個人事業主にしてベテランプログラマー。人呼んで「IT業界の小関智弘」(?)

反アウトソーシング

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●わたしと派遣業

 わたしはこの業界で20数年働いていますが、派遣と外注はどの会社でも一般的に行われていました。最初に入った会社の最初に配属された部署では、開発作業に携わっていた人の半数以上は外部から派遣されてきた人たちでした。明らかにプロパーの社員より技量が上で、開発の主力は派遣技術者が担っていました。給与や福利厚生の面では当然差があったわけですが、管理者もこれら派遣技術者は丁重に扱っていましたし、仕事の上ではほとんど外注もプロパーも区別されていなかったといっていいでしょう。

 にもかかわらず、わたしはこれら派遣技術者という身分には偏見を持っていました。当時「プログラマ35歳定年説」というものが噂されていました。派遣労働に支払われる契約料は一定で低く抑えられているので、年齢が上がって給料が上がっていくと派遣会社はその従業員の給与を支払うことができなくなって、会社を辞めさせられるというものです。この説を真に受けていたわけではありませんが、派遣社員という身分は何かと不利なように思えて、最初の会社を辞めた後もずっとプロパー社員で働けることにこだわっていました。

 契約社員で派遣されて働くようになったのは、30歳過ぎてからでした。いざそうなってみると、肩の荷が落ちて、さっぱりしたような感じがしたものです。まず何といっても仕事に集中できるようになりました。電話を取らなくなりましたし、その他の有象無象の雑用から解放されました。ある程度仕事を選ぶこともできましたので、キャリアも自分で組み立てることができるようになりました。わたしはCOBOLからBasic、C言語、VB、Javaの順で言語を乗り換えてきましたが、こんなことも正社員で雇われていたら難しかったことでしょう。いまでは何であんなことにこだわっていたのだろうかと思います(注1)。

●アウトソーシングは正しい戦略か?

 派遣の仕事にもいろいろあるでしょうが、少なくともシステム開発では、派遣は必ずしも不利な労働ではありません。この仕事は専門性が高く、技能が高度に規格化されていますので、一定のスキルのある技術者はどの職場に行っても即戦力として通用します(少なくとも実装作業の場合)。また、その業績が派遣先で正当に評価されれば、気持ちよく働くことができます。技術革新のスピードが速いため、絶えずキャッチアップのための努力をする必要がありますが、その自信さえあれば、わたしのように何の後ろ盾もない個人事業主でも、それ相応の年収を稼ぐことができます。

 しかし、2000年ころからでしょうか、この業界の状況が変わってきました。わたしがこれまでこのコラムで書いてきたように、技術自体は日進月歩で進歩しているのに、それが現場の生産性に結びつかなくなってきたのです。大量のマンパワーがむなしく費やされ、技術者への負担は「3K」とまでいわれるようになっている。業界の技術は空洞化し、資源が偏って配分され、技術に対する軽薄な侮りと忌避が蔓延(まんえん)しています。

 どうしてこんな状態になったのでしょう。わたしはこれまで「下流」の位置から、つまり現場の作業のやり方や管理方法からこれらの構造的問題を説き起こしてきました。前回はSE/PG分業からソフトウェア開発作業の現状を分析しました。もちろん、この分業をなくせば問題がすぐ解決する、というわけではありません。原因はSIerが業務の一部、あるいは全部を外注するという経営方針を採っていることにあるのであって、SE/PG分業は業務を外注する範囲の目安として使われていたにすぎません。現在ではPGはおろかSEですら、建設作業員のようにプロジェクトごとにかき集められるのが普通になっています。SIerはなぜ業務を外注するのでしょう。このことを根本的に考え直さなければ、IT業界の技術空洞化の問題は解決できません。

 しかし、このような意見には強硬な反対論があります。IT業界の多重請負構造は、アウトソーシングを活用した経営戦略として有効かつ必要なものであって、IT業界には必然的な産業形態であるとする意見です。コンサルタントは、これに賛同する方が多いようですが、はたしてアウトソーシングはIT企業には必要不可欠な戦略なのでしょうか。そもそも経営戦略として継続できるものなのでしょうか。今回はこのことに焦点を当てて考えてみたいと思います。

●アウトソーシングを流行らせたのは?

