ハローサマー、グッドバイ(4) 戦闘証明済
肝心なことを聞き忘れていた、と気付いたのは、先ほどの会議室に戻り、島崎さんと合流したときのことだった。谷少尉が言った通り、他のエンジニアはすでにいなくなっていた。
「きっと鳴海さんが残る、と思ってたよ」島崎さんはニヤニヤしながら、ぼくを迎えてくれた。「経験のあるプログラマを、と要望を出しておいたのに、他の会社から来たのは、その要件を満たしてなかったみたいだからね」
「先に言っておいてくれればよかったのに」ぼくはつい恨み言を口にしてしまった。「テスト要員って言うから、単にPC の前に座って、テスト項目をひたすらこなしていくだけ、というのを想像してましたよ」
「そういう計画もあったらしいけどね」島崎さんは、部屋の反対側にいるキーレンバッハ氏をちらりと見た。「少なくともワカモトはそのつもりだったんだけど、エンドユーザの方から、つまりバンド隊員から反対の声が上がって、実地テストを早めることにしたんだってさ」
そのバンド隊員たちが座っていたテーブルには、誰も残っていなかった。ぼくの視線に気付いた島崎さんが教えてくれた。
「顔合わせして、スケジュールを確認したら、訓練に戻っていったみたいだよ」
「そういえば聞き忘れましたけど、オペレーションMMはいつまでの予定なんですか?」
「ああ、そうか。こっち来て」
島崎さんはぼくを導いて、大きなホワイトボードの方へ連れていった。そこには手書きで行程が書かれていた。
7月30日
9:00 港北基地出発。
14:00 みなとみらい到着、ベースキャンプ設営
15:00 周辺調査開始。大桟橋、山下埠頭、本牧埠頭周辺の調査予定。
19:00 活動終了
7月31日
8:00 根岸方面へ移動開始
11:00 根岸周辺の調査
16:00 調査終了、ベースキャンプへ帰還
8月1日
9:00 横浜駅方面へ移動開始
10:00 横浜駅周辺の調査
14:00 出発
19:00 港北基地帰還
「2泊3日ってことだね」島崎さんはぼくの顔を見た。「今日から数えれば、4泊5日か」
「会社の方には......」
「連絡してあるよ。もちろんオペレーションMM のことは伏せて、港北基地内でテスト作業に従事してもらう、ってことで。太田係長さん、いくらでもこきつかってやってください、って言ってた」
「そうですか」ぼくは太田係長を心の中で罵った。「どうせ、肉体労働でも徹夜作業でも何でも、とか言ったんでしょうね」
「よくわかったね。体力だけはある奴だから、とも言ってたよ」
皮肉なことに、ぼくが今、体力にある程度自信があるのは、プログラマとしての仕事から遠ざかり、営業と配送業務がメインになっているからだ。毎日、朝から晩まで横浜市内を自転車で駆け回っていれば、脂肪を筋肉に変換する効果だけはある。
「座ってるだけですよね」ぼくは訊く、というより、思考現実化願望を込めて言った。
「日頃の行いがよければね」
「......」
日頃の行いなどという数値化もできない事象を持ち出されても判断に困る。セールスエンジニアとして、相手に言質を与えないことが習性になっているのかもしれないが。ぼくは、自分が対処できそうな話題に切り替えることにした。
「ところで、仮に、あくまで仮にですが、デバッグをすることになった場合、どんな環境でやるんでしょうか」
「開発環境一式を貸してくれると思うんだけどね。たぶん、後で説明があるんじゃないかな」
「見たこともないシステムのデバッグをしろと言われても、非常に難しいと思うんですけど」
「そうかな?私はプログラムのことはわからないけど、ソリストはJava で作ってあるんだよね。Java に難しいも簡単もあるの?バージョンとか、そういう意味?」
「いや、そういうことじゃなくて」ぼくはどう説明したらいいのか考えた。「例えばですね、今どきのフレームワークなら、convention over configuration、つまり設定より規約、という考え方に基づいていると思うんですが、その規約がわからないと......」
「ああ、ごめん」島崎さんは困った顔で遮った。「そういうこと言われても、わからない。他のわかる人に説明してもらった方がいいよ」
そのとき、会議室のドアが開き、谷少尉が入ってきた。谷少尉はぼくたちの方に小さく会釈すると、キーレンバッハ氏たちに歩み寄り、タブレットを見せながら、小声で何かの説明を始めた。
「これから夜まで」島崎さんはボリュームを落とした声で言った。「いろんな手続きとか健康診断とかがあるはず。それが済んだら、誰かにソリストのことを話してもらえるように言っておくよ」
