魔女の刻 (32) 3 月25 日
子供の頃、私の愛読書の一つは「若草物語」だったが、作者のルイーザ・メイ・オルコットが、There is always light behind the clouds.(雲の向こうはいつも青空)という言葉を残している。「明けない夜はない」「止まない雨はない」などと同じ意味で、どんなつらいことにでも必ず終わりがある、ということだ。学生時代の試験勉強でも、互いを傷つけ合うだけだった結婚生活でも、長期にわたる苦しい仕事でも、いつかは終わる、という希望があったからこそ乗り越えられたのだと思う。
だが、今回の案件、特にこの3 月は、ひょっとすると永遠に終わらないのではないか、と思うことが何度もあった。私たちにアサインされたチケットは、それほど膨大な量になっていた。実装フェーズのピークが12 月だったとすれば、3 月はテストフェーズのピークだ。
インテグレーションテストとユーザテストは並行して実施されていたが、優先されていたのは後者だった。ゼロ号テストに参加した市民テスターの人数は合計で14 名ほどだったが、続いて3 月8 日から開始された初号テストではのべ100 名以上に膨れあがっている。ユーザテストは実業務に沿ってテストプランが作成されていて、途中をスキップするということができず、問題が発生したら即時対応が要求される。エースシステムの立場からすれば、私たちプログラマの作業スケジュールの変更はいくらでもできるが、市民テスターに対して「今日できなかった分は明日」とは言えないのだ。市民テスターの中には、仕事を休んで参加してくれている人もいるので、簡単にテストの順延ができないためだ。そのため私たちは、やっている作業を中断して緊急の修正を命じられることが増えていった。もちろん中断した作業が免除されるわけではないから、どうしても帰宅時間が後ろにずれ込むことになる。
3 月に入ってから、日付が変わる前に退勤できたプログラマは、ほんの数えるほどしかいなかったし、休みを取るのも、本人か家族の病気など、よほどの事情がある場合に限られた。土日はほぼ毎週出勤だ。エースシステム社員も事情は同じで、ほとんどが私たちと同じ時間まで残業するようになっていたが、それは何の慰めにもならなかった。
本来、ユーザテストに対応するのはエースシステムのSE たちの仕事だったが、どういうわけか私には、KNGSSS のテストに参加する小中学生のアテンドがアサインされた。ユウトくんの件で実績があるから、という理由だったが、押しつけられただけだろう。おかげで私は、毎日、4、5 人の小中学生にイマージョンコンテンツを含むKNGSSS の説明を行い、タブレットでテストを行ってもらう、という業務に忙殺されることになった。日常的にスマートフォンやタブレットに触れているガキどもは、こちらが目を離すと、触ってほしくない管理者機能を表示させる裏技を探し当て、勝手にYouTube を見たり、Google Play からゲームをダウンロードしたり、テストアカウントでSNS にユーザ登録したりと、好き勝手をやらかしてくれるので、一秒も気が抜けなかった。テスト用に準備しているタブレットは、私たちのデバッグ用でもあるので、本来は削除されている管理者機能が残ったままになっているからだ。
テスト終了後に、不明点や不具合などを入力するアンケート画面も用意してあったが、「画面がショボイ」「つまらない」「ネットに繋ぎたい」など、好き勝手な要望が並んでいるだけだった。その点、ユウトくんは、イマージョンコンテンツに夢中になってはいたものの、いくつかの有意義な要望や不具合などを指摘してくれていた。ユウトくんはゼロ号テストには1 日おきに参加してくれたが、初号テストには姿を見せなかった。瀬端さんにそれとなく理由をきくと、どうやら初号テストに参加する生徒たちの中に会いたくない子がいるためらしかった。
