ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (6) 訪問者たち

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 15 時まで7 分を残して、紙芝居アプリケーションの構築は何とか完了した。ギリギリまで時間がかかったのは、いくつかの理由がある。その一つは、Web サーバとしての環境作成作業に想定外の時間を要したことだった。
 開発サーバsysDev01 にApache かnginx がインストールされていれば、こんな苦労をしなくてもすんだはずだった。Web サーバが稼働していれば、ファイル一式を配置すれば終わりだ。だが、社内のネットワーク規定によって、OS セットアップのデフォルトソフトウェア一覧から、Web サーバは除外されていた。脆弱性のあるバージョンが稼働しないように、という理由で、セキュリティコンサルタント会社の作成したセットアップマニュアルに従って、ソースからコンパイルすることになっているためだ。セットアップに使用するソースのtar ボールは、IT システム管理課に申請を出して、台帳に登録された後、受け取ることになっている。
 今日までの間にセットアップする時間はいくらでもあったのに、どうせなら、この手の作業の経験がないマリに、申請からやってもらおうと先延ばしにしていたのが裏目に出た形だ。斉木室長に頼んで、すぐに申請を出したが、15 時までに間に合うはずがない。Tomcat を動かしてWeb サーバ代わりに使おうかとも考えたが、Web サーバと同じ理由でJDK のインストールも制限されていたために断念した。そうなると、ぼくの手持ちのカードは、あまり残されていない。
 「Python は入ってるんですか?」
 ツナマヨのおにぎりを頬張りながらマリが訊いた。片手がキーボードの上を器用に動いてhtml を書いている。
 「サーバ監視エージェントで必要だったみたいで」ぼくはサンドイッチをかじった。「最初から入ってた。とりあえず動作確認でAnaconda を試してみたら、普通にインストールできたんだよね。本当は笠掛さんにもインストールをやってもらおうと思ってたから消しておくつもりだったんだけど、そのままになってた」
 「ネットワーク規定には引っ掛からなかったんですか?」
 ネットワーク規定には、Web サーバとJDK、PHP などは記載されていたが、Python に関する記述は皆無だった。Flask でもDjango でも、Web サーバとしての機能があるのだが。誰が作った規定かしらないが、詰めが甘い。
 「確認しなくて大丈夫ですかね」マリは小声で訊いた。「IT システム管理課とかに」
 厳密に言えば、IT システム管理課に許可を得るべきだろう。少なくとも、こちらの意図ぐらいは共有しておくのが筋だ。だが、うっかり問い合わせた結果、申請を出せ、とか、規約にないからNG、などと言われてはたまらない。ぼくは首を横に振った。
 「気付かなかったことにしよう」
 マリはクスリと笑い、可愛らしい仕草で人差し指を唇に当ててみせると、視線を窓際に向け、小さく肩をすくめた。斉木室長がヒマそうな顔でスマートフォンをいじっている。ぼくは親指を上げて答えた。斉木室長が知ったら「一応、確認してくる」などと、藪をつつきかねない。
 サンドイッチを詰め込むように食べながら、sysDev01 にFlask をインストールした。動作確認のため、Hello, World を表示するpy ファイルを書いてsysDev01 に配置する。本来ならmod_wsgi でApache と連携するのだが、今回は単独での起動となるので、PYTHONPATH を指定したシェルスクリプトを書いて実行した。特にエラーは出ていない。
 5003 ポートでFlask アプリケーションが起動しているはずなので、curl コマンドでhttp://localhost:5003/ にアクセスしてみると、無事にHello, World が表示された。まずは第一関門クリア、とマスクの中で呟き、今度はブラウザでsysDev01 にアクセスしてみた。
 「ん?」
 思わず声が出た。ブラウザには「ページを表示できません」のエラーメッセージが表示されている。怪訝そうにこちらを見たマリにURL を伝えて、アクセスしてもらったが、やはり同じ結果だ。
 「サーバ名、違ってますかね」
 合ってるはず、と言いかけて気付いた。社内のDNS にサーバ名が登録されていないのかもしれない。試しにIP アドレスでアクセスしてみると、Hello, World が表示された。ssh もsftp もIP アドレスで接続していたから気付かなかった。これも後で申請が必要だ。
