ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (45) 機械の中の幽霊

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 白川さんが病院からいなくなった、と聞いたのは、7 月第一週のことだった。
 できることならお見舞いに行きたかったのだが、病院の名前を知っていた今枝さんと一戸さんは、決して私たちに教えてくれようとはしなかった。悪意があったわけではなく、白川さんがそう望んだのだろう。そもそも、その二人にしても、それほど多くの情報を持っているわけではなかった。ICU を出たのが4 月の第一週。それからずっとクリーンルームで苦痛を伴う治療に耐えてきて、ようやく一般病室に移ったのが6 月の終わりだった。以後は何の知らせも入ってこなかったので、きっと順調に治療を続けていて、そのうち私たちに会う気になってくれるかもしれない、と思っていたのだが。実際には、クリーンルームを出られた次の日に、誰にも何も言わずに病院から消えてしまったそうだ。同日、治療費、入院費などが病院に振り込まれた。後日、病院側が計算した金額を超えていたが、返還しようにも口座はすでに閉じられていた。
 「さすがの高杉さんも諦めて」その知らせをもたらした黒野は苦笑した。「保留状態だった辞表を受理したそうだ」
 「どこに行ったのかしらね」私は嘆息した。「あんな身体で。まだ、完治したわけでもないのに」
 「身体のことより他にやるべきことがあったんだろうな」東海林さんが言った。「寝てなんかいられますか、とか言いそうじゃないか」
 「やるべきことって何ですか」細川くんが訊いた。
 「そりゃ、Q-LIC 関係のことだろうさ。最近のあれなんか、ひょっとしたら白川さんが何かしたのかもしれんぞ」
 <Q-FACE>についてのQ-LIC への批判は、3 ヵ月以上経過した今でもネットの一角を賑わせ続けている。マーケティングモデル形成目的で、同意を得ないまま個人の情報や行動を収集していた、という疑惑について、Q-LIC が公に認めることはなかったが、一方で明確に否定することもなかった。首をすくめておとなしくしていれば、そのうち嵐が過ぎ去る、とたかをくくっていたのかもしれないが、この問題に関心を持つネットユーザは「ノーコメントはイエスと同義」と捉えている。前市長のときは、くぬぎ市問題クラスタが誕生したが、今回はQ-LIC 問題クラスタが自然発生した。どういうわけか、Q-LIC はこの件に関しては、疑惑を発信するサイトやSNS に対してDMCA で削除要求を出すことさえしなかったので、クラスタは日々拡大を続け、毎日のように過去の事例や疑惑、新たな問題点を論じるブログや、まとめサイトが乱立した。
 それでもまだ、Q-LIC は意に介していない、というポーズを取り続けている。強気の理由は、Q-LIC 問題クラスタの活動が、ほとんどネットの中だけに留まっていたためでもあるだろう。Q-LIC が何らかの根回しをしたのか、広告収入を鑑みて忖度したのか、そもそもニュースバリューがないと判断されたのか、在京キー局や週刊誌などがこの問題を大きく報じることはなかった。セレモニーでの弓削さんの狂乱は報じられたが、あくまでもQ-LIC に勤務する一社員の失態という扱いでしかなかった。私もくぬぎ市も、被害届を出さなかったこともあって弓削さんは起訴を免れたが、内定していたQ-LIC 本社での本部長職に就くことはかなわなかった。黒野が仕入れてきたウワサによると、降格の上、東北地方の配送センターに異動となったそうだ。今後、地方創生ビジネスに関与することはないだろう。
 Q-LIC としては、弓削さんの処分によって、この件の終息をアピールしたかったのかもしれないが、その見通しは甘かった。白川ビデオ――開発センターのプログラマの間では、例のイマージョンコンテンツのことをこう呼んでいるーーの打撃は、ボディーブローのように、ゆっくりと、だが確実に効果を現しつつあったのだ。
 5 月中旬、Q-LIC が指定管理者に決定していた、愛知県新城市の市立中央図書館のオープンが白紙撤回となった。有権者の半数近くの署名が集まり、推進の旗を振っていた市長がリコールされたからだ。ほどなく告示された市長選には3 人の候補者が立ったが、元の図書館計画の推進を公約に掲げたのは一人もいなかった。結果的に最も若い候補者が当選し、市立中央図書館のオープンは、Q-LIC との契約に反しない形で無期延期となった。後日、Q-LIC は新城市との契約を解除したことを公表する。周辺情報を注意深く追った人がいれば、図書館に先行して駅前商店街に導入されていた<Q-FACEJ2>が、試験運用を終了して撤去、という事実に気付いていたかもしれない。
