ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

ハローサマー、グッドバイ(38) 脱出

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 EV ヴァンの後ろを走っているのは、お馴染みのツートンカラーに塗装されたミニパトだった。けたたましくサイレンを鳴らし、パトランプを点滅ながら接近してくる。路上のZたちは、もちろんその音と光に注意を惹きつけられ、一斉に歩みを止めた。

 みなとみらい大通りをゆっくり進んできた2 台は、みなとみらい4 丁目交差点で二手に分かれた。EV ヴァンはセキチュー側に右折、ミニパトはiDC 大塚家具の方へ左折して視界から消えた。多くのZがその後を追うように向きを変え、のろのろと歩き出す。

 『待たせたな』シルクワームとの通信が回復した。『このまま屋上駐車場に直行する。1 階のバリケードはこっちでどかすが、屋上のは開けておいてくれ』

 『了解』レインバードが応答した。『みんな無事?』

 『ああ無事だ』テンプルが答えた。『スクレイパーはパトカーでZを拠点の周囲から引き離しに行ってる』

 一度途絶えたサイレンが、再び聞こえはじめた。レインバードの視野を見ると、いちょう通りの交差点にミニパトが現れたところだった。ミニパトはそのままタイヤを滑らせながら左折すると、時代遅れの暴走族のように蛇行しながら三菱重工ビルの前まで進み、けやき通りの広い交差点で派手なスピンターンを繰り返した。スキール音とパトランプ、そしてタイヤから発生する白い煙に、Zの注意が集中する。セキチュー店内に侵入してきたZたちの中でも、入り口に近い奴らは、どっちに行ったら遅い朝食にありつけるのか、と迷ったように屋外に顔を向け直していた。

 黒塗りのEV ヴァンは、交差点を曲がった地点で停車して様子を窺っていたが、やがて周囲のZを刺激しないようにゆっくりと動きだし、駐車場へ入ってきた。駐車場にいた数十体のZたちは、建物の反対側で繰り広げられているドリフトマッスルに興味を示して散らばりつつあった。

 1 階の平面駐車場から屋上駐車場へ続く入り口には、クッションドラムとアルミ製のバリケードフェンスが設置してあった。EV ヴァンの助手席からシルクワームが降り、周囲を警戒しながら、慎重にバリケードをどかし始めた。

 『スクレイパー、そろそろいいぞ』テンプルが呼びかけた。『こっちはもう屋上に上がる』

 『わかった』スクレイパーが応じた。『こいつを乗り捨てたら、遠回りして拠点を出たあたりに隠れる。帰りに忘れずに拾ってくれよ』

 『D 型に気をつけな』テンプルは答えた。『ヘッドハンターの生き残りにもな』

 けやき通りでは、ミニパトが連続ターンを止めて、南の方角へ一気に加速していた。ランドマークタワーの駐車場入り口で急カーブを切って突っ込むと、タイヤを横滑りさせて停車し、最後にクラクションが3 回鳴った。数百体以上のZがぞろぞろと押し寄せる中、運転席からスクレイパーが飛び出し、そのまま日本丸の方へ走って姿を消した。おそらく、クイーンズスクエアの横を抜けて、迂回しながらセキチューの近くを目指すのだろう。何体かのZがスクレイパーを追ったが、ほとんどのZは光と音の方に興味があるらしく、ミニパトを十重二十重に押し包んでいた。おかげでセキチュー周辺のZ密度は、かなり薄くなっている。

 その間にも、セキチュー内部では決死の防衛戦が続いていた。階段からもZが昇り始めていたので、サンキストは慎重に狙いをつけて発砲を開始した。スロープを守るリーフたちは、押し寄せるZの群れをどうにかせきとめていたが、ついに弾薬の枯渇が決定的になってきた。

 「弾!」藤田がわめいた。「弾がねえぞ」

 「こっちもない」小清水大佐がパニック一歩手前の顔で言った。「補給を頼む」

 「もうない」ブラウンアイズは、両手に山と抱えたバイクのエンジンオイルの1 リットル缶の陰から返した。「手伝って。これを上からかけるよ」

 藤田は小清水大佐と顔を見合わせると、ブラウンアイズを手伝って、オイル缶のキャップを外し、バケツに注ぎ始めた。

 リーフはギリギリまで引きつけて、最もバランスを崩しやすい一点を狙っているので、まだ残弾数には余裕がある。意外なことに、胡桃沢さんもリーフと同じぐらいの弾薬を残していた。いかにもエンジニアらしく、命中すると確信が持てるまで引き金を絞らなかったからだ。もっともそれだけ慎重に撃っても、Zにヒットした数は多くはなかったが。間違ってもギャンブルなどに溺れそうにない人だ。

