ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

史上最大の作戦 (1) 12月22日

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 「以上が作戦の概要だ」山田と名乗った初老の男性はそう結ぶと、居並ぶ男女を見回した。「質問があれば聞こう」
 イノウーこと井上ヨシオは、半ば麻痺した頭で、今し方聞いた話を理解しようと試みた。別の次元からの侵略、対抗する組織、終わりの見えない戦い。その手の話は嫌いではない。いや、むしろ好んで読む方だと言ってもいい。だが、どこともしれない施設内の大きな会議室で、真面目な顔で語られた話をどう受け止めればいいのだろう。
 一人で来ていたのであれば、おそらくとっくに席を立っていたに違いない。それを妨げたのは、腕を組んで隣に座る敬愛する先輩の存在だった。
 「東海林さん」イノウーは囁いた。「これってマジな話なんですよね。壮大なドッキリとか......」
 「お前にそんなもの仕掛けて何の得がある」東海林は苦笑しながら囁き返した。「確かに話の内容は、控えめに言っても荒唐無稽な類でしかないから、そう思うのも無理もないが」
 「東海林さんは信じてるんですか」
 「頭ごなしに否定をするのは早すぎるな。それに、あの山田って男の言っていることを、前にも聞いたことがあるような気がするんだ。時間や場所は全く思い出せないんだが」
 周囲の出方を窺い合うような視線が交わされる中、一人の中年男性が手を上げた。
 「質問、いいですか」
 山田が頷くと、男は立ち上がった。
 「今の話にあったハウンドという多国籍企業の噂は耳にしたことがある」男は挑むような声で言った。「あまりいい噂じゃあない。表向きは軍需産業のメジャーだが、世界中の紛争に介入してマッチポンプで儲けているという話も聞いたことがある」
 集まった人々の間からざわめきが起こったが、男は構わずに続けた。
 「一方でナルキッソス・モバイル・コーポレーションといえば、元旦にものすごいスマホを発売することで話題になっている会社だ。その二つがどう結びつくのかわからんのだがね」
 何人かから同意の呟きが上がった。イノウーも声こそ出さなかったが大きく頷いた一人だった。
 「そんなに話題になってるのか?」東海林が訊いた。
 「まあネット広告で見ない日はないぐらいですね。とにかく、どっかのニュースサイトを開けば絶対目につきますから。ガジェット系のSNS でも性能予想が毎日のように更新されてますし」
 「性能がいいのか。うちも娘用に妻が予約してるんだが」
 「スペック見た限りだと、性能は他のメーカーの上位機種と同程度なんですけど、本体価格がかなり安いんです。それだけじゃなくて、何とかいうK-POP グループの全員が出演するスペシャルドラマと、VR デバイスを組み合わせた画期的なゲームの2 つが目玉で、どちらも新発売のナルキッソス・ゼロワンでしか見られないというので。なんでもハードに依存したロックがかかってるんだとか」
 イノウーと東海林が囁き交わしている間、山田は隣に立っていた女性と小声で何か話していたが、やがて発言した男に向き直った。
 「君はWWCD の加瀬さんだったな」
 「そうだ。言っておくが、俺は来たくなかったんだ。上司の奴に命令されて仕方なくここにいる。なんといっても例年のクリスマスシーズンじゃ、あんたらATP は競争相手みたいなもんだからな」
 「それはすまんね」山田はニコリともせず答えた。「私が君を指名したわけではない。最優秀スキルを持つエンジニアを出してくれと要請しただけだ」
 「WWCD って会社知ってます?」イノウーは東海林に訊いた。
 「さあ、このあたりじゃ聞いたことはないな」
 「Winter Wind Cthulhu Development とかですかね」
 その声を聞きつけたらしく、加瀬が睨んできた。
 「違う。普通に暮らしたかったら知らない方がいいぞ」
 「説明させてもらおう」山田が言い、会議室の奥に設置されている65 インチの液晶TV に手を振った。「事情に詳しい人物を呼んである。セキュリティの都合上、リモートになる。本名も明かすことはできない。キサラギくん、頼む」
 液晶TV 上に開いたブラウザに、男性の肩から下の映像が表示された。地味な紺色のシャツ姿で背景は白い壁だ。
