僕の転職 シンガポール編 後編
前回、工夫してレジュメを送った結果、3社で面接を受けることができ、その3社すべてでオファーをもらえたと書いた。そのあたりをもう少し細かく書く。
最初、面接を受けたのは小さな受託開発のシンガポールの現地企業。.NETの案件があって、そのプロジェクトのリーダーをできる人を探していた。最も得意な.NETで開発ができる。
こういう小さな受託開発の場合、社内の開発で使う基盤、つまり、フレームワーク的なものは、あったしてもドキュメントが不備だったり、使いものにならないなどが多い。多分、僕が作ることになるだろうと思い、実はそういうことを私はやりたかったので、願ってもない話だった。ということで、オファーを受けようとしていた。
そんなとき、もう1つの面接への案内の電話が入った。よく聞くと、そこは医療関係のコンサルテーションをする多国籍企業。米国、シンガポール、ヨーロッパ、そしての日本に拠点はあるが、それぞれの拠点はかなり小さかった。しかし、何より、期待を持てたたのは、面接を受けるとされる人の名前がシンガポール人の名前でなく、アメリカ人。しかも、タイトルは『DR.』。ドクターというタイトルを使える人は医者か研究者のPHD. 。もしかしたら、医療関係の研究のためのシステム開発かもしれないと思い、喜び勇んで、面接に向かった。
面接の場所は、シンガポールのオーチャード・ストリートにあった。しかも、シンガポール唯一の超大型書店として確立している紀伊国屋書店があるビルの中だった。実際、訪れて分かったが、場所は確かに良いが、オフィスはかなり狭い。顧客受けする住所を得るために、高い家賃、つまり住所代を払い、そのしわ寄せで狭いオフィスにするしかなかったという事情を推定した。しかし、研究のための開発の仕事の可能性の魅力はは捨てがたい。
面接官は、アメリカ人のドクターで医者ではなくPHDとのこと。面接で説明されたが、私の上司になる人は、中国人のPHDで、仕事は医療関係の委託研究のためのプログラマ職。その中国人のPHDのもと、彼女の指示に従ってプログラムするらしい。そして、私に白羽の矢がたった理由も明かされた。
ある米国の企業が日本市場でeコマースをするに際して、日本でのシステム開発を含めたコンサルテーションを請け負っており、その際のコーディネート的な業務を、仕事の一部としてやってほしいとのこと。シンガポールにて、日本で行われるシステム開発のコーディネート。なんだ? といぶかしんだが、『多分、語学的なサポートだろう。それなら、実は私はソフト開発の仕事にキャリアチェンジする前に散々やっていた種類の仕事なので、なんとかなるだろう』と、あまり深く問題視しなかった。
ということで、面接の場で、『オファーをもらえるなら、そのオファーを受ける』と宣言。しかし、すでに1つもらっているオファーを受けるか否かを回答する期限が迫っているので、3日以内でオファーを出すかどうかを決めてほしいと依頼。日本ではちょっと考えられないが、シンガポールではそれほど無理な話ではない。1つオファーを受けていると、強気になれる。
次の面接は、同じ日午後に日本からの電話だった。日本人のマーケッティグ部長と称する人から、先のイーコマースの案件の内容を少し説明を受けた。これは面接というよりは、事情を説明された程度だ。
次の日、大学への通学途中。私の上司になると言う人から電話があった。NUS(National Univ. of Singapore)の図書館で面接をできないかという。NUSはシンガポールの名門大学で、世界の大学ランキングでは、東大と争っているところだ。先に書いた委託研究とは、NUSの教授からの委託研究で、そのために、私の上司になる女性は普段はNUSにいるらしい。しかし、私はNTUの学生で、NUSに行ったこともないので、地理が分からず、結局大学近くの駅の近くの喫茶店での面接となった。
向かった喫茶店で待っていたのは、若い女性だった。多分20代ぐらいだろう。しかし、若くても何でも、PHDのすごさは、この1年NTUでPHD候補の学生と机を並べて勉強して、よく分かっている。彼らの努力、そして能力は私なんかとは比べものにならない。若くても何でも、僕の上司になるかもしれない人との面接を真摯に受けた。
面接は、ITの素人がITを付け焼刃で勉強し面接していることが、よく分かる内容だった。ITの基本的な言葉、例えばデザインパターンについて聞いてみたり、アジャイルについて聞いてみたりだった。こういう面接なら、多分、大学を出たばかりの人の方が高得点を得るだろうなと思いながらも、面接はいい雰囲気で終了した。これですべての面接は終了で、後は結果を待つばかりとなった。
さて、この時、3社目の企業の面接も同時進行で進んでいた。そこは、受託開発ではなく、シンガポールの地元企業で、金融関係のサービスを顧客に提供している小さなスタートアップ。僕が、6年前にシンガポールに来て最初に勤めた場所の近くにオフィスがあった。シンガポールのの東海岸に位置するところで、6年前から、地下鉄、つまりMRTの工事が行われていたが、2年ぐらい前に工事が完了、開通しており一段と便利になった地域である。