「やる意味ないんじゃないですか」初号テスト3 日目の夕方、私は今枝さんに訴えた。「ただ、遊びに来てるだけですよ、あの子たち」
「まあ、そう言わずにさ」今枝さんはうるさそうに応じた。「これも大事なテストプロセスだから」
「せめて、テスターを固定したらどうですか」私は提案してみた。「毎日、違う子に入れ替えるんじゃ、一から説明するだけで、半日終わってしまいますが」
「そうしたかったんだけどねえ。できるだけ多くの生徒に触ってもらった方が、いろんな意見が出ていいんじゃないかと言われてね」
「誰が言ったんですか」
「そりゃ、くぬぎ市だよ」
「Q-LIC が提案したんじゃないでしょうね」
「さあ」今枝さんは驚いたように私を見た。「何でそんなこと」
私がQ-LIC の名前を出したのには理由がある。3 月になってから、複数の市議会議員や様々な市民団体による開発センターの視察が、頻繁に実施されるようになっていたのだ。このプロジェクトはくぬぎ市民の予算で遂行されているから、エンドユーザである市民が進捗状況を確認したい、と思うのは当然の権利だ。問題は、その全てにQ-LIC の弓削さんが同行していたことだ。私たちは、弓削さんが単に市政アドバイザリとしての立場で同行しているのではなく、実は視察そのものを企画したのではないかと疑っていたのだが、確証はなかった。
市民団体の方は、ほとんどが「くぬぎ将棋倶楽部」「くぬぎスケッチサークル」「鳳来町自治会代表」といった名称で、平日の昼間に時間の余裕がある年輩の方々が7、8 人、というパターンがほとんどだった。会議室にお通しして、愛想のいい女性SE がPowerPoint のスライドを見せながら小一時間ほど説明をすれば、満足して帰っていった。
市議会議員による視察の方はそうはいかなかった。「まちづくり推進委員会」「青少年福祉委員会」「ふるさと創成委員会」「ICT 教育を考える会」など、とても憶えきれない数の委員会が、入れ替わり立ち替わり2、3 名の少人数で来訪してきた。そのたびに私たちは仕事の手を止め、整列して拍手で出迎えなければならなかった。代表者が高杉さんか今枝さんと握手している姿を、同行するカメラマンが撮影するのだが、その際に花を添えるためだったらしい。
歓迎のセレモニーが終わると、エースシステムの女性SE が来訪者を会議室に案内する。私たちは仕事に戻るのだが、それで終わりではなかった。市民団体と異なり、市議会議員たちは、かなり細かい部分に突っ込みを入れてくるらしく、エースシステムのSE が答えられないと、私たちの誰かにお呼びがかかるからだ。しかも、なぜか女性プログラマが呼ばれることが多かった。私は子供たちの相手があったので呼ばれたのは一度だけだったが、その一度だけで、かなり不快な思いをさせられることになった。
「この画面を作ったのは、あなたですか」
会議室で私に訊いたのは、白いものが多い髪を短く刈り上げた初老の男性だった。レーザーポインターでプロジェクタで投影された画面を指している。映っているのは、小学生用の小テスト画面パターン6 だ。小テストのパターンは11 まであるが、パターン6 は漢字テストを想定して、タッチペンで書き込みが可能なエリアが設けられている。実装とテストは何度か行われていて、その都度、別のプログラマが手を入れているから、誰が作ったと言うことは難しいが、最後に修正したのは確かに私だった。
「作ったというか」私は答えた。「最後に手を入れたのは私ですが」
「この漢字を手書きする四角い箱だがね」議員は言った。「タブレットの画面に比べて小さくないかね」
私は改めて画面を見直した。使用するAndroid タブレットの解像度はWXGA(1280x800) で、フリードロースペースは縦横400px の正方形だ。それほど小さいとは思えない。ユーザテストでも何度か使っているが、小さくて書きづらいという苦情は出ていなかったはずだ。
私がそう答えると、別の若い議員がテーブルを叩いて叱責した。
