魔女の刻 (12) 明日の約束
白川さんの真っ赤なプジョーは確かにかっこよかったし、乗り心地も悪くなかった。自動車を移動手段の一種としてしか捉えていない私だが、これまで乗ったどの車より、遊び心があるな、と思う。東海林さんのキューブや細川くんのジュークを表す言葉が快適だとしたら、この車が与えてくれるのは快感だ。外車に抱いていた、音がうるさいとか壊れやすいとか高いといったマイナスのイメージを覆させられた。何事も見た目だけで判断してはいけない。
空は晴れ渡り、道は真っ直ぐ伸びていて、車の流れもいい。カーステレオからは、エド・シーランの静かな歌声が流れている。白川さんの運転は慎重かつ丁寧だったが、臆病さは微塵もなく、カーブでもほとんどスピードを落とさずコーナリングしていく。これで走っているのが湘南の国道134 号線あたりなら最高のドライブなのだが、あいにく両側に流れるのは、色付く前の木々や休耕中の田畑、点在する家屋と自動販売機、人の出入りが少なそうなコンビニ、枠だけになった屋外広告と、2 分も眺めていれば飽きるような景色だ。私が5 分近く我慢していたのは、白川さんがハンズフリーイヤホンで誰かと通話していたためだ。何かの進捗を確認していたようだが、聞き耳を立てるのも気が引けたので、音楽に耳を傾けながら退屈な風景を眺めているしかなかった。
「......では、よろしく。あと少しで着きます」
通話を終えた白川さんは、イヤホンを外すと私に笑いかけた。相変わらず、目の下に隈ができているが、疲れている様子ではない。
「ごめんなさい。何の説明もなしに」
「いえ」私は白川さんに顔を向けた。「で、どちらに向かってるんですか」
「くぬぎ南中学校です」
「中学校」私は首を傾げた。「もしかしてさっきの話にあった中学生の......」
「え? ああ、いえ、それは東中学校の方です」
「じゃあKNGSSS 関係の何かですか?」
「関係があるといえばありますが、ソフトウェア的な件ではないんですよ。ま、ちょっとした気分転換だと思ってもらえば。つまんない打ち合わせで心がちょっと汚染されたでしょうから」
そう言いながら、白川さんはハンドルを微調整して、ゆっくりとカーブを曲がった。雑木林の陰から中学校の校舎が現れる。正門の前を通り過ぎ、壁に沿って進むと、フェンスに囲まれただだっ広い駐車場に出た。意外にも出入り口にはゲートがあり、警備員の制服を着た初老の男性が座っている。
「前に、時代遅れの暴走族のたまり場になったことがあって、ゲートが設置されたんですよ」白川さんは私の視線に気付いたのか、そう説明してくれた。「夜は出入りできなくなります」
警備員の前で車を停めた白川さんは、窓を開けるとID カードを見せた。警備員はちらりと見ただけで、進むように合図した。内容を確認したのかどうかも怪しい。
プジョーは徐行して駐車場の奥に向かった。校庭に続くコーナー付近に、2 台のトラックとライトバンが停まっていた。作業服の男性が数人、何かの図面を広げて相談している。その中に一人だけ、ネイビーブルーのジャンパーの人がいた。距離が近付くと、くぬぎ市再生タスクフォース推進室室長の瀬端さんだとわかった。
車の接近に気付いた瀬端さんは、振り向くと笑顔で手を振った。白川さんは消えかけた白線の中央にピタリと停車させると、シートベルトを外した。
「どうも」車から降りた私たちに、瀬端さんは挨拶したが、私の名前は思い出せないようだ。「えーと、確か川......川......」
「川嶋です」私は瀬端さんの手間を省いてあげた。「どうも、お世話になってます」
「ちょっと時間が空いたので、お連れしたんです」白川さんが言った。「どうですか?」
「そうですね。駐車場のこっちの隅に耐震データセンターの面積を確保しようと思います」瀬端さんは周囲を手で示した。「救護センターをその隣に。ソーラーパネルは屋根と、あとあっちのフェンス際にも」
「ケーブルはやっぱり上からですか」白川さんが訊いた。
「そうですね。このあたりは既設のパイプ類がほとんどなくて、流用できないんです。予算を考慮すると地下は難しいですね」
