夜の翼 (25) こぼれたコーヒー
その種族がどのように誕生し、どのような進化を遂げ、今、どこにいるのか、詳しいことはわかっていない。わかっているのは、想像を絶する知性によって、時間の本質を突き止めることに成功した種族である、ということだけだ。肉体の制約に束縛されない精神生命の彼らは、「イースの大いなる種族」と呼ばれている。
人類がその存在を知っているのは、知識欲旺盛なイース種族が、計り知れざる過去より、無数の生命体の肉体に憑依し、細かな知識の収集にいそしんできたからだ。憑依された生命体は、その代償としてイース種族の知識の一端に触れることを許される。ミスカトニックには、その記録がわずかながら残されているのだ。
時空の格子間を無限に旅するイース種族は、その膨大な知識を蓄積した一種のデータベースを築き上げた。そこには、全宇宙の過去と未来のあらゆる事象が記録されている。もはやスケールが大きすぎて、現実感が乏しいにもほどがある。
「ミスカトニックでは」サナエは真剣な顔で言った。「そのデータベースを、アカシック・レコードと呼称しています」
「全宇宙の過去と未来のあらゆる事象を記録したデータベースって......」すでに飽和状態の頭脳が、さらに混乱しつつある。「それはつまり、私たちの未来というか、運命が決まっている、ということか」
「そうなります」
「自由意志や量子論で言う不確定性原理はどうなる?」
「その選択も含めて全てです」
私はカップを傾け、テーブルの上にコーヒーを少しこぼした。サナエは黙ったまま、チリ一つない天板に黒い染みが広がるのを見ていた。
「今、コーヒーをこぼしたのは、突発的な思いつきだ。これも、そのアカシック・レコードに記録されているのか。8 月7 日、12 時54 分、私がコーヒーを100ml こぼす、とか?」
「台場さんの自由意志で思いついたと、どうしてわかるんですか」サナエはからかうような口調で言った。「そう決まっていたのかもしれませんよ。この時間に、コーヒーをこぼすことを思いつくと」
「......」
「全てが記録されているんです」サナエは立ち上がり、背後のサイドテーブルから、ティッシュペーパーを数枚つまむと、テーブルの上にふわりと落とし、コーヒーを吸着させた。「コーヒーの分子や原子、原子核、電子、陽子、中性子の単位時間あたりの動き、温度変化、位置情報、このテーブルを構成する木材や塗料の損耗、水分量、付着していたはずの細菌やカビの生死、ムッとした私の精神状態まで、何から何まで」
「そんな記録、どれだけの......」
どれだけの記憶容量を必要とするのか、と言いかけた私は、そのバカバカしさに気付いて口をつぐんだ。容量や媒体がどうの、というレベルの話ではないのだ。
「当のイース種族を除いて、その現物を見た知的生命体は、人間や旧支配者を含めて、どこにもいないのでしょう。それがどんな形で、どこに存在しているのか、何がどこまで記録されているのかについては、ミスカトニック内でも、様々な仮説が雨後の筍のように、生まれては消えています。たとえば、RU やSPU などの多世界構造自体が、アカシック・レコード内の記述に過ぎないのではないか、とか」
「シミュレーション仮説だな」
この世界そのものが、コンピュータ上に存在している仮想世界なのではないか、という仮説のことだ。
「その他にも、イース種族こそが旧神であり、RU とSPU は、彼らのゲームに過ぎないとか、イース種族は旧神と業務提携しているDBA だ、とか。私に言わせれば、永久に答えが出ることはない議論なので、時間のムダでしかないのですが」
「そのアカシック・レコードが仮に存在しているとして」私は訊いた。「今の状況とどういう関係が?」
「ここからはトップシークレットです。実は、アーカム・オーダーは、イース種族からアカシック・レコードへのアクセス権を与えられています。アーカム・チャーチがその窓口です」
「アクセス権?」
「文字通りの意味です。制約はありますが」
「読み書きができるというわけか。でもそれが......」
「単なる記録ではなく」サナエはティッシュペーパーを手の中で丸めた。「アカシック・レコードは現実世界と同期しているんです」