 ブラウンアイズたちが、バケツにためたエンジンオイルを上からぶちまけた。Zたちは降ってきた粘性のある青い液体に足を取られ、何体かは転倒してくれたが、いかんせん数が多すぎた。倒れたZを他のZが踏みつけ、よろめきながらも進んでくる。

 さらにまずいことに、また5、6 体のD 型が乱入してきた。ミニパトのサイレンにも惑わされなかったらしい。R 型を押し倒し、その身体の上を容赦なく走ってくる。骨の砕ける音が何度も届き、ぼくは吐き気をこらえた。

 『車が来ました』レインバードが叫んだ。

 「よし、撤収だ」谷少尉は命じた。「繰り返す、撤収する。ブラウンアイズ、民間人を屋上に誘導しろ。リーフ、サンキスト、時間を稼げ。ありったけの弾を使って構わん」

 リーフは胡桃沢さんから銃を受け取ると、殺到してくるD 型に点射して接近を阻んだ。サンキストも階段の踊り場で膝を立てた姿勢で、昇ってくるZを押し返している。UTS-15J は薬室内も入れてフル装弾で15 発。6 発分の独自拡張マガジンがあるが、そちらの予備弾倉は回収できなかった。2 人とも所有している予備弾倉はあと2 つずつ、計28 発だ。対して、店内にひしめくZの数は、少なく見積もっても100 を下回ることはないだろう。

 『シルクワーム、降りてきて大尉を上に運んでくれ』谷少尉は続けて命じた。『レインバード、火力が足らん。降りてきて援護しろ。テンプルはそのまま車を防御』

 「出るわよ」ブラウンアイズが走ってきた。「準備は?」

 「できてる」

 ぼくがソリストのソフトウェア面をいじくっている間に、胡桃沢さんがハードウェアをひとまとめにしてくれていた。当初、サンキストと相談していたようにボードなどに固定する案は、1 階に資材を取りに行けなくなってしまったため断念した。代わりに店の奥の収納コーナーから持ってきたポリプロピレン材質の収納ケースが使われた。ケースの中央に重いリチウムイオン電池ユニットを置き、ガムテープで固定した後、周辺に5 台のラズベリーパイとSSD、ノートPC、スイッチングハブ、Wi-Fi ルータを両面テープできれいに配置したのだ。隙間には丸めたコピー用紙などを詰めて、動かないように配慮している。ボリスのタブレットも同じケースに入れてあった。

 「じゃいくわよ」

 「おいおい」床に転がったボリスが叫んだ。「置いて行く気か」

 「あんたのことは命令されてない」

 「ブラウンアイズ」谷少尉は苦笑した。「そいつも一応連れてけ。証言させる必要がある」

 ブラウンアイズは、仕方がないというように肩をすくめると、キャスター付きのオフィスチェアを引っ張ってきた。ボリスの服をつかんで引きずり起こして、放り込むように座らせる。

 「おい、ほどいてくれよ」

 「ほどけとは言われてない」ブラウンアイズは後ろに回って押し始めた。「行くわよ」

 ブラウンアイズはボリスの座った椅子を押しながら、屋上に上がるスロープへと急いだ。ぼくと胡桃沢さんはソリストの入ったケースを運び、小清水大佐と藤田が後に続いた。朝松監視員は最後尾で、前を行く2 人に油断のない視線を突き刺している。

 途中で屋上から降りてきたレインバードとシルクワームとすれ違った。シルクワームはニヤリと笑うと、親指で上を指した。

 「帰りは乗り心地のいい高級車でドライブだぜ」

 「こんだけ働いたんだもの。そろそろ楽するのもありよ」

 ぼくたちがスロープを登る間にも、リーフとサンキストの防戦は続いていたが、もはやZを食い止めることは、困難を通り越して不可能という領域に突入しつつあった。レインバードが参戦し、正確な射撃でD 型を仕留めていたが、実弾はあと数発だ。尽きてしまえば、高性能の狙撃銃も棍棒と同程度にしか役に立たなくなる。