 その動きに追随するように、他の自治体で進められていたQ-LIC 図書館計画は、次々に頓挫していった。詳しい事情を知らないある政治評論家は、Twitter で一連の動きに触れ、「民意が正しく地方自治体に届いた好例」と評した。
 だが、Twitter で知らない間に拡散している話によると、それらの自治体がQ-LIC と縁を切ることを決断するに至った背景には、関係者に届けられた膨大な資料があるそうだ。その資料には、Q-LIC が各自治体の首長と交わしたメールや文書ファイル、市議会の承認を得ていない不透明な金の動き、業者との癒着の証拠などが含まれていて、Q-LIC が反論する余地を残していなかったという。また、別のウワサでは、ある個人、またはグループがQ-LIC の地方創生ビジネスを壊滅させるべく、私財を投じて暗躍していることに言及していた。
 どこにも個人名は出ていなかったが、東海林さんは、それが白川さんではないのか、と指摘しているのだろう。確かに、残りの人生をQ-LIC との戦いに費やす、という意味の発言を残してはいたが、さすがにそこまでできるかな、という気がする。白川さんは全体最適化の魔女であっても、ハッカーでもクラッカーでもない。ウワサが囁いているようなデータを入手しようと思ったら、それこそ犯罪行為になるだろう。余命宣告を受けている白川さんが今さら刑法など気にするはずもないが、つまらない容疑で逮捕され、収監されるような事態は望んでいないだろう。
 どうでしょうね、と答えた私が、真相を知ったのは、後日、白川さんと再会したときだった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 一時は100 人以上だった開発センターの人数は、5 月を境に半分以下になっていた。
 カットオーバー直後は誰もが予想したとおり、トラブル報告や機能修正依頼が殺到して、今枝さんがパニックになった。本番稼働中のシステムのトラブル対応は、即時性を要求されることが多いから、私たちはまた2 階に寝泊まりする日々が復活するのか、とうんざりした顔を見合わせた。だが、200 個以上あった対応チケットは、1 週間ほどで急激にその数を減らしていった。トラブルのほとんどは単なるオペレーションミスだったし、機能修正依頼も半分以上はVilocony の設定変更で対応可能だったためだ。残りの機能追加についても、白川さんがあらかじめ必要と思われるコンテナを準備しておいてくれたため、新しく実装が必要になったのは少数に留まった。当初、上がってきたチケットの数を聞いた高杉さんは、プロジェクトに参加している全ベンダーに対して、4 月中は土日祝日を含めて、全プログラマ出勤体勢を求めたが、実際には大部分の時間が手持ち無沙汰になる状態だった。やがて、その状態が維持されそうな見込みが立つと、今度は一転して、常駐プログラマの数を減らしにかかった。エースシステムは金を惜しむような企業ではないが、余剰人員をいつまでも遊ばせておくほどの寛容さは持ち合わせていない。夜の女王、高杉上級SE ならなおさらだ。
 うちの会社も、くぬぎ市案件からは少しずつ距離を置くことになった。細川くんは5 月からは別の業務にアサインされ、すでにくぬぎ市案件からは外れている。今度の仕事はK自動車の子会社での常駐だが、それほど大規模開発ではなく、納期も厳しくはないので、くぬぎ市案件のように毎日の帰宅時間が日付をまたぐ、ということはないようだ。もしかすると社長が、細川くんの家庭の危機を回避すべく考慮したのかもしれない。
 東海林さんも同様に別案件に呼ばれていたが、エースシステムとくぬぎ市からの強い要望により、年内まではくぬぎ市案件に携わることになった。エースシステムとしては、メンテナンスを請け負うベンダーへのスキルトランスファーが完了するまでは、東海林さんに残っていてほしいわけだ。黒野からの懇願もあって、東海林さんは了承した。ただし、フルタイムではなく、月、水、金の3 日間だけだ。
 東海林さんほど単価が高くない私については、これまで通り月曜日から金曜日でどうかと打診があったが、いろいろ考えた末、東海林さんに合わせて週に3 日とした。現在の主な業務内容は、新規メンバーのトレーナーだ。遠からず予定されている二次開発には、リーダークラス待遇での参加を要請されているが、今のところ回答は保留している。この開発センターでの仕事は興味深いものではあったが、今の私にとっては、足を運ぶのが嬉しい場所ではなくなっていた。それに現実的な問題として、車と運転技術の両方を持っていない私は、くぬぎ市まで通勤するのが一苦労だ。小型車を新車で購入するぐらいの余裕はあるが、なにしろペーパードライバー歴が長い身だ。もう一度、教習所で学び直さなければ恐ろしくて運転などできない。