 「数年前から」明らかにボイスチェンジャーを使っているとわかる甲高い声でキサラギは話し始めた。「ハウンドの一部門は、何年も前からパートタイムカウンターテロと呼ばれるプロジェクトを進めています。簡単に言うと、いざというとき一般市民を対テロ部隊へと変身させるんです。事前にPC やスマホを通して無意識下に一連のデータを埋め込むことで下地を作り、起動信号によってコントロールするというものです。すでに複数の国で、目立たないように実験を行っています」
 誰かが失笑した。B 級SF かよ、というヤジも聞こえた。キサラギは淡々と続けた。
 「日本でもコールセンターで実験を行った例があり、ぼく自身も巻き込まれました。当時はプログラムの精度が悪く、対象になった人が意識障害に陥ったり、ひどいときには暴力的な症状を発したりしてたんですが、その後、改良を重ねて完成度が上がってきたんでしょう。今度は新しいスマホでそれをやろうとしているんです。大規模に」
 「ナルキッソス・ゼロワンのことか?」
 「そうです。ナルキッソスは香港のメーカーですが、資本の90% はハウンドです。いろいろ経由してわからないようにはなっていますけどね」
 「何が起こるんだ」加瀬が訊いた。
 「何も」
 「はあ?」
 「元旦にナルキッソス・ゼロワンが発売され、予約したユーザが起動して、スペシャルドラマを見たり、ゲームをプレイしたりしても、何も起こらなければ、ハウンドの実験は成功したことになるんです。彼らの目的はサブリミナルとしてデータをインサートすることにあるので。ハウンドからの起動信号を受信するまでは、そんなものが無意識下に存在してるとは知らずに、普段通りの生活を続けることになります」
 「じゃあ、それほど緊急事態ってわけでもないな」
 「ところがそうではない」山田が代わった。「ハウンドの計画では何も起きないが、我々の敵の計画ではそうではない。サブリミナルデータを埋め込まれたユーザは、数時間から数日後に人格を破壊され、原始的な破壊衝動だけに支配される生物に変貌する。そう信じられる根拠がある」
 再びざわめきが沸き起こったが、その多くは懐疑的だった。
 「今から」参加者の声を打ち消すように、キサラギが言った。「短い動画を流します。ちょっとショッキングな映像なので、ホラー映画が苦手な方は注意してください」
 画面が切り替わった。スマートフォンで撮影したらしい縦長の映像だ。乾いた地面を猛烈な太陽が灼いている。未舗装の道路と薄汚れた壁。どこかで何かが燃えているらしく黒煙がよぎる。カメラがパンすると、傷だらけのトラックが映った。左ハンドルの運転席には黒人の若い男が座っている。撮影者が近付くと、首から胸が乾いた血で染まっていることがわかった。顔は正面に向けられているが、そこには知性と理性の両方が欠如していた。
 カメラがゆっくりと左方向に向けられた。地面には何人もの人間が血を流して倒れていた。男性もいれば女性もいる。老人も子供もいる。みな身体のどこかを損傷しているが、例外なく血が茶色に乾いていて、ある程度の時間が経過しているらしいことがわかった。
 不意に映像が元の方向に向けられた。さっきのトラックのドアが開き、運転席から男の身体が地面に転がっている。撮影者はそちらの方向に歩を進めようとして急停止した。男がノロノロと身体を起こすと、濁った目を向け、大きく口を開き、血が赤黒くこびりついた歯をむき出して唸ったからだ。映像には音声がないが、男が放射している憎悪は強烈だった。男は立ち上がると、両手を突き出し、口の端から唾液をこぼしながら向かってきた。
 撮影者がスマートフォンを捨てたらしく、FPS ゲームのように映像が大きく揺れた。地面に落下し一回転した後、抜けるような青い空がしばらく映している。これで終わりか、とイノウーが一息ついたとき、急に世界が赤く染まった。さっきの男の顔から血が垂れたんだ、と気付くと同時に、今度は靴底が急速に迫ってくる。すぐに画面はブラックアウトした。
 「数年前に」キサラギの映像と声が戻ってきた。「アフリカの某国で発生した事件の記録です。撮影したのはたまたま村を離れていた農夫で、当局に保護された後、行方不明になりました。スマホが回収されたのは偶然です」
 「ナルキッソスのスマホが原因なのか?」加瀬が訊いた。
