シンガポールでアジアのエンジニアと一緒にソフトウエア開発をして日々感じること、アジャイル開発、.NET、SaaS、 Cloud computing について書きます。

日本語鎖国を回避する提案

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 現在、英語を使って仕事をしている日本人は、3種類ぐらいあると思う。

 1番目は、英語そのものの能力を売っている人だ。通訳や翻訳の仕事をしている人がすぐに思いつくし、海外旅行のツアーコンダクター、ブリッジエンジニアなど、英語ができない日本人と海外との間の橋渡しをするような仕事などもあるだろう。

 2番目は、ネイティブレベルの英語を駆使して、英語の世界でばりばりと仕事をしている人。帰国子女の日本人などが挙げられる。

 3番目はわたしが含まれるタイプで、日本の教育で英語を勉強して、いろいろな理由で英語を使って仕事をしている人。日本の学校教育だけで英語を話せるようになるのは難しいので、学校以外のインプットを通じて、どうにか仕事で英語が使えるようになった人たちだろう。

 圧倒的に数が多いのがもちろん3番目の人で、この3番目の人のほとんどは、過去に何度も自分の英語力のなさに涙を飲んだことがあるのではないだろうか。

 英語で文化的活動をする人口が、4億人から20億人程度と、世界人口のうち圧倒的な規模になりつつある現代、世界で英語を使って仕事ができる日本人の数を増やすことも急務だが、個人の英語レベルを高めていく努力も必要だと思う。レベルを高めるということは、3番目の人を2番目の人と区別できなくしていく、ということになる。

 話は少し飛ぶが、わたしが中学生のころは私立中学に進学する人など、ほとんどいなかった。同じ世代の子供はほぼ全員、自分の住む地域から自動的に決まる公立の中学に進む時代だった。それゆえ、自分が同じ世代の中で、どれぐらい頭が良いかを判断するには、中学のクラスにおける自分の位置を確認すればよいだけだった。告白するが、わたしはクラスで半分ぐらいの位置にいたと思う。そして、そのころの体験から、わたしの根っこの「頭の良さ」は、同学年の平均レベルぐらいだと信じている。

 その後、わたしはクラスの中で平均レベルぐらいの成績の生徒が行くとされていた地元集中の高校に進学した。ところが、大阪の公立高校は学区制を採用していたので、中学のときクラスで5番目ぐらい、つまり40人のクラスでは上位10%ぐらいまでの成績の生徒は、上位の、いわゆる「進学校」に進むことになった。わたしはここで上位成績組と別々に勉強することになり、中学卒業時点で自分の位置が簡単に分かるすべをなくしたことになる。

 その後、わたしは理数系の科目だけはどういうわけか結構できたので、関西の名門の1つとされる大学に進学でき、高校3年間に離れていた成績優秀組と大学で再会することになった。

 わたしが思うに、現在英語を使って仕事をしている人は、上述した上位10%の人の一部ではないかと思う。上位10%の人は、ポテンシャルとして必要に迫られると仕事で使えるレベルに英語を高められる能力がある人だということ、その10%の人たちがもっとも英語を使う必要に迫られることが多いと思うからだ。必要に迫られる人の割合だが、上位10%のうちの何%なのかよく分からないが、仮に10%ぐらいとしよう。すると結局、10%のうちの10%、つまり同世代の1%が、英語を使って仕事をしていることになる。

 そして、確実なトレンドとして分かっていることは、これからの世界ではその「1%=英語を使って仕事をする人」の割合が急激に増えていくということだ。

 「パナソニック採用の8割外国人」や、「日立製作所、新入社員は海外赴任が前提」などの報道を見ていれば明らかなことだし、そんな報道などなくとも、現代の世界情勢を見ていれば分かることだ。

 わたしがここで書きたいのは、「トレンドに乗ってどんどんと増えていく、英語を使って仕事をこなす日本人が、英語ネイティブや、英語を使って高校や大学教育を受けたネイティブレベルの英語を使いこなすインドや東南アジアの人と競争していかなければならない」という現実だ。

 独断と偏見だが、仕事で何とか使えるレベルの英語と、ネイティブレベルの英語には格段の差がある。よっぽどの天才でない限り、大人になってから英語を必死で勉強しても、ネイティブレベルの英語使いにはなれないと思う。

 無理して英語で仕事をするとき、自分の知能レベルが日本語で仕事をするときより落ちることを認識して泣く日本人を増やさないために、日本の学校教育の大改革や、日本語書籍の表現方法の改革が、いまこそ必要だと思う。わたしの経験、つまり決して語学の天才でない日本人が苦労している現実を踏まえて、以下のように日本の英語教育の改革を考えてみた。

◎英語は、小学校4年生ぐらいから学習。このとき、日本語にない英語の発音能力を徹底的に指導

 自分で発することができない音があったとしても、前後の文脈から意味が分かるのが、言葉というものだ。確かにそのレベルでも英語を使った仕事はできるが、限界がある。正しい音を発することができるように幼少から指導することが重要だ。

◎中学から数学や理科、世界史や地理などは英語で教育

 現在の日本人は、学術的内容を日本語の語彙で理解している。そのことが、語学の天才でない日本人が英語を使って仕事をするときの大きなハンディキャップになっている。数学や理科の科目の基礎的語彙は、英語でそのまま教えることで、そのハンディキャップをなくせるだろう。

◎日本語の文から、カタカナを廃止

 アルファベットを語源にもつカタカナ語はすべてアルファベットのままで表記。それ以外の語源もアルファベットで表記。無理に日本語化している英語の語彙、例えば計算機などはすべて廃止、英語の語彙をそのまま使う。結果、日本語での縦書き表記ができなくなるが、それもしかたがない。

 こういうカリキュラム、いったいどれくらいの中学生がついていけるのかと心配するかもしれない。わたしは、英語を使って仕事をする日本人は、最大でも同世代10%程度だと見ている。それを考えると、すべての中学生がこのカリキュラムで勉強する必要はない。中学生の段階で、選別する必要があるかもしれない。

 さて、仮にこの新教育方法で教育された人が社会に出てくると、何気ない日本語の会話の中に英語表現を混じらせる、『おかしな』日本人が世間の注目を集めることになるかもしれない。『新日本人』などと揶揄(やゆ)されるかもしれない。

 シンガポールで生活していると分かるが、実はそういう傾向は高い教育を受けたインド人や東南アジアの人によくある。横で聞いていて、インド人同士ヒンディー語で話しているなと思ったら、ときどき英語の短文が入ったりする。

 日本人が世界標準化するということは、そういうことなのかもしれない。

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