 『シルクワーム、急いで』

 『いいぞ』大尉を背負ったシルクワームが答えた。『先に行く』

 『よし』谷少尉は叫んだ。『全員、屋上へ急げ。レインバード、バックアップ』

 レインバードが残り少ない弾丸を吐き出している間に、リーフとサンキストが谷少尉に駆け寄り、両側から肩を貸して連れ出した。

 「くそ!」サンキストが吐き捨てた。『また出血してるじゃないですか。なんで言わないんです』

 『いいから急げ』

 ブラウンアイズを先頭に屋上に上がったぼくたちは、建屋を出た先に黒いEV ヴァンを目にして、一斉に安堵のため息をついた。この手の車種には詳しくないが、カスタマイズされたエスティマのようだ。全ての窓には透過率の低いスモークが貼ってあり、外からは覗きにくくなっている。特徴的なのは、フロントから鋭角的に突き出した太いカンガルーバンパーだ。明らかにメーカー純正品でも市販品でもない。もちろん、Zに正面衝突しても被害を最小限にとどめるためだろう。いや、もしかすると積極的にZを跳ね飛ばすための装備なのかもしれない。

 テンプルが車の横で銃を構え周囲を警戒していたが、ブラウンアイズの顔を見ると片手を挙げて合図した。

 「よお。急げよ」

 「戻ってきてくれて嬉しいわ」ブラウンアイズはテンプルの肩に拳を打ちつけた。「全員、乗れる?大尉は横にしておかなきゃならないんだけど」

 「とにかくここを脱出するぐらいの間は何とかな。セカンドシートに大尉を横たえて誰かが補助する。ドライバーとナビ以外は、後ろのシートを全部倒して詰め込むんだな」

 ブラウンアイズは頷くと、藤田を呼んだ。

 「全員が乗れるようにして。いらない物は全部出すのよ」

 「酒とか食い物もかよ」藤田は車に向かって歩きながら言った。「ナポレオンとか高級キャビアとかあるんだぜ」

 「さっさとやらないと、あんたを不要品リストに入れるわよ」

 実行しかねないと思ったのだろう、慌てて後部シートに身体を入れた藤田を見ながら、ブラウンアイズはテンプルに訊いた。

 「マグ、残ってる?」

 「いくつか転がってる。楽なドライブだったぜ」

 ブラウンアイズは中央シートの床に転がっていた、UTS-15J の予備弾倉を掴んで装填した。

 「あのパトカーはどうしたの?よくガソリン残ってたわね」

 「あれはガソリンじゃなくて、CNG――天然ガス車だ。1 台だけ動くのがあったんだ。ガスはほとんど残ってなかったんだが、まあ陽動ぐらいには使えると思ってな」

 インシデントZ前、横浜市は「環境未来都市」をスローガンとして、公用車にFCV などのエコカーを積極的に採用する施策を実施してきた。市役所や区役所以外に、いくつかの警察署にも試験的に導入されたというネットニュースを見た記憶もある。戸部警察署にあったのは、そのうちの1 台なのだろう。

 建屋からシルクワームが臼井大尉を背負って出てきた。その後ろから、リーフとサンキストに支えられた谷少尉。最後に出てきたレインバードは、ドラグノフを撃ちながら後ろ向きで歩いている。

 「もうそこまで来てる」レインバードは撃ちながら叫んだ。「ここで足止めしとくから急いで」

 リーフとサンキストが、谷少尉を助手席に乗せ、急いで建屋まで戻っていった。同時にレインバードのドラグノフが弾切れになる。レインバードは狙撃銃を捨てると、UTS-15J に持ち替えてスロープの下に向かって発砲しはじめた。リーフとサンキストも、同じように撃ち始める。

 シルクワームはテンプルの助けを借りて、EV ヴァンの中央シートに臼井大尉を横たえていた。シートベルトで動かない臼井大尉の身体を固定すると、「後は任せた」と言い捨て、床に落ちていた予備弾倉を掴んで建屋に走る。

 胡桃沢さんとぼくは、ソリストの入った収納ケースを臼井大尉が固定されている中央シートの足元に置いた。ケースはまるで専用に用意されていたスペースみたいにすっぽりはまった。簡単には動かないことを確認したあと、2 人でシートが倒されて広々としたスペースになった後部に移動した。

