6歳で心筋梗塞になって、学んだこと。
【川崎病(かわさきびょう)】
アジア諸国の乳幼児に多くみられる原因不明の急性熱性疾患。長期予後として発症から1~3週間後に10~20%の頻度で冠動脈に動脈瘤が認められ、まれに心筋梗塞により突然死に至ることがある。
(参考: 「川崎病」(2009年1月09日(金) 03:37 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』)
小学1年生の冬。まさに私の心臓は血管に狭窄を起こし、心筋梗塞の状態になっていました。実際の入院期間は1カ月ほどだったのですが、幼い目は優に半年や1年、病院の白い天井を映し続けているように感じたものです。
こんにちは、かわばたです。そんな思い出(?)が今年の初夢でした。おいおい......。
■コラムのサブタイトルを変えました
年が明けたら変えようと思っていた、このコラムの筆者プロフィールやサブタイトル。サブタイトルだけがずっと思い浮かばなかったのですが、2009年お正月、この夢から覚めた瞬間に決定しました。
『永遠に生きるかのように学べ。明日死ぬかのように生きろ』
英語のことわざですが、本来は順番が逆です。
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
元はマハトマ・ガンジーの言葉とされています。これを知ったのは高校生の時、英文法の授業中。仮定法過去の例文として教科書に出てきたのでした。
紙上の一点を見つめ、しばらくこの短い文を味わっていました。後半部分の「永遠に生きるかのように学ぶ」、その境地を十分想像することはできなかったけれど......。
「明日死ぬかのように生きる」――うん、それがどういう感覚か、私は知っている。
■もしも明日、目が覚めなかったら
川崎病で入院しているあいだ、一度だけ転院しました。
移動している間の記憶は全くありません。ある晩、急に胸を締め付けられるような痛みに襲われパニックになって、呼吸までおぼつかなくなり。駆け寄るお医者さん、看護師さんの足音。人工呼吸器の硬い感触。意識を取り戻すと、相変わらず白いベッドに白い天井。でもここは知らない場所――もと居た小さなかかりつけ院から、総合病院に来ていました。
ここから治療が本格化しました。右腕に点滴、基本的に寝たきり。飲食は禁止。例外は水を1口、マドレーヌを1かけら。これで1日分です。
みるみるうちに弱りました。筋力が低下し、自力では起き上がれません。体にはくっきりとあばら骨が浮かび、声を発することすらしんどい。そうした体の変化とは別に、気持ちの上にも新たな傷ができていました。
夜が怖くなっていました。
眠ることが怖くなっていました。
(またこの前みたいに苦しくなるんじゃないか)
いや、それどころか。
(これが最後の『おやすみ』になるんじゃないか)
川崎病は確かに重病ですが、適切な治療さえ施せば高い確率で生還できます。けれど当時の私は自分の病気について何の知識もありせんでした。仮に説明されていたとしても納得したかどうか......。ついこの間まで起き上がり、歩いて、走れたこの体から、今では日に日に自由が奪われる。この事実が私にもたらすものは、死に近づく感覚以外の何物でもなかったから。
とはいえ ただでさえ体力の削られていた身。つい、うとうとと眠りに落ちては、「はっ!」と身震いし目覚める。確認。自分はまだ生きている。
また今日も、起きられた。
安心と感謝も束の間、夜が近づくにつれ戦々恐々とする毎日を繰り返していました。この不安をどう説明すれば良いのか分からなくて、誰にも決して打ち明けないまま。
■それでも私にできること
転機は、隣のベッドの名前も知らないおばあちゃん。いや正確には......そのおばあちゃんがベッドにいたのか、誰かのお見舞いでおばあちゃんが来ていたのか。首を動かす力さえ失っていた私は、次の会話が行われていた風景を知りません。限りなく曖昧な記憶の中で、彼女の弱々しいほど穏やかな声だけは今でも鮮烈な印象を残しています。
はじめは若い男性の声。愚痴をこぼしていました。最近は暗い空模様ばかりで気持ちまで沈む、とか何とか。
おばあちゃんが応じます。のんびりとした鹿児島弁。
「お天気はねぇ、しゃんなか(しょうがない)よねぇ。おてんと様のなさっこっ(なさること)じゃから」
(............)