「無線LAN はどうですか?」
「NTT docomo の担当者と明日打ち合わせです。データセンターまで有線で、後はWi-Fi ルーターをいくつかって感じですね」
「順調ですね」白川さんは私を見た。「ここに地域防災センターを構築する計画があるんですよ」
「防災センターですか」
「元々、この中学校は」瀬端さんが言った。「広域避難所に指定されてるんですが、インフラが整ってないんです。せいぜい体育館に毛布と食料が用意されているだけで。ここは携帯の繋がりにくい場所だし、大きな道路もない。おまけに体育館は、市町村合併前からある古いやつで、天井パネルや照明器具も老朽化してるので、避難すると逆に危険じゃないかって声もあって。この駐車場はほとんど使われてないので、ここに新しい避難所を作ろうという計画があるんです」
「いい計画ですね」
見た目は綺麗だが使い勝手の悪い図書館や、導入したという事実だけが重要視された学校用タブレットなどより、地域防災拠点構築の方が税金の使い道としてはよっぽど健全だ。
「10年以上前から、避難所の問題はたびたび指摘されてきたんですけどね。前の市長は図書館とか書店とかカフェとか、くぬぎ市民イベントホールみたいに、外部からの視線が集まる場所には税金を気前よく投入したんですが、学校には役に立たないタブレット教育を導入しただけで、設備投資は無視してましたから。やっと具体化してきたわけです」
「市民の声がやっと届いたってことですか」
私がそう言うと、瀬端さんは白川さんと視線を合わせて少し笑った。
「実は、エースシステムの高杉さんに提案していただいたんです。施工はエース・ファシリティプランニングで。相場より、かなりディスカウントしていただいたことで、市議会の承認が下りたということもあります。ありがたい限りですよ」
「いえいえ」白川さんは笑った。「高杉だって、単なる親切心で口利きしたわけじゃないですよ。ここをモデルケースにして、全国の地方自治体に、ディザスターベース構築パッケージとして売り込むつもりなんですから。ほら、店頭展示品のテレビとか、モデルルームに使ったマンションなんかが、安く買えたりするじゃないですか。あれと同じですよ」
エース・ファシリティプランニングは、エースグループの一翼を担う大手建設会社だ。くぬぎ市で多少赤字を出しても、他で回収する長期プランがあり、達成する見込みも十分にあるのだろう。うちのような零細企業は日銭を稼がないとやっていけないが、エースグループだと年単位で採算を計算しているのだろう。だが、それを非難する気にはなれなかった。エースグループの最終的な純利益がいくらになるのか知らないが、少なくともくぬぎ市民の役に立つことなのだから。
「市の行政オンラインシステムのバックアップセンター機能も兼ねるので、クラウドに接続できるネットワークも引きます。たとえ市役所と開発センターが壊滅したとしても、ここで代替できるようにね。来年度は、東中学校にもここの双子を作る予定。今日、ここに寄ったのはネットワーク関係の視察ってとこです。すいません、ちょっと瀬端さんと話があるので、しばらくブラブラしててもらえますか。あ、ID カードは首にかけておいてください。誰かに、何者だとか訊かれたら、それを見せればOK ですから」
私は頷いて、周囲を見回した。駐車場の中を散策しても面白くないだろうし、フェンスの向こうの雑木林を探検する服装でもない。校庭の方に行ってみることにして、ゆっくり歩き出した。
駐車場を出ると、老朽化した屋根がついている渡り廊下になっていた。行き先を目で追うと、100 メートルほど先で二股に分岐して、片方は校舎へ続き、片方は体育館らしい建物に伸びている。私は体育館の方へ歩を進めた。