 「いえ、これはNGO 団体が無償配付したタブレットで、ナルキッソスとは無関係です。ハウンドの手は一つや二つではないってことですね」
 「同じことが元旦に日本で起こると言いたいのか」
 「規模は比較にならないほど大きいですが」
 そういうの、キングの小説にあったな、と思いながら、イノウーは周囲に目を走らせた。およそ20 人ほどの男女がTV に釘付けになっている。知った顔はいなかったが、東海林の話では市内のプログラマばかりだということだ。さっきの映像が事実だとして、ナルキッソスから新発売されるスマートフォンが原因で、同様の事態が発生すると予測されるのなら、なぜプログラマが集められているのかがわからない。
 「そんなことが本当に起こると思っているのか」加瀬がようやく腰を下ろした。「ちょっと信じられんね」
 「確信がある」山田が答えた。
 「へえ、どんな?」
 その問いへの答えは、意表をつくものだった
 「世界中で奇妙な疫病が流行する」山田は収支報告書でも読み上げているような単調な声で言った。「ソラニュウムと呼ばれるウィルスが病原だ。感染すると長くても48 時間以内に死亡し、そのうちの8 割強が蘇って人を襲う」
 「つまりゾンビ?」誰かが含み笑いをしながら訊いた。「ウォーキング・デッドか」
 「日本はしばらく侵入を防いでいたが、一隻の大型旅客船が横浜の大桟橋に突入し、大量の死者が上陸する。政府の対応は後手に回り、横浜を中心に多くの犠牲者が出る。後にインシデントZと呼ばれることになる災害だ」
 「予言かね」
 「そうではない」山田はかぶりを振った。「インシデントZが発生したのは20XX 年だ」
 死のような沈黙が会議室を覆った。山田が口にした数字は、今から数年前になる。
 「失礼だが、そんな事件の話は聞いたことがない」東海林が口を開いた。「あなたは何を言っているんですか」
 「今のは別の時間線で実際に起きたことだ。いや、待ってくれないかね」何人かが憤慨して立ち上がったのを、山田は手で制した。「詳しくは話せない。話しても理解はできない。私も完全に理解しているわけではない。だが量子論でいう多世界解釈は正しく、宇宙は無数の絡み合うより糸として存在している。通常は接触することはないが、ある種の......チャネルを通して、情報の交換は可能となる。一定の条件を満たした場合に限られるが。別の時間線では世界中に死者があふれ、数十億人が死亡し、文明崩壊の一歩手前まで進んだ。また別の時間線では、人類は死者との戦争に敗れ、科学技術文明は永遠に復活することはない」
 誰も、加瀬も東海林も何も言わなかった。山田は続けた。
 「滅亡を回避できたとしても、そうした世界ではプログラマという職業は成立しなくなる。成立したとしても優先度は低くなる。電気や水道などのライフラインの維持で手一杯になるからだ。プログラマがいなくなれば、我々の組織は人材の確保ができなくなり、やがて敵との戦いに敗北する」
 「こうしてあなたたちは時間戦争に負ける......」
 イノウーが意識せずに呟いたSF のタイトルに、意外にも山田が大きく頷いた。
 「その通りだ、井上くん。我々は負けるわけにはいかない」
 「さっきあんたは」加瀬が言った。「予言ではない、と言った。あんたが言った年に、そのインシデントは起こっていないし、今、世界で流行しているのは、その何とかいうウィルスではなく、新型コロナウィルスだ。この時間線では死者との戦争は起きないんじゃないのか」
 「近接した時間線は、似たような歴史をたどり、最終的に一つに収斂していく傾向がある。時間が多少前後しても似たような事件が発生し、政治家や芸術家やスポーツ選手の顔ぶれも同じになっていく。ナルキッソスがキッカケで、この時間線でもインシデントZと同様の事象が発生する可能性は極めて高い」
 「その全てが事実だと仮定して......あくまで仮定だぞ、俺たちを召集した理由はなんだ。さっさとナルキッソス・ゼロワンの販売を停止させれば済む話だろう。あんたらの力なら簡単なはずだ」
 「それはやらない、というかできない。理由の一つは現実的な問題だ。すでにナルキッソス・ゼロワンは全国の量販店や販売店に配送済、または配送中だ。ナルキッソス公式の初期ロットは20,000 台。その全てを回収するには時間が足りない。おそらく試供品のような形で配付されたケースもあるだろうし、輸送中に行方不明になったボックスも報告されている」