 「全員乗れ」谷少尉が叫ぶように命じた。「ぐずぐずしてると置いてくぞ」

 藤田と小清水大佐が後部に乗り込み、朝松監視員が右肩を少しかばいながら続いた。シルクワームが転がっていたボリスの襟元を掴んで引きずり、抗議の声を無視して胡桃沢さんの横に乱暴に放り込み、自分も乗り込む。建屋では3 人のバンド隊員が撃ちながら小走りに後退し、やがて合図と共に一斉に走り出した。同時に阻止する手段がなくなったスロープと階段からZがこぼれだす。最初に数体のR 型、次にD 型が駆け上がってくる。その後からさらに大量のR 型。数える気にもなれなかったが、3 人のヘッドセットが取得した情報から、ソリストは律儀にZの数をカウントして報告した。D 型:3 - R 型:26 - さらに増大中......

 レインバードとブラウンアイズが中央シートに両側から乗り込み、最後の2 人は後部に飛び込んだ。リアハッチは上に跳ね上げたままだ。

 「テンプル、出せ!」サンキストが怒鳴った。

 テンプルはエンジンをかけた。指揮車両と同じように、ほとんど駆動音がしない。1 体のD 型が動き出したヴァンに目を留め、怒りの咆吼と共に疾走してきたが、リーフが無造作に狙いをつけて撃ち倒した。

 「All seat backs and tray tables must be in their full upright position.」テンプルが陽気に叫ぶとハンドルを大きく切った。「これより当機は気流の悪いところを通過いたします」

 すでに屋上にはZがあふれ出している。混じっていたD 型が一斉にこちらに向かってきた。だが、テンプルはすでに駐車場のゲートを抜け、スピードを上げて一気にスロープを下っていた。

 「おっと」サンキストの言葉と同時に、揺れる視界の中にドローンのコントローラが出現した。「フライボーイも連れていかなきゃな。あんなところに置いておくのは可哀想だ」

 車は1 階のゲートを過ぎ、歩道をうろうろしていた数体のZを器用に避けながら、みなとみらい大通りに出た。長かった籠城の、これが終局だった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 大通りを時速30km 程度で走り出したEV ヴァンを、周辺に残っていたZが目に留めて散発的に追いかけてきた。サンキストがフライボーイ2 をPC DEPOT 付近の道路の上空で旋回させ、音響装置を作動させた。規則的な電子音がフルボリュームで鳴り響き、Zたちはその付近に群がる。忘れられた存在になったEV ヴァンは、悠々とすずかけ通りの交差点を左折した。

 左折してすぐ、LIXIL のショールーム前でテンプルは車を停車させた。同時にスクレイパーが飛び出してきて後部に転がり込む。ひどいすし詰め状態で、明らかに後部タイヤに荷重がかかりすぎだが、誰も文句を言おうとはしなかった。サンキストが手を伸ばしてリアハッチを閉じると同時に、車は静かに再スタートした。

 シルクワームが、快適なドライブ、と言った理由はすぐに明らかになった。リアハッチが開放されている間は気付かなかったが、エアコンが効いているのだ。切り離されてみて初めてわかるものはたくさんあるが、文明社会の恩恵もその1 つだ。

 「全員、よく耐えてくれた」谷少尉が苦しそうに言った。「あと少し気を抜くな。これ以上、誰一人失いたくない。死ぬときは許可を取れ。帰還したら、全員にビールと焼き肉をおごることを約束しよう」

 何人かが乾いた笑い声を上げた。

 「各自、残弾数を申告しろ」

 一斉に文字データで残弾数が届いた。一番多いのはシルクワームの20 発で、最小はリーフの3 発だった。谷少尉は個別に指示して、全員が均等になるように調整した。

 「サンキスト。フライボーイ2 は?」

 「今、呼び戻しました」サンキストは答えた。「前方50 メートルの位置に置いて哨戒させてます」

 「近すぎない?」ブラウンアイズが訊いた。「もうちょっと余裕がないと」

 「あまり遠くまで飛ばすと、D 型を引きつけることになるからな」サンキストは無線LAN 関連のパラメータを調整した。「半径50 メートルでコントロールできる程度の出力にしてある」

