ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (4) 開発センター

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 私が初めてくぬぎ市に降り立ったのは、説明会の翌週の火曜日、1 月24 日の午前8 時45 分だった。空はすっきりと晴れ渡り、遠い山並みの輪郭が視認できるほどだったが、私の気分は天候に同調していなかった。ここへの通勤が、予想を上回って面倒であることがわかったからだ。
 私のマンションからくぬぎ市に来るには、ブルーラインか横浜線で横浜駅まで行き、相鉄線に乗り換えて、くぬぎ市の隣の市まで向かう。ここまでが70 分弱。そこからバスで30 分ほど揺られてくぬぎ市役所前に到着する。そのバスが朝の通勤時間帯だというのに、20 分間隔と本数が少なめだ。しかも私が慣れない駅でバス停を探し当てたときには、すでに長蛇の列ができていた。座っていくのは難しそうだ。
 2 系統あるバス停の時刻表を見ると、平日の最終は21:34、休日は21:05 となっていた。この開発業務がどの程度の忙しさになるのかはっきりしないが、横浜市内での勤務のように日付が変わってもまだ帰宅可能、というわけにはいかない。バスの間隔も朝は20 分おきに発着しているが、19 時台になると30 分おき、21 時台では最終バスの1 本しかない。仕事を切り上げる時間を気にする必要もありそうだ。時間をつぶそうにも、周囲には小さなコンビニが1 件あるだけで、カフェも本屋もないのだ。
 くぬぎ市を訪れるのに一番便利なのは自動車だが、うちの会社では社有車がない。先週の白川さんの説明を聞いた細川くんは、帰社すると同時に社長のデスクに向い、自家用車での通勤を願い出た。ガソリン代をエースシステムが負担してくれるというのだから、会社に損はない、と考えたのだろうが、田嶋社長は難しい顔を返した。自家用車を業務で使用するには、保険や車両規定など、確認したり整備したりしなければならない事項が、いくつかあるからだそうだ。2 月の実装フェーズ開始までには何とかする、と言っていたが、とりあえず今日の開発センター見学は公共交通機関で、ということになった。
 私が周囲をキョロキョロ見回しているうちに、もう1 系統のバスが到着し、スーツを着た男女がぞろぞろ吐き出されてきた。その中に東海林さんと細川くんが混ざっている。私は手を振って合図した。
 「おはよう」東海林さんが小さく手を上げた。「やっぱり時間かかったな」
 「ドアドアで100 分ってとこですね」私は後輩に顔を向けた。「細川くんは?」
 「ぼくもそれぐらいです。車ならもっと早いんですけどね」
 「2 人とも車で通勤できるようなら」東海林さんが去って行くバスを見送りながら言った。「交替で川嶋をピックアップしてきた方がいいかもな。交通費も浮くし」
 「そうしてもらえると助かります」
 「あれが開発センターのビルか」
 東海林さんが顔を向けたのは、2 車線道路の交差点の斜向かいにある、くぬぎICTセンタービルだ。バスから降りた人々のほとんどは、そちらに歩いて行く。市役所の職員は8 時30 分には登庁するようなので、私たちと同じプログラマなのだろう。
 私たちもくぬぎICT センタービルに歩き出し、交差点で信号待ちをした。このあたりでの移動は車が基本らしく、交通量はそれなりに多い。ドライバーが物珍しそうな視線を私たちに向けてくる。
 本来なら今日はくぬぎICT センタービルの見学だけだったはずだが、先週末になって予定変更が黒野を通じて連絡された。別途予定されていたプログラマ向けの説明会は中止となり、本日から金曜日までの4 日間、説明とフレームワークの研修が行われることになっていた。研修の詳しい内容は知らされていない。まだ去年からの仕事の残作業を抱えている東海林さんはブツブツ言ったが、何とかやりくりして参加している。
 私たちは交差点を渡り、くぬぎICT センタービルの前に立った。前市長がくぬぎ市図書館リニューアルオープンを高らかに宣言した頃、このビルの1 階には、クリック・ブックスと成城石井、パスタ専門店が入っていたが、現在は全て撤退している。ガラスドアに貼られた「テナント募集」が空しく風に揺られていた。
 6 階の開発センターに上がるには、ビルの裏側のオフィスエントランスを通るのだが、1 月中はシャッターが下りているので、防災センターの隣の夜間通用口から入る。あらかじめ届けられたID カードでドアを開け、眠そうな顔の警備員の前を通って、3 基あるエレベータの1 つに乗った。やはりプログラマらしい数人の男性も一緒だ。
