魔女の刻 (46) たったひとつの冴えたやりかた
ゴーグルを返却して自席に戻った後、私は今日、予定されている作業を確認しながら、たった今目撃した奇妙な隠しコマンドの意味を考えていた。あれが何かの不具合でないと仮定するなら、誰が、何のために、こんなことをしたのか。前者の答えは明らかだ。スキル的にも権限的にも、こんな仕込みができるのは白川さん以外にいない。だが、後者の答えは出なかった。私が思いついたのは、Q-LIC の問題を風化させないため、というものだったが、開発センターの限られた人数に対して実行する理由がない。それならもっとスマートなやり方はいくらでもありそうだ。
しばらく考えてもわからなかったので、私は諦めて仕事に取りかかった。こういうとき草場さんがいれば、と思った途端、微かな痛みが胸の奥で疼いた。私と草場さんは、二人でのランチのとき、よく、この手の話をしたものだ。
アサインされているチケットは、優先度の低いトラブル対応ばかりだ。とはいえ、それは難易度の低さを意味しない。カットオーバー直後のバージョンにおけるトラブルは、すでにほとんどが解決済みだったが、5 月より小規模な機能追加要望が少しずつ上がってきていた。初期トラブルが一段落するまでは、と抑えられていた要求を、高杉さんが解放したからだ。それらの機能追加は、PL 代理のような立場にある今枝さんのマネジメント下で私たちが実装し、一連のテストを経て、production 環境にリリースされている。ここ最近のトラブル対応は、それらの新たに追加したコンテナばかりで発生していた。
最初のチケットは、KNGSSS の掲示板に登録したはずのメッセージが、一定の割合で消えてしまう、という不具合の対処を要求するものだった。数人の生徒から不具合として上がってきているが、再現手順は明記されていない。生徒が登録したメッセージは、教師が内容を確認した後でなければ公開モードにならないから、最初に疑ったのは人為的な削除だ。だがログを確認してみると、そもそも教師の承認待ちに上がっていないメッセージが何件もあることがわかった。教師が否認したのであれば、ログも残り、投稿した生徒にも通知されるからだ。例外ログも残っていないのでエラーではなさそうだ。私はVilocony の管理メニューから、コーディネータ設定画面を開いた。最近になって、ようやくコーディネータ設定へのアクセス権限が、私たちプログラマにも参照のみだが解放されていた。おそらく今枝さんが自分の負担を軽くするためだろうが、プログラマで解決できる範囲が増えたのはいいことだ。私は白川さんが残してくれたマニュアルと見比べながら、対象となるコンテナを順番に調べていった。
1 時間あまりを調査に費やした後、私はタブレットを手に席を立って、今枝さんのデスクに向かった。見覚えのないコンテナが承認待ちコンテナの直前に追加されていることに気付いたからだ。コンテナの作成日付は6 月20 日と最近だ。このコンテナを経由した時点で、メッセージが消滅しているようだった。掲示板関連は、私も実装フェーズで一部の機能を担当したが、それ以後、ほとんど変更がなかった機能だ。インテグレーションテストでも、大きな問題も出ずに完了している。画面の色やフォントの大きさに関する要望は頻発しているので、View 部分の変更は何度か反映されているが、新しいコンテナを追加する必要があるとは思えなかった。
コンテナID を伝えると、今枝さんは少し考えた後、何かに思い当たったようにキーを叩いた。
「ああ、これか」今枝さんはモニタを指した。「市の教育委員会から、有害ワードのフィルタリングを入れて欲しいという要望があったから入れたんだ」
「フィルタリングって」私は少し呆れて訊き返した。「エラーを返すのではなくて、そこで削除しちゃうんですか?」
「そういう要望だったからね」
私は秘かにため息をついた。今枝さんは、それなりにまともなマネジメントを遂行していたが、実績を積みたいのか失点を怖れているのか、エンドユーザの要望を、充分な内容の検討もなしに気前よく受け入れてしまう傾向があった。今回のフィルタリング機能にしても、白川さんなら、メッセージの入力段階で警告を出すべきではないか、ぐらいの提案はしただろうし、そもそも機能そのものの有用性や正当性を問い質したに違いない。実際、システムの要件や仕様をろくに知りもしない市幹部や教育委員会からの、思いつきでしかない機能追加依頼は、白川さんの手によっていくつも葬り去られている。今枝さんは目の前に差し出されたタスクをこなすことに集中するあまり全体が見えていないようで、白川さんのときにあった山のような安心感がない。私がこのプロジェクトにフルタイムで参加することを躊躇う理由の一つだ。