 「IT」という言葉と同様に、「アウトソーシング」という言葉も最近になって使われ始めたものです。いったい誰が使い始めたのでしょう。断言はできませんが、どうやら1990年代後半に旧通産省官僚が、アメリカの産業構造の変化を手本にして、日本の経済競争力の増強を図るため使い出した言葉のようです。

 近くの区立図書館で「アウトソーシングの時代」(注2)という本を見つけました。編著者はわたしと同じ1959年生まれの、旧通産省のお役人さんです。この本はアウトソーシングの啓蒙書として書かれていて、その主張するところは、およそ次のようなものです。

 日本の企業のアウトソーシングはおもにコスト削減などを目的とし、外注先もグループ企業に限るなど、消極的で身内優先なものにとどまっている。このため、アウトソーシングを利用して効率化するという面ではその効果は限定的なものにとどまっている。これに対してアメリカなどのアウトソーシング先進国では、自社の経営資源を本業に集中するために積極的に社外のサービスを利用し、外部委託を戦略的に利用して新規事業に果敢に乗り出すなどの「攻めの経営」が根付いている。このままでは日本の企業は、やがて経営資源の活用の点でアメリカに遅れをとり、大競争時代を生き残れないであろう。

 こうした主張の上で、著者はアウトソーシングの利用を3つの段階に分けて説明します。まず第1段階はコスト削減を目的とした短期的利益の追求として始められます。例えば、給与計算業務や福利厚生施設の運営など。わたしたちの情報システム部門も、この目的で外部委託されるようになりました。それがやがてアウトソーサーの専門性を吸収して自社の業務に活用するようになる。これが第2段階。第3段階になると、外部の専門性を積極的に活用して新規事業に乗り出すようになる。この段階の企業戦略は利益の追求ではなく、創造性追求型となり、発注側と受注側の間にはよりいっそう緊密な戦略的提携関係が構築されることになるだろう、とのことです。

 いかにも旧通産省の官僚さんらしい考え方です。先進的で、頭がよくて、理想主義的で、大所高所からの視点で、あるべき産業界の姿を分かりやすく生き生きと描いてみせる。そして悲しいかな、全体が見えていない。そのため常識的なことを見落としています。落ちついて考えてみればすぐ分かることです。アウトソースされた業務はいったい誰が担うのでしょう。

●アウトソーシングを基本から考える

 企業はなぜ自社の業務を外部に委託するのでしょうか。例えば、会社のトイレ掃除は社員にやらせません。外部の清掃会社に委託します。これは、人件費の高い自社社員にそんな雑用をさせるのは不経済だからです。それならばSIerはなぜPG作業をアウトソーシングするのでしょう。プログラミングは雑用ではありませんし、単純労働でもありません。この答えは前々回簡単にご説明しましたが、もう一度詳細に考えてみましょう。

 まずこちらのページを見てください。こちらに書かれているのはCVP(Cost Volume Profit)図といって、企業の利益設計をする上で基本中の基本となるグラフです。変動費で代表的なのは材料費、固定費を代表するのは工場などの設備費ですが、人件費も後者として扱います。見慣れない人には少々分かりにくいのですが、企業活動が得になるか損になるかの分かれ目である「損益分岐点」が、経費に占める変動費と固定費の割合で変わることはお分かりいただけると思います。固定費の割合が大きい「工場生産型」の事業では、売り上げが伸びた場合の利益が大きいけれど、損益分岐点は高く、売り上げが伸びない場合の固定費の負担が大きい。一方「アウトソーシング型」の事業では、損益分岐点が低いので比較的小さな売り上げでも利益が出ますが、売り上げが伸びても利は薄い。いわば前者はハイリスク・ハイリターン型、後者は安全経営型といえます。このため、コンサルタントは企業に経営の安定化を図るために、アウトソーシングを勧めるわけです。なかでも情報処理業務はその代表選手で、わたしたちIT業界がおまんまを食べられるのも、コンサルタントの方々があちこちでコンピュータ業務のアウトソーシングを薦めてくれるからにほかなりません。

●アウトソーシングの果てに、100年前に逆戻り

 しかし、ちょっと考えてみてください。一般顧客がコンピュータ業務をアウトソーシングするのは分かります。しかしその外注を受ける側、SIerが生産をアウトソーシングしたらいったいどうなるでしょう。元請けは下請けに外注します。下請けもまたその下請けに発注する。企業規模が小さければ小さいほど安定経営を志向するものです。そうしてツケを回していく果てに、固定費を実際に負担してプログラムを作るのはいったい誰になるのでしょう。究極の下請け業者、すなわち契約社員、派遣労働者なのです。