「意味がよくわからないな」
「コーヒーをこぼしたという事象が記録されているとしますね。その記録にアクセスして、コーヒーを、紅茶に書き換えると、どうなると思います? その瞬間、関連する全ての事象が置き換わることになるんです。この意味がおわかりでしょう」
不意にサナエが話している内容が頭の中で形になり、私は心の底からぞっとした。
「......現実の書き換え?」
「その通りです」サナエはニコリともせず頷いた。「ATP でやっているオペレーションは、最終的にはアカシック・レコードの特定領域の書き換えなんです」
私は言葉を失って、サナエの顔を見つめた。
「我々はRR――現実度、という言葉を使いますね。疑問に感じたことはありませんか。事象A と事象B、どちらがより現実的なのかがどうやって決まるのか。アカシック・レコード上で、有効なデータとして永続化されるには、いくつかの条件がありますが、より多くの条件を満たした方が、現実度が高い、となるんです」
私は現実を定義しているデータベースというものを想像しようとしてみた。テーブルの上にこぼれたコーヒー。仮にこの単純な事象を、原子レベルまでシミュレートするには、どれだけの情報量があればいいのか。コーヒーが液体として存在するためには、温度や気圧が適切な範囲内で安定していなければならないから、外的要因も加える必要がある。テーブルが傾いていれば、コーヒーは一方向に流動してしまうだろうし、表面の摩擦係数が低すぎても、やはり流れてしまう。直射日光や強い風にさらされれば水分は蒸発するから、外気を遮断する壁も要素となりうる。いや、そもそも量子論の観測問題を考慮するなら、知的生命がその存在を認識していなければならないから......
そこまで考えたところで、私の頭は働かなくなった。こぼれたコーヒーという比較的単純な事象でさえこれなら、防壁を構築したり、奉仕種族の肉体を崩壊させるロジックとなると、どれほど膨大な情報になるのだろうか。
「ちょっと待ってくれ」私はかろうじて声を絞り出した。「アカシック・レコードには、過去も未来も記録されている、と言ったな。その記録の読み書きができる、とも。ということは、未来がわかっている、ということになるのか」
サナエは首を横に振った。
「残念ですが、無制限にアクセスできるわけではないんです。先ほども言ったように制約があります」
「どんな?」
人類に許可されているのは、過去35,809 日、およそ98 年間の事象に対するselect と、1,193 時間、約49 日前までの事象のupdate だ。未来に対するselect やupdate は、たとえ1 秒後であっても不可能になっている。
「49 日前まで......」私はひとまず真偽を脇に置いておくことにした。「独裁国家の指導者あたりが手にしたら最強、最悪だな」
サナエはお義理で微笑んでくれた。
「事象のアップデートは、簡単ではありません。というより、事実上、不可能だと言ってもいいぐらいです。たとえば、台場さんがコーヒーをこぼした、という事象、仮に2 秒ぐらいだったとしますか、それをなかったことにする場合、どうやると思いますか?」
「消せばいいんじゃないのか」
私の答えに、サナエはニヤッと口角を上げた。
映像なら60 フレーム分を削除して終わりだ。だが、現実世界ではそう単純な話ではない。その2 秒間を消す、ということは、この宇宙から2 秒間を削る、ということに他ならないからだ。
「つまり許されているのは、select とupdate だけ、ということです。delete はできません。同じ理由でinsert も不可能です」
「ということは、update するしかないか」私は考え込んだ。「何を上書きすればいいんだ?」
「もし、それをやるとしたら」サナエは汚れを点検するように、テーブルの上を見回しながら言った。「上書きする事象の総量を完全に一致させる必要があります。等価交換というわけです」
それは、2 秒分の新しい事象を、前後の事象とシームレスに一致する形で作成し、置き換えるという作業になる。たとえば、私が何もせずにぼーっと座っている、という事象だ。