「おい、山下先生に対して失礼じゃないかね。先生は前の教育委員長なんだよ」
そう言われても、どういう反応をすればいいのか。画面レイアウトの設計をしたのは私ではないし、要件定義フェーズでもレイアウトは提示され、承認をもらっているはずだ。私が戸惑っていると、脇に控えていたエースシステムのSE が慌てて駆け寄ってきた。三崎さんという20 代前半の女性だ。
「すみません」三崎さんは深々と頭を下げた。「貴重なご意見、ありがとうございました。直ちに修正させていただきます」
そう言うと、三崎さんは目顔で私にも同じ動作をするよう促した。なぜ謝らなければならないのか理解できなかったが、三崎さんの懇願するような視線に負けて、私は渋々頭を下げた。
「全くね」山下議員はメガネをクロスで拭きながら、不機嫌そうに言った。「本当に子供たちのことを考えたらね、それぐらいのことは言われなくても直してもらわないとね。君たちは仕事が終わればいなくなってしまうんだろうがね、子供たちはずっとここで成長していくわけだからね。そういうことを考えてないのかね。少しばかり責任感を持ってもらわないとね」
頭の中に怒りの炎が渦巻いた。私はプライドを持って、この仕事に取り組んでいるつもりだ。確かに責任はないのかもしれないが、プログラマとして、くぬぎ市のICT 再構築に真剣に貢献できればいいと思っている。そもそも、前の教育委員長ということは、現行の学校情報システムの導入時にも、前市長に次ぐ権限を有していたはずだ。現行システムが作り直しになった経緯についての責任は感じていないのだろうか。
「まあ先生」同席していた弓削さんが、ニヤニヤ笑いながら口を出した。「すぐ直してもらえるということなんで、次に行きましょうか」
「そうだね」山下議員は表情を和らげて頷いた。「じゃ、次の画面に行って」
三崎さんは私に小さく頭を下げ、仕事に戻るように合図すると、次のスライドを表示した。私は背を向けると、急ぎ足で会議室を出た。
同様の被害はほとんどのプログラマが遭遇していたが、東海林さんだけは例外だった。一度も呼ばれたことがないからだ。その理由は簡単に推測できた。東海林さんなら、理詰めで相手に反論するぐらい平気でやる、と思われたからだろう。ある朝、東海林さんの車で出勤する途中、その話をすると、東海林さんは心外そうな顔で答えた。
「俺だって必要とあれば頭ぐらい下げるぞ」
「無条件にではないでしょう?」
「そりゃあそうだ。自分が間違ってないのに謝るなんてこと、普通はしないだろう。まあエースの人間ならするかもしれんが」
「白川さんなら、しなさそうですけどね」
「ああ」東海林さんは頷いた。「白川さんは、エースにしては珍しく自分の意志を貫き通せる人みたいだからな。あの人が上級SE になれば、エースシステムも少しはまともな会社になるかもな。ちょっと楽しみだ。それはそうと白川さん、どこか具合でも悪いのかな」
「え」私はドキリとしながら訊いた。「どうしてですか?」
「先週の夜、廊下で座り込んでたんだ。口をハンカチで押さえてな」
「それで、どうしたんですか?」
「声かけようと思ったんだが、すぐ立ち上がって、トイレの方に歩いていったからな。まあ気分でも悪かったんだろうと思って気にしなかったんだが」
「寝不足じゃないんですか」
「そうかもな。ただ、前に白川さんが何かの薬を飲んでた、って話も聞いてるからな。何か持病でもあるのかな、と思ってな。何しろ、このプロジェクトが終わるまで、死んでもらっちゃ困るからな」
東海林さんは自分の冗談で笑ったが、白川さんが、何らかの健康上の問題を抱えていることを事実として知っている私は、同調する気にはなれなかった。誰が通りかかるかわからない廊下で、そのような姿を見せるほど、その問題に余裕がなくなっているとしたら、かなり深刻な状態なのではないだろうか。