 これこそがいまIT業界で――いや、IT業界に限らず日本の産業界全般で起こっていることなのです。企業は正社員を減らして契約社員を雇う、あるいは派遣業者から人員を派遣してもらう。これは企業にとっては固定費を減らして経営を安定させるのに役立つでしょう。しかし、これは単に売り上げの増減によって生じるリスクを労働者に転嫁しているだけです。労働者は原理的にアウトソーシングすることはできない(生活費は究極の固定費です)わけですから、このリスクから逃れることはできません。すなわち、仕事が忙しいときには死ぬほど働かされて(場合によっては残業代が出ないこともあります)、仕事がなくなったらすぐクビになる。景況の波を一番弱い立場の労働者が直接かぶってしまう。今日の雇用問題の大部分がここにあるのです。

 その昔、産業革命が起こったばかりの資本主義経済の初期には、工場労働者が同じ立場に置かれて悲惨な生活を強いられました。当時は12時間労働が一般的で、文字通り夜明けと同時にたたき起こされ、日が沈むまで働かされたのです。仕事がなくなると容赦なく馘首(かくしゅ)されました。これらの悲惨な状況を改善しようとして、血みどろの労働運動や階級闘争を経て、労働法が制定され、行政によって労働者が保護されるようになったわけです。ところが1980年ごろから、いわゆる「規制緩和」「構造改革」の名のもとにさまざまな修正が加えられて、次第に骨抜きになってきました。「社会のニーズに合わせて制度を柔軟に運用する」という名目で、1日8時間の労働という原則も崩されています。それどころか「サービス残業」などという違法行為まで横行している。まるで100年前に戻ってしまったかのようです。

 アウトソーシングがその本来の目的にではなく、派遣労働と結びついて労働者保護制度の抜け穴に使われていることが明らかです。件の旧通産省のお役人さんには、このことが予想できなかったのでしょうか。概してお役人さんは考え方がタコツボ的で、自分の属するセクション以外のことは見えないとよくいわれますが、それはこのアウトソーシング論にも当てはまるでしょう。アウトソーシング論それ自体はいかにも立派な議論かもしれませんが、一般勤労者のことはまるで考えられていません。まるでそれは他省の管轄だからどうでもいいといわんばかりです。お役人さんには全体が見えているようでいて、実際にはぜんぜん見えていないのです。

●「三丁目の夕日」

 彼らが見落としていたことは他にもあります。それは、彼らが槍玉に挙げる日本的経営の閉鎖性、グループ企業内で受注しあう身内主義的傾向にも、経済構造として一定の合理性があったということです。

 かつては日本にも「町工場」というものがいたるところにありました。今も住宅街に工場が隣接しているところはありますが、昔に比べるとずっと少なくなっています。映画「三丁目の夕日」にそのころの街の風景が再現されていますね。当時は全国に零細企業が無数にあって、大企業から注文を請けて生業を立てていました。日本の産業は少数の大企業と、無数の中小企業に二極分化していて問題であると、社会科の時間に習ったものです。これらの町工場は従業員を雇い入れ、高価な機械設備などを負担していたのですから、相当ハイリスクなビジネスをしていたわけです。平気だったのでしょうか。

 平気だったのでしょうね。こういった町工場の経営者の多くが職人上がりだったと思われます。職人は熟練労働者ですから、けっこう安定した身分だった(注3)のですが、それでも一部の職人は金をためて自分の工場を持ちました。それは、そのことが「出世」であるばかりではありません。売り上げが上がれば、利の厚い、儲かる商売だったからでしょう。大企業は豊富な資金力によって新製品を開発し、常に新しい需要を開拓してくれます。その下請けをしていれば一定の売り上げは期待できます。売れることが確実ならば、「工場生産型」事業は魅力的な商売です。彼らはハイリスク・ハイリターンの事業をあえて引き受けました。彼らの気概のおかげで、大企業は固定費を削減することができ、職人は安定して仕事にありつけたのです。

 もちろん、こういった町工場の経営者はリスクに鈍感だったわけではありません。彼らは売り上げの変動を抑えるために、注文をくれる大企業の「子会社」になることで、親会社から安定して受注し、かつ親会社の信用を背景に銀行から融資を受けることができました。いわゆる「系列」の形成です。大手銀行が乗り出せば、信金や信組も寄ってくる。系列に食い込めない企業は、苦しいけれどいわゆる「町金」の高利融資で急場をしのぐ。中小企業の売り上げ増減のリスクは、大小の金融機関によって支えられたのです。こうしてこれら町工場の経営者の努力が日本の高度経済成長を下支えし、日本の技術力を世界的なブランドへと高めました。