 エレベータは清掃が行き届いていないのか、壁面に汚れが浮いていた。右側の壁に「注意! 2 月10 日よりAPB が導入されます」と太ゴシックで印刷されたA4 用紙が貼ってある。私が疑問を口にする前に、細川くんが貼り紙に目を留めた。
 「APB って何ですか?」
 「さあね」私はいくつかの英単語を思い浮かべてみたが、この場合に該当しそうな組み合わせを見つけ出せなかった。「all people bad、とか?」
 「何ですか、それ」
 「知らないわよ」
 すると、乗り合わせていた40 過ぎぐらいの男性がクスクス笑いながら教えてくれた。
 「APB は、アンチパスバックのことですよ」
 「あ、そうですか」私は照れ笑いをしながら礼を言った。「ありがとうございます。ついでにもう1 つ教えてください。アンチパスバックって何ですか?」
 「1 枚のカードで」男性はそう言いながら、自分の首に提げているID カードをつまんで見せた。「2 人が入退室するのを防ぐ機能です」
 「そういうことですか。ありがとうございます。申し遅れました。サードアイシステムの川嶋です」
 「TSD の草場です」男性はそう名乗って人の好さそうな笑顔を見せた。「TSDというのは、ツジ・ソフトウェア・デベロップメントの略です」
 「よろしくお願いします。あ、この2 人は、私の連れです」
 「サードアイさんは知ってます」草場さんが言ったとき、エレベータが6 階に到着した。「説明会のとき、エースの上級SE の方と議論してましたよね。対等に話しててすごいな、ってウワサになっていました」
 「議論ね」東海林さんが苦笑した。
 エレベータを降りると、正面に乳白色のガラスの壁が広がっていた。足元と天井付近は透明だが、歩行する人の視線が届く範囲は、ガラスの向こうで誰かが動いていることぐらいがわかる程度に不透明だった。壁には何か――おそらくQ-LIC――のロゴを除去したような痕跡が残っている。
 ドアはすぐ近くだった。東海林さんが自分のID をセンサーにあててドアをスライドさせ、私たちは開発センターの中に入った。
 「明るいですねえ」細川くんが驚きの声を上げた。「それに広い」
 ドアから入った正面に、反対側の壁付近までモニタの乗ったデスクがずらりと並んでいた。ざっと200 席近くはある。それなのに「詰まっている」という印象はない。
 出迎えてくれたのは、タブレットを手にしたエース社員だった。説明会で白川さんに叱られていた人ではなく、初めて見る顔だ。首から提げたID カードの名前は<一戸コウジ>だった。
 「お待ちしていました」一戸さんはにこやかに私たちに一礼した。「左右のリーダーのどちらかにカードをタッチしてください」
 ドアの両側の壁にタブレットが設置されていて、隣に非接触型のカードリーダーがある。私は自分のID カードをリーダーに触れた。ポロン、と軽やかな電子音が響き、タブレットに「サードアイシステム株式会社 川嶋」と表示された。
 「これから出退勤の際には、そのリーダーにタッチしてください」一戸さんはそう言うと、左手の方を示した。「では、あちらのフリースペースでお待ちください」
 指示されたのはいくつかのテーブルと椅子が並んだ場所で、すでに多くのプログラマたちが集まり、小声で囁き合っている。その奧に白川さんが微笑みながら立っていた。白川さんは私たちの、というより、東海林さんの姿に気付くと、手にしていたプリントアウトをテーブルに置いて、こちらに歩いて来た。
 「サードアイシステムさん」白川さんはにっこり笑いかけた。「ようこそ。お待ちしていました」
 「お世話になります」東海林さんは一礼した。「わざわざのお出迎え、痛み入ります。弊社のような弱小ベンダーごときに」
 黒野が同席していたら、また顔を青くするんだろうな。そんな想像が頭をよぎり、私はつい口元を緩めてしまった。すると白川さんが面白そうに私を見た。
 「川嶋さんですね。何か楽しいことでもありましたか?」
 「いえ、何でもありません」私は少し驚きながら答えた。「あの、どうして、私の名前をご存じなんですか?」
 「今回参加されるプログラマの方の顔、名前、職務経歴は、全て頭に入っていますよ」白川さんは何でもないような顔で答えた。「PL としては当然ですが何か」