 「ドラマとゲームの配信を止めさせればいい」
 「中止させれば、敵は我々がナルキッソスをマークしたことに気付いてしまう。そうなれば速やかに計画を放棄して、別の攻撃方法を考え出すだろう。さっきの話を思い出してほしい。近接する時間線で攻撃が行われたという事実がある以上、この時間線でも必ず類似の攻撃が発生するのだ。それが避けられないのであれば、10 年後に予測も付かない方法で攻撃されるより、手の内が読めている今回に対応する方がいい。敵に攻撃を実行させ、その上で被害をゼロに、あるいは最小限にとどめる。これが我々にとって最善の手だ」
 いかにも気に入らない、と言いたげに加瀬は鼻を鳴らして沈黙した。代わって東海林が立ち上がった。
 「話はわかりましたが、プログラマが必要な理由がわかりませんな。どんな対応方法を取るつもりで、私たちに何を期待しているんですか」
 山田は隣に立っている女性を見た。
 「星野さん」
 女性は進み出ると、一礼して、手にしたタブレットに目を落とした。
 「今から名前を呼ぶ人は、今日から25 日の朝まで、この施設内のオペレーションルームで防壁と呼ばれるプログラムレイヤーのロジック強化にあたってもらいます。ナルキッソス・ゼロワンの攻撃と前後して、通常の量子もつれポイントからの侵入も激化すると予想されるからです」
 「ちょっと」一人の女性が抗議の声を上げた。「クリスマスの朝までなんて聞いてないんですけど」
 「文句はあなたの上司かエージェントにどうぞ」星野は涼しい顔で退けた。「25 日までなのは、例年、敵の侵入がクリスマス前後に最も多くなるからです。後で5 分間だけスマホが返却されるので、クリスマスを一緒に過ごす予定の相手に連絡することをお勧めします。私の経験からすると、25 日は疲れ果てて何もする気になれないでしょうから」
 「......」
 「提出してもらったスキルシートでJava グループとPython グループに分けてあるので、記述内容と実際が異なる場合は、正直に申し出てください。ではJava グループから。J-1 グループ、高野さん、村西さん、千田さん......」
 星野は淀みなく名前を呼んでいった。会議室に集まっていた男女は、それぞれのグループに分かれて出ていった。何人かが得意なプログラミング言語を考え直したらしく申し出たが、星野は戸惑うことなくタブレットを操作して、グループ編制を修正した。
 残り数人になっても、イノウーの名前は呼ばれなかった。東海林と加瀬も同様に座ったままだ。もしかするとスキル不足と判断され、お役御免になるのかもしれない、とイノウーは淡い期待を抱いた。24 日と25 日はもちろん恋人のマリと一緒に過ごす予定で、どちらも楽しみにしていた。特にマリは時間単位で綿密な予定を立て、ブラウザに無数のブックマークを追加している。たった5 分間で納得させる自信はなかった。
 「こういう仕事だと知ってたんですか?」イノウーは東海林に不平を漏らした。「どうしてもって言うからOK したのに」
 「すまんな」東海林は星野に視線を据えたまま答えた。「俺も詳しいことは知らなかったんでな」
 「毎年、この時期にやってたんですよね?」
 「そうなんだがなあ。どうも内容を思い出せなくてな。もう年かもしれんな。それにしてもあの女、どこかで......」
 そのとき星野が東海林の名を呼んだ。東海林の顔を見た途端、無表情だった星野は何かを思い出したような目を見開いたが、すぐにタブレットに視線を戻した。
 「東海林さんは、別途、特殊タスクが用意されています。念のために確認したいのですが、子供が苦手とかないでしょうね」
 「は? いや普通ですが。娘もいますし」
 「それはよかった。では、そっちのドアから出てください。担当者が案内します」
 東海林は立ち上がると、イノウーの肩を叩いた。
 「じゃあ、しっかりな。終わったら飯でもおごるよ」
 次に星野が呼んだのは加瀬の名前だった。加瀬にも特殊タスクが用意されている、とのことで、むすっとした表情で出ていった。
 「さて井上さん」星野は最後に残ったイノウーに言った。「あなたにも特殊タスクがあります」
 「わかりました」イノウーは諦めて頷いた。「できたらスマホを今、返してもらってもいいですか。早めに連絡しておきたいので」
 すると星野は微笑んだ。