●アウトソーシングの正体

 ところが1980年代から1990年代にかけて「規制緩和」が叫ばれはじめると、こうした日本的な経営が非難の的になりました。大企業中心の「系列」が日本の産業の高コスト体質を維持しているとされたのです。たしかに規制緩和のおかげで「価格破壊」が起きて物価は下がりました。しかしその代わり、深刻な雇用問題を抱え込むことになってしまいました。日本はアメリカの真似をして「アウトソーシング」を取り入れることで、閉鎖的な企業系列を破壊しましたが、同時に中小企業の安定受注の構造も壊してしまいました。

 本来なら金融機関がそれによって増えたリスクを支えるべきところでしょうが、折から起こったバブル崩壊による金融危機で銀行にはそのような余裕はありませんでしたし、元から不動産を担保にした融資による安定経営に慣れてきた銀行には、中小企業の小口融資を詳細にリスク査定する能力などなかったことでしょう。その結果「貸し渋り」や「貸しはがし」が横行しました。こうした中小企業の金融環境の悪化に対して行政的あるいは制度的な保護措置がとられてもよかったと思いますが、それさえもなかった。大手金融機関には破格の救済措置がなされたのに、中小の弱者には「自己責任」の原則が押し付けられたわけです。

 金融の支えをなくした中小企業は、設備投資を抑えられて技術革新から取り残され、発注会社の値引き圧力に抵抗できず、やむなく廃業するか、違法すれすれの外国人労働者を雇うか、人件費の安い海外生産にシフトすることを迫られました。その結果、日本の産業技術が空洞化し、製品の品質劣化を招き、食の安全まで脅かされるようになる。これが「アウトソーシング」の正体です。

●得をするのは誰?

 と、また少々挑発的な書き方をしてしまいました。

 アウトソーシングを喧伝した旧通産省のお役人さんたちには、もちろん日本の産業を空洞化させる意図はなかったでしょう。よしんばそのような懸念はあったにしても、日本の経済にはそれを補って余りある利益がもたらされると信じていたのでしょう。それは例えば、M&Aのような形で経営をドラスティックに転換させることで、経営の合理化を果たし、企業価値を高める――すなわち株価の上昇で実現される。株価が上がれば消費も増えて、それが景気を刺激して労働者の所得も上昇する。たぶんこのようなヴィジョンを描いていたのでしょう。

 しかし、わたしのような「下流」にいる人間からしてみると、これらの話は、現実からあまりにも迂遠な夢物語に思えます。企業の業務をレゴブロックのようにつけたりはずしたり、犬の子をやり取りするようにトレードしたりすることで、企業価値は果たして上がるものでしょうか。それは単なる市場の幻想であることを、わたしたちはITバブル崩壊やライブドア事件のときに痛感したのではなかったでしょうか。製品は誰かが作らなければ売ることはできないし、会社のトイレは誰かが掃除しなければならない。アウトソーシング推進論は、こんな単純なことをどこかに置き忘れてきた主張に思えます。

●こまった「市場」信仰

 さらにアウトソーシング論で問題なのは、市場原理の過大評価です。

 企業が自前で、あるいはグループ企業内で製品やサービスを調達する場合、そこには市場原理が働かず、コスト高になってしまう、それが消費者に転嫁されてしまうというのが、アウトソーシング推進論の論拠の1つです。ご存じのように、この理論は市場経済の価格決定作用を企業内部に持ち込んで、コストの適正化を図ろうという考え方です。その背景には、市場原理が発注する側にも受注する側にも公正公平で、合理的な価格を導き出してくれるという前提があるわけですが、そんなことは実際にはまずありえません。このことは下請け業者の立場で営業に歩いたことがある人ならば身をもって知っているはずです。

 アウトソーシングでは、発注する側と受注する側が対等の立場にあることは極めてまれです。価格の決定権は発注側にあるのが普通で、資金力のない受注業者は固定費の負担に堪えきれませんから、注文主の価格設定に従わざるを得ません。もしこれを対等にしようとするならば、受注側は資本を増強し、営業規模を拡大して銀行融資を呼び込み、マーケットシェアを獲得する必要があります。それからでなければ、対等の価格交渉には望めません。しかしそうすれば、この受注業者は巨大な固定費のリスクを抱え込むことになります。結局その業務をもっと小さな会社に丸投げすることになるでしょう。これでは間に余計な会社が1つ入っただけで、状況は何一つ変わりません(注4)。このようにして、アウトソーシングは必ず「外注/下請け」の関係になります。「アウトソーシングの時代」の著者のいう「戦略的提携関係」が自然に形成されることは考えにくいのです。

