ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

レインメーカー (36) ドキュメントとシャーデンフロイデ

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◆アリマツ通信 2022.9.30
 ドキュメントについて
 家を建てるとき、いきなり木を切って釘を打つ人はいませんね。設計図というものを、まずは作ります。
 システム開発も同様で、映画に出てくるハッカーみたいに、いきなりキーボードに向かってプログラムを書くわけではありません。まず、仕様書とか設計書、というドキュメントを作成するそうです。
 DX 推進ユニットの田代さんによると、仕様書はシステムを構築するために必要なだけではなく、完成した後のメンテナンスにも大きな役割を果たすそうなんですね。
 ただ、奇妙なことに、その仕様書に業界標準のこれ、といったものはなく、各会社でまちまちなんだそうです。仕様書には、各システム会社の文化や歴史、何よりも作る人の個性みたいなものが反映されるとのこと。
 アリマツのシステム開発の歴史は始まったばかり。DX 推進ユニットの作る仕様書が、アリマツの標準となるのかもしれませんね。

 文 総務課 土井

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「あっちは何か変なこと始めたみたいですよ」
 池松ノリコの言葉に、イズミは苦笑した。この場合、あっち、とは、二人の前所属を指している。
 「DX 推進ユニットで」さりげなく訂正しながら、イズミはノリコに問いかけた。「何が始まったって?」
 「仕様書を作ってるらしいです」
 「へー、仕様書を」
 発足当初はDX 推進ユニットと同じ部屋にデスクを並べていたRM ユニットだったが、数日で別の部屋に移動していた。コールセンター業務は、どの業務も多かれ少なかれ、個人情報を取り扱うことになるので、業務毎に独立した部屋が必要となる。ブース数が数席で島が一つ入るだけの部屋から、50 ブースを超える大部屋まで、頻繁に様々な面積の部屋を用意する必要があるのだ。そのたびに外注工事が発生していては、時間的にもコスト的にもムダが多いので、フロアの壁は社内のファシリティ部門だけで移動可能なように、ディバイダーと呼ばれる製品で構成されている。
 部屋を移っても、二つのユニットの業務は重複することが多いので、頻繁に行き来していたものだが、それぞれのアプリケーションの開発が佳境に入ってくると、メールでの情報交換で事足りるようになり、顔を合わせる機会は減っていた。
 「あ、それなら、私も聞きましたよ」土井が言った。「この前、向こうのミーティングに参加したとき、仕様書の進捗具合はどうか、みたいなことを報告させてたんですよ」
 三人は会社の近くのファミリーレストランで、遅めのランチを楽しんでいるところだった。普段は時間をずらして、一人ずつ昼休憩を取ることが多いが、たまたま土井がノリコに「新しいユニットでの仕事はどうですか」と話を聞きにきていたので、三人で出ることになった。
 「それは、まあ悪いことではないと思うんだけど」
 「ええ」土井は秋鮭のクリームパスタをフォークに巻き付けながら頷いた。「田代さんもそう言っていました。むしろ、積極的にやるべきだ、と。システム開発の現場では、これが普通だからって。実は明日のアリマツ通信は、その話なんです」
 「どういうレベルまで書いてるのかな」
 「かなり細かいみたいですね」ノリコが答えた。「何というか、ソースの行単位にコメント付けるのに近いんだとか」
 ノリコはRM ユニットに異動となったが、同期の4 人はDX 推進ユニットにいる。たまに同期で集まって飲みに行ったりしているようなので、情報交換をしているのだろう。
 「そうなんだ」
 口を出す類の話ではない、とわかってはいたが、少し心配になった。内製のシステムと、顧客に納品するためのシステムでは、開発の手法も手順も運用も保守も全て異なってくる。後者のやり方を前者の環境に持ち込んだところで、いい結果を生むとは思えなかった。
 「あれ」土井が興味の色を浮かべた。「なんか反応薄いですね。DX のライバルRM のリーダーとして、何かコメントいただけますか?」
 「ライバルって......」
 「実際、そういう関係になってるのは誰でも知ってますよ」土井はおしぼりを握ってイズミに向けた。「で、どうなんですか」
 「取材ですか」
 「いえ、ただの好奇心です」
 「あたしも聞きたいですね」ノリコも身を乗り出した。「プログラミング研修行ったとき、アジャイルでしたっけ、今どきは、あまり細かい仕様書なんかは作らないのが主流、みたいな話を聞いたんですけど」
 「私はそこまでシステム開発の経験値が高いわけじゃないから」イズミは肩をすくめて、塩サバの身を箸でつついた。「ただ、個人的な感想ってことでいいなら、うちみたいな社内の開発で、仕様書がそれほど役に立つとは思えないかなあ」
 やっぱりそうか、と納得したような顔になったノリコは、大口を開けて地鶏のピリ辛丼をかきこんだ。
 「何かバカみたいなことやってるな、とは思ってたんですけどねえ」
 「これはオフレコですけど」土井が声を潜めた。「どうやら田代さん、RM との差別化を図るために、いろいろやってるようなんです。ほらRM の新システムが、先日のデモで好評だったから」