「メッセージを削除したログは見つかりませんでしたが」
「出してないからね」当然のように今枝さんは答えた。「そんなの要望になかったしさ」
そりゃそうだろう。どんなログを出すか、まで指示してくるエンドユーザはなかなかいない。
「それに削除されたメッセージは、ちゃんと保存されてるよ」
「え、どこにですか?」
「教頭以上の権限で参照できるテーブルにあるよ」
「だったら、消えたのは正常な動作ってことですよね」私は疲労感を感じながら言った。「どうして不具合対応カテゴリでチケットが上がってるんですか」
「そりゃあ、教師や生徒からは、不具合にしか見えないからじゃないかな」
「つまり、KNGSSS のユーザ、つまり教師の方々や生徒さんたちは、フィルタリングの存在を知らないということですか?」
「知らないんじゃないかなあ。わざわざ告知はしてないと思うけどね」
「じゃ、何の説明もなく、投稿したはずのメッセージが消えてしまうと」
「そういう要望だったからね」
今度は小さなため息を隠す気にもなれなかった。
「じゃあ、今後も同様の問い合わせが出続けるってことになりますが......」
「そうかもね。まあ、そんなに件数が多いわけじゃないし、大した工数にはならないよ」
対応するのが自分ではないとわかっている今枝さんの言葉は楽観的だ。少ない工数であっても、毎回毎回、誰かが私と同じ手順を踏むのはムダだ、という思考はないらしい。
「今後、同様の問い合わせがあったときのために」私は忍耐強く説明した。「削除ログを出力するように改修しておいた方がいいと思いますが」
「そうなの?」今枝さんは肩をすくめて私を見た。「じゃ、そうしておいてよ」
投げやりのようだが、これでも自分の権威付けのためだけに、プログラマの意見や進言を頭ごなしに否定していた頃に比べれば進歩しているのだ。
「で、対応レポートには何と書けば......」
「ああ、そうだねえ。消えたメッセージのID はわかってんの?」
「何件かは。少なくともチケットには書いてありました」
「じゃフィルタリングで消えたことと、例としてどんなワードが引っかかったのかぐらい書いておけばいいんじゃないかな」
「......ログがないので、どんなワードで弾かれたのかがわからないんですが」
「あ、そっか。じゃ調べてみるか。メッセージID わかる? 直近のでいいから」
チケットを参照してメッセージID を伝えると、今枝さんは何かのWord 文書を見ながら管理系のメニューを操作した。
「ああ、これか」数分後、今枝さんは手を止めた。「昨日の16 時過ぎか。えーと、引っかかったのは"NHK"だね」
「はあ?」聞き間違いかと思った私は、確認した。「"NHK"ですか」
「そうだよ」
「"NHK"のどこが有害ワードなんですか」
「えーと」今枝さんはページの一部をクリックした。「"二の腕引っ張ってキス"、だってさ。いわゆるJK 語ってやつかね」
脱力しそうになった私は、かろうじてデスクの端をつかんで身体を支えた。
「......そういうワードを集めた辞書か何かがあるってことですか?」
「そうらしいよ。教育委員会が管理してるけど」
「その手の言葉って、寿命が極端に短いと思うんですが、鮮度管理は誰がしてるんですか」
「フィルタリング管理の専門部署があるらしいよ。よく知らないけど」
何とも暇な部署があるものだ。くぬぎ市民が事実を知ったら、くぬぎ市公式ホームページに設けられている「市民の声」に投書が殺到しそうだ。もっとも、そちらにも同様のフィルタリングが介在しているのかもしれないが。
「ま、そんなフィーリングで頼むよ」
私は小さく礼をしてから自席に戻った。対応レポートを書くためにチケットを開く。今枝さんに指示された通りの内容を入力しながら、私はまたため息をついた。
今枝さんは悪人ではないが、市民視点でコンテナの有用性を判断し、要望に対して提案を行うという指針は小指の先ほども持ち合わせていない。エースシステムにとって、システム保守料を払ってくれるのは、くぬぎ市であって、市民ではないからだ。カットオーバー以前は、瀬端さんが率いるタスクフォースが防波堤になってくれていたし、何といっても白川さんの存在が大きかった。二人が別の目的を胸に秘めてプロジェクトを遂行していたのは確かだが、ともに職業倫理を越えて開発にあたり、自らの利益ではなく、くぬぎ市民のために良質なシステムを残すことに心を砕いていたのも事実だ。その証拠に、最終的な成果物としてのシステムは、くぬぎ市民の意に沿うものになっている。どちらもプロジェクトから離れてしまった今、このフィルタリングのようにバカげた機能が、当事者の都合だけで追加されていき、数年後には愚にもつかない時代錯誤のシステムが残っているだけになる気がしてならない。