 とにかくこれでWeb サーバが起動できた。後は紙芝居アプリケーションを構築していくだけだ。ぼくはローカル環境に作成したプロジェクトに、マリが作成しているhtml をコピーしていった。Git もSubversion もまだ導入していないので、共有フォルダを経由したコピーだ。アクセスするURL をp1.html、p2.html と順番に決めていき、作成されたhtml ファイル名を変更していく。
 最初の数ページをサーバに配置し、正常に遷移することを確認してから、斉木室長に声をかけた。ページの見た目をエンドユーザ視点でチェックしてもらうためだ。
 「へえ」斉木室長はブラウザを操作しながら、感心した声を上げた。「こんなに簡単にできるもんなんだね」
 「Bootstrap のデフォルトフォームなんで」マリが言った。「そんなに難しくないんですよ」
 「ふーん。ぼくにもできるかな。今度、教えてもらおうかな」
 「あー、そうですね」マリは言葉を濁した。「そのうち」
 「あ、この『サーバ』だけど、『サーバー』にしといてくれる? 『共有フォルダ』も『共有フォルダー』でお願い。それから、これ、なんて言うんだっけ。テキストボックスにグレーで入ってる説明」
 「プレースホルダーですか?」
 「ああ、そう。これなくしてもらった方がいいかなあ」斉木室長はマウスをカチカチやりながら言った。「何かゴミが入ってる、って文句言う人が出そうなんだよね」
 「一文字入力すれば消えるんですけど」
 「消えちゃうと、今度は何を入れるのかわからなくなるじゃない。それぐらいなら項目の下にでも書いておいてくれた方がいいんだよね。うちのワークフローは、だいたい下に小さく書いてあるし」
 マリが問いかけるようにこちらを見たので、ぼくは小さく頷いて、指示通りに修正するように合図した。このシステムを使うのは20 代から30 代が一番多いはずだ。その年齢層なら、プレースホルダーに違和感を持つことはないだろう。だが、紙芝居はもちろん、本番環境でも合否を判定するのは、その上の年代の方々だ。ここは斉木室長の好みが、他のマネージャたちとあまりかけ離れていないことを信じるしかない。
 マリと斉木室長がデスク越しにやり取りしながら作り上げたhtml を、ぼくは次々にFlask に組み込んでいった。ファイルを更新するたびに、斉木室長が再チェックし、マリに修正点を伝える。紙芝居なので、あまり細部にこだわるのもどうかと思ったが、システム開発室の最初の仕事なので第一印象を良くしようとしているのか、単に性分なのか、斉木室長はフォントサイズや、ボタンの配置まで、細かくリテイクをさせている。わざわざスクリーンショットをペイントに貼り付け、拡大して、ピクセル単位のズレまで指定していた。
 14 時を過ぎたとき、木名瀬さんが電話で進捗状況を問い合わせてきた。紙芝居アプリケーションは、一通りの画面遷移が完成していて、後は細部のブラッシュアップの段階だった。そう伝えると、木名瀬さんは安心したようだった。
 「それで、お子さんは大丈夫なんですか?」
 『ありがとうございます。まだ微熱が続いていて、好きなヨーグルトを少し口にしただけです。心細いらしくて、キッチンに行っただけでも泣くので、しばらくベッドから離れられません。紙芝居のURL をTeams で送ってもらえますか。私の方でも見てみます』
 「送っておきます」
 『それから』木名瀬さんは珍しく躊躇いがちに訊いた。『誰か、何か言ってきませんでしたか?』
 「誰かって?」
 『たとえば伊牟田さんとか』
 「伊牟田さんですか?」ぼくが訊き返すと、斉木室長とマリがこちらを見た。「いえ、ここにはいらしてませんけど」
 『それならいいんです。では、よろしくお願いします』
 電話を切った後、ぼくは首をかしげた。木名瀬さんは、誰が何を言ってきたと思ったのだろう。
 「木名瀬さん、なんですって」マリが訊いた。
 「ああ、うん、まだお子さんの熱が下がらないって」
 「伊牟田さんがどうとか聞こえたけど」斉木室長が訊いた。「どうかした?」
 「はい、よくわからないんですが......」
 言いかけたとき、開放したままのドアがノックされた。ドアに顔を向けると、伊牟田課長が顔を覗かせていた。ぼくは木名瀬さんが予知能力でも持っているのかと疑った。
 「ちょっとお邪魔するよ」
 伊牟田課長は陽気な声で言うと、返事も聞かずに中に入ってきた。マスクは着けていたが、鼻孔が完全に露出している。あれでは効果も半減するだろう。
 「伊牟田さん」斉木室長が驚いたように立ち上がった。「どうされたんですか?」
 「うん。ちょっと相談があるんだ」伊牟田課長は、木名瀬さんの席に勝手に座った。「申請書のシステムだけどね、おたくらが作りたいんだよね」
 ぼくたちは顔を見合わせた。
 「ええ」斉木室長が愛想笑いをした。「そりゃまあ」
 「例の医療従事者項目、入れないようにマーケ課と談合したんだって?」伊牟田課長は、ぼくとマリを無視して斉木室長に話した。「もう総務と人事の耳にも届いてるよ。結構、怒ってるらしいね。勝手なことしやがって、ってな具合で」