「簡単そうに思えるんだが」
「そうでしょうか。ただ座っているだけでも、かなりいろいろな事象が発生しているんですよ。呼吸によって変化する酸素分子と二酸化炭素分子の数、体温による室温の微妙な変化、細胞のいくつかは死んでるでしょうし、新たに分裂した細胞もある。コーヒーがこぼれたことによってテーブルの上にいた細菌が死んだり、位置を変えたりしたはずですね。さらに言うなら、私がテーブルの上を拭いた、という事象だって発生していますから、それもなかったことにしなければなりません。こういった物理的な事象を新たに生成するなんて、たとえ1 ミリ秒分だとしても、天文学的な計算を必要とします。それは事実上、不可能と同義なんですよ。少なくとも人類の科学や技術では」
「でも」私はサナエを見ながら言った。「アーカムでは、それを可能にしている」
「ええ。どうしてそう思われましたか」
「オペレーション後の後処理だ。あれなんか、まさに現実の書き換えじゃないか」
「そう」サナエは満足そうに頷いた。「その通りです。奉仕種族の目撃情報や被害などの復旧には、アカシック・レコード操作を用いています」
「どうやって?」私は身を乗り出した。「たとえば昨夜の一連の事件で、少なくない数の市民が、ディープワンズやインスマウス人を目撃したはずだ。まさか、それを丸ごとなかったことにはできないだろう?」
「できません。今言ったように、膨大という言葉すら過小に思えるほどの情報量が必要になるからです。お疲れでしょうから言ってしまうと、人の記憶のみを書き換えている、というのが答えです」
「記憶?」すでに身体を覆っていた疲労感は消し飛んでいた。「それにしたって、同じ理由で膨大な情報になると思うんだが」
「詳細な仕様や仕組みは私にもわかりません」サナエは残念そうに言った。「誰にもわからないんです。ただ、記憶というのは、アカシック・レコード上では、物質的な現象ではなく、論理的な情報として扱うことができることがわかっています。その操作は、かなりハードルが下がり、私たちでも現実的な範囲で可能です」
「例のナラティヴだな。苅田タケトに処置したような」
「それです」サナエは認めた。「初期の頃は、かなり失敗もあったみたいですが、今では、充分なノウハウが蓄積されているので、失敗することはめったにありません」
「そのノウハウを蓄積するために、人体実験を繰り返したんじゃないといいんだがね」私は冷めかけたコーヒーを口に運んだ。「それにしても、精神と肉体はお互いに密接に結合しているもんだと思っていたが、違うんだな」
「個体レベルで考えるなら、思考や記憶は、脳の中の電気信号なので、密結合だと言えます。アカシック・レコードに同期されるとき、物理的な事象と、思考や記憶は、それぞれ違う領域になるようです。イース種族が重視しているのは、知的生命体の思考の方だということなんでしょうね。きっと、物語が好きなんでしょう。コーヒーのおかわりはいかがですか?」
私は手を振って、その勧めを断った。普段は酒を嗜むほうではないが、このときばかりは、コーヒーよりも刺激の強い液体が欲しいところだった。
「昨日の後処理も、もう開始してるんだろうな」
「開始しています。やるのはミスカトニックですが」
「ディープワンズを見なかったことにするってわけか。数十人、もしかしたら数百人ぐらいは、目撃したと思うんだが、どうやって整合性を取るんだ?」
「私も実作業を見たことは一度しかないので、詳しくわからないんですが、意外にRDB のデータ修正と似通った部分があるようですよ。ディープワンズの目撃記憶がある人をselect して、それぞれの長さを計測して、見合った記憶をupdate する、という具合に。記憶は前後のデータからコピペして修正するユーティリティがあるし、テンプレートになる記憶のパターンも数千万個以上ストックされているとか」
「でも、現実との齟齬はどうしても出てくるはずだ。スマホで撮影してるとか、ネットにアップしたとか」