 計42 社、100 人以上の人間の顔と名前と職務経歴を記憶? エースシステムでは、PL 職になると、みんなそんなことを要求されるんだろうか。それとも、この人が特別なのか。
 「9:00 ちょうどに説明を開始します」白川さんはフリースペースの方に手を振った。「適当な場所に座るか立つかしていてください。椅子の数には限りがあるので、座りたければ急いだ方がいいですよ」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 壁にかけられた電波時計が9 時を告げ、白川さんが説明を開始したとき、私たちサードアイの3 人は2 つの椅子を確保していた。座るのは東海林さんと私だ。細川くんは「ジャンケンで決めませんか」と提案したが、多数決で否決された。
 まず開発センターについて入館、退館の方法、トイレやロッカーの場所、ブレイクルームの使用方法などの簡単な説明があり、続いて通勤手段の申請方法について説明があった。社有車または自家用車での通勤は認められるが、当面は1 社につき1 台までで、開発の進捗状況などによって増やしていく。ガソリン代の補助は、あらかじめ申請したルートの距離数によって決定する。高速代は負担されない。希望するベンダーには駐車場の割り当てをするので、申請フォームに入力すること。半数以上のベンダーが手を挙げ、エースシステムのサブリーダー3 人が、フォーム入力用にタブレットを手渡していた。うちも細川くんがタブレットを受け取った。
 周辺には飲食店やコンビニの数は少なく、市役所職員も利用するために競争率が激しい。そのため事前に購入してくることが推奨される。夏場に備えて大型の冷蔵庫がブレイクルームにある。また市外の宅配弁当業者と契約していて、平日の弁当注文も受け付けてもらえる。ただし注文の締め切りは10:30 で、個数が10 個未満の場合は配達コストをエースシステムが補填しなければならないので、できるだけまとまっての注文が望ましい。
 開発用PC はデュアルモニタのVDI 端末で、静脈認証とパスフレーズで起動する。PC 本体はDell の4 年前の型式だが、VDI 端末としてしか起動できないようにカスタマイズされているという。起動中はローカルのメモリとHDD が使用されるが、それらのリソースにアクセスする手段はないし、シャットダウン時には消去される。
 「パスフレーズは」白川さんは淡々と告げた。「不定期に変更されます。任意の変更はできません」
 「すいません」1 人の男性が手を挙げた。「どのぐらいの間隔で変更されるんでしょうか」
 白川さんは、その男性を優しく睨んだ。
 「御津ソリューションズの馬渡さん。不定期、と言ったのが聞こえませんでしたか? 不定期というのは定期的ではないという意味です。間隔をお伝えすることはできないんです。おわかりでしょうか」
 馬渡さんは慌てて首を縦に振ると身体を縮こまらせた。白川さんは馬渡さんを安心させるように微笑み、説明を続けた。
 「パスフレーズはスマートフォンの専用アプリに通知されます。アプリは後ほど、みなさんのスマートフォンにインストールしていただきます」
 「ガラケーの場合はどうするんでしょうね」細川くんが囁いたが、その答えは1 秒後に明らかになった。
 「フィーチャーフォン、いわゆるガラケーをお使いの方は、弊社が指定するMVNO の中から選択して、今月中にスマートフォンを入手してください。契約書を持参していただければ、初期費用と3 ヵ月分の基本料金を負担します」
 居合わせたプログラマたちが一斉にざわめいた。
 私はAndroid のスマートフォンを使っているが、ガラケー使いのふりをして新しいスマートフォンをゲットできないだろうか。そんな誘惑に駆られたが、すぐに考え直した。先日の説明会での数時間と、今日これまでの間に、何度かスマートフォンでLINE やメールを送っている。その姿を白川さんに目撃されていない、という確信が持てなかったのだ。なにしろ、言葉を交わしたこともない私の顔と名前を記憶しているような人だ。
 「至れり尽くせりですね」細川くんが呟いた。「そんなにコストをかけて、利益が出るんでしょうかね」
 「トップに高杉さんがいるからな」東海林さんが応じた。「損をするような原価計画は立ててないんだろうな」
 私たちがざわめいている間に、白川さんは部下のサブリーダーに命じて、キャスター付きのスタンドに設置された55 インチぐらいの液晶TV を運んでこさせていた。電源が入ると、咳払いしてざわめきを鎮め、手にしたタブレットから画面を転送する。