 「はあ」
 「私の方で牧枝さんに話してあげてもいいよ。矢野さんは牧枝さんから言ってもらえば聞くからさ」
 「......」
 「で、代わりと言っちゃあなんだけどさ」伊牟田課長はわざとらしく声を潜めた。「この件、うちで仕切らせてくんないかな」
 「......うちというのは、つまり、マネジメント三課ですか?」
 「そうそう。うちに開発のマネジメントさせてよ。もちろん、実際の仕事はそっちで全部やってもらえばいいからさ。さっきの項目追加みたいな、要件に関わる部分だけ、うちで引き受けるってことで」
 つまり「いっちょかみ」したい、ということか。ぼくは白けた気分で、ひょろっとした伊牟田課長を見た。これまで伊牟田課長とは、仕事で関わり合いになることがなかったが、上に媚びて、下を酷使することで出世してきた人間だ、という評判は耳にしたことがある。もう一つ、やたらに首を突っ込みたがる、という噂も聞く。実力で大きな仕事を任せてもらえないため、他の部署の業務に口を出し、さも自分が大きな貢献をしたように振る舞うらしい。情けないことだが、その戦術は一定以上の効果があるようだ。この会社では、職位が上の人間ほど、現場の実情を把握できなくなっている。そのため、口が回る社員の装飾過多のアピールが、そのまま評価に繋がることがままある、という話だ。その筆頭が、伊牟田課長だった。
 マネジメント部の主業務はパートナー会社、つまり下請けの管理だ。マネジメント部下の一課から三課には、明確な役割分担が定められているわけではないので、課間の競争も激しいらしい。マネジメント三課は、パートナー会社とのトラブルが多いことでも知られている。下請け法に抵触しないギリギリのところで無茶な要求を繰り返したためだ。さすがにパートナーマネジメント本部も見かねたのか、伊牟田課長を異動させ、菅井先輩に立て直しを任せることになった。菅井先輩が休職したことで、なし崩し的に元の鞘に収まったが、一度は異動になったという事実を意に介さず、以前と同じ生き方を続けている。きっと仕事に対するプライドなど、ひとかけらも持っていないのだろう。
 その本性を知っているはずの斉木室長は、曖昧な笑いを浮かべたままで、拒否反応を示すこともなかった。その様子を同意と解釈したのか、伊牟田課長はニヤニヤしながら続けた。
 「その方がそっちも助かるんじゃないの? 木名瀬さんは元庶務だし、後の二人は要件定義的な上流工程の未経験者でしょ。そんなのばっかじゃ、システム開発だって混乱するっしょ。何から手付けていいのかわからないんじゃない? なんてったって、プログラマとシステムエンジニアは全然違う職種だからさ。それなのに、要件定義から設計から、その他の作業全部なんて、そりゃあ、ちょっと気の毒ってもんだよ。やっぱり適材適所ってものがあるしね」
 「お気遣いいただいてありがとうございます」斉木室長は穏やかに答えた。「ですが、井上くんは、前の会社でいろいろ経験積んでるんで、一通りの知識はあります。木名瀬さんは......」
 「いやいやいや」伊牟田課長は笑いながら遮った。「ちょっと待ってよ。前の会社って、ただのベンダーでしょ。上流工程の知識なんかあるわけないじゃん。そりゃ、小さなシステムなら、それほどノウハウいらないよ。マーケ課でやってるみたいな、Excel だのAccess だので、ちょっちょっと作っちゃえるような規模ならね。でも、そんなのとうちの業務を一緒にするのは、ちょっとばかり失礼ってもんじゃないかなあ」
 腹が立たなかったというとウソになるが、未だに上流だの下流だのを真面目に口にする人種が淘汰されずに生存していたのか、という驚きの方が強かった。この会社で職を得て以来、4 月にシステム開発室に異動するまで、ソリューション業務本部業務二課で先輩社員の補助的な業務しかしていない。顧客との交渉にも、パートナー会社の管理にも、積極的に関わることがなかったので気付かなかったが、「プログラミングのような卑しい作業は、我が社のような上流の会社がやるべき業務ではない」と考える社員が大部分を占めているらしい。
 伊牟田課長が、ぼくやマリを無視している理由もそこにある。業務二課に所属していたとき、ぼくは伊牟田課長の言うところの「上流工程」側の社員だった。システム開発室に異動した今では「下流工程」に属する立場が下の社員だ。伊牟田課長にしてみれば、仕事を与えてやっている下請けのような感覚なのだろう。