もう一度、白川さんの健康状態を確認しておかなければ、と私は考えた。だが、私が次に白川さんと言葉を交わす機会は、3 月20 日まで訪れなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
永遠に終結しないかと思われたテストフェーズだったが、初号テストが3 月16 日に終わった後は、急速にチケットの消化が進んだ。インテグレーションテストは3 月末まで継続する予定だったが、よほど致命的な問題を除いては、修正のチケットを発行しないことが発表されたからだ。ユーザテストで出された修正や機能追加のチケット数は大量だったが、目指すゴールが明確になったことで、全員のモチベーションは上がった。加えて、エースシステムのSE たちが、積極的にプログラマに協力してくれたことも大きかった。プログラミングはできなくても、テストデータの作成を手伝ってくれたり、席を離れられないプログラマのためにランチを持って来てくれたりと、できる限りのサポートをしてくれた。誰に命令されたわけでもなく、自発的なサポートだ。白川さんがプロジェクトの完成に注力する姿勢が憑依したかのようだった。
3 月20 日の18 時過ぎ。私たちは全員が固唾を呑んで一戸さんを注視していた。一戸さんはモニタを見ながら、忙しくキーボードとマウスを操作していたが、やがて小さく頷くと立ち上がった。
「残念な連絡があります」一戸さんは沈痛な顔を上げた。「実に残念です。今、チケットNo.0889-9807 の確認を終えました。これでしばらくの間、あなたたちにチケットを突き返すという楽しみがなくなってしまいます。私の唯一の楽しみだったのに、実に残念だ」
そう言うと一戸さんは腰を下ろした。今枝さんが勢い込んで訊いた。
「で、結果はどうだったんだよ」
「ああ、完了ですよ」一戸さんは破顔した。「ステータスは完了。問題なしです」
一拍おいて、私たちは歓声を上げた。たった今、ユーザテストで出た修正と機能追加が全て完了したのだ。
「みなさん、おつかれさまです」いつの間にかコマンドルームから出てきていた白川さんが笑顔で言った。「とりあえずは重要なマイルストーンを越えた、と言っていいでしょう。今日はみなさん、早めに帰宅してください。とはいえ、まだインテグレーションテストは続くので、明日、二日酔いで出てくるようなことはなしで」
プログラマたちは再び歓声を上げると、それぞれ帰り支度を始めた。早くも、どこに飲みに行くかを相談しているグループもある。私はコマンドルームに戻りかけた白川さんに近づき、小声で話しかけた。
「白川さん」
「川嶋さん」白川さんは微笑んだ。「おつかれさまでした」
「いえ、白川さんこそ。お身体の方、大丈夫ですか」
白川さんは周囲をちらりと見回してから、小さく頷いた。
「おかげさまで大丈夫です。まあ3 月末までは生きていられると思いますよ」
「......冗談ですよね」
「もちろんです」白川さんはクスクス笑った。「最近は身体の調子もいいんですよ」
「プロジェクトが終わったら病院に行くという約束」私は白川さんの目を見つめた。「忘れていないでしょうね」
「忘れていませんよ。私だってターミネーターじゃないですから、少し休みを取らせてもらわないとね」
「......ならいいんですが」
「ほら」白川さんは視線を私の背後に向けた。「恋人が待ってますよ。今日は、川嶋さんも早めに帰ってくださいね」
私は首だけ振り返り、こちらを見ていた草場さんに小さく頷いた。
「白川さんも、今日は早めに帰るんですよね」
「まだ少し確認事項が残っているんです。でも、日が変わる前には帰りますから安心してください」
「本当に大丈夫なんですね?」
私は再び確認したが、白川さんは笑って私の両肩を掴むと、身体をくるりと180度回転させた。