体育館は確かに古かった。よくあるカマボコ型だが、壁も屋根も塗装がすっかり落ちていて、ところどころ赤錆が目立つ。あちこちに応急に補修工事を施したようで、波形トタン板が打ちつけてある。地上付近の窓はさすがにしっかり閉じているが、屋根付近の採光窓は数カ所がベニヤ板で塞がれただけになっている。おそらく割れた後に、教員か用務員が応急手当をしたのだろう。なるほど、これでは避難所として使用するのは躊躇われるかもしれない。唯一の利点は、面積が広いことぐらいだ。息子が通っている小学校の体育館は、この7 割ほどの大きさしかないだろう。中では、バスケットかバレーか、とにかく球技の授業が行われているようで、ボールがぶつかるバシッという音や、短いホイッスル音、女子の歓声が聞こえてくる。
私は冬の陽光を浴び、冷たい風を頬に受けながら、体育館の壁に沿って歩いた。左手にくすんだ色の3 階建ての校舎があり、その近くに何かの生き物が飼われているらしい小屋と、かなり広い花壇が見える。手前には、大きさも色も不揃いな物置小屋が何個か建っていたが、その中に1 つだけ、明るいサンライトイエローのユニットハウスが混ざっていた。他のは全て古い木造だが、これはせいぜい数年前ぐらいに設置されたらしい。エアコンの室外機が置かれ、他のと違ってドアは施錠されている。ドアに白いプレートが貼ってあるが、書かれている文字がよく見えない。近付いてみようと足を踏み出したとき、ドアが中から開いた。
教師か事務員などの成人の姿を想像したが、出てきたのは学校指定のジャージの上下を着て、メガネとマスクをかけた男の子だった。小柄で痩せている。自分以外の人間の存在を予想していなかったらしく、私の姿を目にした途端、驚いたように後ずさり、手に持っていたタブレットを落としそうになる。私も、何と声をかけるべきかとっさに判断できず、その場で固まってしまった。
おそらく1 分近い沈黙が流れる間、私と男の子はお互いを無遠慮に観察し合っていたと思う。ありがたいことに、男の子の方が先に沈黙を破ってくれた。
「おばさん、誰?」
細い目元が不審そうにひそめられている。そんな変質者を見るような視線を向けないでもらいたい。
「おねえさんはね」私は何とか落ち着いた声を出した。「怪しい者じゃないのよ。ちょっと見学していただけで」
「怪しい人は自分で怪しいなんて言わないと思うけど」
「そうだ、ほら、これ」私は首から提げているID カードを掲げてみせたが、男の子は不審そうな表情を強めただけだった。
「そんなの、おれが見たって本物かどうかなんてわからないじゃん」
「それもそうか......」
「おばさん、なんか怪しい人? おれ、大声とか出しちゃった方がいい?」
このクソガキ。私は内心の悪態を隠して微笑んでみせたが、どうもぎこちなかったようだ。男の子は肉食獣に対面した子ウサギのように後ずさりした。今にも、悲鳴を上げて逃げ出しそうな気がして、私は何か言わなければと焦った。
「あ、そのタブレット」私は男の子が抱えているタブレットを指した。「くぬぎ市から配布されたやつでしょ。私、そのシステムの改修をやってるのよ。ホントに」
男の子は視線をタブレットに落とし、また私の顔を見た。
「ふーん、これの?」
「そうなの。そのために横浜市から毎日通ってるんだから。市役所前のICT センタービル。知ってるでしょ?」
「そりゃまあね」少しだけ警戒心を解いてくれたようで、男の子の目つきが和らいだ。「じゃあ、おばさん、IT エンジニアってこと?」
「そうよ。それがおねえさんの仕事」
「スマホゲームとか作れんの?」
「うーん、そういうのはちょっと」
「じゃあ何ができんの」
「えーと、今は学校情報システムと図書館のシステムを直してるんだけど......」
「ふーん」男の子は、またタブレットを見た。「なんか、あんまり面白そうな仕事じゃないなあ。楽しいの?」
そういえば、以前、どこかの生命保険会社の調査で男子中高生がなりたい職業の1 位がIT エンジニアだったと聞いたことがある。この男の子もその口だろうか。
「まあ、どっちかといえば苦しいときの方が多いかな。でも、楽しいこともあるのよ。ホントよ」
「たとえばどんな?」
「そうねえ」私は少し考えた。「その、なんというか、何かを作る楽しみっていうか、自分が作ったものが動くのが......」
「ま、いいけど。別に興味ないし」真剣に答えていた私の言葉を、男の子は容赦なく断ち切った。「で、ここで何やってんの?」