 白川さん失踪の報を聞いた数日後の火曜日、私は東海林さんの車でくぬぎ市に向かっていた。7 月に入ったばかりだというのに、ここ数日は35 度に迫ろうかという猛暑が続いていて、キューブの中は寒いぐらいにエアコンが効いている。私たちの話題も、この暑さのことばかりだったが、ふと東海林さんが思い出したように言った。
 「そういえば、新しく入ったベンダーのプログラマの間で、妙なゲームが流行ってる。知ってるか」
 「スマホゲームですか?」
 「スマホは持ち込めないだろう。白川ビデオを探せ、ってやつだ」
 「ああ、あれね」
 白川さんが作ったイマージョンコンテンツは、production 環境が復旧した際、正規の歴史学習用コンテンツに上書きされ、今は閲覧不可だ。セレモニーの日に、インフルエンサーたちが持ち帰った簡易バージョンならば、今でもネットで見ることができるが、やはりオリジナルに比べれば迫力と没入感で遠く及ばない。オリジナルを見た少数の人たちは、誰もが口を揃えて、その衝撃的な内容はもちろん、コンテンツそのものの素晴らしさにも言及している。そう聞かされれば、VR ゴーグルを使ってオリジナルを体験したい、と好奇心に駆られるのは当然だ。
 東海林さんは、当初の目的を果たしたコンテンツを残しておく理由はなく、production 環境の復旧と同時に削除された、と考えている。私や、当時から残っているプログラマたちも同意見だったが、新しく開発センターにやってきたプログラマの間では、リンクが消滅しているだけで、コンテンツそのものはCassandra の膨大な空間の中に残っているのではないか、という都市伝説じみた話が流布していた。そのコンテンツを発見するのがゲームのようになっているのだ。
 「コンテンツが残っているとしても」私は窓の外の暴力的な太陽光を見ながら言った。「映像ファイルそのものが残っているはずがない、ってことぐらいわかってるんですよね」
 イマージョンコンテンツは単なる映像ファイルではなく、それ自体がコンテナだ。素材となるテクスチャー、映像、音声データをリアルタイムで収集し、結合することでインタラクティブな仮想空間を作り出す。コンテナはVilocony のコーディネータによって動作するから、当然、Vilocony の設定が必要だ。逆に言えば、コンテンツを視聴不可にするには、コンテンツそのものを削除しなくても、設定を削除するだけでいい。
 「Vilocony とCassandra の構成は教えてあるから、わかってるはずだ。あいつらがやってるのは、イマージョンコンテンツを再生するコンテナの探索だよ。SVN のどこかのブランチかタグに残ってるんじゃないかってな。ブランチを適当に選んでチェックアウトしては内容を調べてるようだな」
 「まるで、あたしたちが3 月26 日にやったみたい」あの夜の作業がフラッシュバックし、私は頭を軽く振って、その記憶を追い払った。「そのウワサの発端は誰なんでしょう。誰かが言い出したんですよね」
 「そこがちょっと奇妙なんだよ」東海林さんは眉をしかめた。「何人かに聞いてみたんだが、テスト中に白川ビデオが何秒間か再生されたのを見たと言うんだな、これが。もちろんVR ゴーグルを使う機能だ」
 「まさか」私は思わず笑った。「素材そのものは分散して残ってるかもしれないから、そのどれかを、たまたま見ただけですよ、それ」
 「俺もそう思ったんだがな。詳しく確認すると、そういう断片的な素材じゃなくて、1、2 秒ぐらいだが、音声付きの映像だったそうだ。一人や二人じゃないし、見た映像はそれぞれ違っている」
 「開発環境ですよね」私は確認した。「production 環境ではなくて」
 「新メンバーはまだトレーニング中みたいなもんだからな。開発環境だ。妙だろ。白川さんが例のコンテンツを開発環境に配置する理由は、たとえテスト目的であっても皆無だ。白川さんは好きなだけproduction 環境を使えたんだから」
 「どのコンテンツの映像だったんですか?」
 「一番多かったのは、若宮さんのコンテンツらしいな。沢渡レナのも、弓削のも見たそうだが。再現方法は不明だ」
 「ふーん」私は首を傾げた。「見逃してるバグでしょうかね」
 東海林さんは不満そうに頷いた。
 「かもな。俺たちは......俺たちというのは、エースの人間も含めてなんだが、まだKNGSSS とKNGLBS の全設定を把握しきれていないからな。何しろ膨大な量だ。どこに何か残っていても不思議じゃない」
 「東海林さんでもわからないんですか」
 私はそうからかったが、東海林さんは悔しそうな顔で頷いた。
