個人事業主にしてベテランプログラマー。人呼んで「IT業界の小関智弘」(?)

デジタルネイティブはどこにいる(1)

»

 「デジタルネイティブ」については、すでに『これはもうダメかもわからんね インフラ系SEの波瀾万丈伝』の田所さんが書いていらっしゃいます。田所さんとはこの主題についてMLでやり取りしたのですが、彼にはそのときのわたしの拙い文章を引用していただきました。田所さんが書くきっかけとなったNHKの番組は、わたしも印象深く見たのですが、そのときはあまりコラムに書くつもりはありませんでした。そのあと田所さんとメールのやり取りをして次第に思うところが形になってきましたので、今回はこのテーマについて書こうと思います。

●青春モラトリアム

 本題に入る前に、ちょっとした自慢話をします。今更いうまでもなく、インターネットはわたしたちの生活にとってなくてはならない社会基盤の一部となっていますが、一般に使われるようになったのはほんの10数年前、1990年代前半のことでした。実はその10年前の1984年、わたしはこのインターネットの出現を予想していました。

 この前年、わたしは大学の卒論提出を1年間延期し、自主留年することに決めました。就職が決まらなかったからです。決まらなかったというよりは、あまりまじめに就職活動をしませんでした。自分が何をしたいのか分からなくなっており、そのために青春モラトリアムを1年延長したというのが実情です。いまから思えば決して賢明な選択ではありませんでした。親には余計な負担をかけるわけだし、翌年の就職活動は不利になります。それでもあんまり考えずに決めてしまいました。就職氷河期に就職しなければならなかった人たちには「なんというわがまま」としかられてしまいそうです。でも、そんな時代があったのです。

 残した単位は卒論だけでしたので、ほとんど大学にいくこともなく、アルバイトをしながら日々をすごしていました。いまから思うと、なんど贅沢な時間の使い方をしていたのだろうと思います。わたしはこのとき、ありあまる時間を使って、これからの自分の未来をあれこれと考えました。

●マスメディアの現実

 大学に入るまでは作家になりたいという大それた野望を抱いていましたので、出版社かマスコミのどこかにもぐりこめたらいいなと考えていました。しかし、そんな根性で入れる会社などありません。それに、しばらくアプローチしていくうちに、どうも出版界は自分が思っていたようなところではなくなっているのだ、ということが分かってきました。

 その昔、大正や昭和の名作が生まれた時代には「文壇」というものがあって、作家や編集者たちが個人的に相互に交流して小説創作のイニシアティブをとっていました。いまでいう「コミュニティ」のようなものです。そのころは、よい作品を書けばそれが確実に売れて、その収益がもっとよい作品を書かせるための投資につながる、という好循環が維持されていたのです。それがいつしか出版社はベストセラーに依存する体質になってしまいました。ベストセラーというものは、作品の質ではなく、話題性によって生まれることが多い。芥川賞も、その他の文芸雑誌の新人賞も、話題性(すなわち事件)を作り出すためにセンセーショナルな作品や有名俳優の息子が書いた愚にもつかない作品を受賞作に選ぶようになっていました。

 そんなことが漠然と見えてくると、マスコミに対する熱も冷め、逆にマスコミのあり方が社会をゆがめているのではないかと思えるようになってきました。当時は電通、博報堂を中心とした広告会社全盛の時代です。大量の製品を作って大量に売る。そのためにマスメディアには無意味なキャッチコピーが氾濫し、わたしたちはそれを日常生活の中で無意識に口まねしていました。仲間内の注目を引くために、お笑いタレントが連発するギャグをそのまま模倣する。今でもよくやられることですし、友好的な人間関係を作るための手段の1つですが、わたしにはどうしてもこれに抵抗があります。そんなのはギャグの作者のオリジナリティーに対する敬意が欠ける行為だし、自分の主体性を侵害されるようで、めったにしたことはありません。誰もが合言葉のように同じギャグを口にする、それに刺激されて必要もないものを買って消費する、これは大げさに言えば一種のマインド・コントロールによる社会的ファシズムではないかと思ったのです。なかば負け惜しみですが、こんな業界に自分の一生を投じていいのか迷っていました。

●「ニューメディア」のブーム(?)