少なくとも学校に無断で侵入した変質者の類いではないと思ってくれたようだ。
「ちょっと仕事で来たついでに見学」
「あ、ひょっとしてこれ?」男の子は後ろのユニットハウスをちらりと見た。「歴史に興味ある人?」
「はあ?」私は首を傾げた「歴史?」
「なんだ。違うんだ。てっきり歴女ってやつかと思ったのに」
「いや、違うけど」私はユニットハウスを見た。「そこ、他と違って新しいみたいだけど、何が入ってるの?」
男の子は、私にプレートが見えるようにドアの前から一歩離れてくれた。私はゆっくり近付くと、プレートに書かれた文字を読んだ。
くぬぎ市歴史博物館展示物一時保管所
管理責任者:くぬぎ市歴史保存委員会
その下に、くぬぎ市の市外局番で始まる電話番号と、くぬぎ市の公式ウェブサイトのURL が載っていて、風雨で消えないようにか、薄いアクリル板が上から貼ってある。
「歴史博物館?」
男の子はジャージのポケットからカードキーを出した。
「中見る? つまんないけど」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
くぬぎ市が誕生して数年後。当時の市長が、観光資源が皆無だったくぬぎ市に、少しでも人を呼び込もうと知恵を絞った。世間の流行などを考慮した結果、およそ2 億円を投じて誕生したのが「くぬぎ市歴史博物館」だった。市立図書館に併設されていた「くぬぎ郷土資料館」を改装したものだ。
開館当初は、1990 年代の発掘調査で出土した縄文時代の住居跡と、合併前の村役場の倉庫にあった出所不明の8 世紀の木簡が展示されていた程度だったが、何年か前に「真田家忍者の隠れ里史跡」が公開された。真田家家臣だった出浦盛清が、関ヶ原の戦いが終わった後に、真田昌幸の密命により忍者の養成所として築いた、という触れ込みだ。展示されていたのは、戦国時代なら日本中のどこにあっても不思議ではない刀剣や手裏剣と、判別が困難な書物、有名な六文銭に見えなくもない紋が描かれた旗、赤備えの武具などだった。隠れ里の存在を裏付ける証拠はどこにもなく、世の歴史研究者からはほとんど無視されていたが、定期的に訪れる戦国時代ブームにうまく乗ったこともあり、市外からそれなりの歴史オタクや歴女が訪れた。博物館の運営は、ほとんどボランティアに頼らざるを得なかったが、かつてない観光収入をくぬぎ市にもたらすことになった。
5 年前、新たな市長となった小牟田氏は「くぬぎ市歴史博物館」などという来歴も定かでないものに、一片の価値を見出すこともなく、市立図書館運営の民間委託を決定すると同時に閉鎖を決定した。図書館に併設されるカフェと、クリック・ブックスのDVDレンタルコーナーの敷地を確保するためだ。前市長の業績を否定する意図もあったのかもしれない。
市役所職員の一部は抵抗したものの、市長は歯牙にもかけず、やむなく展示物を有志で分散して保管することにした。その後「くぬぎ市歴史保存委員会」が結成された。中心となったのは、元中学校の教師だった瀬端さんだ。この中学校の敷地の一部を市から借地する形でユニットハウスを建て、空調設備を整えて、展示物の「一時保管所」としたのだった。
そんな事情を話してくれた男の子の案内で、私は保管所の中を見学させてもらった。男の子が「つまらない」と言ったのは謙遜でも何でもなかった。日本史にあまり興味がなく、大河ドラマすらほとんど見ない私にとっては、明日、このユニットハウスが火事で焼失したとしても何の痛痒も感じないだろう。中には、当時、販売されていたというグッズもダンボールで山積みになっていた。男の子は「よかったら一個ぐらい持ってったら」と勧めてくれたが、少しも食指が動かなかった。
10 分にも満たない見学ツアーを終えて外に出た私に、男の子はニヤニヤしながら訊いた。
「ね、つまんなかったっしょ」
「そうね」
正直すぎる答えを返してから、私は慌てて男の子の顔を見たが、相手は気にしている様子もなかった。
「あ、ところで名前訊いてなかったね」
「うん、訊かれてないね」
「教えてくれる?」