 田代としては、長年、システム開発の最前線に立っていたという自信がある。その自分が指揮をしたからこそ、NARICS も完成し、高い評価を得られた、という自負があったに違いない。それなのにRM ユニットは、強力なリーダーがいないにも関わらず、完成度の高いシステムを楽々と完成させた。別にシステム開発のプロがリーダーでなくても、それなりのものは作れるじゃないか。そんな声が社内で聞こえるようになり、焦りが生まれたのだろう。
 「焦ってるってことですね」ノリコは鼻を鳴らして評した。「どうして男って、女が先に行こうとするのが気に入らないんですかね」
 「男女は関係ないんじゃない?」
 「大ありですよ」ノリコの語気が荒くなった。「男って、自分の方が勝ってるって思ってるうちは、男女同権だの、応援するだの、口当たりのいいこといいますけど、こっちが力をつけようとすると、途端に妨害し始めるんですから。ホントに自分勝手な生き物ですよ」
 「池松さん?」イズミは少し驚いて食事の手を止めた。「どうしたの? 何かあった?」
 「いえ、別に」ノリコはすぐに冷静な声を取り戻した。「すいません」
 それっきりノリコは食事に集中し、その話題には触れようとしなかった。
 昼食が終わり、それぞれ会計を済ませて店を出ると、ノリコは「ちょっとコンビニ寄ってくんで」と、イズミたちとは別の方向に歩いていってしまった。イズミがその後ろ姿を見送っていると、土井が囁いた。
 「これもオフレコなんですけど、池松さんと綱川くんが付き合ってたのは知ってました?」
 「ああ、はい」
 DX 推進ユニットにいた頃から、それは周知の事実だった。限られた少人数の中で、そのような関係を完全に隠すことは不可能だし、そもそも二人は積極的に公言してはいないものの、秘密にしようとする意図もまたなかったからだ。
 「異動になってすぐ、別れたみたいです」土井は楽しそうに教えてくれた。
 「それは......そうだったんですか。え、まさか、別れた原因って、うちのユニットが原因だとか?」
 「そこまでは知りませんが。でも、さっき池松さんが言ってたことも、ありそうなことではありますね」
 「と言うと?」
 「RM のシステムがうまくいきそうってことは、池松さんの貢献度も大きいわけですよね」
 「もちろんです」
 実際、池松ノリコはイズミの期待に、十二分に応えてくれていた。物怖じしない性格が、RM ユニットの開発方針とマッチしたらしく、新システムの仕様にいくつも大胆な提案をし、実装面でも率先して新しいコーディングなどを試している。アイカワからの派遣メンバーとの関係も良好だ。タマノイ案件での失敗を上書きするつもりなのかもしれないが、とにかく重要な戦力になっていることは確かだ。
 「一方、DX の方はというと、設計をするのは田代さんと倉田さんで、残りのメンバーはアサインされたタスクをひたすら消化していくだけ。技術者のステージとして、池松さんの方が上になった、と綱川くんが勘違いしていてもおかしくないですよね」
 「そういう考え方もあるんですね」
 綱川は新卒採用だが、大学を1 年留年しているので、年齢はノリコより一つ上だ。それが影響しているのか、実力以上の自己アピールをする傾向がある。
 以前、田代が不在のとき、俣野がFile とPath の違いについて同期に質問したことがあった。イズミは知識がなかったので口を出さなかったが、新人メンバーたちの会話を聞くともなしに聞いていた。メンバーたちはキーを叩いて検索し始めたのだが、綱川が、ああ、それなら、と答えを口にした。その答えは正しかったのだが、綱川は余計な一言を付け加えた。
 「それぐらい常識だと思うぜ」
 持っている知識の引き出しを開けてみせた、と言わんばかりだったが、イズミには綱川がウソをついていることがわかった。どうやらデスクの下でスマートフォンを使って検索したようだ。
 そのときは同期に一目置かれたくて、見栄を張ったんだろうな、ぐらいにしか思わなかった。だが、土井が言ったような視点から思い起こすと、DX 推進ユニットに限らず、2021 年度新卒採用組の中でトップに立ちたい、という欲望が透けて見えるような気がする。
 「でも」イズミの表情を見て、土井は安心させるように言った。「朝比奈さんが気にするようなことじゃないですよ。男と女なんて、ちょっとしたことで、ぐらついたり、固まったりするんですから」
 「だといいんですけど」
 根拠のない不安を感じながら、イズミは何とか明るく答えた。
 数日後、イズミが出勤すると、先に来ていたノリコが待ちかねたように歩み寄ってきた。
 「聞きましたか?」
 「何を?」
 「あっちのユニット、やっぱり仕様書でやらかしたみたいです」
 「え、どういうこと?」
 「おはようございます」やはり早く来たらしい土井が挨拶した。「昨日、QQS の担当者とNARICS 改修の件で打ち合わせがあったのは知ってますよね」
 イズミは頷いた。QQS 案件の打ち合わせには、イズミも参加することが多いが、昨日はNARICS の特定の機能に議題が限定されていたので、座って話を聞いているだけなら別の作業に工数を使った方がいい、と考えて、出席していなかった。土井は議事録作成担当として参加した。
 「進捗がかなり遅れているのをQQS 側が気にしていて、先月からの作業内容の詳細を求められたんですが......」
 仕様書作成にかなりの工数が割かれているのが判明し、問題となった、という。
 「田代さんは、今後のメンテナンスを迅速かつ正確に行うためにも、ここでドキュメントを作っておく必要がある、と主張したんですが、QQS 側には理解してもらえなかったようで」