 ちょうどそのころ「ニューメディア」という言葉が一部で叫ばれるようになってきました。衛星放送や都市型CATVなど、新しい通信技術によって実現するようになった、それまでのマスメディアとは違った形の媒体を総称した言葉です。発信元は郵政省の先進的な官僚さんたち。日本の郵政官僚は、ラジオ放送の昔から伝統的にメディアの政治的影響力に関心が高く、時代を先駆けて技術導入を始めます。NHKが開発したハイビジョンもそうですし、最近でいえばテレビ放送のデジタル化もその一例です(ある意味、迷惑な話ですが)。この時期、レーガン政権下のアメリカでは、衛星放送とCATVの多チャンネル機能を組み合わせた都市型CATVがビジネスとして成立し、メディア環境が一変していました。いわゆる三大ネットワークのニュース番組に加えて、ニュース専門チャンネルのCNNが大きな社会的影響力を持つようになってきたのです。郵政省のお役人さんたちは、日本にもCNNのような政府批判を繰り広げるメディアが野放図にできてしまうより先に、行政主導でメディアを立ち上げ、影響力を行使できる状況を作ってしまおうと考えたようです。「ニューメディア」とは、そんな未来志向のお役人さんたちが、各種新技術を総合して一般に理解させ、民間投資を呼び込もうとするために考え出した造語です。

 それはともかく、わたしはこの言葉を聞いたときに、これはわたしが当時のマスメディアに対して抱いていた問題意識に対する解答であると理解しました。なかでも特に注目したのはCATVの双方向機能です。有線メディアは帯域幅を大きく取れるので、数十に及ぶ多チャンネルを実現できるばかりでなく、電話線のように視聴する側からも信号を送ることができる。つまりテレビ電話のように視聴者側から映像を発信することができるのです。こういった試みは当時においても先進的で、CATV先進国のアメリカでもまだ実現されていませんでした。しかしわたしはこの機能が急速に普及して、誰もが情報を受けるばかりでなく、自分で情報を作り、発信していく時代が来ると直感的に確信したのです。世の中には受動的にテレビ番組を見せられて満足している人ばかりではなく、自分の考えを持ち、自分が知っていることを他人にも知ってもらいたいと思っている人たちがたくさんいる、そんな人たちの欲望が渦を巻いていて、メディアさえあればそれが噴出してくると感じていました。

 この展望にはもう1つ有利な状況が生まれかけていました。当時発売され始めたパーソナル・コンピュータ(まだ「パソコン」という呼び方すらされていませんでした)です。先に就職した友達の下宿に遊びに行くと、初給料を当てこんで買った8ビットマシンを見せてくれました。まだ専用のディスプレイはなく、テレビゲームのようにテレビ受像機につないで使っていました。そのとき友達は付属のプログラムを動かして原始的なCGを見せてくれました。缶ビールを飲みながら、じわじわと描かれていくワイヤーフレームの幾何学図形を眺めていたことを、今でも覚えています。影像自体は稚拙でしたが、いつか現実と見まごうようなリアルな影像を作ることができるだろうと思いました。電卓はたった数年で飛躍的な高機能と低価格を実現したのですから、とっぴな着想ではありません。

●メディア革命を確信

 需要があります。道具立てもそろいました。さらに当時すでにNTTの周辺では光通信による大容量通信回線網を作るという計画が持ち上がっていました。それが完成すれば、映画のような巨大な情報も送ることができるようになるといわれていました。これらのことから、わたしは近い将来、次のことが実現されると考えたのです。すなわち、未来の放送は有線媒体を介して送られる。ただ一方的に送られるばかりではなく、視聴者側が自分の見たい番組を選び、見たいときに見ることができるようになるだろう。また自分の趣味や創作物、ホームビデオで撮った映像などを発信するようになるだろう。そこでやりとりされるのは映像や音楽ばかりでなく、買い物情報や株価情報など多岐にわたるだろう。パーソナルコンピュータがその情報送受信の重要なツールになるだろう、と。

 これは明らかにメディア革命です。私はこの革命がCATVを中心に起こると考えました。わたしはこれを自分の仕事にしようと思いましたが、就職しようにもまだ1984年当時は都市型CATVサービスを行っている事業体はなく、できるのは数年先だと思われました。ではそれまで何をして待っていようか。もう1つの重要技術であるコンピュータがいい。おりからソフトウェア業界は、当時銀行の第3次オンライン計画で大量の人手を必要としていましたので就職しやすい。これがわたしがIT業界に入った理由です。