 「確かに白川さんは、Vilocony の設定シートやマニュアルを残してくれたが、それが全てを網羅している保証はないからな。現にこれまで設定シートに載ってないコーディネータの設定がいくつか発見されてる。テストやダミーではなく、production 環境のKNGSSS やKNGLBS で動作している設定だ。わざとなのか、うっかりしたのか知らんが。まあ、うっかりってのは、ちょっと白川さんのイメージじゃないか」
 「高杉さんによれば、白川さんがうっかりするなど、この世で一番あり得ないことの一つ、だそうですからね」
 「もっと不思議なのはな」東海林さんは赤信号で停車しながら言った。「それを見ているのが、4 月から開発センターに入ってきたプログラマばかりだってことだ。ランダムに出現するなら、俺たちの誰かが見てもよさそうなもんじゃないか」
 私は現時点での参加ベンダーとプログラマの人数を思い浮かべた。カットオーバー以前から継続して参加しているのは、8 ベンダー31 人。カットオーバー以後に新しく参加したのは、6 ベンダー22 人だ。確率の法則から言っても、古参メンバーの誰かが見ていてもおかしくない。
 「何かのコンテナが、アカウントの有効期限あたりをチェックして、4.1 以降に作成されたアカウントだけ見るようになっているのかもしれませんね。それがコーディネータ設定の不具合で、イマージョンコンテンツ再生に反映されているとか」
 「理屈としてはあり得るが、現実的にはちょっと考えづらいな」信号が変わり、キューブはゆっくり発進した。「アカウント情報の有効期限を参照しているコンテナは、ごく一部だからな」
 私は頷いた。アカウント情報には有効期限があるが、それを参照しているのはログイン時だけだ。ログイン後のコンテナでは、ログインが完了している以上、有効なアカウントだという前提で処理される。
 「有効期限をチェックしているとしたら、誰かが意図的に仕込んだってことですね」
 「誰かがな」東海林さんは横目で私の表情を確認した。「もちろん、全く別の何か、たとえば、俺たちの誰も把握していないコンテナとコーディネータが隠れていて、特定の条件で発動しているという可能性もゼロではないんだが」
 「本当に見間違えじゃないとすると、確かにちょっと変ですね。まるで......」
 「誰かの意志が、Cassandra のどこかに残留しているみたいだな」東海林さんはニヤリと笑った「お前もそう思うだろ。残留思念か。SF だな」
 誰か、というのが白川さんであることは言うまでもない。
 「それじゃまるで白川さんがお亡くなりになってるみたいじゃないですか」
 「あの人なら、それぐらいのことやっても不思議じゃない、ってことだよ。理由は全くわからんがな」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 開発センターに入った私は、エアコンの涼しさにホッとした後、最終リリース版のフィードバックテスト、という理由でVR ゴーグルを保管キャビネットから出し、テスト用タブレットに接続した。もちろん、オリジナル白川ビデオの存在を確認するためだ。自分のアカウントでは再現しないかもしれないので、新規メンバーの一人で、来週から参加予定の人のアカウントでログインした。
 一通り、イマージョンコンテンツを眺めてみたが、通常の歴史学習用のコンテンツが再生されただけだ。現在はコンテンツ数が日本史用、世界史用が4 種類ずつ、地理用が8 種類に増えている。何度見ても、つい引き込まれてしまう映像と音声だが、あくまでも中学生の学習用の域を出ていない。
 ため息をついてゴーグルを外したとき、チハルさんがタブレットを手に歩いて来た。キョウコさんとユミさんは、4 月末でプロジェクトから離脱していたが、チハルさんは私と同じくトレーナーとして残留している。
 「来た早々、何やってるんですか」
 「うん、ちょっと気になることがあってね」私は笑いかけた。「どうしたの?」
 「午後のトレーニングなんですけど、私、ちょっと昼から会社の方に行かないといけなくなってしまって。急で恐縮なんですけど変わってもらえますか」
 「うん、いいよ。あ、じゃランチも?」
 「そうなんです」チハルさんは申しわけなさそうに頷いた。「新しくできたカフェ、楽しみにしてたんですけどね」
 先月、市役所のすぐ近くに、新しいカフェレストランがオープンしていて、開発センター内とブレイクルームに、ランチ割引券付きのチラシが置かれている。有機野菜を使ったランチがおいしい、という評判だったのでチハルさんと一緒に行く約束をしていた。
 「じゃ、また今度かな」
 「でも割引券の有効期限、今日までですよ」チハルさんはチラシの方を見た。「川嶋さんだけでも行ってきてくださいよ。ま、お一人で寂しいかもしれないけど」