そしてまた、夜が来ました。その日も、夜が来ました。
思えばこれは、当たり前のことなのでした。
夜が来る、ということ。
(これは、『おてんと様のなさること』だから)
その日は不思議と毎夜の恐怖が薄かったように思います。自分はいま大事なことを掴みかけている。それだけは理解していました。
次の朝、目覚めると答えが出ていました。
(明日死んでも後悔しないためには、今日何をすればいいんだろう)
質問の形をとっていましたが、これは確かに「結論」でした。そう、いま自分が考えるのはこれだけでいい。夜が来ること。眠たくなること。これは変えられない。これが現実。
その中で私は、さあ、何をしよう。
(......今日は、首を動かせるようになろう)
別の日。
(今日は、寝返りをうとう)
(腕を持ち上げよう)
(鉛筆を持とう。そしたら明日は字を書ける)
いつの間にか欲張りになって、2~3日ほど先取りした目標を立てることもありました。
(色鉛筆を使うのは、ふつうの鉛筆よりも力が要るんだなあ。......よし、明後日までにもっと楽にできるようになろう)
こうして毎晩、閉じた自分の瞼が二度と開かない夢に怯えていた女の子は、自由に動く腕で書き上げた絵を誰かに見せて「上手ねぇ」なんて言われちゃって照れている、来週の自分をイメージするようになったのでした。
そしていつしか理解していました。大事なのは成し遂げた内容よりも、目標を立てることそのものなのだと。
1日の終わり。「本日の小さな挑戦」を思い返し、しばし満足感に浸ります。ずっと怖くて仕方なかった、眠りにつくまでの小一時間。この新たな習慣をスタートしてから、あっけないほど簡単に、1日のうちで最も楽しみな時間の1つになりました。
いつも最後は、この言葉で締め。
(よし。これで明日の朝、目が覚めなくても大丈夫)
......大丈夫なわけはないです。6歳児にして随分と、虚勢を張ったものですね。でも心の中でこう呟くと、たちまち力強く頼もしい幸福感に包まれることができました。
それは台詞とは裏腹の、まごうことなき明日への活力。
■今は元気に過ごしています
高校卒業まで定期的な心エコー検診は必要でしたが、おかげさまで後遺症もなく回復しました。
退院間際は 病室にいながらにして「子供は風の子」を体現したような振る舞いを見せ、看護師さんから「本当に元気ねぇ」と笑われるまでに。こう言われたのは朝ベッドから飛び降りて談話室に向かう途中だったと思います。たぶん「置いてある絵本を今日中に2冊読む」といった目標でも立てていたのでしょう。
絵本の内容は忘れてしまいましたが、それよりも少し前――自己流の指先リハビリも兼ねて、折り紙の裏に書いた「3か条」だけは覚えています。
「おてんと様」の業に逆らわず、それでも自分でできることを精一杯やろうと決めた、あの日の気持ち。
毎日を"いい日"にする3か条。
文字数はさほどありませんが、書き上げるのに2日ほどかかりました。1文字書いては休んで、右手が動かなくなったら左手で、とやっていたことに加え、誰かに見られたら恥ずかしい気がして、こっそり書き進めていたためです。書き終わった紙も人が気に留めないような場所にそそくさと押し込み......数日して私自身もその存在をすっかり失念。退院後ひと月ほどたってから、はっと重大な忘れ物に気づきました。時すでに遅し。
でも内容は、しっかり、覚えています。
人生において初心に返るべき時というものがあれば、私の戻る地点は間違いなくここ。小学1年生の女の子でも思いついて実践できたのですから、本当にシンプルなことですけれど。恥ずかしながらご紹介し、今回のコラムを終わります。
記憶を辿り、なるべく"原文ママ"で。
今日から まもること
1
じぶんで今から かえられることにだけ
しゅうちゅうすること。
お天気とか きのうしっぱいしたこととかに
なやまないこと。
2
朝おきたら、その日に これだけはやりたい ことを
きめること。
わくわくしながら はじめること。
3
よるねるまえに、もくひょうが
たっせいできたかどうか かくにんすること。
できていたら
じぶんでじぶんをほめること。
できていなかったら
じぶんでじぶんをゆるすこと。