●CATVの失敗

 数年後、都市型CATVは大都市を中心にいくつか作られ、わたしは運よくその1つに番組作成スタッフとして採用してもらえました。しかしいろいろな曲折を経た後に、結局そのCATVをクビになってしまいました。理由はいろいろあります。わたし自身、資質的にマスコミ類似の仕事に向かなかったこともありますが、基本的にはCATVの契約者数が思ったほど伸びなかったということが背景にありました。計画通りの利益が上がらないので、コストを削減するために従業員に対する管理が厳しくなってしまったのです。思えば、もともと難視聴対策のCATVが広く普及していたアメリカと違って、日本ではCATVが大メディアとして普及する土壌がありませんでした。実際の話、一般家庭にとっては、CATVの提供する多チャンネルも独自番組もたいした魅力には思えなかったのです。わたしは双方向性こそカギだと思っていましたが、そんな意見を当時は誰も認めてくれませんでした。同僚のディレクター兼アナウンサーは、わたしに向かって「普通の視聴者が自分の生活をさらけ出すはずがないだろう。仮にそうしたところで誰が見るんだ」とにべもなくいい放ったものです注1

 CATVをクビになったわたしは、番組作成会社にもぐりこむなどして普通のテレビの仕事をしていくことも考えましたが、結局ソフトウェア業界に戻り、技術者として生きていくことにしました。ほんの「腰かけ」と考えていたプログラミングが、意外に性にあっていたからです。それに、CATVの失敗がわたしを弱気にしていました。わたしが考えた未来像は実現しないだろう。仮に実現するとしても何十年も先のことだろう、と思ってしまったのです。

●インターネットの大ブーム

 しかし数年後、わたしが思い描いたヴィジョンが、思わぬ方向からインターネットという形で実現しました。かつてわたしが感じたように、発信したい欲望は社会の中に目に見えない形で充満していました。パソコンを買い求めネットにつないで、自分のHPを作る人がうなぎ上りに増えていきました。いったん道筋ができると、社会的欲望は一気に奔流を作って流れ始めたのです。わたしが予想したとおり、誰もが自分の情報を発信する時代がやってきたわけです。予想と違っていたのは、それがこんなにも早く、しかも一気に世界的な規模でネットワークができ上がってしまったことでした。わたしはコミュニティを中心に地域ベースで徐々にネットワークが立ち上がってくると考えていました。

 しかし結局わたしは、1990年代に起きたこの時代の変化を傍観していました。根が職人根性なものですから、自分で事業を起こし、プロバイダーなりポータルサイトなりを始める度胸も才覚もなかったのです。これがもう少しビジネスセンスを持ち合わせていたなら、最初からアプローチの方法が違っていたでしょう。グーグルは無理でも、楽天の三木谷社長のような人気ポータルサイトのオーナーぐらいにはなれていたかもしれません。

●実現した予想と外れた予想

 こんな自慢にもならない昔話から始めたのは、今回の主題「デジタルネイティブ」について書くため。まずわたしのインターネットとの個人的なかかわりを語ることで、わたしがインターネットに何を期待していたかを説明しておきたかったからです。

 わたしは大学を留年した年から、これからの社会の情報環境がどうなるのか、いろいろ予想してきました。まず巨大なデータベースが構築され、光通信ケーブルを通して、一般消費者が直接アクセスできるようになる。そしてその情報は、単に映画や音楽などの娯楽ばかりではなく、ショッピングや株式投資などの経済的な情報も含むようになる。経済活動がすべてこのメディアを中心に行われるようになり、生産や販売などの企業活動もこれを介して行われるようになるので、会社の事務活動は急速に効率化され、少人数でビッグビジネスを行うことが可能になる。これらの予想は20世紀の最後の10年と21世紀の最初の数年でほぼ実現されました。最近「クラウド・コンピューティング」という新しいサービスも出てきましたので、インターネットはまさしくエンターテインメントも会社経営も教育も医療も政治もすべて呑み込んだ巨大データベースになろうとしています。

 その一方で予想が外れてしまったものも少なくありません。さきほど述べたインターネットのグローバル性もその1つですし、その進化のスピードも予想外のものでした。そして何より予想外だったのは、これらのサービスが各企業の広告費の支出によってほぼ無料で実現されてしまったということです。わたしはこれらのサービスが、その価値自体が評価され課金されて普及するものと考えていました。

