2.「きちんと見ることを尊ぶ」人はなぜ不利か
●前回の「自転車とプログラミングと」
前回は、自転車(など2輪車)に乗るドライバーの「見方」である「きちんと見」ない見方が、プログラミングにとって有利である、というドグマを導き出したまでを話しました。
今回は、反対に「きちんと見ることを尊ぶ」人はなせ不利か、という点について持論をお話しします。
●「きちんと見る」人間は、組織の要石
まず、お断りしておきますが、「きちんと見る」人間が悪いといっているわけではありません。
「きちんと見る」人は、組織の中では「個人の状態把握」などにおいて、要石として活躍しているはずです。
悪くないのですが、その良さゆえに行動様式をほかの仕事にも敷衍(ふえん)する、あるいは敷衍されると、問題が起きます。さらに、新人教育係が「きちんと見る」人ばかりとなっている点も、問題を助長します。
●「きちん」とは何か
無条件に特定の言葉をあげつらって批判しても、論理的ではありません。かといって、なかなか既存の言葉で表現できません。
ですので、言葉については、ある程度「おれおれ定義」をしたいと思います。
まず「きちん」ですが、「きちん=連続性」ではないかと考えます。ただし、数学的な「なめらかさ」でなく、
「初めに対する規則を、次も同じように適用できる」こと
を(おれおれ)定義としたいと思います。何かを「きちん」とすることは、原則として褒められる傾向にあります。
●「見る」とは何か
次に「見る」について。情報処理の仕事における定義ですが、
目で、VDT画面を見る。人間を見る。
ということになります。
さて、「見る」の特徴を挙げてみましょう。
1.対象の数が決まっている
フロー図(ノードとアークから成る図)において、四方からのアークはともかく、八方にアークを出すと、間違いなく限界となります。アークが16ぐらいになると、確実にレビューで却下されるでしょう。
人間関係でも同じです。例えば、会合などで「見る」対象となるのは、(面識がある程度ある知り合いを除けば)せいぜい10人程度を超えることはないはずです。
2.リアルタイムである
1.の「対象の数が決まっている」点と結びついているかもしれませんが、きちんとした手順を踏んで「見る」のは困難です。見ることは一瞬、一期一会です。
●プログラミング分野で「きちんと見る」ことの弊害
プログラミングは、
- リアルタイムでなく、あらかじめ手順を用意しておく(プログラムの本質中の本質)
- 非常にたくさんの対象(データなどは万~億以上ということもあり得る、オブジェクトでも数千になり得る)を扱う
という特徴があり、プログラミングの特徴に適した規則は、「見る」規則と相反します。「きちんと見る」すなわち「いつも変わらず『見る』という同じ規則を適用する」ことが、プログラミングに適した規則を阻害します。
結果(プログラム)が「一目見て分かる」ように直感的でない以上、もっぱら人間の頭の中で、直感的である要求文書などの入力を、直感的でないプログラムに変換しているわけです。それゆえ、プログラミングをする人間は、「見る」を常にやっていても何も生まれないのです。
電算処理周縁の領域で似たような「変換」といえば、「フーリエ変換」や「ソートマージ&集計」があります。プログラミングにおける「変換」とは、何か「見えないけれどある」測度に対して変換を行っている可能性があります(もしそれが、「見える」測度であったなら、プログラム自動生成など60年代に完成していたことでしょう)。
●「見て分かる」資料の弊害
もちろん、トピック単位なら、「見て分かる」定評のある書式はいくらでもあります(例:UML、ER図、特性要因図)。
ただし、「きちんと見ることを尊ぶ」人は、総じて「トピック単位」を許さない傾向にあります。なぜならば、トピック単位の資料だと、あるトピック以外の情報について、「見た」だけでは分からないからです。
また、「トピック単位」の資料では、漏れや抜けを見つけるのに不利で、それもまた、「トピック単位」を許さない理由の1つだと思います。
それはまったく当たり前のことですが、しかし「トピック単位」を超えた「見て分かる」図は、絶対に不可能だと自分は考えます。それは、「見る」規則(1)から導き出せます。
バブルのころ、それこそ金を惜しまず、人を惜しまず、課題を惜しまず、常道奇道、ある価値を持ち上げる、ある価値を貶めるなど、あらゆるチャレンジがなされました。しかし現在に至るも「トピック単位」を超えた「見て分かる」図は世に出ていません。厳密に0件です。これは、何か本質的な問題があるように思います。
●「トピック単位」とは何か
「トピック単位」(あるいは「トピック」)のおれおれ定義をしておきます。それは、
「ある規則を重くとらえ、ほかの規則を軽くとらえる、あるいは無視する」こと
です。たとえば伝統的にある項目一覧を排除して、代わりにURLのクラス図に統一するといったことは、クラス図からすると心外だと思います。
●結局
「見て分かる」陽関数的(?)な資料はあきらめ、いろいろな管理対象に「トピック単位」に分類したラベルなどの名前をつけて、間接的ないくつもの一覧をいちいち見比べないといけない、陰関数的(?)な資料とせざるを得ないのが、人間の限界だと思います。プログラミングで必要とする数に対応するには、それしかないと思います。
もちろん、決められたエントリポイントから再帰的、推移的、反射的に深く深く沈思黙考し、すべてを無名の参照で表すことは可能ですし、電子計算機的にはむしろそちらの方が自然かもしれませんが、どう考えてもそれは、人智の及ばない領域だと思います。
まぁ、今回はこんなところです。
次回は、「なぜきちんと見ないでよいのか」、について考察したいと思います。
●コラムのコメント欄の方針
コメントに対し、当意即妙の回答を、それなりのタイミングでする自信がありません。
ですので、このコラムで、
- わたしは基本的にコメントに答えない
- コメントを書く人は、回答がない前提で議論を進めていただく
とさせていただきます。
コメント
プロジェクトリーダーになれば、きちんと見ないでも、プロジェクトの指揮をとらなければならない立場になると思う。
社長になれば、きちんと見なくても、経営責任を背負わされる立場になると思う。
総理大臣になれば、きちんと見なくても、政治責任を背負わされる立場になると思う。
裁判官になれば、きちんと見なくても、死刑判決出すこともあるんじゃないかと思う。