「健康診断?」
「そう聞いてるよ」
「島崎さんは、最初からみなとみらいに行くことがわかっていて、ここにいるんですよね」
「もちろん」
「よく引き受けましたね」
すでに港北基地内にいる以上、今さらごねても逃れようがないが、もし自社にいてこの話を聞かされたなら、どんな手を使ってでも回避したはずだ。ぼくはそう考えたのだが、島崎さんは小さく肩をすくめただけだった。
「まあ仕事だからね。社命なら仕方ない」
「危険だと思わなかったんですか?」
「そりゃあ思うけど」島崎さんは谷少尉の方を見た。「私たちは車の中にいるだけだろうし、何かあってもバンド隊員が守ってくれるよ。もう何度か、小規模な調査隊は出してるみたいで、オペレーションMM に参加する部隊は、全員がその経験者らしいよ」
「へえ。そんな話は初耳ですね」
「公表されてないからね。調査隊といっても、途中までの道路状況を調べて、道を塞いでる放置車両なんかを撤去しただけみたいだけど。もちろんオペレーションMM のためにね。だから、みなとみらいまではスムーズに行けるんじゃないかな」
またドアが開き、白衣を着た初老の女性が入ってきた。谷少尉はそれを見ると、キーレンバッハ氏との話を切り上げ、ぼくたちの方にやってきた。白衣の女性も一緒だ。
「これから必要な免責書類にサインしてもらった後、簡単な健康診断と必要な処置をしてもらいます。彼女は医療技術者の仁志田さんです。仁志田さん、お願いします」
「はーい」
仁志田さんは、小太りで、陽にあたると焼けずに赤くなるタイプらしかった。半分ほど白いものが混じった髪を後ろで縛っている。谷少尉が階級なしで呼んだということは民間人なのだろう。
「では、君たち、フォローミー」
ガムを噛みながら仁志田さんは言い、ドアの方へさっさと歩き出した。君たち、と呼ばれた、島崎さん、胡桃沢さん、そしてぼくの3人はその後に続いて会議室を出た。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
およそ4時間後、ぼくたちは人気のない食堂に座っていた。仁志田さんは、ぼくたちをここに連れてくると、「適当に何か食べて」と言い残してどこかへ行ってしまったのだ。
メニューは豊富で、JSPKF が、肉にも魚にも野菜にも不足していないことが明らかになった。ぼくたちは、無料で好きな料理を注文することができ、出てきた料理はどれも美味しそうだったのだが、あいにく味はよくわからなかった。
理由の1つは、立て続けに各種権利放棄の説明を受け、数十枚の書類にサインさせられたことだった。目の前に書類の束が置かれたとき、その枚数の多さに驚いたものの、斜め読みしてサインするだけなら、せいぜい10分かそこら時間を費やすだけだと思った。ところが、職務に忠実だったのか、JSPKF の規程がそうなっているのか、仁志田さんは全ての書類の文言を、一言一句隅から隅まで読み上げたのだ。その大部分が、機密保持に関わるもので、「乙は甲の同意なくして契約上の業務および作業によって知り得た情報をいかなる人物・媒体に対しても他言してはならない。また甲の不利益となるいかなる行為も甲の同意なく行ってはならない」といった美しい文章が、微妙に表現を変えて延々と続いていた。心の中に生じた驚きは、すぐに退屈に、やがて苦痛へと化学変化していった。お経のような朗読をずっと聞いているのは、楽しい経験とは言い難く、全身に乳酸が蓄積されていくような疲労感が残った。
6枚目の書類の後半で、ぼくはついウトウトしてしまった。ほんの2秒ほど意識が飛んだだけだったが、それを目ざとく発見した仁志田さんは「聞いていなかった人がいるようなので最初から繰り返します」と宣言して、1行目から再読し始めた。おかげで胡桃沢さんに凄い目で睨まれてしまった。それからは緊張して眠気など感じなかったが、疲労は確実に倍増した気がする。
その後、身体検査があった。血液、尿、肺活量、聴音、握力、瞬発力、視力、血圧、心電図、胸部レントゲン、腹部超音波と、ちょっとした人間ドック並みだった。ぼくは何度となく、何のために必要なのか、と質問したものの、曖昧な笑い顔が仁志田さんから得られた唯一の応答だった。
少しばかりの休憩の後、今度は臨床心理士との面談があった。主にZとの遭遇体験や、現在の職業について質問された。これも、何のためかという説明は一切なかった。
最後に連れて行かれたのは、歯科の治療室に似た狭い部屋だった。歯科用チェアのような椅子に座らされると、仁志田さんが何かの器具を持って近づいてきた。