ただ今枝さんだけを責めることはできない。エースシステムのSE は、短いスパンでプロジェクトを渡り歩くのが常で、今枝さんも例外ではない。下期か遅くとも来期には別のプロジェクトへ異動し、くぬぎ市ICT 関連のPL には別の人が入ってくる予定らしい。残り数ヶ月しか関わらないプロジェクトで、挑戦的な提案などする気にはなれないのも無理はない。エースシステムは失敗を好まないのだから。上級SE を狙っているのであればなおさらだ。
対応レポートを入力してコミットした私は、次のチケットを開こうとして、時刻が11 時30 分になっていることに気付いた。午後からはチハルさんのピンチヒッターでトレーナーだから、事前に内容は把握しておきたい。少し早めのランチに出ることにして、私は席を立った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
<Cafe Restaurant CC-1>は、くぬぎ市役所から南西に200 メートルほどの距離にオープンしたカフェレストランだ。白を基調にした瀟洒な建物で、大型観光バスが停まれそうな広さの駐車場も隣接している。経営は大手IT 企業を脱サラしたご夫婦だ。地産地消、ヘルシー志向を前面に出したレストランで、くぬぎ市や周辺自治体の農家から直接仕入れた野菜と、近隣の漁港から直接届く魚介類を売りにしていた。一番の大手顧客はくぬぎ市役所の職員だが、SNS の口コミが広がったこともあり、最近では他県からもわざわざ足を運んでくる客もいるらしい。
10 席ほどのテーブルは半分以上が埋まっていて、学生アルバイトらしいウェイターが忙しく動き回っている。私は一つだけ空いていた窓際の席に座ると、水とおしぼりを持ってきてくれたウェイターに割引券を見せてランチを頼んだ。元気よく復唱してウェイターが去って行くと、私は感心しながら店内を見回した。静かなジャズが流れていて、活気はあるが騒々しくない。汗が出ない程度にエアコンが効いているのもいい。クラシックな雰囲気だが、壁には目立たないフォントでFree Wi-Fi の掲示があるし、入ってくるときに通ったレジ横には、PASMO やSuica、Edy の他、LINE Pay やApple Pay などのロゴが貼ってあった。テーブル脇にはモバイル端末の充電用にコンセントも用意されている。ICT を目立たない形で活用していて好感が持てた。
私は持って来たKindle で「ヒストリエ」の最新刊を開いたが、それほど待つこともなくランチが運ばれてきた。イワシとフェンネルのパスタに、アスパラとキュウリのサラダ、それにドリンクが付いている。今日は割引で500 円だが、通常料金でも800 円だ。横浜市内で同じものを頼めば1000 円を超す。はたしてこれで経営が成り立つのか心配になってしまう。
トマトソースのパスタは、程よくスパイスが利きイワシと絶妙にマッチしていた。自家製ドレッシングのかかったサラダも味が濃い。人気があるわけだ。私が食べている間にも、次々に客が入ってきている。ぜひとも長く続いてもらいたい店だ。
満足した私がアイスコーヒーを飲んでいると、不意に声がかけられた。
「相席、よろしいですか?」
混んできたのかと思い、「いえ、出ます」と言おうと相手の顔を見た私は、言葉を失って硬直した。
白川さんが立っていた。
「え......」
私が固まっている間に、白川さんはするりと向かいの席に滑り込むと、近寄ってきたウェイターにハーブティーを頼んだ。
「アイスでしょうか」
「いえ」白川さんはにっこり笑った。「ホットでお願い」
ウエイターが戻っていくと、白川さんは私を見つめた。
「お久しぶりですね、川嶋さん。お元気でしたか?」
その声で再起動した私は、何とか声を絞り出した。
「白川さん......」
白川さんは最後に見たときよりも確実に痩せていた。頬の肉は落ち、長袖のシャツワンピースから覗く手首は折れそうなほどだ。右手のブライトリングがさらに大きく見える。いつも目の下に浮いていた隈はなくなっているが、顔色がいいわけではない。頭には明るい色のニット帽をかぶっている。
「あ、これ?」白川さんは私の視線に気付いて、おどけた表情でニット帽を指した。「ちょっと暑苦しいとは思うんだけど、まあいろいろ事情があるので」