 「D 型がいたらどうするの?」

 「Wi-Fi を切って、オートにするしかないな」サンキストはぼくを見た。「切った後、またオンにしたら、自動的にコネクトするか?」

 「ちょっと待って」ぼくはソースを探した。「......ああ。電波がキャッチできれば自動的に復帰する」

 「距離が開きすぎるとダメってことだな」谷少尉が言った。「そういう事態にならんことを祈ろう。テンプル、どれぐらいかかりそうだ?」

 「距離としては、6 キロちょっとですが」テンプルは前方を歩くZをよけながら答えた。「時速はこれぐらい、下手したらもうちょっと落とすことになりそうなので、1 時間ってとこすかね」

 「わかった。安全運転でな。鳴海さん、そっちのバッテリーはどうですか?」

 「それぐらいなら、十分に持ちそうです」

 「Z探知機能は正常ですか?」

 「何とか動いてます」

 実際、数秒前にドローンからのデータ取得が再開し、前方のZ分布マップが次第に生成されつつあった。隊員たちへの反映も自動で行われるように設定済みなので、今のところやることがない。

 「前方にD 型の群れ」サンキストが小声で告げた。「7 から8。こっちには向かって来ない」

 「一時停止」谷少尉が命じた。「やりすごそう」

 EV ヴァンは静かに停車した。Wi-Fi が切れたのを検知したフライボーイ2 が即座に旋回を開始する。周囲にはR 型もかなりうろついていたが、今のところ、こちらに興味を示している様子はない。乗ってきた指揮車両ほどではないが、この車も防音対策は十分にされているようだ。

 「よし、通り過ぎていった」サンキストはため息をついた。「出していい......あ、待て、動くな」

 「何だ」

 「またD 型の群れだ」サンキストの声が緊張した。「10 時方向。今度は多い。20 体以上」

 D 型の群れは、その後、何度も探知され、テンプルはその都度、走行を止めてやり過ごした。豆腐会館を右折し、県道13 号に入ってからは、D 型の方が多いのではないかと思うぐらい頻繁に発見された。いずれも事前に探知できたため交戦する事態にはならなかったが、不安と恐怖で喉がカラカラになった。

 何もできず、じっとしていると不安が増大するばかりだ。こういうときは仕事をするのが一番いい。ぼくはボリスのタブレットをケースから出すと、ロックを解除して中を調べてみた。ベースとなるOS は、デバッグ用――今はソリストのメインサーバだ――のノートPC と同じらしかった。ホーム画面に貼ってあるアプリは、どれも無味乾燥な記号や数字ばかりで、どんな機能があるのか想像もできない。うっかり起動して、全データ消去プログラムや、自爆シークエンス開始だったりしたら目も当てられないので、アイコンに触れるのはやめておいた。

 ぼくはボリスを見た。両手と両足首を縛られたまま、誰よりも広い面積を占拠している。ぼくの視線に気付くと、ボリスは憎悪の念がこもった毒のある笑いで顔を歪めた。

 「勝手にいじくるな、無能プログラマ」

 「おい」リーフがボリスの脇腹を軽く蹴った。「黙ってろ」

 「この中身について教えてくれないか」ぼくは少し気の毒になり、憎まれ口を返すのをやめて訊いた。「ワクチンプログラムがあるんだろう?」

 「知らんね。知ってどうするんだ。シグナルを送ることはできんと言っただろうが」

 「何か認証を迂回する方法があるかもしれない」

 ぼくは自分でもあまり信じていない言葉を口にした。それに目ざとく気付いたのか、ボリスはフンと鼻で笑った。リーフがまたボリスの脇腹を蹴って黙らせる。

 「ワクチンプログラムについて、知ってることはないのか?」ぼくは重ねて訊いた。

 「ないね。私はプログラマじゃない。1 ユーザに過ぎん」

 その言葉を素直に受け取るほど、ぼくは純真ではない。ワクチンプログラムについて、モジュール名などの詳細を知らないのは本当だろうし、失われたもう1 台のタブレットがないとシグナルを発信できないのも事実なのだろうが、それ以外には何も知らされていない、とは信じられない。