「ネットの情報は改ざんする手段がいくらでもあります。意図的に、よく似たフェイクニュースを流すとか。常設のパトロール部門もありますし。個人のローカルな記録、たとえば、日記に書いたとか、スケッチしたとか、そういうのは確かにどうしようもありません。これだけ大人数だと、一人一人面談していくわけにもいきませんから」
「どうするんだ?」私は危機感、というより、好奇心から訊いた。
「気の迷い、とか、目の錯覚、とか、その手の便利な現象でごまかされることを祈ります」サナエは悪戯っぽく笑った。「洗濯物を取り込んだ記憶がないのに、いつの間にか取り込んである、なんて、よくあることでしょう」
私も思わず笑った。
「そんなのでいいのか」
「たとえ奉仕種族の画像を見たとしても、本気でその存在を信じなければRR は上昇しません。現代では、似たような創造物は文章でも画像でも動画でも、巷にあふれていますからね。仮に、本気で真実を追究し始めるような個人がいれば、アーカムが個別に対応します」
「個別に対応って?」
「拉致......いえ、同行をお願いして、しっかりナラティヴを上書きし直すとかですね。有用な人材であれば、逆にアーカムにスカウトすることもあるようです」
「どちらも無効だった場合、存在を抹消したりするんじゃないだろうな」
そう言ったのは半ば冗談だったが、サナエはわずかに微笑んだだけで答えなかった。私はこの話題に深入りすることを避けた。
「まだ信じ切れたとは言えないが、アカシック・レコードの存在など確かめようがないから、まあ、いいとしよう。佐藤管理官の契約更新だか更改だかの話にどう繋がるんだ」
「もちろん、それはSPU と関わりがあります」
「アカシック・レコードには、SPU のことも記録されているのか?」
「されていることは間違いありませんが、RU からアクセスはできません。それは別リージョンにあるようです。アクセスできれば、SPU からの侵入に対して、もっと有効な対抗手段が得られるんですが。ただ、SPU からの侵入の検知と対応は、アーカムが操作できるアカシック・レコードで可能です」
RU に対するSPU の侵入は二つのユニバース間に残る、量子もつれポイントを通じて実施される。このポイントが生成されたのは遙か太古であり、アカシック・レコードの操作可能範囲から外れるために「なかったこと」にはできない。だが、適切な条件で参照することによって、ポイントを監視することはできる。そして、SPU から量子もつれポイントを通して、旧支配者の従者や奉仕種族が送り込まれると、ポイントの状態が変化する。その変化の記録は、1,193 時間以内であれば操作が可能だ。
「量子レベルのupdate であれば、それほど多くの情報を必要としない、ということか?」
「そうです。少ない情報、と言っても、テラやペタで表せるほど少なくはないんですが。ただ、コピペに近い操作が可能なぐらいには単純な構造だということです」
「奉仕種族への攻撃オペレーションは、どういう仕組みになってるんだ?」
PO が作成したロジックは、アーカム・オーダーが所有する量子コンピュータ、マドソン・モーリーⅦに転送され、アカシック・レコードに対する一連のアクセスコードへと変換される。このとき重要なのは、ソースコードのみを変換するのではなく、アカシック・レコードから、個々のPO による目視観測の記録を読み取り、マージした上で変換していることだ。RR を大きく高めるためである。人間がオペレーションを行わなければならない理由の一つだ。
「その他、細かいプロセスが多々ありますが、この話の本筋とは無関係なので省略します。要はATP のオペレーションも、ミスカトニックの情報収集も、アカシック・レコードへのアクセスが必須だということです」
「そうか」徐々に理解の光が差し込んできた。「昨日、デプロイができなかったのは、そのアクセスチャネルが遮断されたためだったんだな」
「その通りです。アカシック・レコードへのアクセスは、人類、というか、アーカム・オーダーが少なくない犠牲と対価を払って獲得した権利です。そのはずでした。しかし......」
「エーリッヒ・ツァンの音楽でアクセスが遮断されてしまった」
「はい。自社のみのVPN だと思って使っていたネット回線が、実は、他社との共用回線だったと判明したようなものです。もうパニック状態でした」