「暑苦しいって......」私は帽子から目を逸らした。「それどころじゃないでしょう。身体、大丈夫なんですか? あ、そうだ、病院から抜け出したって聞きましたよ。一体、何やってるんですか!」
最後の方は少し高い声になってしまい、店内の他の客の視線が集まるのがわかった。私はいつの間にか浮いていた腰を下ろし、改めて白川さんに問いかけた。
「本当に大丈夫なんですか」
「まあ心身共に健康、というわけにはいきませんけどね」白川さんはクスクス笑った。「最近は案外、調子がいいんですよ」
ウエイターがハーブティーを運んできて、白川さんの前に置いた。白川さんはティーカップに顔を近づけて目を閉じた。
「いい香り」白川さんは囁いた。「このお店は来てみたかったんです」
「すごい偶然ですね」
そう言うと、白川さんは小さく首を横に振った。
「違うんですよ。実は狭山さんにお願いしたんです」
「チハルさんに?」私は驚いて訊き返した。「どういうことですか?」
「今日、本当は狭山さんと来る予定だったんですよね。無理を言って代わってもらったんです。少しお話しがしたくて」
「だから、チハルさんは......」私は言いかけたが、すぐに目の前の人に注意を戻した。「いや、そんなことより、入院していなくていいんですか」
「もう入院していてもあまり意味はないんです。だったらベッドの上でじっとしているより、少しでもやれることをやっておきたくて」
「やっておきたいことって何ですか」
「まあ、その話は後で」白川さんは上目づかいに私を見た。「それより、最近の開発センターの様子はどうですか? 今枝はご迷惑かけたりしていません?」
「まあ、それなりにやっていますけど」私は答えた。「白川さんには遠く及ばないですよ。今日も午前中に......」
私がフィルタリングの件を話すと、白川さんはクスクス笑った。
「教育委員会ですか。あそこは前の教育委員長だった山下さんの影響が根強く残ってるところですからね。今回、デジタルホワイトボード導入を決めたときも、最後まで反対していました。教師も子供も字を書かなくなる、とかね。本当は、山下さんの義理の弟が、学校備品の納入業者だからなんですよ。黒板やチョークなんかは、全部そこから入れています。IT 機器になると、保守も含めて調達先はエースシステムの子会社ですから。きっと、人には言えない何かをやってたんでしょうね」
「山下さんって、一度会ったことありますよ。テストのときでしたけど......」
最近の開発センターのエピソードをいくつか話している間、白川さんの表情は豊かだったものの、あまり身体を動かそうとせず、ハーブティーに口をつけようともしなかった。気になった私は、話の切れ目にティーカップを指さした。
「あの、お茶、冷めますよ」
「ああ、いいんです。この香りを味わってるんです。ちょっと味覚障害が出てて、どっちみち味はよくわからないし。そもそも飲み食いが負担になるので」
さりげない口調で、わりと深刻なことを言われたので、私は再び白川さんの体調が心配になったが、当の本人は気にしている様子もみせなかった。すでに達観しているようで、私の心配は逆に増した。
「ところで」白川さんは話題を変えた。「私が残した、ちょっとした仕掛け、川嶋さんもご覧になったようですね」
「ええ。チハルさんから聞いたんですか?」
「いえ」白川さんは微笑んだ。「今朝、川嶋さんがアカウント初期登録をしたので。代理ログインを使わず、アカウント初期化する理由は、他にないですから」
「どうして知ってるんですか」少々驚きながら私は訊いた。「開発センターの監視カメラ映像でも覗いたとか?」
「いえ、実はVilocony 環境には、緊急時のリモート保守用に外部からVPN 接続できる回線が用意してあるんです。通常は閉じてあるんですが、3 月にグリーンリーブスのデータセンターに行ったとき、開いておいたんです。管理者権限のアカウントで接続できます」
「いわゆるバックドアですね。それでモニタしてたんですか。でも、私は適当な名前を入力したんですけど」
「顔写真を自撮りしたでしょう。あれで今日、川嶋さんが出勤していることがわかったんです。勤怠データ見られればいいんですけど、あれはエースシステムのVPN でグリーンリーブスとは無関係ですから」
「あのコンテンツには、どういう意図があるんですか。最初の1 回だけ見られるようですが」