 図書館システム jp.lg.kunugi.knglbs
 学校支援システム jp.lg.kunugi.kngsss

 「それぞれのシステムの基本パッケージ名は、この2 つになります。たとえば、学校支援システムの場合、ここからパッケージが分岐します」

 jp.lg.kunugi.kngsss
  +school
   +info
   +bbs
  +student
   +person
   +family
   +record
  +teacher
   +info
   +work

 「通常であれば」白川さんはパッケージ名の一覧をスクロールさせながら言った。「各パッケージの担当を決めるところですが、今回はそのようなアサインはしません。A 社とB 社は図書館システム、C 社とD 社は学校支援システム、という大分類さえ行いません。みなさんは、私と3 名のサブリーダー、7 名のSE の指示に従って、最小単位の機能、または画面を完成させることに集中していただきます」
 何人かが不満の声を上げた。白川さんは声を張り上げることもなく、薄く微笑んだ。
 「これはスケジュールの遅延を最小限に抑えるためです。みなさん1 人ひとりの担当するスコープが狭ければ狭いほど、遅延のリスクを抑制することができます。仮に体調不良などで休むことになっても代替が容易ですし、結合テストを行う場合でも、誰かのモジュールが作成待ちのためにテストができない、という事態を、モックを用意することで避けることができます」
 東海林さんが手を挙げた。白川さんは頷いた。
 「サードアイの東海林さん、どうぞ」
 「前回の説明のとき、詳細設計書は作成しないとうかがいました。また、我々実装側が、直接エンドユーザと打ち合わせを行うこともあり得る、ともうかがいました」
 「その通りです」
 「しかしながら、白川さんは、今、我々が担当するのは最小単位の機能だと言われました。最小単位の機能の仕様については、我々がエンドユーザと直接話をするということになりますが」
 「なりますね。何が疑問なんでしょう」
 東海林さんは椅子から立ち上がると、演奏を終えた指揮者が楽団を紹介するように、ぐるりと手を回した。
 「プログラマの数は100 人以上いるんですよ。いちいち詳細な打ち合わせをしていては、エンドユーザ側の担当者の方は、本来の業務ができないのではないでしょうか」
 「もっともな疑問です」白川さんはドアに目を走らせた。「それについては......ああ、ちょうどいいタイミングでいらっしゃったようです」
 白川さんの言葉と同時にドアが開き、6、7 人の男女が入ってきた。全員、ネイビーブルーを基調にしたジャンパーを着ている。くぬぎ市についてネットで検索していたとき、何度か目にした制服だ。先頭の痩せた男性は40 代前半ぐらいで、メガネをかけた穏健そうな顔をしている。
 「みなさん、ご紹介します」白川さんは、男性の隣に立った。「くぬぎ市再生タスクフォース推進室室長の瀬端さんです。つまり、私たちのエンドユーザの窓口となります。他の6 人の方々と一緒に、この開発センターに常駐していただきます」
 瀬端さんは私たちに向き直ると深々と一礼した。
 「はじめまして、瀬端です。来月からみなさんと一緒に、この開発センターでお仕事をさせていただきます。くぬぎ市再生のため、どうぞお力添えをいただければ、と思います。よろしくお願いします」
 言い終わると、瀬端さんと6 人の職員の方たちは、また頭を下げた。白川さんは、立ったままの東海林さんに視線を移した。
 「瀬端さんたちの本来の業務は、この再生プロジェクトそのものです。センター内に席があるので距離的な問題も発生しません。市役所職員なので18 時で帰宅することになっていますが、必要であれば残って打ち合わせなどにも応じていただけるそうです。東海林さん、これで答えになっていると思いますが、どうでしょう?」
 東海林さんは降参したように軽く両手を挙げると、妙に満足そうな顔で座った。
 「こういうの何て言うんでしたっけ」私は訊いた。「アジャイルで」
 「オンサイト顧客だな」東海林さんは短く笑った。「日本じゃ非現実的なプラクティスだと思っていたんだが、まさかエースが実現するとは」
 「しかも、まともな顧客みたいですよ」細川くんが囁いた。
 瀬端さんは、軽いジョークを交えながら、部下の職員を紹介している。いわゆる役人らしさのない人だ。後で知ったことだが、瀬端さんは元々、くぬぎ市南中学に社会科の教師として勤務していたそうだ。
 「そうだな」東海林さんも頷いた。「不安要素が1 つ減ったってところだ」
 白川さんも一歩退いて、瀬端さんが話すのを見ていた。その顔には楽しそうな表情が浮かんでいる。クライアントとして瀬端さんを信頼しているからかもしれない。無茶ぶりのひどい顧客に当たったときの開発は、大抵の場合、悲惨な結果になることが多いのだが、瀬端さんの場合は、そんなこともなさそうだ。くぬぎ市の場合、最初の開発時には、少なくない数のプログラマが心身を病む結果になったと聞いていたから、同じ過程を辿らないようにと祈っていたのだ。
 私はホッとして肩の力を抜き、いつのまにか肩に力が入っていたこと気付いた。どうも白川さんと相対していると、知らず知らずのうちにメンタルとフィジカルが緊張を強いられるようだ。見かけは優しそうな女性なのに、放射されるエネルギーが桁違いだからに違いない。