 最初に述べたように、わたしの出発点は、民放テレビが無料で情報をたれ流しにしていることに対する批判にありました。「ただより高いものはない」といわれます。お金を払わないで得た情報が身の周りにあふれていることで、わたしたちは情報に対する反省能力を失い、メディアの情報に簡単に扇動されるようになってしまう。それはまさしく「ただのものにつられて高い代償を払わされている」ことだと思ったのです。そのためには情報自体の価値を評価して、それに対する代価を支払うような習慣を作らなくてはならない。情報の有料化は、メディアの双方向性に並んで、わたしが考える未来社会の目玉の1つでした。

 しかし、この予想はまったく外れてしまいました。すでに通常テレビによって無料で提供されているサービスを、一般消費者がわざわざ高い金を払って買うはずはない、という議論があります。その状況で似たようなサービスを有料で始めるとしたら、それは消費者にとってよほど価値の高いと思えるようなものでなければなりません。そればかりではなく、あとで詳しく述べようと思いますが、「情報に値段をつけられるか」という根本的な問題があります。

 とにかく前置きが長くなりました。本題をはじめましょう。

●次代を変える若者たち

 きっかけとなったNHKのテレビ番組とは、さる11月9日に放送された「デジタルネイティブ~次代を変える若者たち~」です。ご覧になった方も多いと思いますが、ご覧にならなかった方たちのために番組の概要を説明します。インターネットが一般家庭に普及するようになって10年以上になる。物心ついたときにはすでに身の周りにパソコンがあり、子供のころからネットを使いこなして育ってきた世代が、世界中のあちこちで新しい社会現象を起こそうとしている。

 番組はデジタル・ネイティブたちの特徴を次のようにまとめていました。

  • ネットに書かれてある内容を現実と考えている
  • 情報はタダだと考える
  • 年齢、職業などで人間を区別しない

 デジタルネイティブの例として大きく取り上げられていたのは、例えば13歳のインドの少年です。彼は見るからに利発そうで、物おじせず、大人の前でも自分の意見を堂々と発表する優等生タイプの少年です。彼はインドの公的なベンチャー支援の基金からの出資を得て、元素記号をキャラクターに用いたカードゲーム販売の事業を立ち上げ、月に5000ドル稼いでいます。彼は商品のカードゲームを開発するための人材の手配をSNSを用いて世界的な規模で行いました。キャラクターの絵はカナダのデザイナーに、説明書の編集はロンドン在住の編集者に、といった具合です。メールで依頼を請けたデザイナーは、依頼者が13歳の少年だとは思わなかったそうです。

 「デジタルネイティブ」が活躍するのは営利事業ばかりではありません。ウガンダのある青年は、自分の国で猛威を振るうHIV感染を憂えて立ち上がり、ネットカフェからSNSを通じて有志に呼びかけ、世界的規模の運動を組織しました。13歳のカードゲーム販売もそうですが、NPO的な社会運動も同じように、これまでは効果を挙げるまでには多額の資金を必要とする事業でした。それゆえ慈善活動は富豪か有名人、あるいは企業がスポンサーになった組織でなければできなかったのです。インターネットはこれらの起業コストを大幅に引き下げているのです。インターネットによって「フラット化」した世界を如実に示す例だといえるでしょう。

 わたしたちはこんな話を聞くと「13歳」の大胆さや早熟さに驚いてしまったり、途上国の厳しい現実から志を持って立ち上がる青年の行動力に感心してしまいます。番組もそんなセンセーショナルな効果を狙ってこれら先端的な事例を取り上げていたと思います。ですが、彼らはデジタルネイティブのなかでも例外的存在です。彼らのようにグローバルな人間関係を築いて顕著な結果を出している例だけを見ていると、かえってデジタルネイティブたちの社会的実態を見失ってしまうでしょう。事実、番組のあとネットで「デジタルネイティブ」で検索をかけてこの番組の感想を調べてみると、すでにブログを書いているようなネットのヘビーユーザーには一般的に不評で、英語ができないことの不利益を危惧する声が多く見られました。こんなことはもちろん問題の本質ではありませんし、番組が伝えたかったメッセージからもかなりズレています。NHKの番組は新しい社会現象を鋭い嗅覚で捉えていながら、旧世代メディアの感覚で物事を捉えていたせいか、その本質を捉え損ねていました。

●デジタルネイティブはどこにいる

 優等生ばかりを見ていても、世代の輪郭は見えてきません。氷山の下には巨大な氷塊が眠っているように、先端的な事例の陰にはもっと普通の「大衆」としてのデジタルネイティブたちがいるはずです。彼らに焦点を当ててみない限り、新しい社会像は見えてこないでしょう。彼らはいったいどこにいるのでしょうか。