「私の心配はいいから」言いながら、白川さんは優しく私の背中を押した。「早く行ってください」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから週末までは、それまでとは打って変わったように平穏な日々が続いた。インテグレーションテストで発行されたチケットがアサインされ始めたが、急を要する内容のものはわずかだったので、私たちは18 時には退社することができた。おそらく誰よりも喜んでいたのは細川くんだったに違いない。
「明日はどこかに行くの?」
木曜日の帰り、私は細川くんに訊いた。細川くんは25 日の日曜日に、最終調整で出勤する予定だったが、明日の金曜日を振替休日にしていた。
「そうですねえ」細川くんは嬉しそうに答えた。「彼女の方も明日は年休取ってくれたんで、映画でも行こうかなって話してるんですよ」
「またアニメ?」
「まだ決めてないんですけどね。もう春休みだから、アニメ系は子供が多いと思うんですよね。たまには洋画にするかもしれませんね。今、何かいいのやってますか?」
「知らないわよ。最近は映画の情報をチェックできてないから」
「川嶋さんは、今週末は全部休みですよね。誰かとどっか行くんですか?」
誰か、というのが草場さんを指しているのは明らかだったから私は苦笑した。
「残念だけど、草場さんは土曜日出勤予定。私は日曜日、ちょっと会社で書類を書かなきゃならないから」
「書類って?」
「えーと、その、下期の中間報告とかいろいろ」
「もう3 月ですよ」細川くんは呆れたように私を横目で見た。「下期の中間報告って、1 月に出さなかったんですか?」
「そんなヒマなかったのよ。昨日、社長から来期の給料を勝手に決めていいのか、ってメールがあったから、仕方なくね。東海林さんからも言われたし」
「東海林さんは今日も残業だって言ってましたね」
「移行テストで少し問題があったって言ってたっけ。土曜日は休むみたいだけど、日曜日はやっぱり出勤だって」
「月曜日のセレモニーが無事に終わってくれれば、一安心ですね」
「そうね。終わったら、少し休みを取りたいわね」
「ああ、なるほどなるほど」細川くんはニヤニヤ顔を向けた。「草場さんとですね」
「前見ろ、前。そんなんじゃないわよ。家族でってこと」
「実際のところ、どうなんですか」少し真面目な表情に戻った細川くんが訊いた。「先に進む予定なんかは」
「どうかなあ」
はぐらかしたわけではなく、本当にわからなかったのだが、細川くんは不思議そうな顔になった。
「珍しく慎重じゃないですか」
「慎重にもなるわよ。私の最初の結婚は悲惨なものだったからね。向こうは独身でも、こっちは子供がいるんだからさ」
「最初の、ですか」細川くんはしたり顔になった。「ってことは、次のを考えてるってことですね」
「ちゃんと前見て運転してよ」
考えてみれば、帰りの車の中で、こんな緊張感のない会話を交わすのも久しぶりだ。私たちの精神状態が数ヶ月ぶりに緊張から解放されている証拠だ。
翌日の金曜日は、開発センター全体が弛緩した雰囲気に包まれていた。今日は予備日に設定されていて、改修などはアサインされていない。エースシステムのSE たちは、まだテストを繰り返していたが、プログラマたちはのんびり座っているだけだった。運の悪い数人が、小さな修正に対応していたぐらいだ。
18:00 を過ぎると、疲れた顔の白川さんがコマンドルームから出てきて、全員に告げた。
「今日はここまでとします。月曜日のセレモニーに備えて、休める人は体力と気力をたっぷり充電しておいてくださいね。土日に出勤していただく人たちは、申しわけありませんが、よろしくお願いします。土日のマスタ更新と最終設定の手順書は、担当者に送信済みなので......」
白川さんが話している間、私はその表情を観察したが、特に不穏な兆候は見て取れなかった。目の下の隈はひどいが、これはいつものことだ。完全に警戒が解けたわけではないが、私は少し安心した。
「では、おつかれさまです」
その声を合図に、プログラマたちは解散した。私は帰り支度を終えると、東海林さんに声をかけた。
「お先に」