 「それにさ、いくら社内システムだって言ったって、資産になるんだからさ。後で監査とかに突っ込まれるんじゃない? 要件定義のプロもなしに作ったシステムなんて信頼性に欠けるよ。それぐらいなら、作業報告の鑑にマネジメント三課の名前があるだけでも、だいぶ違うってもんよ。そう思わない? 今後、いろんな社内システム作ってくつもりなら、ちゃんとした部門がバックにいた方がいいと思うでしょ。斉木さんだって営業部にいたんだから、素人が顧客と交渉したりしたら、いいように言いくるめられて不利な条件でハンコ押す羽目になるってことぐらいわかるよね。うちの課が上流の方を引き受ければ、足元見られることもないし、信頼度が格段に上がる。どうかな。悪い話じゃないだろ。システム使う社員だって、わけのわからん新設部門が作ったシステムなんか、気味悪がって使わんでしょ。社内開発部門なんて言ったって、誰も信頼なんかせんよね。その点、マネジメント三課が要件を固めて作ったシステムなら、安心して使うよ。せっかく作ったシステムが使ってもらえないんじゃ、あんたらのモチベーションもダダ下がりだろうし、コスト部門とか何とか言われかねないだろ。長い目で見れば、会社全体のためになるってもんだよ」
 よく回る舌だ。ぼくは伊牟田課長に「蛇の舌」という変数名を付けることにした。要するに、社内システムの開発を、マネジメント三課主導で行っている、という体を取って、自分の手柄としたいだけだ。こういう人間でも、どこかに恥という概念を持っているんだろうか、と考えていると、デスクの上でスマートフォンがブブッと震動した。伊牟田課長は相変わらず、ぼくのことなど眼中にないようなので、こちらも遠慮せずにスマートフォンを掴んだ。
 『今、マリちゃんから伊牟田さんのことを聞きました』木名瀬さんからのLINE だった。『ビデオ通話で中継してくれてます』
 思わずマリの方を見ると、横向きにしたスマートフォンをモニタの陰から突き出して、木名瀬さんデスクの方に向けていた。その横顔には不穏な表情が浮かんでいる。
 『対応できますか?』
 できない、と答えれば、木名瀬さんが対応に乗り出してくるだろう。ぼくは「何とかします」と返信した。木名瀬さんなら、伊牟田課長を追い払うぐらいたやすい気がするが、娘さんが苦しんでいる傍らで、脅迫の言葉など吐かせたくはない。
 「いろいろ考えていただいて恐縮ですが」斉木室長が言っていた。「特定の部署と紐付けされるのは、ちょっと組織上、よろしくないんじゃないかと思いますねえ。それに、井上くんが勤めていた会社は、県下でも評判のいいベンダーで、要件定義フェーズから携われるエンジニアも抱えていると聞いています。そのベンダーで何年も仕事をしてきたのであれば、この規模のシステム開発であれば、一人で完結できますよ。もちろん、もっと大規模な開発であれば、伊牟田さんの仰る通り、また別の話だとは思いますが」
 最後の言葉は、伊牟田課長に対するリップサービスだろう。それより、斉木室長がぼくの前職を評価する言葉に驚かされた。これまで、ベンダーにいたことは話したが、社名まで斉木室長に伝えたことはなかったからだ。もちろん、斉木室長は上長としての立場で、ぼくの職務経歴書を閲覧することができるので、サードアイの名前を知ることは簡単だ。システム開発室の責任者を拝命したとき、全員のスキルを知るために、さらに踏み込んで調べたのだろうか。
 「だからさあ」伊牟田課長の口調に苛立ちが混ざった。「そんなベンダーのスキルがどれぐらい信用できるかってことで......」
 ノックの音が、伊牟田課長の長広舌を遮った。
 「お邪魔ですか?」
 顔を出したのは、広報課の夏目課長だった。こちらは、しっかり顔の下半分をカバーするマスクを着けている。
 「廊下まで聞こえていますよ、伊牟田さん」夏目課長は軽蔑するような口調で言った。「少しみっともないんじゃないですか」
 「何がですか」伊牟田課長は言い返した。「私はシステム開発室のためを思って......」
 「ご自分の点数稼ぎでしょう」夏目課長はバッサリ切り捨てた。「いい加減、人のふんどしで相撲をとるような真似を控えたらどうですか」
 伊牟田課長の顔が真っ赤になった。
 「大きなお世話だと思いますがね」
 「そうですか。まあ、どうでもいいです。それで、もうお話は終わったんですか?」
 夏目課長に問いかけられた斉木室長は、これ幸いと頷いた。
 「ええ、はい。そうですね」
 「だそうですよ、伊牟田さん。だいたい、あなた、マスクのつけ方もご存じないんですか? それで電車乗ってきたんじゃないでしょうね。歩く迷惑行為ですよ、それじゃあ」
 伊牟田課長はマスクをずらして鼻を覆うと、斉木室長を睨み付けながら立ち上がった。夏目課長が必要以上に距離を取ってドアへの動線を開けると、口の中で何か言いながら退散していく。獲物を横取りされた蛇が、大慌てで逃げ去っていくようだった。夏目課長はその後ろ姿を見もせずに冷笑した。
 「全く、あの人には困ったものね」
 「はあ、まあ」伊牟田課長の批判に同意するのを避けたのか、斉木室長の言葉は曖昧だった。「夏目さん、何かご用でしょうか」
 「ああ、そうでした。ちょっとお願いがあって来ました」
 「なんでしょう」
 「茅森さんと相談して、全社員申請必須の件、入れないことで歩調を合わせたそうね」
 「よくご存じで」
 「まあ、同じ広報部ですから」夏目課長は笑った。「その約束、信じてるの?」