●アウトソーシングで品質低下

 市場原理の過大評価はもう1つの弊害をもたらします。一企業の内部で物が生産される場合、その生産に必要な資源配分――すなわち予算配分は、直接の管理の下で評価されます。しかしアウトソーシングの場合、市場原理が働きますから、原価が正当に評価されない可能性がある。すなわち生産者に対する適切な資源配分が保障されないのです。受注業者は競争を勝ち抜くためなら何でもします。例えば見えないところで手抜きをして納品する。そうなっては大変だから、発注側は綿密なテストを行わなければならなくなる。そのテストに膨大なコストが発生する。これでは何のためのアウトソーシングか分かりません。

 市場原理は万能ではありません。業務の発注者と受注者が公平になるのは、金融のリスクサポートが適性に働いて、受注側が設備投資や営業力を強化して市場競争に見合う原価を実現できる場合だけです。それが実現されない場合、受注者は受注業務の品質を下げざるを得ない。発注者は品質のコントロール手段を失い、品質は急速に劣化していく。日本の高品質製品の代名詞だったソニーが、安易なアウトソーシングを推し進めた結果、外注部品の劣化を招き、「ソニーは買うとすぐ壊れる」とか「ソニータイマー」と呼ばれて大いに面目をつぶしたことを忘れてはなりません。

●アウトソーシングしていい場合といけない場合

 また話が長くなりました。そろそろまとめに入りましょう。

 わたしはここまでアウトソーシングの欠点ばかりあげつらってきましたが、もちろんアウトソーシングそのものを否定するわけではありません。世の中には外部委託したほうが合理的な業務もたくさんあります。大型汎用機で行うデータ処理業務はその典型例の1つで、1970年代から専門業者が成立してきました。OAが普及した後も業務アプリケーションを内製するケースは少なく、業者に委託する場合がほとんどです。そもそもIT業界自体がアウトソーシングを前提に成長してきた業界です。前述したように、コンサルタントがその受注営業の最前線に立っていてくれたわけで、その意味でコンサルタントがアウトソーシング論に肯定的なこともうなずけます。

 しかしそれは、ユーザーが自分たちにできない業務を外部の専門家に委託する場合の話です。専門家であるはずのSIerが自社の経営の都合で業務を外部委託していたらいったいどうなるでしょう。前述のとおり、コストばかりを重視した「市場原理」が災いして、品質をコントロールする手段を失い、テスト工程の費用がいたずらに拡大します。結局は逆にコスト増になる。そればかりではありません。景況のリスクが末端の技術者にしわ寄せされ、「女工哀史」や「蟹工船」の時代に逆戻りしてしまいます。「3K」と呼ばれるのもむべなるかな。これでは労働者のインセンティブは甚だしく損なわれ、業界全体に長期的な悪影響を及ぼすでしょう。アウトソーシングの結果、技術が空洞化する問題については前回、前々回に書きましたからもういいでしょう。ソフトウェアの開発自体はアウトソーシングに適した業務ですが、それを分割してアウトソーシングすることは、多くのリスクを発生させ、長期的に会社に不利益をもたらします。

 そもそもアウトソーシングのデメリットについては、わたしがこんなところでいちいち説明するまでもなく、専門家が「コスト面のみに着目した安易なアウトソーシングは、“戦略なき外注”となり、最適なITガバナンスが失われるリスクがある」とすでに指摘していてくれています。こちらをご覧ください(それにしても、この手の専門家はどうしてこんな分かりにくい言葉で説明するのでしょう。わたしも今回以上のことを書くために勉強するまで、このページを理解できませんでした)。

●会社のトイレは誰かが掃除しなければならない

 結論を言いましょう。「下流」の目から見ると、現経済産業省のお役人さんが勧めるアウトソーシング論は、企業の業務を細分化してトレードしやすくするという効果を狙ったものでしかないように思えます。これは投資家目線で見れば、投資対象として合理化された望ましい姿かもしれませんが、実際に現場で働く立場からすると、多くの場合さまざまな障害を作り出し、結果的に投資対象としての企業価値を損なってしまう、不合理極まりない戦略です。アメリカではこんな手法で見かけ上の企業価値を向上させ、株価で儲けるというビジネスが流行っていたようですが、こんなことをすれば生産の実態にかかわりない投機的投資が横行するのは当然です。このマネーゲームの報いがいま起こっている金融危機ではないでしょうか。