「おお、ゆっくり休んでおけよ。おっと」東海林さんは私の後ろに立っていた草場さんに目を留め、ニヤリと笑った。「まあ、とにかくリラックスしておけよ。月曜日は何があるかわからんからな」
「何があるっていうんですか」私は笑った。「じゃ、月曜日に」
私は待っていてくれた草場さんと一緒に開発センターを出た。今日はステーキを食べに行く約束をしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
3 月25 日の午後、私は久しぶりにサードアイに顔を出した。年度末ということもあって、何人かが出社している。自分の席に座り、キーボードの間にたまった埃をエアダスターで吹き飛ばしていると、給湯室からサクラちゃんが顔を出した。
「あれ、川嶋さん、どうしたんですか」
「サクラちゃんこそ。今日、日曜日よ」
「社長から休日出勤頼まれたんです」サクラちゃんはハンカチで手を拭きながら言った。「何かデータの読み合わせがあって、人手が足らないからって。今さっき終わったところです」
「そうなんだ。ひどいね」
「いえいえ」サクラちゃんはニッコリ笑った。「休日手当、付けてもらえるんで。あ、お茶でも淹れましょうか」
「あ、助かる」
「終わるまで残っていていいですか?」
私は笑って頷いた。派遣のサクラちゃんは、社員が誰もいない状態で会社に残っていることはできない。時間数を稼ぎたいのだろう。
サクラちゃんが給湯室に消えると、私はPC を起動し、所定のExcel シートに中間評価の入力を開始した。多くの会社と同じように、うちの会社も評価制度を導入していて、下期は1 月に中間報告を出すことになっている。第3 四半期に携わった業務内容を報告するためだ。これがないと、4 月最初の前年度総合評価に影響を及ぼすことになる。
私の評価者は、直属の上長である東海林さんだが、東海林さんは評価制度自体に批判的であることを公言するように、いつもおざなりに目を通しては上に回す。エンジニアではない技術部部長の斉藤さんは、公正な評価をしようと心がけてくれるため、少しでもわからない部分があると書き直しになる。そのため、どんな仕事をしていて、どれぐらいの難易度の業務なのか、どのような立場なのか、といった内容を細かく記述する必要があるのだった。もっとも、今回はくぬぎ市案件のみなので、いつもに比べると楽ではあった。
サクラちゃんが淹れてくれた紅茶を飲みながら、私は必要事項を埋めていった。打ち合わせや実装、テストについて概要を考え、誰からどんな内容の依頼を受け、どのように実現したか、ということを、非エンジニアにもわかるように書いていくのは、なかなか面倒だ。報告書もPython あたりで記述できれば、どんなに楽か、と思うことがある。
2 時間ほどを費やし、ようやく中間報告を書き上げると、ざっと推敲してから東海林さん宛にメールで送った。ほっと一息ついたとき、サクラちゃんがやってきた。
「終わったんですか?」
「うん、何とかね」
「じゃ、お茶淹れて休憩しましょうよ。社長の差し入れのマドレーヌがあるんです」
私たちは応接室に場所を移動して、ささやかな女子会を楽しんだ。私が草場さんと付き合っていることは、サクラちゃんの耳にも届いていて、しきりにその話を聞きたがったので、差し障りのない程度に話しておいた。サクラちゃん自身は、最近、新しい彼氏ができたが、1 週間ほどで別れてしまったという。
「どうしてまた」
「映画に行った後、マックに入ったんですけど、店員さんが日本の人じゃなかったんですよ。そしたら、あいつ、店員さんの言葉遣いをゲラゲラ笑いやがったんです。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、って使徒パウロが言ってるのを知らないんですかね。とにかく人種差別をする奴は最低です。だから、頭からシェイクをぶっかけてやりました」
「まあ、確かに人種差別はよくないわよね」私は温かいアールグレイをすすった。「そういえば、前、ここでエースの人を怒鳴りつけてたっけね」
