ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

ハローサマー、グッドバイ(9) 出発

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 7 月30 日 午前9:00 ちょうど。オペレーションMM は定刻通りに開始された。

 今朝、目覚ましの音楽とともにドアがノックされ同時に開いた。寝ぼけ眼で応じたぼくを迎えたのは、医療技術者の仁志田さんだった。

 「おはよう、ナルミン」仁志田さんは適当なあだ名でぼくに呼びかけながら、嗅覚麻痺処置用の器具を持ち上げて、サディストのように歯を剥き出した。「リラックスして......るか、今まで寝てたんだからね。じゃ、上むいて」

 ぼくが上を向くと、仁志田さんは器具を鼻に突き刺した。冷たい刺激とともに思ったのは、せめて朝食の後にしてくれればいいのに、という手遅れな考えだった。

 「はい、終わり。じゃ、これ」と仁志田さんが差し出したのは、今日の日付がマジックで書かれたサンドイッチのパックと、500ml のトマトジュースのペットボトルだった。「今日の朝ご飯はこれよ。消化がよくて高蛋白低脂肪。車の中で吐かれても困るから。20 分で朝食と着替えを済ませて、格納庫へ集合すること。じゃあ、無事に戻ってきたら、また会いましょう」

 早口で一方的にまくし立てると、仁志田さんはさっさと出て行った。ぼくは手の中に残った味気ない朝食を見下ろした。サンドイッチは鳥の胸肉の薄いスライスとレタスだった。オペレーションMM では、食事時間が楽しみになることはなさそうだ。

 立ったまま朝食を済ませ、顔を洗い、昨日与えられた服に着替えたぼくは、財布やスマートフォンをポケットに入れると、部屋を飛び出して格納庫へ急いだ。

 格納庫では、バンド隊員や整備員が出発前の最終点検を行っていた。ほとんどは昨日のうちに完了しているはずなのに、やけにバタバタしている。臼井大尉が胡桃沢さんと深刻そうな顔で何かの話をしていて、その周囲を技術者らしい男女が足早に行き交っていた。

 「おはよう」

 「おはようじゃないでしょ」ブラウンアイズは怖い顔で噛みついた。「早く装備を点検して」

 「ごめん」どうやら笑顔は品切れのようだ。

 見ると近くの作業テーブルの上に、ヘッドセットやアームシールドが置いてある。ブラウンアイズがロッカーから出しておいてくれたようだ。ぼくは申し訳なく思いながら、ヘッドセットのバッテリーや、アームシールドのベルトをチェックした。

 「貴重品やカード類は基地で預かっておくから、この袋に入れておいて」ブラウンアイズはジップロックを投げてよこした。「現地でなくしても取りに戻れないからね」

 言われた通りに財布とカード入れ、アパートの鍵をジップロックに入れたが、ふと気付いてスマートフォンをポケットから出した。

 「これは持っていっちゃダメかな」

 「あっちじゃ通じないのよ」ブラウンアイズは怪訝そうにぼくの顔を見た。「何に使うのよ」

 「いや、これは、お守りみたいなもので」

 プログラマの仕事をしていた頃、ちょっとしたシェルとか、よく使うAPI なんかのメモを入れていた。通勤電車の中で思いついて入力したようなソースの断片などもある。ぼくがこれを持っていきたいのは、それだけが理由ではないが。

 ブラウンアイズが迷うような表情を見せたとき、キーレンバッハ氏と小清水大佐が会話しながら通りがかった。二人の後を歩いているのはボリスで、ぼくたちの会話が耳に入ったらしく、意地悪な風紀委員のような顔で、小清水大佐に耳打ちした。小清水大佐は足を止めると、ぼくに近づいてきた。