 「別に寂しくはないよ。一人は慣れてるし」
 「無理しなくていいんですよ。あれから全然?」
 私は無言で小さく頷いた。TSD が5 月末でプロジェクトから外れて以来、草場さんと会う機会がない。チハルさんが心配してくれているのはそのことだ。草場さんにプロポーズされ、それを断ったことまでは話していないが、何となく察しているのだろう。
 「わかった」私はその話題を終わらせたくて言った。「じゃ、お言葉に甘えて、あたしだけで行ってくるから。インスタにランチの写真上げておくよ」
 「よろしくです。トレーニングの予定内容は、共有にありますから」
 「了解。あ、ねえ、白川ビデオのウワサ、知ってる?」
 チハルさんは頷いた。同年代の新規メンバーと飲みに行ったりもしているようだから、もちろん耳には入っているだろう。
 「どう思う?」
 「実は私もちょっと探してみたんですけどね」チハルさんは私の隣に座ると囁いた。「いろいろパターン変えても再現しなかったんです」
 「やっぱりそうか」
 「聞いてみたら、一人一回しか見てないみたいなんですよ。だから未使用のアカウントでやってみたんですけどね」
 考えることは同じか。私は苦笑した。
 「何かを勘違いしたんだと思う?」
 「一人や二人なら、それもありだと思うんですけどね」チハルさんは可愛らしく首を傾げた。「ま、もう少しコーディネータ設定の分析が進んで、完全な設定マップができれば、いずれ謎が解けるんじゃないですか」
 「ということは、やっぱり白川さんが仕込んだんだと思ってるのね」
 「他にいないじゃないですか」チハルさんは笑った。「じゃ、カフェの画像と、トレーニング、よろしくお願いしますね」
 どっちの理由を重視していたのかわからない言葉を残して、チハルさんは自分の席に戻っていった。私はゴーグルを返却しようとスロットからスマートフォンを外しかけたが、ふと気になって手を止めた。
 一人一回しか見ていない......
 アカウントの有効期限......
 私はタブレットを引き寄せログアウトした後、もう一度同じアカウントでログインした。ただし、今度は正規のログイン手順だ。これまではトレーナー権限で、代理ログインをしていたためだ。
 新規メンバーのアカウントが正しく権限設定されているかのチェックは、トレーナーの業務だから、私たちは頻繁に他のアカウントでログインしている。本来、アカウント名と初期パスワードは同じに設定されていて、初回のログイン時にユーザがルールに則した任意の文字列に変更しなければ先に進めない。トレーナーの代理ログインは、そのパスワード変更画面をパスしてログイン状態を擬似的に生成する機能だ。パスワード初期化はトレーナー権限ではできないため、私たちはアカウントを初期状態で維持しておくために、代理ログイン機能を使うことが多い。だが、もし、白川ビデオ再生が出現する条件が、パスワード変更設定完了後であるとしたら......
 正規の手順でパスワードを変更し、プロファイル設定を行う。氏名や会社名は適当に入力し、顔写真をインカメラで撮影すると、正式なアカウント登録完了のメッセージが表示された。アカウントはサブリーダー以上が管理しているので、後で今枝さんか、一戸さんに初期化してもらう必要がある。私は忘れないようにアカウント名をメモしてから、ゴーグルを装着すると、イマージョンコンテンツのメニューに進んだ。
 「富士川の戦い」を選んで再生する。何度も見た富士川の川岸に源氏と平家の兵が展開している映像が、IMAX 映画のように視界いっぱいに広がった。背景を説明する表情豊かなナレーションは、アニメ界では有名な声優によるものだ、と、以前、細川くんが教えてくれたことを思い出す。ナレーションに合わせて視点が上空からの俯瞰に変化し、戦場全体がゆるゆると動き出した。毎回、天気や兵の動きがランダムに変化するので、何度見ても飽きることがない。
 つい見入っていると、不意に画面が暗転し、続いて全く別の映像に切り替わった。どこかのオフィスでスーツ姿の数人が話している。すぐにわかった。若宮さんが弓削さんに何か叫んでいるシーンだ。
 スクリーンショットを取ろうとタブレットに手を伸ばしたが、そのときすでに映像は再び暗転し、12 世紀の富士川の映像に戻っていた。私は再生を停止し、先頭から再生してみたが、再び白川ビデオが出現することはなかった。他のコンテンツを試してみたが、やはり同じだ。
 それでも、先ほどの数秒間の映像は鮮烈に脳裏に焼き付いている。私はVilocony 全体に白川さんが憑依しているイメージを想起し、思わず身震いした。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(27)