「実は最初だけではなくて、90 日毎に1 回見られるように設定してあります。忘れた頃にやってくるわけです。そんなことをした理由の一つは、KNGSSS とKNGLBS の構造を理解してもらうためです。初期の開発メンバーが、5 月ぐらいを境に次第に外れていき、保守専門のベンダーが入ってくることは予定されていました。私がいれば、最初にやったようなトレーニングでスキルチェックを行い、基準に達しないエンジニアは除外したでしょうが、今枝にそんなことを求めるのは無理です。だから、ゲーム感覚で構造を追いかけられる仕組みを残しておいたんです」
「......」
「2 つ目の理由は、Q-LIC からの浸透を防ぐためです。仮に金目当てで新たな潜入工作員が送り込まれてきたとしたら、あの映像が警告になります。あ、2 回目以降の映像はもう少し長時間流れるようになっていますよ。川嶋さんたちのアカウントでも見られるようになっているので、お楽しみに」
「たいした抑止力にはならない気がしますが」私は首を傾げた。
「私が潜ませておいた映像は、あれだけじゃないんですよ。Q-LIC がシステム系の子会社にブラックな要求を押しつけて、優秀なプログラマを何人も潰した挙げ句、残酷に放り出した証拠映像もあるんです。加えて、私がプロジェクト半ばで放り出したベンダーが、その後どうなったかがわかる文書や映像が、近々ネットに流出する予定です」
後日、私はその文書と映像をネットで閲覧することができた。昨年の5 月でプロジェクトから外されたマギ情報システム開発と、FCC みなとシステム開発は、その後、関東近県での受注が皆無になった。K自動車の関連企業からの直接受注はもちろん、名倉スタッフサービスやTBT 通信システムサービスといったSES 仲介業者にも声をかけてもらえなくなったのだ。どちらの会社も、しばらくは受注済みの開発や派遣で糊口をしのいでいたものの、やがて営業活動キャッシュフローがマイナスになり、以後もその状態が継続し、内部留保を使い果たし、銀行からの融資も断られた結果、11 月から12 月にあえなく倒産していた。私が見た映像の一つでは、FCC に勤務していたという男性が、顔にモザイクがかかり声を変えた状態で、口を極めて愚かな決断を下した元社長と、Q-LIC、そしてエースシステムを罵倒していた。この男性はやっと頭金を貯めて、みなとみらいにマンションを購入したばかりだったが、倒産によって住宅ローンが払えなくなってしまったという。
「それに」白川さんはか細い声で楽しそうに言った。「開発メンバーが隠し映像を見るたびに、何人かは上に報告しますよね。くぬぎ市との契約で、不具合情報は全て市と共有することになっていますから、市に伝わります。Q-LIC はまだ市政アドバイザリ契約中ですから、不具合報告会には参加する義務があります。その席で、元タスクフォースの方たちから、こんな映像を見たという報告があった、と言われるわけです。そのたびに、弓削の悪行が掘り起こされ、リプレイされることになります。ただでさえ脆い弓削の立場を少しずつ削り取っていくんですよ。これが3 つ目の理由です」
白川さんの身体は病魔にむしばまれているのかもしれないが、その知性と大胆な行動力は、いまだに健在だ。顔色は悪いのに、目だけは生命力に溢れて輝いている。うちのサクラちゃんが「殉教者の目」と表現した瞳だ。
「ただ、こんな仕組みは」フッと唇の端に笑みを浮かべて白川さんは続けた。「東海林さんあたりが本気になって調べれば、すぐにコンテナとコーディネータ設定を特定して削除してしまえると思います。今は何かの不具合、で済んでいても、2 回目の再生が話題になれば、さすがに今枝も調査を命じるはずですから」
「でしょうね」
「川嶋さんに会いたかったのは、東海林さんに私の意図をそれとなく伝えておいていただきたい、と思ったからです。削除するかどうかは、東海林さんにお任せしますが」
「わかりました」私は頷いて約束した。「今日中に伝えます。でも、それなら、東海林さんに直接連絡を取ることだってできたんじゃないですか」
私がそう言うと、白川さんは細い人差し指を立てて、左右に動かした。
「東海林さんは私に会いたくないんじゃないかと思いますよ」
「え、どうしてですか」私は驚いて白川さんを見つめた。「東海林さんだって、Q-LIC を好いてない点では、白川さんに負けないと思うんですけど。事実、白川さんに協力的だったじゃないですか」
「東海林さんは、ある意味で、くぬぎ市再生プロジェクトに参加した誰よりも利己的な人ですよ。純粋に技術者ですから、自分の仕事を邪魔する存在に我慢ができないんですね。Q-LIC の工作員を排除するのに手を貸してくれたのは、別にQ-LIC を憎んでいたからではなく、自分の仕事の完遂を妨げる者を嫌ったからです。その点で、たまたま私と利害が一致したに過ぎないんです」