 「おい、君。それは置いていけよ」

 「え、いや、でも......」

 「機密保持のため、あらゆる外部記憶装置は持っていけない。いいな。後で全員調べるからな」

 そう言い捨てると、小清水大佐は行ってしまった。キーレンバッハ氏は小さく肩をすくめて後に続き、ボリスも薄笑いを浮かべたまま後を追った。

 「どうして持って行きたいの?」ブラウンアイズが訊いてきた。

 「言っただろ、お守りみたいなのものだって」

 「......」

 ブラウンアイズは舌打ちして視線をそらした。仕方がない、諦めるか、と思ったとき、小さな手がスマートフォンを掴んだ。

 「あたしが預かっておく」ブラウンアイズの手が背中に回り、再び前に戻されたときには、何も持っていなかった。「現地に着いたら返すから。それでいい?」

 「え、でも、全員調べるって......」

 「そこんとこは何とかするから」

 「ありがとう」

 「誰にだって大切なものはあるから」素っ気ない口調で言うと、ブラウンアイズは装備の方に手を振った。「早く準備して」

 島崎さんが歩いてきた。すでにぼくと同じような服装になっている。

 「おはよう。いよいよだね。心の準備はいい?」

 「準備はできてません。お腹がシクシク痛むし、足は筋肉痛だし、頭はぼーっとしてます。欠席してもいいですか?」

 「それは気の毒に。正露丸ならあるよ」

 「......」

 「ああ、そうだ。いいことを教えておいてあげよう。この実地テストから無事に戻ったとき、うちから臨時ボーナスを出すことになったんだ」

 島崎さんが告げた額は、ぼくの平均月収の4倍の金額だった。とても魅力的な話ではあったが、それよりも「無事に」という言葉の方が気になった。さっき仁志田さんも同じ言葉を口にしていたからだ。

 「それから国からも危険手当ということで、同じぐらいの額が出るよ。鳴海さんは書類上は志願したことになってるから、出発と同時に振り込まれるはず」

 「危険手当ですか......」ぼくは沸き起こってくる不安を振り払った。「ところで、何かバタバタしてるみたいですけど」

 「ああ、急にソリストサーバのBIOS とファームウェアのアップデートをかけることになったみたいだね。胡桃沢さんが少し出発を遅らせてくれと言って、小清水大佐がそれを拒否して......まあ、そんなドタバタがあったんだ」

 「......なんか不安ですね」

 「ソフトウェア部分には影響ないと思うよ」島崎さんは指揮車両の方を見た。「あ、何とかなったみたいだね」

 その言葉通り、バタバタと走り回っていたエンジニアたちが、一様にほっとした表情を浮かべて壁際にへたりこんでいた。臼井大尉が軽くねぎらいの言葉をかけながら、指揮車両の前に立って周囲を見回す。

 「小隊集合」

 昨日と同じようにバンド隊員たちが一瞬で集合した。違うのは全員の服装だ。昨日はラフな私服ばかりだったが、今日は、半袖の都市迷彩の上にダークグレイのタクティカルベスト、下は同じ色のズボンにブーツだ。

 「準備ができたそうだ」臼井大尉は時計を見た。「出発は予定通り0900 だ。今日の左翼は第1 分隊だったな。ドライバーを決めろ」

 「は」谷少尉が前に出た。「ブラウンアイズは鳴海さんの世話があるから除外する。スクレイパーは分隊のスナイパー当番だから除外、キトンは今回のポイントマンだから除外する。サンキスト、ヘッジホッグ、お前達のどっちかだ」

 サンキストとヘッジホッグは素早くジャンケンをした。嫌そうな顔で進み出たのは、サンキストだった。

 「貧乏くじね、サンキスト」

 ブラウンアイズが言い、隊員たちがどっと笑った。サンキストは中指を立てて応じると、足早に指揮車両の方へ歩いていった。全くバンド隊員というのは理解しがたい。ぼくなら断然車内の方を選ぶのだが。