「これから嗅覚麻痺処置をするから」仁志田さんはガムを噛みながら告げた。「リラックスして、顔を天井に向けて、目を閉じて。痛くない。すぐ終わるから」
「ちょ、ちょっと待ってください」ぼくは慌てて上半身を起こした。「嗅覚......なんですって?」
「嗅覚麻痺処置」仁志田さんは辛抱強く繰り返した。
「で、それは何ですか?」
「読んで字の如く、よ。あんたの嗅覚を少し麻痺させるの」
「嗅覚を麻痺?臭いがわからなくなるってことですか?何のために、そんなことをするんですか!?」
最後の方は悲鳴のような声になっていた。これも説明がないのかと思ったら、仁志田さんは一度器具を置いて、ぼくの顔を見つめた。
「あんた、封鎖区域へ行くんでしょ?前に行ったことある?」
「いえ、ないですが......」
「じゃあわからないと思うけどね」仁志田さんは薄笑いを浮かべた。「鶴見川のあっち側は、そりゃもう、実にすごい臭いがするそうよ。そりゃそうよね、ほとんどの生活環境をそのまま放棄したんだから。電気が止まれば冷蔵庫も冷凍庫も止まる。となると、肉や魚や果物はすぐに腐り始めるわね。2年前だから、もはや原型もとどめてないだろうけど、臭いはずっと残るのよ。たとえば大量の生鮮食品を抱えたスーパーが1軒あったとすると、その半径100メートル以内は卒倒するほど臭うんだって。今は暑いしね。おまけに、あっち側をうろついてる奴らは、風呂もシャワーも使わないから、その臭いがプラスされるのは言うまでもない」
うっかりその光景を想像してしまい、吐きそうになった。そんなぼくの様子を面白そうな顔で見ながら、仁志田さんは続けた。
「普通の一般市民が何の準備もなしに川を渡ったら、Zに捕まるより先に、臭気でやられるわね。作戦行動に支障が出るでしょ?だから、嗅覚を鈍らせておくの」
「......戻せるんでしょうね?」
「戻すというか、効果は72時間しか持続しないよ。今回は感覚に慣れるための予行演習みたいなもの。出発直前にもう一度やるから」仁志田さんは器具を持ち上げた。「ほら、リラックスして、上を向いて」
ぼくは諦めて目を閉じたため、具体的に何をされたのかはわからない。認識したのは、何かが鼻孔に差し込まれ、ツンとした刺激が走ったことだけだ。
すぐには変化がわからなかったが、食堂に連れて来られたとき、嗅覚が麻痺していることに気付いた。注文したショウガ焼き定食は、見事に何の匂いもせず、ぼくはこれまで味覚だと思っていた要素の大半が、嗅覚に支えられていたことを知った。美味しそうな濃いめのタレが絡まったジューシーな豚肉は、本来の味と香りの半分も発揮できていない。
味気ない夕食を終えたとき、谷少尉が入ってきた。
「鳴海さん、これからハウンドの技術者から、ソリストの概要についての説明があります。一緒に来て下さい。佐分利のお二人は、明日の朝まで自由時間です」
やっと自分の得意分野だ。ぼくは島崎さんたちに一礼すると、谷少尉の後について歩き出した。
「鼻の処置は受けましたか?」廊下を歩きながら谷少尉が訊いた。
「はい。谷少尉もこれを受けてるんですか?」
「特殊作戦群の隊員には、専用のインプラントが入ってるんです。場所は秘密ですが。それで嗅覚をオンオフできます」
「へえ」
案内されたのは、昼間に谷少尉から面談を受けた小部屋だった。谷少尉が座っていた椅子には、ぼくと同じか少し下ぐらいの年齢の男性が座っている。会議室でキーレンバッハ氏の隣にいた部下らしい男だ。よく見るとヒスパニック系のようだ。ぼくたちが入っていくと、非友好的な冷ややかな表情を浮かべて立ち上がった。
「こちら、ハウンドのボリスさん」谷少尉は紹介した。「ミスター・ボリス、こちらが鳴海さんです」
ボリスと呼ばれた男は、谷少尉に対しては丁寧に一礼したが、ぼくに視線を移すと、蔑んだような笑いを作った。
「ボリスだ。お前が同行するプログラマか」
「そうですが」行きたいわけじゃない、と主張したいところだ。
「Java は読めるんだろうな?」
「まあ一応」
「まあ一応」ボリスはバカにしたように繰り返すと座った。「一応ってのは、どういう意味なんだよ。構文ぐらいは読めるという意味か、全クラスの全メソッドを暗記してるレベルか、サル以下のなんちゃってプログラマなのか。まあいい。どうせ、お前の出番はないだろうから、お前のプログラミングスキルがサルと同程度であっても関係ないしな」
「サル?」
怒りより、戸惑いを感じていると、谷少尉が苦笑しながら口を挟んだ。
「ミスター・ボリス。鳴海さんは優秀なプログラマだと思いますよ。ハウンドからエンジニアを出してくれないから、鳴海さんにお願いするんです」