「......」
「別に非難しているんじゃないですよ」白川さんは笑った。「むしろプロフェッショナルとして尊敬に値する方です。でも、私がやったことは、一歩間違えれば、3 月26 日のセレモニーを中止に追い込んでいた可能性だってあったわけです。もちろん私なりにテストは充分にやったんですが、そんなこと東海林さんにはわかりませんものね。東海林さんにしてみれば、自分や川嶋さん、その他の大勢のプログラマたちが1 年以上携わってきた仕事を、ただの私怨で台無しにしたんですよ。理解はしてくれるかもしれませんが、許そうとは思わないでしょう」
私は笑ったが、白川さんに同意せざるを得なかった。私より付き合いが短い白川さんが、かくも正確に東海林さんの人となりを把握しているのが、少し悔しくもあった。
「ところで」白川さんは目をきらめかせた。「草場さんのプロポーズを断ったそうですね」
「う」頬が熱くなった。「何でもご存じなんですね」
「どうして断ったんですか。草場さんは素敵な方だと思うんですが」
「自分一人の感情で、家族を混乱させるわけにはいきませんから」
「お子さんのことですか」
「まあ。母親もいますし。草場さんに付いていけば、私は仕事を辞めることになります。プログラマの仕事を転勤した先で見つけられるとは思えません。かといって、単身で行かせるのも躊躇われます。子供にとっては、新しい父親ができたのにいつも家にいない、ということになりますから。そんな思いをさせるわけにはいきません」
「草場さんを嫌いになったわけではないんでしょう?」
「そりゃあ、まあね」私は苦笑した。「もちろん、家族も仕事も全て捨てて、草場さんに付いていくという選択肢もありますけどね。私はそういうキャラじゃないんで」
「もちろん川嶋さんはそういうキャラじゃないですよ」白川さんは優しく微笑んだ。「いつか状況が変わるといいですね。エースシステムは、わりと異動が多いので、順調に実績を積んでいけば、いずれ本社勤務になると思いますよ」
「そうなんですか?」
「もっとも」白川さんは悪戯っぽく私を見た。「草場さんが、別の女性を見つける可能性も充分にありますけどね。エースシステムは女性社員も多いし、草場さんはいい人ですからね」
「......」
「冗談ですよ。いつか本社勤務になって、また会えるようになりますよ」
「できれば私があまり歳を取らないうちに、そうなってもらいたいものです」
白川さんはまたクスクス笑うと、ポケットからサングラスを出した。
「さて、お話しできて嬉しかったです」白川さんはゆっくり椅子を引いた。「そろそろ失礼します」
「え、もうですか」
「申しわけないんですが、身体が動くうちにやっておきたいことが、たくさんあるんですよ」
「Q-LIC 絡みですか?」
「もちろんです。ああ、予想されているかもしれませんが、Q-LIC 図書館の話が相次いで潰れているのは、私の仕業です」
「推進派に不利な資料が出ているというのは......」
「それも私です。今の世の中、75% ぐらいの問題はお金で何とかなりますから。私は意外に金持ちなんですよ。今、それを働きアリのようにせっせと消費しているところです。姪が一生、困らないぐらいのお金は信託してありますしね」
白川さんは立ち上がったが、身体がぐらりとよろめいた。とっさに立ち上がった私は、白川さんの右腕を掴んだ。白川さんはすぐにバランスを取り戻したが、私はその腕の細さに衝撃を受けていた。明らかに肉より骨の割合が多い。
「ありがとうございます」白川さんの声は明瞭だった。「もう大丈夫です」
「一緒に出ましょう」私はレシートを掴んだ。「私の腕につかまってください」
「じゃ、お言葉に甘えます」
白川さんは、私の左腕に手を添えて一緒に歩き出した。足取りは意外としっかりしていたが、私は慎重にゆっくり歩くことを心がけた。レジで足を止め、スマートフォンのLINE Pay で二人分の支払を済ませる。この店の充実したICT サポートに感謝したいところだ。
「どうやってここまで来たんですか?」店を出たとき私は訊いた。「まさか自分で運転してきたわけではないですよね」
「車です」白川さんはサングラスをかけた。「私の運転ではないですが。申しわけないですが、駐車場までご一緒していただけますか」
ジリジリと照りつける太陽光線の中、私たちはゆっくりと駐車場まで歩いた。
「今さらですが」私は言った。「治療を継続しながら、白川さんの使命を並行するわけにはいかなかったんですか」