コメント

朝の通りすがり

プロポーズ断っちゃったんですね。。。
川嶋さん応援していたんですが(>_

匿名

やはりこういう展開が来たか。
白川はあんな事くらいで素直にくたばるはずはないと思っていた。

kzht

白川さんの登場は来週かな?

賑わし続けている。→賑わせ続けている。
あくまでのQ-LIC に勤務する→あくまでQ-LICに勤務する
kNGLBS →KNGLBS

SQL

白川さんのことだから、きっとわざとやっているんだろう。
しかしこれをやる意味はなんなんだろう。
開発環境のVilocony に見つけてほしい何かがあるとかかな。

匿名

サブタイトルの出典はX-ファイルかな?

使い魔

いよいよ魔女として本領発揮ですね

匿名

どんな答えでも、という事だしまだ可能性は閉ざされてないんじゃないかな。
お互い諸事情ある身だし、常に生活の場を一緒にすることは必須条件ではない。

しかし、いわくつきのシステムで開発環境にこんな仕込みがあるなら本番にもないとはいえないと検収不可判断されそうなもんだけど、そのあたりは政治的決着、てやつなのかなあ。

通りすがり

そしてランチで草野さんと遭遇

通りすがり

そしてランチで草野さんと遭遇
間違えた草場さん

匿名

自体>>>事態

noon

対Q-LIC戦線には、白川さん、瀬端さんだけじゃなく鳩貝さんも暗躍してそう

匿名

「誰かの意志が、Cassandra のどこかに残留しているみたいんだな」

「誰かの意志が、Cassandra のどこかに残留しているみたいだな」
でしょうか?

対Q-LIC戦線は、私も鳩貝さんぽいなぁと。
草場さんの妨害行為隠滅がすんなりいった謎もまだ未解明ですし(・ω・)


通りすがりのエンジニア

公示→告示 ですね。
「公示」は、「衆議院総選挙」「参議院通常選挙」のみに使われ、その他は全て「告示」だった筈です。

匿名

白川さんの仕組んだことなのは確定として、開発メンバーに白川ビデオをチラ見せする意図がわからん…
それともビデオはただの人参で、フルバージョンを見ようと躍起になってKNGSSSの仕様を学習するよう仕向けるのが目的だったり?

匿名 

やはり白川さんが電子の妖精に……!