 それはそうだろうな、とイズミはため息をついた。納品物としてドキュメント一式が要求されているならともかく、わざわざこのタイミングで、時間のかかる仕様書作成を行う理由はない。
 同席していた根津が、すぐに謝罪して、即刻仕様書作成を中止し、QQS 用のカスタマイズを急ぐように、と厳命することで、その場は収まりかけたが、田代は不満そうな態度を隠そうともしなかったらしい。つい「システム開発の素人が」という意味の言葉を呟いてしまい、場の空気は再び険悪になった。
 「最終的には根津さんが平謝りに謝って、何とか穏便に終わったんですが」
 「そうだったんですか」
 「なんていうか」ノリコが邪悪な笑みを浮かべた。「ざまあ、って感じですね。男のプライドだかメンツだか知りませんけど、そんなのを優先するから、こういうことになるんですよ。そう思いません?」
 「んー、どうかなあ」
 土井が苦笑しつつ、意見を求めるようにイズミを見た。
 「池松さん」イズミは慎重に言葉を選んだ。「前にも言ったけど、男とか女とかは、この際、関係ないと思うよ。田代さんは、田代さんなりに、長い目で見たNARICS のメンテナンスのことを考えてのことだったかもしれないんだし」
 「そうですか」ノリコは不満そうな顔になった。「だって田代さんが仕様書作成なんてことを始めたのは、うちとの差別化を図るためですよね。つまりあっちの方がやってることは高級なんだぞ、って言いたいがためじゃないですか。それって、どう考えても女に負けてられるか、ってやつでしょう。違いますか?」
 「......」
 「逆に言えばですよ」ノリコは勢いよく続けた。「朝比奈さんがRM ユニットを作ったことが、正しかったって証明されたってことじゃないですか」
 「え?」
 「朝比奈さんだって、女性の力を証明するために、わざわざRM を作ったわけでしょう? 今回の件で、それが見事に証明されたじゃないですか。あたしだって嬉しいんですよ。何しろ、あっちが勝手に自滅したようなもんかもしれませんけど。ホントにざまあですね」
 イズミは深呼吸を一つするとノリコを見据えた。
 「池松さん、単なる個人的な事情で、そういうことを言うのは感心しないな」
 「こ、個人的な事情って何ですか」
 「わかってるんじゃないの?」
 ノリコの顔が強張った。
 「綱川くんのこと言ってるなら、それは見当違いですよ。そういうんじゃないんで。もうあいつのことなんか、気にもしてないし。今はただの同期ってだけですから。あたしは本当に女性の実力が証明されたことが嬉しくてたまらないんですよ」
 それがウソだとわかったことは口にせず、イズミは努めて冷静な口調で続けた。
 「嬉しいと思ってるのが本当だとすると、それはいわゆるシャーデンフロイデってやつ。言い換えると、他人の不幸は蜜の味。心の中で思うのは自由だけど、会社で吐き出すのは社会人としてどうかな。ましてや女性の力とか、後付けの理由まで出して」
 「そんな......ひどい」ノリコはキッとイズミを睨んだ。「じゃあRM が女性ばっかなのはどうしてなんですか? アイカワの人たちを別にすれば、朝比奈さんに山下さんとあたしじゃないですか」
 「女性ばかりを選んだわけじゃないよ。たまたまそうなっただけ」
 「でも......あたしは、てっきり......」
 「女性の実力がどうのって言ってたけど」イズミはため息をこらえた。「実際に私たちが作ってるのは、一クライアントの一業務のための限定された機能のシステムでしかないでしょう。NARICS みたいに、マルチテナント型で複数の業務ロジックを同居させて、矛盾が発生しないように設計、実装するのは見た目ほど簡単なことじゃないよ。曲がりなりにもそれを実現している田代さんの、技術者としてのスキルは疑いようがないんだよ」
 「でも、仕様書作成なんてムダな作業で......」
 「それはメソッドの一つでしかないし、ムダな作業なんて結果論で言い切るのは簡単だよ。たとえば5 年後に、NARICS の大改修をすることになったとして、あのとき工数をかけてでも仕様書を作っておいたから、今回の作業が簡単になったよ、って評価されるかもしれないでしょう」
 「......」
 「誰だって失敗の一つや二つはある。その一つだけを見て、その人の人格そのものを否定するのはおかしい。それは池松さんだって、よくわかっているはずでしょう」
 タマノイ、という業務名こそ口にしなかったが、ノリコの顔はみるみるうちに真っ赤になった。床に顔を向けてうなだれる。イズミが言葉をかけようとしたとき、ノリコが顔を上げた。その唇から思いもしなかった言葉が吐き出された。
 「裏切り者」
 「え?」
 「朝比奈さんは、後に続く女性のために環境を作ってくれているんだとばかり思っていたのに」ノリコの目には怒りが渦巻いていた。「正直、裏切られた気分ですよ」
 「池松さん......」
 「あーあ、白けちゃったなあ」ノリコは乾いた声で言うと背を向けた。「若輩者が下らないことで時間を取らせてしまって、申しわけありませんでした。ちょっとトイレ行ってきます」
 ノリコはそのままドアから出ていってしまった。茫然となったイズミに土井が声をかけた。
 「気にすることないですよ。あ、これ、この前も言った気がするな......ま、とにかく、朝比奈さんは間違ってない、と私も思いますから。じゃ、私は総務に戻るんで」
 一人残されたイズミは、しばらくキーボードに触る気にもなれなかった。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(13)