「別に怒鳴ってませんよ」サクラちゃんは心外そうに言った。「神の言葉をいくつか教えてやっただけです。あの人、まだいるんですか?」
「いるよ。まあ、かなりまともになってきたかな」
実際、今枝さんもようやくシステムの内容が頭に定着してきたのか、以前のようなデタラメな指示を出すことは、かなり減ってきていた。
「そうなんですか。ああいう人は、簡単に変わるもんじゃないと思っていたんですけど。そういうこともあるんですね」
「白川さんのおかげかな、それは」
「白川さんって」サクラちゃんは顎に手を当てて考えた。「あの背が高い人でしたか?」
「それは高杉さん。白川さんは車椅子に乗ってた方」
「ああ、あの人」そう言うとサクラちゃんは、少し表情を曇らせた。「今だから言いますけど、あの人って、ちょっと怖かったんですよね」
「怖い?」私は笑った。「なんで」
「あくまでも個人的な印象ですけどね」サクラちゃんは慎重に言葉を選びながら言った。「あの人の目は、何と言うか、ちょっと独特でしたから」
「目ね」
「目です。私の第一印象は、殉教者の目、だったんです」
「殉教者?」あまり私たちの日常では使用する機会に恵まれない言葉だ。「それはまた変わった印象ね」
「あくまでも個人的な印象です」サクラちゃんは繰り返した。「ただ、あたしなら、あの人をあまり信用しようとは思いません」
「いや、あの人は信頼できる人だと思うけどねえ」
そう言った後、私は白川さんの身体のことを思い出した。確かに、あそこまで自分を犠牲にしてでも、くぬぎ市再生プロジェクトに全力を傾注しているのは普通ではない気がする。
考え込んでしまった私を見て、サクラちゃんは慌てて言った。
「あ、いや、私の勝手な思い込みですから、そんなに真剣に悩まないでください。だいたい、私は信じてないものがたくさんあるんです。アポロの月面着陸とか進化論とか」
「え、進化論を信じてないの?」
「全く」
30 分ほどおしゃべりを楽しんだ後、私は大きく伸びをした。
「さて、そろそろ帰ろうかな。明日も早いし」
「もうすぐ一段落するんですよね」
「そうね。明日、くぬぎ市でセレモニーがあるから」
今頃、開発センターでは、明日のセレモニーに備えて最終調整が行われているはずだ。といっても、金曜日までにproduction 環境の構築はほとんど終わっている。市長以下幹部向けに簡単な説明が予定され、そこで出た要望などを反映するぐらいだ。明日は、いつもより早い朝8 時に開発センターに出社する。他の何名かと一緒に、セレモニーが行われるくぬぎ市民イベントホールに行き、10 時からのセレモニーの準備を手伝うことになっている。今日も何かあれば、開発センターに駆けつけるよう言われていたが、今のところ東海林さんからも細川くんからも連絡がないので、順調ということだろう。
「じゃ、またね」
私とサクラちゃんは一緒に会社を出て、駅前で別れた。私は駅前のスーパーに寄り、挽肉とタマネギ、ジャガイモなどを買ってから電車に乗った。今夜は息子が好きなハンバーグを作る予定だった。今夜は早めにベッドに入ることにしよう。
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
来週はGW なので、一週、お休みとします。次回は、5/7(月) になります。
コメント
匿名
ついに一周して第1話の時点に戻って来ましたか…来週が楽しみです。
匿名
殉教者かあ…
永遠に「終結」しないか
いお
更新は2週間後…最初から読み返して謎解きするにはいいインターバルですね。
きっとヒントは既に出尽くしているはず!
サクラちゃんの預言者めいたポジションが素敵です。
一箇所だけ
× 永遠に集結しないかと
○ 永遠に終結しないかと
匿名
ところが、来週はお休みなんですよね。いいところで!!!
user-key.
「信用」と「信頼」の違いがカギ?