「今、病院に戻ったら」白川さんは淡々と答えた。「私はベッドから起き上がることを許されないまま最後を迎えることになるはずです。多少の延命はできるでしょうが、それは私が望む生ではないんですよ」
「私は、白川さんに少しでも長く生きていてもらいたいんです」
「気持ちは嬉しいんですが、時計の針を戻すことはできません。今となっては、残った時間で、やれることをやるだけです」
「でも......」
白川さんは小さくかぶりを振った。
「私が好きだったマンガに、こんなセリフがあります。"あいつは憎んで覇者となるよりも、愛して滅びる道を選んだんです。その命がけの選択を認めてやってはもらえませんか"」
「......」
「その気なら、私はレナと......姪と一緒に最後の時間を過ごすこともできました。でも、それは私のエゴでしかありませんよね。私は、レナの人生を破壊し、婚約者の死の原因となった亡者たちをこの世界から削除することで......少なくともその力を大幅に減じることで、レナがこれから生きていく世界を、少しでもマシな場所にしてやろうと決めたんです。幸か不幸か、私はシステム屋でしたから、武器として使えるのがICT だったんですけどね。もし物理的な暴力しか使える手段がなければ、躊躇うことなく、使っていたと思いますよ」
「......」
「そんな顔をしないでください」マリア様のように優しく微笑んだ白川さんは、手に少しだけ力をこめた。「そうは思えないかもしれませんが、私にとってはこれが、たったひとつの冴えたやりかただったんです。私は自分の生が充実感の中で終わることを確信しています」
私は涙をこらえて歩いた。地獄のように暑いのに、腕に触れている白川さんの掌からは、熱がほとんど伝わってこない。白川さんに秘められていた無限のエネルギーが底を突いていて、リザーブタンクで動いているようだ。白川さんの病名は知らないが、すでにその余命は日で数える方が早いのかもしれない。
駐車場に入ると、すぐ近くに停まっていた白いバンの運転席のドアが開いた。降りてきたのは、よく知っている顔の男性だった。
「瀬端さん......」
「どうも川嶋さん」瀬端さんは急いでバンのスライドドアを開けながら、私に小さく頷いた。「すいませんが、白川さんをこっちへお願いします」
私たちがバンの近くに到達すると、瀬端さんは私から白川さんを受け取り、ほとんど抱きかかえるようにして後部座席に乗せた。シートベルトでしっかり固定すると、スライドドアを閉め、私に一礼してから、運転席の方へ走っていった。
私はバンに歩み寄った。スモークの入った後部座席のパワーウィンドウがするすると降り、白川さんが顔を出した。
「さようなら、川嶋さん」白川さんは微笑んだ。「一緒にお仕事できて楽しかったですよ。もうお会いすることもないでしょう。お元気で、いいシステムをたくさん作ってくださいね」
答える間もなくパワーウィンドウが上昇し、私の視界から白川さんの顔を遮る。私は一歩下がった。クラクションを短く鳴らし、バンはゆっくり発進した。言葉もなく見送る中、バンは出口で一時停止した後、すぐに県道に出て走り去り、私の視界から永遠に消えていった。
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。
コメント
通りすがり
草場さんでなく白川さんだったか...
tired-bell
シャツワンピースから除く→覗く
東海林さんだけじゃなくキレるプログラマは多いけどな。死に逃げイクナイ。
she
白川さんも退場ですかね。
新美さんもそろそろでてくるかな。
aoi
次回は「西の魔女が死んだ」ですかね
潰れた会社の人たちもかわいそうに
へなちょこ
ヒストリエの新刊はとても良いものだ。めったに出ないけど。
匿名
白川さんは白血病、あるいはそれに類する血液疾患だな。つらいね。
匿名
漫画は Banana Fish ですね
foobar
病状に気付いたときにはもう手遅れ、白川の頭に被ったニット帽、などから考えると、白川の病気の正体は膵臓がんあたりかな。
膵臓がんは、スティーブ・ジョブズの死因にもなったということで、この界隈でも名前が知られてるだろうし。
匿名
うちの父が膵臓癌でしたが、最後までフサフサでしたぜ。
個体差かしら。
SQL
死んでしまうのか。
東海林さんと白川さんと言えば、
Cassandraに手を加えさせなかった件がいまだ未回収のような。
育野
同じような発想のものをどこかで見たような,と考えててイースターエッグ(ソフトウェア)を思い出した.