「それがそもそも不要じゃないか、と言ってるんですよ、私は」ボリスはStrategy パターンのように、言葉遣いを切り替えた。「ソリストは我々が数ヶ月かけて作成してきたシステムですよ。当然、何度もシミュレーションを繰り返してきている。エビデンスをご覧になったでしょう?うちのテスト部門もOK を出しているんです。オペレーションMM は、エビデンスに最後の1ページを付け足すだけになる、と私は思います。こんなスキルもはっきり証明できないプログラマを連れて行っても、何の役にも立たないですね」
お前なんかいらない、と暗に言われているのに、腹が立たなかったのは、もしかしたらオペレーションMM への参加メンバーから外してもらえるかもしれない、と思ってしまったからだ。あいにく、谷少尉は穏やかな表情で首を横に振った。
「ミスター・ボリス。あなたが鳴海さんのスキルが証明されていないと思っているように、私もそちらのテストが完全であるという確信が持てないんですよ。確かに大量のテスト結果はいただいていますが、あれには欠けている要素が1つあります」
「ほう。何が欠けていると?」
「現地で正常稼働するという保証です。エビデンスは見ましたが、テストを行った環境は、いずれもシミュレータの中だけですね。残念ながら、それでは何の証明にもなっていないんですよ。いわゆる戦闘証明済ではない、ということです」
「Combat proven...」
「JSKPF の戦闘職種隊員なら誰でもそうですが」谷少尉は淡々と、しかし容赦なく続けた。「私がZとの戦いで得た経験によれば、自分の目で確認した情報だけが信ずるに値する、ということです。多くの戦友を失うという代償を払って、それを学びました」
「......」
「実地テストに関しては、JSPKF 主導で実施すると決めてあったはずです。こちらとしては、いざというときの備えもなく、非戦闘証明済のシステムに、小隊全体の命運を委ねることはできません。鳴海さんの同行を拒否するのであれば、JSPKF は検収印を押しません」
「こいつが産業スパイではないという保証だってないじゃありませんか」
「機密保持については、充分に協力しているはずだし、御社の方でも神経質なぐらい防護しているじゃないですか」谷少尉はボリスの顔をじっと見つめた。「それとも、コードを読めるプログラマが参加すると、何かまずいことでもあるんですか?」
ボリスは顔をそむけたが、それ以上反論しようとはしなかった。谷少尉は口調を全く変えることなく言った。
「さて、それでは説明をお願いします。私も同席しますので。鳴海さん、そちらに座ってください」
ぼくは着席した。ボリスは小さく鼻を鳴らすと、用意してあったタブレットをぼくの前に置いた。
「これから話すことは、全て企業秘密だ。よその企業に売って小遣い稼ぎしようなんて考えない方がいいぞ。お前がどこに逃げても、必ず探し出して......」
「ミスター・ボリス、それぐらいで」谷少尉が遮ってくれた。「鳴海さんは機密保持契約を理解した上でサインしています。早く始めて下さい。明日は朝から準備で忙しいんですよ」
「失礼」ボリスは素っ気なく――ぼくにではなく谷少尉に――謝罪した。「ソリストには我が社も大きな投資をしてるので。つい神経質になってしまいました」
ボリスはタブレットに触れ、ネットワーク構成図のようなドキュメントを開くと、低い声で説明を開始した。
(続)
コメント
ゴーン
嗅覚。確かに。
言われてみれば、あまたのゾンビ映画で臭いは無視されていた気がする。
身近なところでも、隣の奴の体臭がきついとプログラミング効率は落ちるな、うん。
nagi
ふと疑問。
>「今日から数えれば、4泊5日か」
で
>効果は72時間しか持続しない
だとちょうど作戦中に嗅覚戻ってノックアウトされないかな?
ラリー
戦闘証明済(combat proven) って、ラグナロックガイにあったような気がする。手元に本がなくて確認できないのが悔しい。
れんちょん
にゃんぱすー
主人公死んじゃうのん?
鳥栖
脂肪は筋肉には変わらないのが現世なんだが、、
てか、このままZの登場無く、話が終わったらどうしよう?!
F
鳴海ちゃんにマーカとソラニョーム打ち込まれて川の向こうで新しい生活が始まるんじゃないですかね。目的その3はこれで達成できるわけで……。
fuga
> 保障
テストがしてくれるのは保証
> 非戦闘証明済
???
どら猫
「俺は戦闘証明済(combat proven)だ。」 ご記憶のとおり、「ラグナロックガイ」の台詞で確かにあります。dブック電子ブックで全巻買って読んでますから覚えてます。(笑)