聞いて驚くことになった。
 「諸見が」大竹は思わず訊き返した。「挨拶に来るんですか」
 「ええ」システム部社員は頷いた。「キヨドメさんを通して連絡がありました。13 時にいらっしゃいます。それで、その後、もし時間があれば、マーズネットのみなさんにも一言ご挨拶したいとのことです。よかったら場所、お取りしましょうか?」
 進捗確認ミーティングは、午前中に行われ、大竹は昼前にはサガラ電装を出るのが常だったが、今日はその予定を変更することにした。諸見の口からどんな言葉が出るのかを聞かずにはいられなかった。
 同じ思いをマーズネットのメンバーたちも抱いたらしく、全員が諸見の「挨拶」を拝聴したい、と希望した。もっとも、多少なりとも好意的なのは棚橋だけで、他のメンバーは文句の一つも言ってやる機会が唐突に出現したことで、負の方向にテンションが上がっているようだった。
 「よくおめおめと顔を出せますよね」岩名が鼻を鳴らした。
 諸見の穴埋めとして常駐している茅森も、前任者に対してはあまり良い感情を抱いていないようだった。
 「少しは社会人らしい礼儀をわきまえているようだな」茅森は吐き捨てるように言った。「どれだけ迷惑をかけたか、自覚はあるんだと思いたいが」
 「そういえば」別のメンバーが誰にともなく訊いた。「転職先決まってるんですかね」
 「もうこの業界じゃないだろ、きっと」
 「そう言うなって」棚橋はメンバーたちをたしなめた。「諸見にも事情があったんだろうから。いろいろあったのは確かだけど、最後ぐらい気持ちよく送り出してやろうぜ」
 「花束でも渡しますか?」
 「そうだな」大竹は頷いた。「誰か買ってきてくれ。小さいのでいいから」
 「誰が渡す?」一人のメンバーが、岩名を見た。「こういうのは、やっぱり女の子からか?」
 「イヤです」
 13 時過ぎになると、マーズネットチームは実装中のソースを保存すると、システム部社員が予約してくれた会議室に移動した。もしかしたら後ろめたくなって帰ってしまうんじゃないのか、と一部のメンバーは囁いていたが、それほど間を置くこともなく諸見が姿を現した。一人ではなくキヨドメ情報システムズの営業担当と一緒だ。
 突き刺さる非好意的な視線を意にも介さず、諸見はホワイトボード前に進むと、穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
 「みなさん、お忙しいところ、時間を取ってもらってすみませんね」
 メンバーたちは謝罪の言葉を待ったが、諸見が口にしたのは全く別の言葉だった。
 「本日付でマーズネットを退職することになりました。転職先はもう決まっています。明日から私は、キヨドメ情報システムズの社員として勤務することになっています。最初の仕事は、このサガラ電装の生産管理システム導入プロジェクトということになりました。立場は変わっても、これまでの経験を生かせる業務だと考えています。まあ、いろいろ手続きやら何やらがあるので、実際にみなさんとお仕事をするのは、2 月中旬から、ということになるでしょう。またよろしくお願いします」
 沈黙が会議室を支配した。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(15)

コメント

匿名

この時点で茅森さんが既にVBAおじさん呼ばわりされている悲哀…

ちゃとらん

きましたね~。最悪のパターンの始まりですか。


前回、東海林さんが指摘された「意図的に自分のスキルを発揮しないでいるような」というのと合わせると、とんでもない展開になりそうな予感です。

匿名

これはゲスい

cafe-lunch

毎週、楽しく拝読しています☆★

「離職後、3 年間は同業他社への就職ができない」ルールは、この1件があって追加されたルールなんでしょうね。。。

あしの

これは非常に嫌な流れですね・・・

匿名

棚橋さん、どうなってしまうの…

匿名D

首藤課長みたいなことになるんでしょうか。


スキルを隠している、ねえ。
さてどんな展開になることやら。

匿名

イノウーの補完ストーリー化と思ったら結構長くなりそう

匿名

大竹くん!君、ぜんぜんだめだよ!
みたいな流れか・・・

イノウー時代の、同業者への転職3年禁止契約は、ここらからできたのかな

読み返してきた

「茅森課長は協力会社と一緒に客先に常駐し、先方の業務プロセスを観察する能力に長けていた」能力を今後発揮するんでしょうか。

匿名

いるなぁ…うちにもVB6おじさん。
ずっと社内にいて雑用ばっかやって、
いつの間にか雑用の達人で社内で必要不可欠になっちゃった人。

読み返してきた

「茅森課長は協力会社と一緒に客先に常駐し、先方の業務プロセスを観察する能力に長けていた」能力を今後発揮するんでしょうか。

匿名

棚橋さんは有能でいい人のように描かれているのが、まさかの闇オチとか。

匿名

茅森さん有能じゃないか!

匿名D

棚橋さんは若林さんみたいになるのかな。
つか、この流れじゃ、
諸見氏が正しい、彼みたいになりたい、という流れになっちゃうんじゃないの?
伊牟田グチみたいなのがのさばることになるんだけど、それはいいのかしら?
大竹専務の願望や希望はどこにあるのか。

コメントを投稿する