 実をいえば、本当の彼らに会いに行くのは簡単です。実際にSNSを試してみればいいのです。

 ということで、遅ればせながら1959年生まれの旧人類、SNS初体験してまいりました(まあ、ちょっと覗いてみただけですが)。mixiは「一見さんおことわり」なので、試してみたのはMySpaceの方です。いや凄かったですねえ。どのページもビジュアル情報が氾濫していて、目が回りそうです。膨大なイメージ情報の中で目立とうとするから色彩が極端だし、グロテスクなイメージが多すぎるし、映画や音楽の趣味を雑然と並べるので、カオスそのもの(きっとテレパシーで他人の頭の中をのぞいたらこんなふうに混沌として見えるんだろうな)。わたしのような旧人類には刺激が強すぎました。

 それにしても動画がふんだんにアップロードされていて、利用者全体のデータ量を考えたら気が遠くなりそうです。しかしそんなことを心配しているようではIT技術者としてはモグリでしょうね。驚くべきなのはそんなことではなく、ただ「友達を見つけたい」「同じ趣味の人と出会いたい」という気持ちだけでこんなにたくさんの若者が、動画撮影やブログ書きに多大な労力を費やしていることです。

●SNSに集まってくる人々

 彼らはいったい何を求めてここに集まってきているのでしょう。ここにくれば有名人と知り合いになれるといいます。なるほど、ここで店を開いているのはデザイナーだったり、ミュージシャンだったり、今の若者があこがれる職業の人たちが多くて、そんな人たちと「お友達」になれるのなら、それは彼らには魅力かもしれません。彼らの「フレンド一覧」には、超有名なスーパースターからあまり聞いたことがないミュージシャンまでプロモーション写真と思しきイメージがずらりと並んでいて、その幾人からは実際にコメントが返ってきています。しかしこれらのミュージシャンにとってはこれが営業活動の一部であることは明らかで、それを「友達」と考えるのは危険すぎるような気がします。

 しかし、それは彼らにとって百も承知のことなのかもしれません。ミック・ジャガー(ふるっ!)がコメントをくれたからといって、誰も本当にそれを本人が書いたとは思わないでしょう。もうちょっとリアリティを求める若者は、もっとマイナーな、自分にも手の届くような、そこそこの「有名人」とコンタクトを取るようですが、彼らの名乗る「ミュージシャン」や「アーティスト」などの肩書きが、実体をともなうものであるかどうかは疑問です。2、3度ライブハウスで歌わせてもらっただけのミュージシャンもいれば、画廊に持ち込んだ絵をほめてもらっただけのアーティストも多いでしょう。ネット以前の基準で考えると、これらの自称クリエイターたちは「アマチュア」でしかないのですが、彼らは自分たちの夢で金を稼げなくとも、SNSなどを通じて発信すればいくばくかの支持を受けて、それを根拠に肩書きを名乗ることができるのでしょう。なかにはそれによって細々と小遣い程度は稼げるようになれるかもしれません。たぶん彼らにとってはSNSが自分の夢の稼ぎ場所なのです。これもまたベンチャー起業と同じように、いわゆるインターネットの「ロングテール現象」が採算ベースの閾値を下げたことによる効果の1つであるといえるでしょう。ネットがプロとアマの区別をなくしてしまったのです。

●平凡さの氾濫

 こうしたことによって世の中に「自称ミュージシャン」や「自称アーティスト」が増殖することは、よいことなのでしょうか。ネット以前の価値観から見ると、これらのアマチュアたちは中途半端な存在で、経済的な負担に堪えきれず淘汰されてしまうものたちなのだから、できるだけ早く引導をわたしてやることがむしろ本人のためであり、彼らの力を有意義な(つまり金を稼ぐことができる)生産活動に方向転換してやることが社会のためでもあるというように思えます。その意味ではネットはいわゆる「ニート」の増加にはからずも寄与しているのかもしれません。また、ネットのおかげで低レベルなクリエイターたちが大量に生き延びられるので、逆に本当の才能が埋もれてしまうし、観客の鑑賞力も磨かれないので、音楽や演劇、文学、芸術のレベル全体を引き下げてしまうという現象が起きているようにも思えます(わたしには小説はすでに1980年代から、音楽は1990年代から、いい作品が生まれなくなっているように感じています。お前の感覚が古くなっているからだといわれれば、それまでなのかもしれませんが)。