匿名
「そうね。終わったら、少し休みを取りたいわね」
3 月25 日の午後、私は久しぶりにサードアイに顔を出した。
ここの日付の切り替えがちょっとひっかかりました。なんででしょうね
匿名
曜日と日付がどうなっているか混乱する。
チケット完了は20日火曜日ですね。
明日のことを訪ねているのは22日木曜日ですね。
第一話は25日日曜日夜11時からの話ですね。
匿名
いよいよクライマックスですね。
連休、明けて欲しくはないですが、楽しみです(笑)
匿名
いよいよすべての手札のショーダウンの時だが、果たして白川の真意やいかに。
白川は、エースシステムも Q-LIC も共倒れにさせる形での自爆を狙っていると読んでいる……が、
白川なら自爆を試みた上で自分だけ生還、なんて異能生存体っぷりを発揮しそうな予感もする。
匿名
環境がロック時点で最新だったり(修正は管理者設定が必要)、コーディネータ設定が消えてる時点
匿名
東海林さんが既に何らかの手を打っているとみた
SQL
前にも思ったけど、サクラちゃんは一体何者なんだろう。
バックボーンが気になる。
そして白川さん、本当に死ぬんだろうか。
まさかとは思っているが・・・。
hage
共通機能を作った人、名前忘れたけど、白川さんの恋人とか親族とか知り合いか何かだったのかなと。
続きが気になる!
ランド
信用:その人の過去の実績を評価すること。一方的な評価。
信頼:その人の実績.人柄を信じ、未来に期待すること。双方向のやりとり。
川嶋さんにとって白川さんは心のつながりもあるし、お互いに実績.人柄ともに高く評価しあっている「信頼関係」があるけど、サクラちゃんにとっては「この人、過去に何があったか知らないけどなんか怖い」と思わせるような凄み.怖さがあって、「信用」できないってことかな。
いよいよ第一話の時点に入りますね。いいところで2週間空くとはニクイですw
白川さん、どうかご無事で...
abc
> 前にも思ったけど、サクラちゃんは一体何者なんだろう。
> バックボーンが気になる。
順当に考察するならキリスト教信者…それもかなりラディカルな宗派の出身者と見た。
> だいたい、私は信じてないものがたくさんあるんです。アポロの月面着陸とか進化論とか
この辺の発言なんかは、アメリカの相当保守的(ストレートに言うなら「原理主義的」)なキリスト教宗派でも唱えられている思想だし。
そのサクラをして「殉教者」と言わしめるとは、白川の雰囲気はよほどサクラにとってはただならぬものだったんだろうか。
hir0
若宮氏の写真への違和感は果たして?
白川さんなのかそれともまた別のキーパーソンなのか
気になる2週間になりますねえ
リーベルG
匿名さん、いおさん、ご指摘ありがとうございます。
リーベルG
どうもおかしいと思ったら、編集画面にコピペするとき、30行ほど抜けてしまったようです。
>「そうね。終わったら、少し休みを取りたいわね」
の後に、抜けていた行を追加しました。
匿名
店員さんが日本の人じゃなかったですよ。
店員さんが日本の人じゃなかったんですよ。
でしょうか?
teraI
加筆された30行に「私が白川さんを見たのはそれが最後だった」がなくて安心しました。
再来週、楽しみです。
一戸さんの「確認を終わりました」、話し言葉なので良いのですが、少し違和感です。
「確認が終わりました」か「確認を終えました」。
そういえば結果的にこの人まともでしたね…
user-key.
白川さんが「~土日のマスタ更新と最終設定の手順書は、担当者に送信済み~」って事は、最初から土日はICTセンタービルには不在って事で、金曜日は帰宅せず病院に寄った(か、どっかで倒れて担ぎ込まれた)んですかね?
月曜日病院から直接出勤予定とか。
病院だったら連絡が取れないのは理解でしますし。
匿名
姿を消す殉教者…
白川…ホワイトリバー…ホワリバ…
白川さんは帆場暎一だったんだよ!
atlan
1話がピックアップで先頭に出てきた・・・一度読み直す必要は有りますよね
リーベルG
teraIさん、ありがとうございます。
確かにしっくり来ませんね。「終えました」がいいですね。
匿名
追記があるのなら、冒頭にその旨注意書きがあったほうがいいと思いますです。
hdk
弓削さんが得意げにバックアップの提供を申し出、復旧。ほっとしたところで白川さんが登場。存在するはずのないデータバックアップをどうやって手に入れたのかを問い、データ泥棒の証拠を押さえてQLICへの復讐を果たす