 「これなら、何とか......」この開発案件もやり過ごせそうだ、と言いかけたとき、ドアが開いた。白川さんと瀬端さんがそちらを見て、入ってきた人物を認識した途端、揃ってその顔が強張る。
 「弓削さん」白川さんは尖った声で、新たな人物を迎えた。「何のご用でしょう」
 「おいおいエースさん、ご挨拶じゃないですか」
 弓削と呼ばれたのは、一見するとやり手のビジネスマン風の大柄な五十絡みの男性だった。高級そうなスーツを着て、これまた高級そうなコートを片手に持っている。腹と頬と顎には、かなり余計な肉がついていた。特にストライプのワイシャツのボタンが飛びそうなほどの腹部は、健康器具のセールスマンなら目を輝かせてカタログを並べるだろう。派手なチェック柄フレームのメガネをかけ、口ひげを生やし、中途半端な長さに伸ばした髪をヘアゴムで留めている。ちょいワルおやじを気取っているらしいが、私にはイタいおじさんにしか見えない。
 「弓削さんをお呼びした記憶はありませんが」白川さんの顔からは、笑顔が痕跡すら残さず消え失せていた。
 「そう冷たくしなさんな」弓削さんは頬の肉を震わせて笑った。「忘れてるといかんから言っておくがね、うちの会社はまだくぬぎ市と市政アドバイザリ契約を維持しておるんだ。私は市のどんな会議にでも参加できるし、全ての事業計画書を閲覧する権限がある。もちろん、再生プロジェクトも含めてね。今日、下請けさんたちが集まるのなら、私も一言挨拶しようと思って寄らせてもらいましたよ」
 弓削さんはまた笑ったが、白川さんはもちろん、瀬端さんたち職員も、お義理にでも同調しようとはしなかった。
 「挨拶ですか」氷点下近くまで冷え切った声で白川さんは応じた。「どうしてもでしょうか」
 弓削さんはニヤリと笑って頷いた。
 「ではどうぞ」感情の欠落した声が応じた。「手短に」
 「おいおい、紹介もなしかい」弓削さんは肩をすくめた。「まあいい。えー、みなさん、私はQ-LIC の弓削という者です。ゆげ、とは、弓を削ると書きます。うちの会社については、いろいろな悪評を立てている者もおるようですが、Q-LIC は言われているような悪い会社ではないんですよ。本当に悪い会社だったら、全国にクリック・ブックスを展開するなどできるはずがない。そうでしょう?」
 「はい、ありがとうございました」
 白川さんが素早く割り込んだ。明らかにもっと長い演説をするつもりだった弓削さんは抗議の声を上げたが、白川さんの冷たい声がそれを遮った。
 「私から付け加えると、弓削さんは、今はないKID という会社でテクニカルセクションリーダーという役職についていました。現行の図書館システムと学校情報システム開発の総責任者だった方です」
 つまり、くぬぎ市に惨憺たる有様をもたらした元凶の一人だ、と言いたいのだろう。
 「私は、いえ、エースシステムは弓削さんにいくら感謝の言葉を述べても足りないぐらいです」白川さんは、クスリと笑った。「なぜなら弓削さんがプロジェクトを失敗させてくれたおかげで、今、こうして私たちが仕事を得ているのですから」
 「おいおい」弓削さんは乾いた笑い声を上げた。「失敗ってな......」
 「さらに付け加えるならば」白川さんは弓削さんを見ようともせず続けた。「みなさんは、今回のPL が私であって弓削さんではないことに感謝すべきですよ。そこに立っている人が指揮した前回のプロジェクトでは、27 人のプログラマとシステムエンジニアが開発途中で離脱し、うち何人かは今でも通院加療中、リーダーだったエンジニアは鬱状態が長く続いた後、自ら命を絶っています」
 「おいおいおい」さすがに強張った表情になった弓削さんが抗議した。「そんな根も葉もないウワサを、さぞ事実であるかのように吹聴されては困るな。確かにKID にいたマネージャの一人が自殺したのは事実だが、それと前回のプロジェクトとの関係は証明されておらんよ」
 白川さんは、もう話すことはないと言わんばかりに顔を背けた。代わりに瀬端さんが話し手を交替した。
 「弓削さん。そろそろお引き取りいただいていいでしょうか。これから、開発について説明をする予定になっていますのでね」
 穏やかだが苛立ちを隠しきれてはいない口調に、あ、瀬端さんも弓削さんのことを嫌ってるんだな、と感じた。
 「はいはい、わかりましたよ」弓削さんはわざとらしく肩をすくめた。「嫌われ者は、さっさと退散しましょう」
 弓削さんはドアの方に歩き出したが、何かを思い出したように振り返った。
 「ああそうだ。みなさんの中で、QLIC カードをお持ちでない人がいたら、私に言ってください。私を通してクレジット機能付きQLIC カードを作ってもらえれば、特別にQ クレジットを20,000 クレジット付けてあげるから。私の連絡先はアドレス一覧に入ってる。お待ちしていますよ」
 誰もが呆気にとられて見送る中、弓削さんはさっさと退出していった。ドアが閉まると、白川さんが大きくため息をついた。
 「この開発センターの窓は手動で開閉ができません。エアコン完備ですから、普段は何ら不自由を感じませんが、こういうときは不便だと思います。窓を全開にして汚染された空気を入れ換えることができないんですから。さて、突発事故で中断させてしまいましたが、説明を続けたいと思います」