「おれの個人情報を知ってどうするっての?」
「いや、別にそれほど知りたいわけじゃないけどさ」
男の子は不意にクスッと笑うと、ジャージの胸に縫い付けられている名札を見せてくれた。
「矢野ユウトくんか。いい名前じゃん」
「川嶋ミナコか」ユウトくんは私のID カードを見ながら言った。「おばさんもいい名前じゃん」
その呼称を訂正するのは諦めて、私は気になっていたこと訊いた。
「で、ユウトくんはここで何してたの?」私は時計を見た。「まだ授業中だよね」
「知ってるよ。おれは授業出なくていいことになってるから」
「なんで?」
「別にいいじゃん、そんなの。それよりさ」ユウトくんはタブレットを見せた。「このシステムを作ってんだよね」
「うん、まあね」
「じゃあさ、頼みがあるんだけど」
「何?」
「チャット使いたいんだよね」
「チャット? そんな機能あったっけ」
私は開発資料にあった機能一覧を思い浮かべたが、それらしい機能は記憶にない。
「ないよ。だから作ってよ」
「新しく作れってこと?」
「そう。中、案内してあげたお礼ってことでさ。できる?」
「そりゃ作ろうと思えばそれぐらいできるけど......」
私にそんな権限はないの、と説明しようとしたとき、「あ、こんなところにいた」と声が聞こえ、白川さんと瀬端さんが歩いてくるのが見えた。ユウトの姿が目に入ると、白川さんは怪訝そうな顔をしたが、瀬端さんは苦笑した。
「お、ユウト。また抜け出したな」
「へへ」ユウトくんは笑った。「ま、おれにもたまには一人になりたいときってのがあるわけだから」
「生意気言ってんじゃないよ」瀬端さんも笑いながら、親しみをこめてユウトくんの髪の毛をかき回した。「ほら、さっさと戻りな」
「へいへい」
ユウトくんは肩をすくめて歩き出したが、私の方を振り返ると、右手でサムズアップした。
「おばさん、またね。約束、忘れんなよ」
約束なんかしてない、と抗議する間もなく、ユウトくんは校舎の方へ歩いていってしまった。ふう、とため息をつくと、横で白川さんが興味津々な顔で私を見ていることに気付いた。
「川嶋さんも隅におけませんね」白川さんはニヤニヤしながら訊いた。「誰ですか、あの子。なかなか可愛い男子だったじゃないですか」
「え、いや、ここでたまたま会っただけですよ」
「あいつは矢野ユウトといって」瀬端さんが笑顔で言った。「ここの1 年生です。何を話してたんですか?」
私はユウトくんが「一時保管所」の中を見せてくれたことを話してから、さきほど解明されなかった疑問について訊いてみた。
「今って授業中ですよね」私はユウトくんが去った方を見た。「なんか、授業に出なくていいみたいなことを言ってましたけど」
「ああ」瀬端さんの表情が陰った。「あいつは、いわゆる保健室登校ってやつです。夏休み明けから、いじめ被害で不登校になったらしくて」
「そうだったんですか。そんな風には見えませんでした」
「歴史が好きな奴でね。あいつも保存委員会の市民会員なので、よく顔を合わせてたんです。会費は取ってませんけどね」
だからカードを持っていたのか。
「約束ってなんですか?」白川さんが訊いた。「さっき何か約束って」
「ああ、なんかKNGSSS にチャット機能が欲しいから作れって。理由は聞けませんでしたが」
「あいつクラスには行けないんですけど」瀬端さんが言った。「何人かは仲がいい友だちがいるみたいなんです。でも、そいつらはユウトと仲良くしてるところを見られたくない。見られると、いじめの標的にされるからです。わかります?」
私は頷いた。私も一児の母親だ。いじめ問題は他人事ではない。
「くぬぎ市の中学校は、どっちもスマホは持ち込み禁止になってるんで、SNS で連絡取るにしても、帰ってからになるんですよ。でも、友だち連中は、学校終わってから、市外の塾に行ったりして、すぐにやり取りできるわけじゃない。だから、タブレットにチャット機能があるといいな、と思ったんでしょうね。授業中でも連絡できますから」
「そういうことですか」
