『進化の功罪』 -奇妙な短編-
「もう身体なんて必要無いのですよ。」
女の声が静寂を切り裂いた。いや、静寂ではなかったのかもしれないが、その声だけがはっきりと聞こえた。ここまで時代が進んでいたことを男は知らなかった。脳に直接電気信号を与えることで、身体を動かしていると認識出来てしまうその装置は「楽園」と呼ばれ、事故や病気で身体が不自由になった患者の緩和ケアとして、大手IT企業と医療器具メーカーが共同開発したものだった。物を触る感覚や食べ物の味を認識出来るのは、「脳」が目、鼻、感覚を通じて電気信号を受信するからであって、そのシグナルを解析し、同じ電気信号で直接刺激を与える事で、「脳」に、これは実体験なのだと錯覚させるのがこの装置のカラクリだった。
女に案内され奥の部屋に通された男は、装置内の液体に浸かっている多数の「脳」を目の当たりにし、女の言っていることを信じるようになった。事故で手足を失った者だけではなく、病気で臓器の機能を失った者や、不老不死を夢見た金持ちの「脳」もそこにあるのだと知った。「脳」の機能を維持するその液体が時々青く光るのは、「脳」から発信される喜びや感動の電気信号を察知する時であり、恐怖や悲しみや痛みの電気信号を察知した際は、赤色の光に変わる性質が備わっていることも知った。色の濃さは「脳」から発信される電気信号の強さと比例していた。近い将来、「脳」が伝えようとしていることをリアルタイムに文字や音声に変換し、残された家族に伝える技術も期待されているが、現時点ではこれが精一杯だった。しかし、コミュニケーションツールとしては一定の機能をはたしていた。
男には家族も職もなかったが、最近手に入れた大金だけはあった。そもそも将来を悲観し、何度も死のうと自暴自棄になっていた男にとって、「楽園」を利用する事への躊躇は一切無かった。大金を手に入れたものの結局使うことも出来ず、この先起こりうる惨めな将来を悲観するくらいならばと、電気装置が作り出す楽園で余生を過ごす選択をした。肉体の維持には大量のエネルギーが消費されてしまうため、身体から「脳」だけを切り離される。それはすなわち、楽園への片道切符だということを男は知っていたが、それでも選択に迷いはなかった。身体から切り離された「脳」は、エネルギー消費を最小限に抑えることができ、その液体さえあれば、理論上は何百年でも生存できた。何百年も心地よい刺激を与え続けることこそが最高の快楽。緩和ケア目的で生まれた「楽園」のもう一つの顔がそこにあった。不老不死を夢見る金持ちの「脳」がそこにあるのも、そういった理由からだった。
いつの間にか「楽園」は市民権を獲得しており、宇宙旅行が身近になった一昔前と同じ様に、金持ちから順にその世界を堪能していった。時間の経過とともに利用のハードルは下がっていき、気がついた時には、犯罪者の逃亡先として活用される事が社会問題になっていた。失うものが何もない彼らが自ら犯した罪を償うことなく、脳内の楽園へ逃げ切るには十分過ぎるほど社会の環境が整っていた。ちょうどその頃、もう一つの闇ビジネスが社会を悩ませていた。日本でも死刑制度が廃止になってかなりの月日が経過していたが、人権尊重という大義名分の犠牲になったのは被害者遺族の方だった。つい最近も強盗殺人のニュースが世間を賑わせていたが、犯人を捕まえたところで極刑が認められない以上、被害者遺族の報復感情が満たされることはなかった。しかし、その報復感情を満たしてくれる闇ビジネスが横行するという社会問題が浮き彫りになっていた。そして、極刑に匹敵する処罰を望む被害者遺族の報復感情を満たしてくれるのもまた、「楽園」だった。
男は、世間を賑わせている強盗殺人のニュースを待合室のテレビで見ていた。「もはや捕まるのも時間の問題だな」と、この事件の加害者でもあるこの男は、小さな声でつぶやきながら女に合図を送り手術室へと向かった。女は、犯罪者を脳内の「楽園」へと逃がす闇ブローカーだった。男は犯した罪を償うことなく、人を殺し奪い取ったその金を使って、脳が作り出す「楽園」へと逃げていった。
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男の身体から脳が切り離されたそのタイミングで、女はこの事件の被害者遺族を呼び寄せた。女の本当の正体は、被害者遺族の報復感情を満たす闇ブローカーだった。この事件の加害者でもある男の「脳」が装置内の液体中に入れられる瞬間に、その被害者遺族は立ち会っていた。程なくして、装置内の液体は真っ赤に光り始めた。理論上は、この先何百年も......
コメント
匿名
これはありそうで怖い。
勝ち逃げ先生
あけましておめでとうございます。休日モードなので息抜きにSFショートショート書きましたが、今年も基本はコラム書きますんでよろしくおねがいします。
こぼ八
SFの名作、「百億の昼と千億の夜」とか「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を
彷彿とさせる話で引き込まれました。
今年も期待しております。
勝ち逃げ先生
こぼ八さん
>SFの名作、「百億の昼と千億の夜」とか「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を
>彷彿とさせる話で引き込まれました。
短編とはいえ小説は初めてなのでクオリティが不安でしたが、応援メッセージ頂けてうれしいです。あと大変恥ずかしながら、上記2作品を存じ上げておりませんでした。。。どちらもKindle版があったので、これを機に読んでみます。情報共有までして頂きありがとうございます。
>今年も期待しております。
基本はコラム書きますんで、ゆるめにお楽しみ頂ければうれしいです。
えーすと
いつものコラムとは違い、これもまた楽しめました。
サスペンスのようなどんでん返し。読み応えがありました。
勝ち逃げ先生
えーすとさん
マンネリだけでは成長出来ないので、ショートショートにチャレンジしてみました。それなりにお楽しみ頂けたようでよかったです。