 もうそろそろ、アメリカの真似をするのはやめにしましょう。

●企業家の精神に立ち戻れ

 SIerのみなさん。もっと自信を持ってください。みなさんの業界はハイテクの先端にいる業界ではなかったでしょうか。多少の売り上げ増減のリスクなど吹き飛ばしてしまえるような技術革新が日夜生まれている業界ではありませんか。

 MicrosoftだってGoogleだって、つい最近までみなさんと同じような中小企業だったのですよ。彼らがベンチャーから世界的な企業にのし上がるまで、わずか数年しかかかりませんでした。もちろん彼らのまねをしろというのではありません。ライブドアの堀江元社長のように、形だけまねをしてスベった人はたくさんいます。

 わたしが言いたいのは、ITは少ない投資で多大な利益を上げることができるビジネスだということです。その事実を見据えれば、設計/実装技術者の人件費など物の数ではありません。かつて日本の高度成長を支えた「町工場」の経営者などよりもはるかに好条件に恵まれているはずです。

 きちんとリスクを負担して、でっかく儲けましょう。固定費をけちけちして喜ぶのは、リスクをぜんぜん理解できない銀行の営業マンだけです。彼らは担当する企業が安定して利益を上げてくれればいいと思っているだけです。彼らのいうことを真に受けて不用意なアウトソーシングに走ったら、あなたの会社の技術は完全にスポイルされます。むしろ彼らに、こう力説しましょう。

 「うちの技術者は天才ぞろいだ。うちは金のなる木を持っているんだ。あんたはそれを伐れというのか。とんでもない!」

(注1)しかし、わたしのようなケースはやはり稀なのでしょう。世の中、悲惨な条件で働いている派遣社員の話をよく聞きます。ITの会社だと思って契約したのに、回ってくる仕事はデータ入力のオペレータ作業ばかり、そのうち30歳も過ぎると仕事を回してもらえなくなってしまった。いまさらPGにしてくれる会社もない。このような派遣社員使い捨ての例はいくらでも転がっているでしょう。学校でプログラミングを勉強するか、最初の会社できちんとした教育を受けることは、この業界で生き残っていくには重要なことです。

(注2)村上世彰編著、日経BP社、1999年

(注3)もと旋盤工の作家、小関智弘が書いていますが、腕に自信がある労働者はけっこう気位が高く、少しでも条件のいい仕事先を求めて、ちょくちょく仕事先を変えていました。市場価値のある技能を身につければ、たいした貯えがなくとも生活困窮に至らないという見通しがあったわけです。いつの時代も同じですね。

(注4)われらがIT業界では、実際にこの戦略をとって急成長した会社があるようですね。どことはいいませんが。

Comment(3)

コメント

tomo

同業者です。

王道は、「量産品を外製化(アウトソーシング)、先端商品は内製化」。そのための最適な資源配分を計画する、、

あれ?、それを商品として売ってる側じゃ、、

SIベンダーで自社にERPを導入して、利用しているところってあるのでしょうか。

そもそもアウトソーシングをどのように定義付けているか興味ありますね。

エムワイ

またコメントさせて頂きます。
コレを読んで、三鷹光器の会長さんの話や
http://www.jinzai-bank.net/edit/info.cfm/tm/051/
痛くない注射針を作った岡野さん
http://hochi.yomiuri.co.jp/special/nipponjin/news/20080129-OHT1T00170.htm
を思い出しました。
もちろん土俵が違うと言えば違いますが、製品、サービスを作ると言う事では同じだと思います。
この方々のように物を作ることの情熱などが現在のITには無いように思えます。
今わたしは、大企業のグループ会社と契約して作業を行っていますが、社員の方に進行中のプロジェクトに対してまったく思い入れが感じられないのです。
MicrosoftにしろGoogleにしろ、Appleにしろ設立当初はその物、サービスに対しての情熱が有ったから、今あれだけ大きな会社になっているんじゃないかと思います。
三鷹光器の会長さんは、
以前「カンブリア宮殿」と言うTVに出て、
「我々が大企業に立ち向かうには彼らより3倍良い物を作らないと納得してくれない」と言っていました。しかし、三鷹光器さんはライカと契約を取られました。
数ある企業を押しのけて、小さな会社に海外からわざわざ来るほどなんですよ。
製品、サービスに情熱が無ければ良い物はできないと思いますし、
外から連れて来た人に「この製品に情熱を注いでくれ」と言っても無理だと思います。
まず要件、仕様を話される方の情熱というか少しでも思い入れが欲しいと思いました。

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