 こいつを谷少尉に任せたら、小鳥みたいにペラペラとさえずるんだろうか。束の間、ぼくは物騒な想像に身を委ねた。帰還できる望みが出てきたとたん、自分の価値を高めようとしているようだ。このタブレットには、マーカーから収集したデータの50% が入っている。マスターのタブレットが失われた今、ハウンドにとっては半分であっても貴重なデータだ。無事に持ち帰れば、拍手と歓呼で迎えられ、美女が花束を渡してくれる、とでも思っているのだろうか。JSPKF が、ボリスの身柄を簡単に解放するとは思えないし、アックス殺害の罪で司法当局の取り調べも逃れることはできないはずだ。まあ、本人が夢想するのは自由だが。

 「鳴海くん」胡桃沢さんがくつろいだ顔で言った。「もうすぐ帰還できるんだ。ここで調べることはないんじゃないか」

 ぼくはタブレットに視線を落とした。再びスクリーンロック状態になっていたので、機械的にパスワードを再入力した。確かに、この場で調べるより、港北基地に帰還した後に専門家の手に委ねた方がいいかもしれない。

 「それに」胡桃沢さんはボリスを見ながら、小声で続けた。「ハウンドと交渉して、ワクチンプログラムそのものを購入するか譲渡してもらう手もある」

 ぼくは頷いたが、内心、それは怪しいものだと思った。ハウンドは国際的大企業だ。<ナンシオ>の真の機能について知っている人間は、ほんの一握りだろう。キーレンバッハ氏自身、実地テストの責任者だと言ってはいたが、単なる現場監督に過ぎない可能性もある。最初の選別のとき、キーレンバッハ氏は島崎さんと面識があるような素振りを見せなかった。演技だったのかもしれないが、それぐらいなら最初から島崎さんの参加を既定にしてしまえばいい。そもそもワクチンプログラムの存在自体を否定されれば、それまでだ。そんな無駄な交渉に時間を消費している間にも、D 型はどんどん増加し続ける。事態が明らかになったときには、手遅れになっているかもしれないのだ。ワクチンプログラムの存在だけでも立証できれば、面倒な交渉の何段階かをすっ飛ばすことができるかもしれないし、有利な立場で進めることもできるだろう。

 ぼくは改めてタブレットを見直した。ボリスはこのタブレットで、指揮車両の中からソリストにアクセスしていた。ということはソリストと認証キーを交換しているはずだ。ぼくはタブレットを持ったまま、仮想モニタで管理コンソールを立ち上げ、接続デバイス一覧を開いてみた。接続しているのは、隊員たちの各種装備の他は、フライボーイ2 だけで、タブレットらしきデバイスはない。

 軽く失望したが、設定画面に「未接続機器」というタブがあることに気付いて、切り替えてみた。ざっと2000 以上のデバイス名がグレーで並んでいる。デフォルトで登録されているデバイスの一覧のようだった。過去に接続履歴のあるデバイスは、日付と時間が表示されている。接続日時の降順でソートし、上から順番にPING を投げてみる。7 番目が当たりだった。デバイス名:HD-TB-PES-448901-OUT-BS-04。応答が返ってきている。ドラグノフの時に使用した距離測定モジュールを呼び出して、距離を調べて見ると、[ <= 1m ] と出た。

 リモート接続を試してみると、パスフレーズの入力を求められた。ダメ元でボリスに質問してみるか、と思ったが、試しにタブレットのロック解除のパスワードを入力してみると、あっさり接続できた。パスワードの使い回し。どんなに認証手順を複雑にしても、ユーザの意識が追随していない典型的な例だ。

 タブレットのOS は、隊員たちのソリストコントローラと同じくAndroid OS だった。ただ、中身はかなり異なる。独自にカスタマイズが施されていて、ルート以下になじみのないディレクトリやファイルが多数存在していた。/data というディレクトリの中を見てみると、4GB 超のファイルが、20 個以上生成されている。拡張子はなく、何のデータなのかもわからないが、日付は7/30 になっているから、おそらくこれがマーカーから収集したデータなのだろう。

 「バッテリー切れそうだな」

 胡桃沢さんの声に顔を上げると、ボリスのタブレットは、バッテリー残量が10% を切っていた。ぼくは礼を言うと、とりあえずスリープ状態に戻した。中身をコピーして、仮想モニタで見た方がよさそうだ。その方が効率もいい。

 ソリストの管理コンソールを仮想モニタに開き、適当な場所を探した。5 台のラズベリーパイは、どれもディスク容量にあまり余裕がない。フライボーイ2 からのデータが一時的に占有しては消えているため、確実に確保できそうなのは、平均して20GB から40GB 程度だ。これではマーカーから収集したデータをコピーするのは難しい。そもそも、Wi-Fi 経由でそんな大量のデータ転送を実行したら、ただでさえ多いトラフィックに、さらに負荷をかけることになってしまう。