私は納得した。今の子供たちにとって連絡手段といえば、圧倒的にSNS だ。授業でタブレットを使っている友だちとコミュニケーションを取れる手段があれば、と思ったのだろう。
「すいません、今度、あの子に会ったら、チャットは実装できないって謝っておいていただけますか。変に期待させても悪いですから」
「わかりました」瀬端さんはまた苦笑した。「あいつも、そんなに本気で言ったわけじゃないと思いますけどね」
「ちょっと待った」白川さんが割り込んだ。「瀬端さん、チャット機能、入れられませんか」
「え?」
「もちろん公式に機能追加するわけにはいかないですけど」白川さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。「こっそり裏機能として追加するならできますよね」
「裏機能ですか」瀬端さんは必要もないのに声を潜めた。「タスクフォースから正式に依頼を出すんじゃなくて、ってことですね」
「ええ、それだとテストを行って、エビデンスを残さなければならないので」
瀬端さんはしばらく考え込んだ。
「じゃ、こうしますか」瀬端さんは私たちに笑みを見せた。「システムトラブル発生時の緊急連絡用にチャット機能を追加するということで。それならシステム関連ツールということで、特に正式な機能一覧に載せなくていいですから。誰かに訊かれたら、雑談してるときに、こういう機能あったらいいね、と私が呟いたことにしましょう。それを白川さんが気を利かせて作ってくれたと」
二人は共犯者の笑いを交わしあった。その視線が同時に私に向けられる。
「わかってると思いますが」白川さんが含み笑いをした。「これ、実装するのは全部川嶋さんですよ。ご心配なく。ちゃんとチケットでアサインしますから。あくまでも業務の一環として実装してもらえればOK です。ただし、ここでの会話は内緒でお願いしますね」
そう言うと白川さんは、私に小指を差し出した。私は頷いて小指を絡めた。指切りなんてしたのは、何十年ぶりだろう。
「わかりました。ユウトくんとの約束を守れることになりますから」
本当は、この胡散臭いプロジェクトが、一部でも誰かの役に立つと実感できるなら、と言いたいところだ。白川さんは、言葉にしない私の思いまで理解しているかのように、私の手をぎゅっと握った。
「さ、戻りましょうか」
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。
コメント
のり&はるのり
白川さんが読者のハートを鷲掴みの巻
Dai
> 壊れやすいとか高いとといった
> NTT Docomo
NTTドコモ か NTTdocomo
> 物置小屋が何個が建っていたが
すでにパンパンのスケジュールなのに、白川さんがあえて追加をしたのは、これが役に立つ事態が発生することを予想してたんだろうか? このデータセンタにも重要な役回りがでてくるのか、毎週ワクワクです。
L
>のり&はるのりさん
同意です・・・。素敵・・!w
匿名
白川さんに好感が持てる展開ではあるものの
何やら前回のきな臭い流れを、さらに補完するようなキーワードが
幾つか出てきて嫌な予感しかしないなぁ
匿名
白川さんにこのチャット機能で連絡取れないかなぁ?
匿名
ろくでなしの前任者の尻拭いに辟易していて、
ガス抜きのひとつでもしてみた、という感じかな。
白川さん、いじめや過労死についても、理解がありそうだ。
若宮さんの件も含めて、これも伏線か。
>匿名 2017/11/20 13:31 さん
開発センターに場面が戻ったら、そっちに話が流れるんじゃないでしょうか。
リーベルG
Dai さん、ご指摘ありがとうございました。
Tako
高杉さんとエースシステムの見方が変わる回ですね。
過去の作品を読んでいる読者にとっては、やはり1回まるまるかけないと疑いが払しょくできませんからね。
来週も楽しみにしています!
今年の年末は誰が走ることになるのかもワクワクしています。
匿名
化学系の営業ですが、いつも楽しく拝見させていただいています。
ところで、白川さんの赤いプジョーの車種が気になります。
個人的なイメージだと赤い207がカッコイイかと…。