コメント

匿名

めんどくさい会社ですね…
とはいえ、わりと聞く話ではありますが…

匿名

メンタリティが面倒くさい。こういうバイアス是正するための会社からのメンタル教育ってしない会社なのかな。

匿名

女の敵は女、ってやつですかね

匿名

田代氏の立ち回りといい、ここまで二転三転するのは面白いですね。

匿名

なんか業界の開発予算が縮小しているので、ほとんどの案件ではドキュメント作成は無理かなとか。
予算規模が5億から10億でそもそもそこまでのドキュメント作成や開発の継続性を求めるのは難しい気がします、噂話の雰囲気からすると。

元々が開発でお金を得るのが目的で開発の継続性はユーザの都合なので、
追加の予算が出ないのに継続性を担保するのは商売として上手くない気がします。

匿名

罪と罰の武田さんを思い出しますね
あの人の場合は存在意義でしたが田代さんも差別化だから似たようなものかな

匿名

ヘイトは連鎖するよね

匿名

今どきの仕様書ってどんなもんなんですかね?
新しい人がチームに入ったときに、オンボーディング資料として使えそうならいいですが・・

ソースにコメント付けるのはChatGPTやらGitHub Copilotでやった方が・・、
これからは人的リソースを割いてやるようなタスクではなくなりそう。

匿名

> 今どきの仕様書ってどんなもんなんですかね?

大手SIERが納品物として作ってるような仕様書は
昔ながらのクソの役にも立たないやつですよ
自分の知ってるとこだとソースに特定の書式でコメント書いとくとドキュメントを自動生成してくれる製品使ってたとこもありました
でも保守のときには見向きもされてなかった
みんなソース追ってた

匿名

SIERはそもそも予算が30億は普通に超えてきて10年以上の保守前提なので
それと同じ設計書を1案件数百万でとなるとそりゃ無理な訳で客か営業が普通に無しにしろよという話で。

何も開発側がそれ言い出す事は無いかなと。

匿名

多分雰囲気ですと
大手SIERが30億以上
中堅SIERが1億から10億位
小さい所が数百万から5000万位
かなと。

匿名

ま、田代さんみたいに大幅ダンピング承知で品質をあげるのも戦略ではありますけど。

匿名

仕様書を無駄と言い切るか・・・
数千行程度ならドキュメントなんて適当で良いんだろうけどね。
万単位になると処理の起点すら追えなくなるから、読んで分かる物を作れと言いたいな。
ソースは読めても意図が読めないから正解が見えないんだよね。

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