 「よし」臼井大尉が声を張り上げた。「出発まで時間がない。各自、装備の最終点検を終え、分隊長に報告しろ。終わり次第出発だ」

 「私たちも乗っていた方がよさそうだね」

 島崎さんが言い、ぼくたちは指揮車両の方へ向かった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 てっきり何かセレモニーのようなものでもあるのかと思っていたし、小清水大佐もそのつもりだったらしい。最後に全員が集合したとき、小清水大佐は笑顔を浮かべ、手にした紙片に目をやりながら進み出た。空疎な演説が始まるのか、とうんざりしたとき、臼井大尉が機先を制して、簡潔に「では出発」と命じてしまった。バンド隊員たちは散っていき、大佐は憮然とした顔で指揮車両に入ってきた。その1分後、指揮車両は低いうなりとともに動き出した。

 割り当てられた狭い自席に座ったぼくは、昨日の夜、島崎さんから渡された20 枚ほどのプリントアウトに目を通そうと悪戦苦闘していた。鶴見川防衛ラインまでは、少しでもバッテリーを節約するために、ガスタービンエンジンで進むことになっていて、かなり振動が激しかった。乗り物酔いする方ではないが、膝の上にノートPC を抱えてバランスを取りつつ、細かい文字を読むのは困難だった。ぼくは諦めて壁面を埋め尽くすモニタの1 つに視線を向けた。画面が4分割され、前方、後方、左右の映像が映っている。

 指揮車両は時速40 キロほどの速度で、港北基地のゲートを離れ、綱島街道に出たところだった。鶴見川防衛ラインができる前は、いつも渋滞していた道路だったが、今は行き交う自動車はない。バンド隊員たちは2 台の軽トラックに分乗して、指揮車両の後ろに続いている。このトラックは防衛ラインの手前で引き返し、そこからは隊員たちは徒歩になるのだ。ぼくは空を見上げた。今日も紫外線が突き刺さるような晴天だ。この炎天下を歩くことを考えただけでぞっとする。

 隊列は綱島街道をゆっくりと南下していた。行き交う自転車の人々が、物珍しそうにこちらを見ている。農業実習にでも行くのか、同じ色のTシャツを着た中学生男子の集団が、興奮した雄叫びを上げていた。ティーン世代の間ではバンド隊員の人気は高く、入隊希望が後を絶たないというが、ブラウンアイズが言ったように、2.28 の終息宣言以降は新規の募集は行われていないようだ。

 車内は薄暗く涼しかった。ソリストサーバはファンレスだが、それを補うためにエアコンが入っている、という話だった。もっともそれは建前で、ボリスか小清水大佐あたりが汗をかくのを嫌ったためなのかもしれない。どちらにしても蒸し暑いのが苦手なぼくとしては大歓迎だ。

 島崎さんがパイプに掴まりながら、こちらにやってきた。

 「どう?読んだ?」

 「さっぱりわからんですね」ぼくは嘆息した。「これ、操作説明書に毛が生えた程度ですよ」

 「すまんね。仕様書はもらえなかった。そもそも、テスト済みだから必要ない、って感じで、取り付くしまもなかったんだ」

 昨日、島崎さんはソースの一部か、詳細仕様書の類いを探してくれたのだが、夜になっても成果はなかった。

 「どうも情報の流出に神経質になってるみたいでね」

 「でも、佐分利の人なんでしょう?そりゃ開発チームと営業じゃ部署は違うかもしれませんけど、何とか融通してもらえないものでしょうか?」

 「それがね」島崎さんは声を潜めた。「最終テストを監督してるのは、ハウンドのエンジニアたちでね。ソリストのコアの部分は、うちもソースをもらってないみたいなんだ」

 「へえ。でも、実装には国内企業を使うことになってたんじゃなかったでしたか?」

 「そこはいろいろ抜け道があってねえ」今度は島崎さんが嘆息した。「スーパーバイザーとしての関与は認められるとか、機密情報に深く関わる部分はハウンドのエンジニアによる実装が許されるとか」