 しかしそれはインターネットやSNSに責任転嫁できることではありません。昔から本当の鑑賞力を持っている観客は少なかったものですし、そのような具眼の士はいまでも彼らなりにネット社会でコミュニティを作って生きていることでしょう。「本当の才能」というものは結果でしか評価されないものです。昔から埋もれたまま芽が出なかった才能はいくらでもあるわけで、ネットのおかげで人の目に触れる機会が増えたのに、逆にそれで埋没してしまうのは本当の「才能」とはいえません。また、ネットのおかげで中途半端に生き延びているクリエイターたちは、そのまま中途半端を続けて年老いてしまう可能性があるわけですが、それは正真正銘の「自己責任」です。選択肢が増えれば、待ち受けている不幸も増えるわけで、貧乏くじを引いてしまったからといってくじを責めるわけにはいきません。

●境界線をなくした世界

 要するにインターネットが作り出した新しいメディア環境では、それまであった境界線があいまいになったということなのです。「プロ」と「アマ」の境界、「大人」と「子供」の境界、「芸術」と「エンターテインメント」の境界、「先進国」と「発展途上国」の境界、性の境界、民族の境界、人種の境界。新しい世代はこれらの境界を区切る基準を身につけていないため、そのことがNHKの番組ディレクターには、デジタルネイティブたちが真偽の判断ができない、「ネットに書かれてある内容を現実と考えている」世代というように思えたのかもしれません。

 境界線のない世界とは「けじめ」のない世界です。それに慣れない人間にとっては、あいまいで、ときには「淫ら」であったり「不道徳」とさえ思えるような茫洋とした世界です。ネットを通じて中国の若者に共感する若者がいれば、ナショナリストにとっては彼らは「国際政治の厳しさを知らない、おろか者」に思えるでしょう。出会い系サイトで知り合った異性とセックスをして、ときにお金をもらったりすればりっぱな売春ですが、当人には堕落の意識はまったくなく、いつでも「堅気」に戻れると思っているかもしれません。最近、有名大学の学生が大麻を育てて逮捕されるという事件が続きましたが、これもネットが絡んで善と悪の境界が分からなくなってしまった典型的な事件といえるでしょう注2

 たしかに犯罪の境界線があいまいになるのは困りものですが、なくなってくれたほうがありがたい「けじめ」もあります。性差別の境界、職業における年齢制限の境界、同じく教育における年齢の限界、先進国と途上国の境界、宗教紛争の境界、SEとPGの境界などです。なくなった方がいいかどうか分からないけれど、なくなってもいいかもしれない境界もあります。健常者と障害者の境界、就業者と失業者の境界、経営者と労働者の境界、行政とNPOの境界、等々。ここにあげた例はどれもインターネット(あるいはIT)によって境界の実体や意味づけが変わったり変わる可能性があったりするものです。みなさんそれぞれこれらの境界がなくなってしまった場合の世界を考えてみてください。それは理想郷でしょうか、それとも悪夢でしょうか。

 SNSがもたらした世界をひと言でいえば、「有名人とそうでないの者との境界が見えなくなった世界」といえるでしょう。世界的な超セレブと平凡人が並んでいるフレンド欄は、そのことを端的に表している空間です。考えてみてください。かつては「有名人」といえば、世間に認められた人だけが有名人だったのですが、この場合の「世間」とは、実はわたしたちの思い込みでした。SNSの仕組みを使えば、この「有名であること」を数値的に計ることができます。そう思ってみると、「有名人」という特権者の輝きが、残酷にも変わってくるではありませんか。どんな有名人もフレンド欄に並んだone of themになってしまうのです。デジタルネイティブとは生まれた年で区別されることではなく、「有名になりたい」という欲望の幻想的な輝きがなくなった世界の退屈に耐えることができる人々のことをいうのです。