リーベルG

kzhtさん、匿名さん、通りすがりのエンジニアさん、ありがとうございました。

匿名

チャット機能がキーになりそうな予感

ap

the ghost in the machine はデカルト的な古典的SF表現な。in the Shell が有名になりすぎたけど。

foobar

ううん、少し前から気にはなっていたが、どうしても引っかかるな。

> 余命宣告を受けている白川さんが今さら刑法など気にするはずもないが、つまらない容疑で逮捕され、収監されるような事態は望んでいないだろう。

俺も以前は白川を「無敵の人」と言ったものの、白川は本当に「刑法など気にするはずもない」ような「無敵の人」なんだろうか。それにしては、今までの白川のやり方は、妙に優しいというか、ぬるいところがあるような気がする。たとえば弓削の処遇とか。

白川にとっては、弓削は姪の青春を奪い、更に婚約者の自殺の遠因を引き起こした不倶戴天の仇なわけだし、マジで法の処罰すら恐れないところまで覚悟完了しているなら、弓削を権力の座から失脚させるだけなんて「生易しい」仕打ちだけで止まるだろうか。それこそ、弓削から命を奪うことすら、白川の心中で選択肢に挙がっていたとしてもおかしくはない。

実際のところ、白川はそんな過激な手段を取る事はなかったようだが、そうなった背景は何なんだろう。弓削みたいな小物一人始末するのに、そんな手を使うまでもないと判断したのかな。

白川「…今にも燃えつきそうな私の(医学的な意味と社会的な意味での)生命だが……弓削ごときにとらせてやるほど安くはないっ…!!!」

みたいなことを心の中で呟きながら。

やわなエンジニア

クリーンルームって白川さん半導体かよ、と思ったんですが、ぐぐってみると手術室や無菌室もクリーンルームの一種なんですね。勉強になりました。


ただ、何の病気で無菌室にいたのかやっぱりわかりません。
白川さんはすでに手の施しようがない状態だったため、手術室/無菌室の中でハウンドの技術で脳だけ取り出されて培養液の中で生き延びた、その状態でQ-LICへの復讐活動を行っている、とかじゃないですよね?(ガクガクブルブル

西山林

どこにも個人名は出ていなかったが、東海林さんは、それが白川さんではないのか、と指摘しているのだろう。

どこにも個人名は出ていなかったが、東海林さんは、それが白川さんではないのか、と指摘した。

かな?

匿名

foobarさん

社内にいてもあれだけ死守したかった出世が流れた上、左遷した経緯なんてすぐにバレて白い目で見られるだろうし。降格左遷ということは給与も下がるでしょうし。
しかも鋏で脅してる映像がすでにネットに上がってるので転職できるとも考えにくい。

ちょっと考えただけでも、弓削にとっては以後の人生結構地獄だと思う。

AC

>西山林
表現の範疇で、別におかしく無いと思う。

とくさん

西山林さん
東海林さんは、明確に指摘したわけではなく、ほのめかしただけなので、「だろう」でいいと思いますよ。

名も無き誰か

>foobarさん
命を奪えばその瞬間だけで終わっちゃいますから、積算としてはあぶる方が高いような。
衝動に従えば○すという選択肢もあるのでしょうけど、どれだけ苦しませるかと考えれば
地獄より生き地獄ですw

foobar

8/1 10:34 の匿名氏および名も無き誰か氏

意見ありがとう。やはり、白川は弓削をあえて生かして、地獄の責め苦を味わわせ続ける事を選んだという線かな。

ただ、だとすると、弓削が確実に警察に逮捕されるようなプランを採用して、犯罪者という烙印もプレゼントしてやった方が、より社会的なダメージは大きかったのでは? とも思うが、そこは考え方次第かな。
警察や裁判所は、建前上は犯罪者の人権も守らなければいけないことになっているが、ネットリンチをやるような悪意ある匿名のネットユーザーにはそんな配慮をする義務も義理もないし。

# 弓削が東北への左遷後も、 5 ちゃんねるに左遷先の住所を晒されるとか、自宅に落書きや投石を受けるとか、零細 youtuber の凸対象としておもちゃにされるとか、プライバシーも守られず日夜そういう目に遭わされ続けているとしたら、確かに生き地獄だろう。

匿名

foobarさん

最新の話が出てて見てないかもですが、
弓削潰しだけでなく、Q-LIQ潰しと若宮の理想のシステムを実現も目的にあった訳で、いわばそれらをまとめてやれるようなこととなると物理的なリソースも考えれば、選択肢は多く無いと思います。

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