「佐藤管理官は、回線の契約状態を確認しに行ったわけか。必要なら再契約するために」
サナエは頷いた。やっと、私の質問の一つに対して答えが得られた。
「どこに行ったんだ」
「アメリカ、マサチューセッツです。アーカム・チャーチの本部があります」
「謎のアーカム・チャーチか。なぜ、そこに?」
「イース種族とのコンタクトは、そこでしか行えないそうです」
「戻り予定は?」
サナエは時間を稼ぐように手の中に視線を落とした。ティッシュペーパーはすでに固く丸まっている。無意識にだろうが、その形は五芒星形になっていた。
「はっきりしたことが言えるといいんですが」とうとうサナエは重い口調で言った。「わからないんです」
「わからないって......」
「人間にとって、イース種族は、旧支配者以上に異質な存在です。時間の本質を解き明かした彼らには、私たちの時間感覚は意味を持ちません。私たちの数年が、彼らにとっては数分だったりするのかもしれないんです」
「......」
「それに、佐藤管理官がイース種族とのコンタクトを行うのは、今回が初めてになります。初回は、様々な儀式というか手続きが必要だそうです」
「初めてって......これまでは別の誰かがやっていたってことか?」
「これまでは、モスクワ支部の管理官だったようですね。その前は確かカイロ支部の人、その前は......」
「?」
「私の兄でした」
サナエの双子の兄、モトヤは、サナエと同じく分析二課の所属だが、ほとんど誰とも口を利かないし、電子的なやり取りも必要最小限だ。私自身、彼の声を聞いた記憶がない。
「兄がそのときの体験を話したことは、ほとんどありません」サナエは低い声で言った。「わずかに聞いたことから推測すると、イース種族とのコンタクトは、精神的にも肉体的にも、耐えがたいほどの負荷がかかるようです。兄がマスクとグローブを外さないのは、その痕跡が残っているためです。一人が担当できるのは、せいぜい三回か四回が限界なんです」
「彼はイース種族とコンタクトをしたのか」
「何度か。最後のコンタクトは4 年前です」
「そのときは、どれぐらいの時間がかかったんだ」
「最初は92 日かかりました。その後はまちまちで、9 日のときもあれば、43 日のときもありました」
「そうか......」
「そういうわけなので」サナエは顔を上げた。「佐藤管理官も、数週間から数ヶ月は戻らないと考えた方がよさそうです」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
港南台第二中学についての事件は、公式には「大規模な新種のヒアリの巣が校庭で発見され、専門業者による駆除作業が行われていたが、作業員の不注意によって薬品にタバコの火が引火して爆発を起こした」と発表された。有害な化学物質が残留しているおそれあり、ということで、現場周辺は立ち入り禁止となっている。このニュースは、数日間にわたって情報番組などで取り上げられた。SNS には奇妙な生物の目撃情報がいくつも上がっていて、有志による調査隊結成が呼びかけられたりしたが、すぐにその動きは下火になっていった。与党の園遊会による税金私物化や、若手有名女優の違法薬物使用など、幅広い年代の興味をひくネタの放出も検討されたが、芸人の脱税疑惑の報道が続いていたこともあり、今回は使用を見合わせることになった。それらのネタは、いずれしかるべきときに有効活用されることだろう。
横浜市内に出没していた600 体以上のグールは、約束通り、ハウンドに引き渡された。解放されたユアンとは顔を合わせる機会がなかったが、後日、分厚い封筒が私宛に届けられた。開封してみると、ドイツに本社があるハウンド傘下のオフィスIT 機器メーカーのカタログで、モバイル会議システム製品が載っていた。同封されていた見積書には、「アーカム・テクノロジー・パートナーズ様特別値引き」の項があった。私は苦笑してシュレッダーに放り込んだ。