●平凡なる新世界

 こんな世界に耐えるというのは、具体的にはどんなことでしょうか。旧メディアで育ったわたしには、SNSはどこまでいっても凡人にしか出会うことのできない砂漠のような世界ですが、見方を変えればここでは新しい種類の価値が生まれているともいえます。誰でもいい、誰か平凡な人のあたりさわりのないブログを読んでみましょう。そこに書かれているのは今日のユーウツな気分だったり、南極のオゾンホールだったり、世界の飢餓情報だったり、公園で見たノラ猫の写真だったり、まさしく脈絡のないことをつれづれ書き連ねてあるだけなのですが、作意のない無意識に近い文章だけに、かえって身近な存在感を覚えます。日常の見慣れた光景をあらためて写真にとって見ると、意外な輝きを持っているように見えたりするのと同じで、日ごろのとりとめもない感想やイメージを記録し、人が見るメディアに発表すると、それは自分にとってかけがえのない時間であったことが分かってくる。そんなブログにどんな平凡な言葉でもいい、コメントを寄せてくれる人がいたら、きっとそれだけで心が少し触れ合ったような気持ちになれるでしょう。

 この新しい世界には新しい形の「リアル」があります。わたしたちがこれまでもってきた価値観や幻想がここでは通用しなくなったりしますが、この世界の「リアル」を素直に受け入れるなら、それは異常な世界でもなんでもない、人が棲める日常的な世界になるでしょう。ただこの世界で宝石に出会うには、相当な苦労を強いられますが。

 また長文になりました。ここまで読んでくださった方はまことにおつかれさまでした。でもね、今回のテーマは次回に続くんですよ。 

注1)結局その後も日本ではアメリカのような爆発的なCATVの普及はなく、ブロードバンド回線の一部となってかろうじて生き延びることができたというのが実情でしょう。

注2)すでにこの現象はあちこちでさまざまに捉えられています。「ネット、境界、曖昧」で検索してみたら、さまざまな局面で問題になっていることがわかります。一度お試しを。

Comment(2)

コメント

後藤さん、拙文を引用していただき、誠に恐縮です。そして、情報技術にとどまらない、メディア論としての記述には、きっとパースペクティブな視点がおありなんだろうな、と感じました。実に読み応えがあり、読み疲れるなんてことはありませんでしたので、ご安心くださいね。

 さて、印刷所時代の後輩が「小説 大好き!!」という「オンラインノベル更新チェックサイト」というものを残してくれて、現在その管理人をしています。残念ながら我が国では、情報に対価を払うという思想が根付かず、無報酬、手弁当で3名のスタッフを抱えて運営しています。 http://sd.kiss-mfg.com/

 開始した2000年3月当時は、まだCATVの常時接続インターネットが珍しく、ダイヤルアップ56Kでつないでいるお客さんが多かったので、その接続料金を節約しよう、代わりにオンラインノベル情報を見に行って代わりに掲載しよう、というのがここのアイデアの始まりです。

 ちょっと宣伝になってしまいましたが、広告収入が年間に8千円入るかどうか、といった案配で、すべてはサーバー維持費に消えて行きます。はっきり言って赤字です。それでもやっていて楽しいのは、オンラインでのライトノベル作家の登竜門、はじめの一歩としての認識がコミュニティに根付いているところです。

 それでは、次回を期待して待っていますー。

関藤


生きることをどう捉えるかという観点が変わってくると、また別の世界が見えてくるのではないかと思いました。

プロとアマの境界がなくなってもいいではないですか?
「人はみなアーティスト。」だと思います。既存の社会システムに組み込まれて働くだけが、"生きる" ことではないしょう?引導渡す必要なんて、どこにもない。マスターベーションということも言えますが、創造のプロセスに生きがいを見出し、それを世に問う姿は、人間として立派な生き様だと思います。(現実とのバランス感覚は必要ですが。。)

有名人とSNSで繋がっているかといって、ホントの友人だと勘違いする人のほうが少ないと思います。単に有益な情報(アドヴァイスやコメント)をくれるオーディエンス、情報の提供者という認識だと思うのです。まさしくデジタルネイティブ。


僕はこれからの未来は、「個人個人が自分のやりたいこと、表現したいことを追及できる世界」 だと思います。ネットは、自分と趣味嗜好のベクトルという属性だけで、世界中の色んな人と繋がることが出来て、自分の世界観を掘り下げていき、それを世に問うことで、フィードバックを得る。

競争に意味がなくなり、みんながいい意味で趣味人になっていき、それぞれの個性をお互いが楽しむことの出来る世界になっていくと思います。経済活動との折り合いをどうつけるかが課題になるパターンは出てくると思いますが、そういった中から、今の制度疲労を起こしている経済システムを超える方法論が生まれてくるのではないかと期待しています。

「リアル」という言葉の持つ意味合いが、今よりもっと問われてくるということについては、全く同感です。

コメントを投稿する