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「小損を取る」(4) 「引き寄せの法則」っていっても…

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 突然ですが、「引き寄せの法則」について、その評価はさておき、この業界でもそうでなくとも多くの方が相当興味をお持ちのようなんですよね。今回は引き寄せの法則にひきつけて書いてみます。

 これと私の書いている「小損を取る」には密接な関係がありますので。(関係はありますが、考え方はまったく異なります)

 結論(最初に書いておくいつものパターンw)。引き寄せの法則というのは、ニュートンの万有引力の法則のような普遍性はないけれど、そのような法則ちっくなものはぼんやりと存在しているようです。

 「火のないところに煙は立たない」。

 遠いところに住んでいるおばあちゃんが亡くなった瞬間に、枕元にすっと立っている、ということがあるらしいじゃないですか。私はそういう経験はないですが…

 でも、なんとなく「あーそういうこともあるかもしれないよねー」「何かを伝えにきたのかもしれないねー」とは思います。

 つまり、「そのぐらいのもの」ということです。言下に否定することでもない。自分に起こらないからといって否定するのは大人げない(苦笑)。

 科学的に証明されなくとも「存在」する法則性というのはあるのでしょうね。だいたい人間自体が宇宙では井の中の蛙なんですから、人間が科学的に証明できない事象が実は99.9%といっても過言ではないでしょう。

 さて、「引き寄せの法則」=(浄土)真宗説、というのを私は提唱しています。

 …いや逆ですね、(浄土)真宗=「引き寄せの法則」です。

 真宗というのは南無阿弥陀仏と唱えれば救われます、悪人であっても救われます、という他力の宗教です。(ざっくり書きすぎましたが反論はとりあえずなしでお願いしますw)

 引き寄せの法則というのは、何かを強く念じればそれを引き寄せることができますよ、と。そっくりですよね(笑)。

 そして多くの方が、上っ面を知識として理解しているだけで、引き寄せの法則も、真宗も、どちらも大変に厳しい教えである、ということから目を背けています。批判的な人も、信奉している人も、等しく目を背けています。

 真宗の「絶対他力」という考え方は、私にとっては身震いするぐらい厳しいものです。はたしてこの飽食の時代に生きる現代人が、南無阿弥陀仏に絶対帰依することなどできるのでしょうか?

 実際お勤めをしている本願寺のお坊さん(坊さんなのに真宗は坊主頭ではない)ですら、おそらくその厳しさを知らないと思いますね。教えの中のいいとこどりをして檀家に布教してるだけだと思います。

 まぁ厳しさを前面に出してしてしまったら大衆は離れていってしまうので、真髄はあえて教えないというのもあるでしょうね(苦笑)。

 引き寄せの法則に関していえば(詳しくはおいおい述べますが)、そもそも何かを強く念じ続けることなど、現代人にできるのでしょうか?

 ただ断続的に、気が向いたときに念じていれば引き寄せられるわけではないのです(そんな甘い話ではない)。強く念じ続けなければならないのです。

 まぁ厳しさを前面に出してしてしまったら本は売れないでしょうから、そんなことは書けないんでしょうね(苦笑)。

 えっと、最近よく耳に入ってくる、とあるタイプの言説があるんですけども…いわく、

 あきらめの悪い者が最後に勝つ。

 とか

 エジソンは4000回失敗した

 とか

 成功者は成功するまで続けただけ

 とか。こんな類の…

 これらは、結局正論です。

 いわゆる引き寄せの法則というのもそうで、強く念じ続けて、そのまま実現せずに死んでしまった方が世界中にたくさんいるはずなのですがすでに「死人に口なし」であり、その人たちの悔恨の念は後世には伝わっていきません。

 エジソンよりも多く、4002回失敗しても何も発見できないまま、失意のうちに亡くなった科学者は世界中に何千人といるのでしょう。

 ですが、しつこく強く願い続けた人たちのうちの一部が、(ほぼ)偶然、その願ってたことが実現しちゃう、というのはありうることです。

 で、話が歪曲されて(本人や周りは歪曲しているつもりはない)、強く願えばかなう!私でもできたのだから!みたいな結論だけが独り歩きしてしまいます。

 アイドルと結婚したい!と強く強く願い続けている方は常時100万人ぐらいはいるはずで(笑)、でもその中でアイドルと結婚できる方はゼロです。

 とある有名な本では、強く願い、それを「宇宙へ放射」したならば、あとは神にまかせなさい、と… とある願望があったとして、それの実現にいたるまでのプロセスは考えなくていいのです、みたいな…