# 最初に某技術系(?)雑談サイトの誤字脱字の件が浮かんだのは内緒
システムに対する学習意欲を新入りに持たせるのと事件のリマインダーを兼ねるという発想が合理的過ぎる.
これ他の分野でも応用できないかなぁ.
# 今回はチャプタータイトルでもう泣ける.
# そしてヒストリエ・バナナフィッシュと,作者さんと趣味が似てるっぽいのが自分的にちょっと誇らしい.
MUUR
サブタイトルを見て、ああ、死んでしまうのね白川さん…と思いながら読みました。
タイトルも白川さんに残された刻、という意味も込められているのでしょうか。
婚約者の死の原因となった亡者
「亡者」単体で、金の亡者、という意味合いになるのかしらとちょっと思いました。
匿名
たぶんあのニット帽の下にはケースに収まった脳が浮かんでるんですよ……
リーベルG
tired-bellさん、ありがとうございました。
MUUR さん、どうも。
「亡者」は、「金の亡者」や「権力の亡者」などをひっくるめて、「てめえら人間じゃねえ」という意味で「亡者」としています。
MUUR
>作者様
色々ひっくるめて亡者なんですね。
ありがとうございます、スッキリ納得です。
私の次の投稿の匿名さん>
ニット帽の下にはケースに収まった脳…事情ってそれかい!笑ってしまった
匿名D
>Cassandraに手を加えさせなかった件がいまだ未回収のような。
東海林さんをシステムから遠ざけておくためでしょう。
近くをウロウロされて、仕込みに気が付かれては面倒くさい。
ViloconyとCassandraの関係の度合いにもよりますが。
川島さんから東海林さんに伝言が伝わったところで、
「だったら、俺にそんな話を持ってくるな」で片付きそう。
ハンス
>Cassandraに手を加えさせなかった件がいまだ未回収のような。
婚約者だった若宮さんが作ったライブラリーだから、手を入れるのがしのびなかったのかもね。
やわなエンジニア
白川さんご無事で何より、と言える状況なのかわかりませんが、帽子をかぶっているということはきっと抗がん剤の副作用で髪の毛が……ということですよね(他の方も挙げている、白血病とかガンとか)。
とはいっても、手の施しようのない白血病とか末期ガンとかだとしても、現代ならQOLとか緩和医療とかホスピスとか考慮してくれるんじゃないかと思うんですが……いや、Q-LICへの復讐を行っている自分の居場所が特定されるのはまずい、と考えて白川さんは病院を抜け出して、どこかの隠れ家で作業してるのかな。
あのザキヤマ
ユウト君が授業でなくていい理由ってもう出てた?
foobar
やわなエンジニア氏
仮にホスピスが白川の QOL を考慮してくれるとしても、さすがに白川が死の間際に復讐劇を繰り出そうとすることを知ったら、見過ごす訳にはいかないのでは。
患者が自身の最期を復讐劇の遂行で飾りたいという希望を持ったとしても、それをかなえさせてやるのはホスピスの職員の職業倫理的にも受け入れがたいだろうし。最悪の場合、死の間際に、白川が言い逃れのできないような犯罪行為に出て、ホスピスの職員はそれを止めなかった責任を追及される羽目になる、ってシナリオだって考えられる。
そういった意味でも、白川にはホスピスで緩和医療を受けるって選択肢は無かったのでは。
たらればの話だが、仮にレナと共に残された時間を過ごしたいとか、レナや若宮の権利を回復するための弁護団を結成し訴訟を提起したい、とかが希望であったなら、ホスピスの職員からも協力は取り付けられたかもしれないけど。
kawa47
あのザキヤマさん>
いじめで保健室登校だったはずです
あのザキヤマ
>いじめで保健室登校だったはずです
第12話にそう書いてありました。
kawa47さんありがとう、すっきりしました。
Buzzsaw
「いつか本社勤務になって、また会えるようになりますよ」
白川さんはあまりこういった楽観的な希望的観測を言わないキャラだと思ってたので、
その分今回が本当に「最後」なんだなぁ、と思いました。辛いなぁ。
ハンバーガー屋の時点で時が止まってたらなぁ。
宇宙大帝
さすがに次回で最終回かな。
お疲れさまでした。
とても楽しかったです。