 「100 体以上のD 型だ」サンキストがうんざりした声で言った。「1 時方向、距離130 メートル。このまま行くと、正面からぶつかることになる」

 「ぞっとしないな」谷少尉はテンプルに囁いた。「迂回できるか?」

 「脇道は通り過ぎたばかりです。一時的に、そこのコンビニの駐車場に入りますか」

 「いや。そこだと囲まれたときに脱出が難しい。反対車線に移動して、そこに路駐しているトラックの陰に隠れてやりすごそう」

 「了解」

 EV ヴァンは、ゆっくりと方向を変えて、対向車線に入った。道路には、何体ものZがうろうろしているので、テンプルは慎重にハンドルを切った。R 型とゴタゴタすることで、D 型の注意を惹いてしまうことを怖れたのだ。今、魔法のようにワクチンプログラムを起動できれば、と思わずにはいられない。

 データは諦めて、タブレットのモジュールだけをコピーする方針に切り替えた。ソリスト関連モジュールとパラメータファイルだけなら、合計で2.8G 程度だ。これぐらいならノートPC に格納できるかもしれない。

 ノートPC の空き容量を調べると、思った以上に少ないことが判明した。メインサーバの役割を果たしているので、一時ファイルがひっきりなしに生成され、削除されている。タブレットの中身をコピーすることで、一時ファイルを生成する余裕がなくなってしまったら、どうなるのか想像もできない。ぼくは小声で胡桃沢さんに訊いてみた。

 「あまり起こってほしくないシチュエーションだな」胡桃沢さんは少し唸った後、顔をしかめながら答えた。「本来のサーバは、必要容量より300% 以上の余裕を持つ前提で設計されているから、そんなテストはやったことがない。たぶん、空き領域が確保できるまで、ファイル作成をリトライし続けるんじゃないかと思うが確証はない」

 今、ソリストが止まってしまうような事態は避けたい。諦めるしかないか、と思いかけたとき、ふと谷少尉の言葉が蘇った。ぼくが投与されたマイクロマシンは、ストレージ容量が4 倍になっている、という言葉だ。その時はマイクロマシンの投与そのものの方に気を取られていて気にも留めなかったが、よく考えてみれば、ぼくの脳の中にはアクセスできるストレージがあるということだ。

 早速、アクセス方法を調べてみた。無数に用意されているヘルプファイルから、マイクロマシンの仕様に関連するファイルをピックアップする。中身はほとんど英語だったが、基本言語を日本語にしてあるので、ソリストが自動的に翻訳してくれた。初期ロットの投与データ......被験者の臨床記録......イオンチャネル型レセプターのタンパク質構造......神経学的臨床データ......拒否反応臨床データ......マイクロマシンの基本構造に関わるデータが多い。ぼくはヘルプファイルのオープン/クローズを繰り返した。ようやく見つけたのが「オリクス & クレイグ型第6 世代医療用マイクロマシンの外部インターフェース詳細」というタイトルのヘルプファイルだ。

 思った通り、そのドキュメントには、投与されたマイクロマシンへのアクセス方法が詳細に記述されていた。BIAC には、システムアドミニストレータ権限だけが使用できる、いわば裏コマンドが多数ある。それらを適切に使えば、マイクロマシンウェブの機能をリプログラミングすることも可能になるようだ。ぼくは、ボリスのタブレットをコピーするという当初の目的も忘れて、技術的な好奇心からドキュメントの文章を追った。

 没頭していたぼくは、テンプルの声を耳にして、ようやくいつの間にか車が停車していたことに気付かされた。

 「おい」テンプルは小声で言った。「このあたりか?」

 ぼくは顔を上げた。位置情報によると「羽沢駅(仮)」となっている。相鉄・東急線直通線が開通した暁には新駅となるはずだった場所だ。

 「ああ、そうだよ」藤田が答えた。「たぶんな。ここいらへんは見覚えがある」

 目的地に到着したのだ。長かったオペレーションも終わりに近づいている。ぼくは胡桃沢さんと安堵の視線を交わし合った。それにはまだ少しばかり早かったのだが。

(続)

Comment(13)

コメント

えの

「100 体以上のD 型だ」サンキストがうんざりした声で言った。「1 時方向、距離130 メートル。このまま行くと、正面からぶつかることになる」

ここはたぶんR型の間違いですね。毎週月曜日を楽しみにしてます。

名無しの読者

>タブレットの中身をコピーすることで、一時ファイルが生成する余裕がなくなってしまったら

・一時ファイルを生成する余裕がなくなってしまったら
・一時ファイルが生成される余裕がなくなってしまったら

のどちらかの方が自然かもしれません?