 なんていうのかなあ…(苦笑)、これだけ読んだらみんな自分の都合のよいほうに信じちゃいますよね。南無阿弥陀仏と唱えていれば救われる、と似てますよねえ… なぜ救われるのかは庶民は考えなくていいんですから。

 ただ…これは正しくなくはないんですよ。たとえば家の中でモノを無くしたときはまず記憶が鮮明のうちに集中して探して、それでも見つからないのであれば「神にまかせ」たほうがよいのです。たいがい、大掃除で出てきますから(笑)。はい引き寄せました(苦笑)。

 試験前に根を詰めて勉強するよりも前日は寝てしまったほうが、アタマの中で思考が整理され、良い点数が取れるというのは事実です。これも、脳にまかせちゃってるわけですが「神にまかせ」てるといえないこともない(笑)。

 「プロセスは考えなくていい」というのは性善説をとっているのです。つまり、強く強く願うほどの願望であれば、強く願った時点でプロセスを発動させているはず、と。強く願うだけで実際の行動に移さないわけがない、という前提なんです。ほったらかしてよいとはいってない。

 実際の行動というのは、身体を動かさなくとも、アタマの中で計画を練り始める、でもよいのです(ただしその計画のアウトプットは後で必ず必要)。

 自分の生活が、いつまでたっても、その願望の実現のために変化しないのであれば、強く願っているとはまったくいえないのです。自分の生活が「そこ」を中心にまわり始めるぐらいじゃないといけません。

 ここに、いわゆる引き寄せの法則が「うさんくさい」要因があります。ぜんぜん引き寄せられない!と文句をいえば「念じ方が足りないからだ」といくらでも反論される。うわっそれって新興宗教と同じじゃん、と。

 そのうち、この50万のパワース●ーンを買うと二階級特進することができ、願い事が実現されやすくなりますが…みたいな魔の手がやってきますので(苦笑)、スキを見せないほうがいいですね。あるいは高額の、いわゆる「自己啓発セミナー」的な宣伝文句に思わず目がいくようになったら、心が弱ってる証左です(笑)。

 まぁそういうのに数十万出費するようになってしまったら、それがどんな状況であろうと「小損」どころか「大損」ですね。

 …話を「小損を取る」のほうに強引に戻していきます(汗)。

 引き寄せの法則というのは、引き寄せたい対象をできうる限り、いや極限まで具体化する(イコール強く念じる)のが肝要、というかMUSTなのですが、「小損を取る」では、小損をとることで何か具体的なモノ、あるいはコトを実現できるわけではありません。

 ですので、まったく違う考え方です。270度ぐらい違うと思います(笑)。

 ところで、先ほど書いたように真宗では南無阿弥陀仏と念じれば救われるという教えですが、「南無阿弥陀仏と念じ」るという手法が非常に具体的ですね。だからこれは引き寄せの法則なんですね。なぜなら、引き寄せたい対象である「救われる」というのはイコール南無阿弥陀仏なんですから。

 つまり、「南無阿弥陀仏」って多くの人がただ念じていますけど阿弥陀さまに帰依させてくださいお願いしますお願いします、って念じているわけで、結果として「阿弥陀さまに帰依できた」という状態イコール「救われる」なんです。

 それがどのような「状態」なのか? は私にはよくわかりません。

 いずれにせよ、具体的な願望を念じて、それが実現されるということに変わりはありません。正確にいうと、実現される可能性が高まる、ということですが。

 「小損を取る」は、その「小損を取る」自体が具体的手法ではありませんし、引き寄せられるもの(小得)もよくわからないものであり、よくわからないので結果に期待もしません。よくわからないままでいいのです。

 なので宗教でも自己啓発でもありません。私は「修行」に非常に近いものだと思っています。昨今宗教性を帯びていない「修行」というのはたくさんありますからね。

 以前書いた、小損を取る行為を無意識のうちに行うべき、というのはすなわち修行をルーティンに組み込むということです。修行を楽しいとも苦しいとも思わず、ただただやる。

 これが実は、ビジネスマンにとって最強の武器になっていくわけです。ビジネス・シーンで実績を上げている著名な方(テレビに出ているという意味ではありません)は、どうやらみーんなこれをやっているようなのです。

 続けます。

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