 「仰ってる意味がよくわかりませんが」
 「茅森さん、おたくを出し抜いて、全社員申請と、もちろん医療従事者項目を入れた形でパワポ作ってるのよ」
 斉木室長は驚いた様子を見せなかった。
 「そういうこともあるかもしれませんね。口約束ですし」
 「いいの? 不利になるんですよ?」
 「だとしても」斉木室長は、ぼくとマリをちらりと見た。「もう今さら、路線変更はできませんので」
 「私なら、茅森さんを説得できると言ったらどう?」
 「それはありがたいですね」斉木室長は冷静に応じた。「いや、助かります。では、その件はお任せしてよろしいですか。私たちは、プレゼン用の紙芝居を仕上げなければならないので」
 「まだこちらの条件を言っていませんよ」
 「お、そうなんですか」わざとらしい驚きの声が斉木室長の口から出た。「いえ、てっきり、義憤からの申し出だと思っていたので。夏目さんが対価をお求めになるとは、全く、想像の外でございました。これは失礼しました」
 「斉木くんも、そういう嫌みが言えるのね」
 「夏目さんの下で鍛えられましたから」
 「私が営業部にいたときの話ですか。いつまでも、細かいことを根に持っていると、出世に響きますよ」
 「先ほども申し上げたとおり、うちは今、忙しいんです。ご用件を伺えると助かるんですが」
 「そうでしたね」夏目課長は口調を改めた。「単刀直入に言います。システム開発室は、エースシステムの受発注管理システムとのデータ連携システムを構築する予定ですね」
 「その件なら、コロナ禍で延期になっています」
 「もちろん、少なくとも緊急事態宣言が解除された後の話です。延期になっただけで、中止になったわけではないでしょう。打ち合わせも延期になったそうですが、リスケは?」
 「まだですが」
 「再開が決まったら、広報課も参加メンバーに加えてもらいたいの」
 斉木室長は目を細めた。
 「なぜ、広報課がエースシステムとの打ち合わせに興味を持つんですか?」
 「それは、今は言えません」夏目課長は微笑んだ。「どうでしょう?」
 「エンジニアレベルの打ち合わせですよ」斉木室長の口調は素っ気なかった。「私だって最初の一回ぐらいしか出席しない予定です。プログラマでもない広報課が同席していたら、変に思われませんか」
 「それは斉木くんが気にしなくてもいいのよ」
 「断ったらどうなるんでしょうか」
 「私は茅森さんに何も言わず、茅森さんはあなたたちより、遙かに充実したプレゼン資料をアップする。あなたたちは、紙芝居を作るそうですが、この短時間で作れるものはたかがしれているでしょう。せっかくの初業務をマーケ課に持って行かれることになりますよ」
 斉木室長は何か思案するような顔で下を向いたが、すぐに顔を上げて、ぼくの方を見た。何となく嫌な予感がしたので、ぼくは視線を外したが、斉木室長は構わず言った。
 「その件は、井上くんがメイン担当として進めることになっています」斉木室長はぼくを指した。「彼に訊いてもらえますか」
 夏目課長は驚いたように首を回し、いたのか、と言わんばかりにぼくを見た。その様子では、それまで、ぼくの存在を意識していたかどうかも怪しい。
 「斉木くんが室長なんでしょう?」
 「私なんて飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」何が面白いのか、斉木室長は含み笑いをしながら言った。「この部屋の主役は、今日に限ればイノウーくんと笠掛くんなんです」
 ふん、と鼻を鳴らすと、夏目課長はぼくの方に一歩踏み出した。
 「わかったわ。で、イノウーくん、どうですか?」
 ぼくはマリと視線を交わした後、首を横に振った。
 「ありがたいですが、今回は自分たちの実力で勝負してみます」ぼくは壁の時計を見た。「すみませんが、残作業があるので」
 夏目課長は珍しい気象現象を目撃したような顔でぼくを見た後、マリに視線を移した。マリはモニタを凝視し、一心不乱でキーを叩いていた。スマートフォンはスタンドに固定されている。今でも、木名瀬さんにライブ中継しているのだろうか。
 「そうですか」夏目課長は乾いた声で言った。「わかりました。後悔しないといいんですけどね。お邪魔しました。プレゼンを楽しみにしています」
 わざとのようにヒールの音を響かせて夏目課長が出て行くと、室内の温度が数度下がったような気がした。ぼくはいつの間にか肩を強張らせていたことに気付き、ため息をつきながら上半身をリラックスさせた。
 LINE が着信した。今度はシステム開発室のグループ宛だ。
 『今日はもうスマホを見ないことにします』
 続いてアルマジロがサムズアップしているスタンプが送信されてきた。ぼくたちは顔を見合わせて笑うと、紙芝居のブラッシュアップに戻った。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(11)