8 月9 日の朝、防衛レベルが3 から4 に移行したことが、全部門に通知された。同時に、佐藤管理官が長期にわたってマサチューセッツ支部へ出張することも発表となった。もちろん、その真の目的を知っているのは、限られた数名だけだ。防衛本部管理官の職務は、当面の間、山田防衛本部長が兼務する。防衛本部内では、若干の組織変更が発生し、それは私とセクションD のPOたちにも及んだ。
山田本部長に呼ばれた私は、一枚の紙を渡された。流麗なミナスキュール文字で書かれた辞令だ。アーカムでは重要な手続きは、全てこの文字で手書きされた紙で行われている。
「カウンター・カルティスト・セクション D」私は渡された辞令を読んだ。「なんですか、これは」
「文字通りだ」山田本部長は重々しい声で言った。「セクション D は防壁の構築作業からは外れ、奉仕種族に対するオペレーションを専門とすることになる。ソード・フォースと連携し、横浜周辺に発生した奉仕種族への対抗オペレーションを行ってもらう。現場でのオペレーションがほとんどとなるだろう」
「でも、なぜセクション D が」
「加々見シュンがいるからだ」
意味がわからず、私は年齢不詳の本部長の顔を見た。
「横浜ディレクトレートが、なぜ横浜にあるのだと思う? 我々はサンサーラ・テクノロジー、つまり生まれ変わりを完全にコントロールしているわけではない。輝くトラペゾヘドロンの起動パラメータを継承する5 代目の人間が、シュンであると判明したとき、以前の横浜支部が誕生した。同時に、横浜近辺での奉仕種族の活動が活発になっている。明らかにシュンを探してのことだ。我々はシュンを、彼の親以上に注意深く見守ってきた。ほとんどの場合、その活動は成功してきたが、残念ながら何度か失敗もある。シュンの両親が死んだのもその失敗の一つだ」
「敵に殺された?」
山田本部長は小さく頷いた。
「すんでのところでシュンを奪われるところだったが、何とか回避することができた。とにかく、敵がシュンの奪回に躍起になっていることは確かだ。先日の一件でもわかるようにな」
「つまりシュンを囮に使おうということですか」私は呆れて首を振った。「奉仕種族を引き寄せるために。ここに集中させれば、敵の殲滅に効率がいいから」
「それは一面に過ぎない。君は、シュンに限らず、セクションD のPO たちが、防壁構築オペレーションのときに効率が落ちていることに気付いていたかね?」
「え? ああ。カズトなどは、露骨に退屈だって言ってますよ」
「防壁構築は変化がないオペレーションだ。ルーチン作業と言ってもいい。分析部によれば、セクションD のPO たちのストレス値が上昇しているのが明白だそうだ。逆に奉仕種族対抗オペレーションだと、目に見える達成感があるためか、生き生きとしている。特にシュンはその傾向が強い。だったら、シュンの精神状態を健全に保つためにも、対奉仕種族のオペレーションに主軸を置いてもらおう、ということだ。それにソード・フォースとの連携が必要となるから、それなりの訓練を受けてもらう必要がある。いい気分転換になるだろう。子供は身体を動かさないとな」
「へえ」私は山田本部長の顔をまじまじと見つめた。「意外なお言葉ですね」
「何がだ」
「あなたにせよ、佐藤管理官にせよ、使命のためなら、PO など使い捨てにするのだと思っていました」
「君は本気でそう思っているのか」山田本部長の声に、初めて感情が宿った。「シュンやセクションD の子供たちを危険にさらしていることを、私たちが許容すべき犠牲だと考えていると。私たちが守る人類には、当然、あの子たちだって含まれている。できるなら、子供たちには、人類の未来なんぞではなく、今晩の夕ご飯とか、誰と遊ぶとか、ゲームでレベルアップするとか、誰に告白した方がいいのかとか、そういう平和なことだけを心配していてもらいたい」
「それは申し訳ありませんでした」私は小さく頭を下げた。「それなら、なぜセクションD なんてものがあるのか疑問ではありますが」
「優秀なPO を育てるのは容易ではないからな」山田本部長は、また冷静な声に戻した。「好むと好まざるとに関わらず、あの子たちはPO としての人生を歩んでもらわなければならない。ならば、せめて仕事が楽しい、やりがいがある、と思ってもらえるように大人が環境整備をすべきだとは思わないかね」