 結局、出発の直前に手渡されたのは、今読んでいる内部レビュー用の説明書だけだった。

 「ぼくなんかより、ハウンドのエンジニアがここに座っていた方がいいと思うんですけどね。今からでも替わりましょうか?」

 「それをやると、国内企業を使うという契約を無視してます、って公言するみたいなもんだからね」

 思わず苦い笑いが洩れた。世界が大混乱に陥っても、商習慣というものは未だ健在らしい。

 「あの」ぼくは声を潜めた。「胡桃沢さんには質問できるんでしょうか?」

 胡桃沢さんは数少ない座席の1 つに座り、一言も口を利かないまま、タブレットで何かを読んでいた。乗車するときに挨拶をしてみたが、ジロリと一瞥されただけだった。

 「無理」島崎さんは一蹴した。「あの人はチームリーダーといっても影武者みたいなもんだよ。ハウンドのエンジニアが表立って開発の指揮を執ることはできないから、胡桃沢さんをスピーカー代わりに使ってるだけ。スケジュール管理とリソース管理は得意みたいだけどね」

 「なんでそんな人が参加してるんです?」

 「想像するに、佐分利からの参加者が営業だけってのは、まずいからだろうねえ」他人事のような口調で島崎さんは応じた。「エンジニアを参加させた、という実績が必要だったってことかな。万が一のことがあっても、あの人なら大した損害じゃないし。ま、これは冗談だけど」

 胡桃沢さんが仏頂面なのは、自分が数合わせ要員に過ぎないことを、誰よりも理解しているからなのかもしれない。

 「ところで」ぼくは話題を変えることにした。「このノートPC 、いつになったら電源を入れてもらえるんでしょうか」

 「ああ、それね。ちょっと訊いてみようか」

 島崎さんは揺れる車内を器用に歩いて、後部座席に座っている胡桃沢さんの元に行くと、小声で話しかけた。さすがの胡桃沢さんも、同僚に対しては無視するようなこともなかったが、すぐに戻って来た島崎さんの顔を見て、実りがなかったことは一目でわかった。

 「鶴見川を渡った後、だって」

 「ここまで来たら同じだと思うんですけどね」

 「だって、ノートPC をひっつかんで逃亡する、って可能性だってあるからね。川を越えればそうもいかないだろうけどさ」

 「あり得ないでしょう、それは」

 胡桃沢さんが顔を上げた。てっきり声が届いたのかと思ったが、そうではなかった。エンジン音が低くなっていて、揺れも小さくなっている。指揮車両がスピードを落としているのだ。ぼくは外を覗いた。前方にステンレススチール製の高さ3 メートルの封鎖ゲート、左側には川が流れているのが見えた。

 「大綱橋だ」同じように外を見ていた島崎さんが言った。「鶴見川防衛ラインに着いたみたいだ」

(続)

Comment(6)

コメント

ナンジャノ

> 寝ぼけ眼でドアを開いたぼくを迎えたのは…
ニュアンスは分かるのですが、確か内側にドアノブすら無かったドアのはず。主人公からできるアクションは、寝ぼけた声で「どうぞ」と言うぐらいか。

日吉人

最初は、どこかでギャグっぽくなっていくものだとばかり思っていたけど、細かく設定があるところからするとマジでオブザデッドをやろうとしているのか。すごいな。
にしてもやっと出発か。早くZが出てこないかな。

ナンジャノさん、ご指摘ありがとうございます。
確かに変でした。

T

実地テスト当日のアップデート……
不具合も解消されて安心ですね!!!(白目

yamada

こりゃまたBIOSアップデートとかいうデスノボリが見事に立ったな…
LenovoのノートPCでアップデートすると真っ暗になるっていうのを今体験…おっと誰か来たみたいだ

F

窓をつぶした元検診車の中から夏空は見上げられるのでしょうか…

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