コメント

匿名

ジオングw

のり&はる

斉木さん(E)

リーベルG先生の書籍はすべて購入してます

この『サーバ』だけど、『サーバー」にしといてくれる?

サーバーのところの括弧が合ってないです。

匿名

曲者ばかりで大変そうだなぁ

匿名

「人の土俵で相撲をとる」ではなく「人のふんどしで相撲をとる」だと思う

匿名

うーむ、いろいろな人が絡んでくるな
 
逆に楽しそうな職場に思えてきたw

リーベルG

リーベルG先生の書籍はすべて購入してますさん、
書籍をすべて購入していただいてありがとうございます。
そして、ご指摘ありがとうございました。

リーベルG

匿名さん、ご指摘ありがとうございます。
「土俵」だと違う意味になってしまいますね。

なんなんし

斉木室長のプレースホルダに対する指摘は至極まっとうだったりする
消えちゃう説明なら意味がないので

匿名

こんな会社やだ・・・
ぼくおうちかえる

育野

同上.なんという伏魔殿.
菅井先輩には単純明快な体育会系というイメージがあったけど,
更迭された伊牟田課長の後釜になれる位には世事に長けているんだなぁ.
ちょっと意外だったが,考えてみればイノウーさんを適所に配置できる予定だったのだから当然か.

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