毎回楽しみにしています。
そろそろ佳境かとは思いますがどういった終わりを迎えるかどきどきしています。

SIG

脱出決行の瞬間が一番危険、と思っていただけに、
新たな犠牲者なく切り抜けられて一安心というところ。
しかしこれで終わりというはずもなく、次回いよいよ最終決戦か。

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「D 型」をはじめ、半角英数字の後には半角スペース、という記法で統一されているのですが、
全角スペースとなっている箇所があります。

> 「距離としては、6 キロちょっとですが」テンプルは前方を歩くZをよけながら答えた。
> 「時速はこれぐらい、下手したらもうちょっと落とすことになりそうなので、1 時間ってとこすかね」

また、以下の部分ではスペースが抜けています。

> 1階のバリケードはこっちでどかすが
> 1階に資材を取りに行けなくなってしまったため断念した。
> 周辺に5台のラズベリーパイと
> 3人のヘッドセットが取得した情報から、
> 「7から8。こっちには向かって来ない」

以下のような、句読点などに続く箇所では適用対象外でしょうか?

> さらにまずいことに、また5、6 体のD 型が乱入してきた。
> SSD、ノートPC、スイッチングハブ、
> あれはガソリンじゃなくて、CNG――天然ガス車だ。
> デバイス名:HD-TB-PES-448901-OUT-BS-04。

添削不要

鬱陶しい

oh

とても面白いです。(エンジニアライフのブログなのか? という疑問は残りますが)
特に面白いのが、8話目に出てくる、

「さっき君が言ったじゃないか。谷少尉は、やると決まった以上、全力であたる人だって。それが仕事をするってことだろ。何がプロだよ。プロってのは悪条件下でもやらなきゃならないことをやって、なおかつ結果を出せる人なんじゃないのか?世の中の物事が自分の都合のいい方に動かないからって文句を言うのはプロなんかじゃない。ただの甘ったれたガキだよ」

という、この話の主人公のセリフです。

このセリフを「冷たい方程式」の主人公達は、どのように受け止めるのでしょう?
そして、「冷たい方程式」でアンチ渕上マネージャなコメントをしていた人達が、この主人公のセリフに反発しないのも、なかなか興味深いです。

えのさん、そこはD型で合ってます。
名無しの読者さん、SIG さん。ご指摘ありがとうございます。
書くときは一気に書いて、半角文字のスペースはアップする直前に入れるんですが、眠いとよく間違えてしまいます。
SIGさんの仰る通り、句読点などの前は入れてません。

JAM

うわー。ナルミンは普通の開発環境には戻れないでしょうね〜(笑)
真の能力に対して「覚醒」剤的に効いてますからね。

soa

> もはやZを食い止めることは、困難を通り越して不可能という形容詞が正しくなっていた。

文才ないのでズバリ指摘できず申し訳ないですが、「形容詞」のくだりが気になりました。あえて使うなら「形容動詞」、または「不可能という状況になりつつあった。」でしょうか。

soaさん、どうも。
形容詞じゃないですね。ちょっと表現を変えてみました。

オレンジ

うーん。話は面白いけど小説としては少々物足りない。
けどミリタリー映画とかホラー映画のノリで見るとかなりバチッとイメージできるね。

oh

勝手に考察してみました。
「冷たい方程式」でアンチ渕上マネージャなコメントをしていた人達が、ここに現れないのは、そのような人達がいなくなったからではないでしょうか?
当時は、自分はプロだと勘違いしている人が、きっと大量にいたのでしょうね。

「プロってのは悪条件下でもやらなきゃならないことをやって、なおかつ結果を出せる人」というのは、全くその通りだと思います。

名無しさん

この連載のおかげで月曜日が休みで悔しい時がある
楽しみにしております

suginorl

明日も楽しみだ。

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