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(14)

コメント

匿名

今作に入ってから、煽りフェイズの回数が段違いに増えてて変な笑いが出た。

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うわぁ、険悪ぅー

のり&はる

「ひよっこ」の観すぎで白川さんがシシド・カフカ嬢で脳内動画再生しております。

LvB

更新ありがとうございます。拝読させて頂きました。
リーベルG様の小説は,今回のように物語が本格展開する前の
ゆったりとした空気が感じられる回も大好きです。
読者は,この後とんでもないカタストロフィが到来するのを知っているからなんですけどねw
これからも楽しみです。

のり&はる様のコメントに全面同意です。
私も同じ印象を感じていました

匿名

白川さんに対しては強気な弓削さんも、第一話見る限り高杉さんには圧倒されていたので、なんというか高杉さんは仕様に深入りせずに矢面に立ってもらうのに留めれば、本当に頼りになる人だよなあと感じました

匿名

契約が残っているとは言え、失敗した業者が自由に会議に出れるのはおかしいのでは

とかげ

交通アクセスとか、札幌のテクノパークを彷彿させますw

匿名

パスフレーズを不定期に変更するのはまだ良いとして、
それの通知方法がスマホアプリ経由というのは、漏洩リスクを高くするだけなのでは……

匿名

なんかSE持ち上げるストーリなりそうな予感
無事リリース直前まで言ったのでAフレはまともに動いてそう
そしてCassandraだからあんまSQLとかは気にしなくて済むので高杉女史も口出せそう

SE、客とPGが個別で折衝でチーム要素無し
白川、高杉ペアが弓削をあしらいつつ仕様を問題なくやるで初回直前まで行きそう

長文での背景の説明が推理小説のようにここに何かのヒントがあるのかな
それともアットアイティから依頼があってIT業界の背景も書いたんだろうか

交渉力って必要だけど何で高杉さんエンジニアやってるのかが疑問だわな

3STR

社員の命と市長の政治生命絶っておいてこの面の皮、生き物として凄いわ

夢乃

既に言われている件の他に、別の件が混じっている気がして、今後どう展開していくか、戦々恐々です(((;゚Д゚))))
明かされている次のイベントは6月かな?せめてそこまでは大過なく進んで欲しいところ。

ところで。
白川さんが「ざわめきを沈め」ていますが、ざわめきは「静める」または「鎮める」ものではないでしょうか?
(だけど、「沈黙」という言葉もあるから「沈める」でもいいのかな?自信なし・・・)

リーベルG

夢乃、どうも。
この場合「鎮める」ですね。ありがとうございました。

mana

いつも楽しみにしております。

>おわかりでしょうか」
>馬渡さんは慌てて首を横に振ると

文脈的に、横→縦(肯定)でしょうか?

リーベルG

manaさん、ありがとうございます。
縦に、が正しいですね。

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