今回、6年ぶりに来て驚いた。当時なかったオフィスビルが新しく林立して、欧米人を含むオフィスワーカーで賑わっていた。この6年で、シンガポールの1人あたりのGDPは日本の3分の2(約2万ドル)から、今では日本をとっくに追い越して5万ドルぐらい。そこらあたりの発展の具体的な現れが、こういう場所にあるのかと思いながら、面接のためにオフィスに向かった。
オフィスはスタートアップらしく、小さなところで、通された会議室も小さかった。普通に面接。面接は、気さくなシンガポール人の社長とITマネージャの面接で、1回で終了。ここでも強気に出て、3日以内に結果を欲しいと依頼した。
最初にオファーをもらったのは、金融関係のサービスを提供するところだった。オファーを受けた後、オファーを受けるか否かは、翌日を期限にしている医療関係のコンサル企業からの結果を待ってからとするため、返事は翌日まで待って欲しいと依頼した。
そして、翌日の夜遅くになって、その医療関係のコンサルからのオファーを受けて、それを受けることに決定した。同時に、他の2社のオファーをすべて同時に断り、僕の転職、シンガポール編も、これで終わるはずだった。
勤務開始は、8月1日からと決めていたので、勤務開始まで1週間程度時間があった。その間に、フィリピンのバギオに行っていた。バギオのホテルでメールをチェックしていて驚いたのが、オファーを取り消したい旨の医療コンサルの会社からのメールだった。予算を取れないことが判明したとのこと。実は、この会社、少し疑惑がなかったといえば嘘になる。オーチャードでの最初の面接は朝の8時半 からだったが、アメリカ人のPHD、オフィスに入る鍵を持っていないことが判明。結局、面接の最初はオフィスでできず、他のスタッフがくる9時になるまでが、近くの喫茶店でやることになった。面接で、開発する場所を聞くと、その狭いオフィスでもう1つ机とPCを準備するのは難しそうなのにもかかわらず、そこで開発するという回答だった。
とにかく、フィリピンにいた僕は、スカイプを使って電話をかけて、さんざん文句を言った後、帰国後すぐにシンガポール政府の労務働関係の役所、MOM(Ministry Of Man power)に駆け込むと宣言した。以前、書いたが日本の社会保険事務所に新卒の内定取消についてクレームを入れると、やってくれることぐらいのことをMOMでもやってくれると期待して、そう宣言した。
帰国してすぐ、同時に内定をもらっていたが断っていた2社に事情を説明して、オファーを受けたいが、今でも可能かと打診した。受託開発の.NETは残念ながら他の候補者にすでにオファーを出しておりNGだった。ところが、金融関係のスタートアップは、他の候補者にオファーを出してはいたが、少し条件を落とし、さらに3カ月の短期間の契約社員なら私にもオファーを出せるとのこと。3カ月後、正社員にするかどうかを検討するという条件だ。条件的に厳しいので、それは断ろうかと思ったが、再び仕事を探すモードに入るにも、気が進まず、結局その条件を飲むことにした。
8月からそこで働いているが、結構面白い。9月2日の現時点で思うが、僕のこの時の判断は結局、悪くなかったと思っている。金融の新しい分野に触れることができたり、あまり慣れていない技術、JavaでSpringを使ったり、Strutsを使ったり、マルチスレッドでソケットを駆使する開発だ。さらに、日本とはまったく関係のないすべて英語の環境で、アジャイルで開発を行っている。良い経験になっていると思う。
さて、上に書いた、MOMに駆け込む話だが、その顛末を少しだけ書く。MOMには、労使関係のトラブルに対するコンサルテーションを無料で提供する窓口が存在する。Web上に有る、E-appointentで、そのコンサルの予約をネットから入れることができる。僕はこれを利用して、予約を入れた。
予約システムの作りの問題で、実は、何度いれても予約をいれることができず閉口したが、とにかく翌日のコンサルの予約を入れることができて、翌日、予約した時間にMOMに向かった。そこにあったのは、少々の人が待つベンチと、その前の約5つぐらいの個室だった。コンサルテーションはその個室で行われた。
私の順番が来て、担当者に事情を説明した。しかし、結局、担当者の話は、MOMでは『なにもできない』とのこと。私のような話は、純粋な商取引の契約不履行に当たる話で、MOMでは取り扱えないらしい。民間の法律事務所の法律家に相談するしかないとのこと。結局、弁護士費用を払ってまでも、こだわる話でもないので、私の抵抗はここで終えることにした。
結局、落ちも何もない話になってしまったが、『僕の転職 シンガポール編』はこれでいったん終わりにする。