「でも、シュンの存在がそれほど大切なら、横浜ディレクトレートから出さず、外部との接触を断つ、という選択肢もあったんじゃないですか? もちろん、そうした方がいいと言っているわけじゃないですが」
「それはできない。辻本ナナミという人間の存在があるからだ」
「ナナミ?」私は首を傾げた。「あの子も何かあるんですか?」
「ナナミは普通の人間だ。特に秘密はない。ただ、あの二人の心というか魂は、どういうわけか固く深く結びついている。恋人などというレベルではなく。二人を引き離せば、おそらくシュンの精神は崩壊してしまうだろうと、心理分析の専門家が言っている。なぜなのかはわからないが。ヨネヤマからここに通うという形は崩したくないし、外の世界、本来なら彼がいるはずの世界との接点を断つのも好ましくない。外部からの刺激が重要であることは、先日、君自身が証明したではないか」
「確かにそうでしょうね」私は肩をすくめた。「年端もいかない子供を、ずっと地下に閉じ込めておいて外に出さない、というのはどう考えても健全じゃない」
「そういうことだ。我々は、起動パラメータを健全な精神の人間に持っていてもらいたい。精神的に病んだ人間が、起動パラメータにどんな影響を及ぼすか想像ができないからだ。子供はよく学び、よく遊び、身体をしっかり動かすべきだ」
「大人はいいんですか」
私は笑いながら言ったが、山田本部長はニコリともしないで私を見返した。
「もちろん、君と駒木根くんにも、訓練を受けてもらうとも。嬉しいだろう。その腹回りが少し小さくなるかもしれんぞ」
私は自分の腹についた贅肉をつまんだ。まあ、悪いことではない。
こうして、セクションD は新たな任務に就くことになった。山田本部長が全てを話したわけではなかった、と知るのは、もう少し先のことだ。
(第一部完)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「夜の翼」の今年の掲載は今回で終わりです。次回は、クリスマス短編の予定(たぶん)で、30 日はお休みです。年明けは第二部の予定ですが、別の話にするかもしれません。
コメント
hir0
第一部完お疲れ様でした
そしてクリスマスプレゼント楽しみにしております
夢乃
アーカム・チャーチ? それはもしかして、ジ(文章はここで途切れている)
匿名
第二部も楽しみに待ってます。ユアンの逞しさを見習いたい
35809日と1193時間ってこの数字も何らか元ネタがあるんだろうか
匿名
1193時間は2**32/60/60/1000ですね。
匿名
なるほど完全に理解した。
匿名
なるほどなるほど、完全に理解した。
匿名
ラサールはここまで知っていたのか!!
匿名
ラサールって誰だっけ?
匿名D
元ネタを知ってるい人には、楽しい仕掛けがいっぱいあるんでしょうね。
ワタシは今更追いかけるようなエネルギーはありませんが。(>_
mo
1部完結お疲れさまでした。
まだまだ伏線ありで今後の展開が楽しみです!
どうつながってゆくのか…クリスマスを挟んで気長に待ちます。
>元ネタ・・・
クトゥルフ神話のことでしょうか。わたしもノータッチですが、
知っていた方がより楽しめそうなので年末年始に図書館でも行って
片っ端から借りてみようかな。
どれから読んだものか余計混乱するかもですがw
Y
ラブクラフト全集もいいですが
日本作のグルメなクトゥルフの小説が
意外と雰囲気掴めて良い感じです。
匿名
なんか茫洋としてきたなあ
匿名
>Y氏
おまえの心臓を料理して食わせてやるから心臓よこせ!ってやつかな。なつかしい。
匿名D
アレってそういう話だったんですか。
私が手にとったのは「無礼帳」のほうでした。もともと読んでいたのは「D」。
てか、みなさんトシいくつ(ry
匿名
青心社のクトゥルーシリーズの じゃないですかね。
Y
元は朝日ソノラマですよ
当時は高校生でした。
私は、Dとエイリアンシリーズ大好きなので
天野氏のイラストでないと…
とはいえ、自宅を探してもないので、新しいのを買おうかと悩み中
恐らく、SFマニアのリーベルGさんも
当然読んでるようなお話
匿名
このシリーズ続き読みたいなぁ