 「それには及びません。イノウーさんは、私と一緒に外でお仕事になります。途中でいくらでも連絡ができますよ」
 「どこでですか?」
 「都内のある企業です。名前はご存じだと思います。では、早速出かけましょう」
 困惑したまま星野の後について会議室を出ようとしたとき、山田が声をかけてきた。
 「井上くん、今回の作戦は、我々にとって史上最大の作戦となる。その中でも、君のタスクはかなり重要なものだ。頼んだぞ」

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ある程度の規模を超えるシステムには、それに応じたテストが欠かせない。テストにはいくつかの段階があるが、リリース直前のテストはベータテストと呼ばれる。
 ベータテストにも種類がある。今、星野とイノウーが参加しようとしているのは、テクニカルテスト、またはクローズドテストと呼称されるものだ。通常であれば、マーケティングテストなど、限定されたユーザ向けのテストが行われるが、ナルキッソスが発表するゲームは、その内容が完全に極秘なので、今回が事実上の最終テスト工程となる。
 「本来なら」移動する東急東横線の車内で、星野は説明した。「開発会社内の技術者だけで行われるはずなんだけど、人が足りなくなってね。まあ、足りなくなるようにうちが工作したんだけど。それで急遽、外部エンジニアのヘルプを必要としたってわけ」
 「だからって」イノウーは訊き返した。「どこの誰ともわからない人間が、完全社内秘ゲームのテストに参加できるんですか? いや、できたとしても、触らせてもらえるのは動作チェックぐらいだと思うんですが」
 「普通なら無理でしょうね」
 「普通なら?」
 「これから行く会社の名前は、ノヴァ・エンターテインメント」星野はイノウーの顔を覗き込んだ。「聞き覚えは?」
 イノウーの脳裏に一つの記憶が鮮やかに蘇った。現在、勤務している会社の元社長の転職先だ。その件をお膳立てするのに、イノウー自身が大きな役割を果たしている。忘れるはずがない。
 「もちろんあります」驚きながら答える。「そこに行くんですか。でも、ナルキッソスと何の関係が?」
 「ナルキッソス・モバイルはハードメーカーで、ソフトウェアを作っているわけではないの。ゲーム自体はノヴァの提供。ノヴァはパブリッシャーなので、開発自体はさらに別の会社ですが、権利は全てノヴァが有しているわ」
 「じゃあ、ノヴァが今回の、その攻撃に加担しているんですか」
 「いえ、ノヴァ・エンターテインメントは真っ当な企業です。敵は何らかの方法で開発プロセスに介入し、パートタイムカウンターテロのサブリミナルロジックを忍び込ませた、と考えられているの」
 ゲームのコードは膨大だ。当然、開発の各段階でもテストは行われるだろうが、すでにテストが済んだモジュールを、リリース直前にソースレベルでチェックなどするはずがない。大抵の場合、チェック済みとしてホワイトボックステストぐらいしか実施されないだろう。サブリミナルロジックがどんなものなのか知らないが、一目見て異常が判明するようなデータではないはずだ。
 「ベータテストはノヴァ社内で行われている。そして井上さんは、ノヴァに知り合いがいるわね」
 「......特殊なタスクってそれですか」
 「ノヴァではプログラマ視点でのテスターが不足しているの。秘密を厳守できる優秀なプログラマなら、喉から手が出るほど欲しがるはず。そして井上さんは、優秀なプログラマだそうね」
 「ぼくより優秀なプログラマはたくさんいますよ。東海林さんとか」
 「そうかもしれないけど、私たちが手配できたプログラマで、ノヴァの社員と知り合いなのは井上さんだけなのよ。東海林さんに井上さんを誘ってもらったのはそのため」
 そういえば東海林がイノウーに、ちょっとアルバイトをしないか、と誘ったときに言っていた。本当は川嶋とかサードアイの人間に頼もうと思っていたんだが、ふっとお前のことが頭に浮かんでな......
 「同じ会社と言っても」イノウーは疑問を口にした。「社員数はかなり多いですよね。ぼくが知人に出会える可能性は低いんじゃ......出会えたとしても、深いレベルのテスターに誘ってもらえるかどうか。仮にソースレベルのリソースにアクセスできる環境に触れたとして、そのサブリミナルロジックがどこにあるかを調べて削除する、なんてことは限られた時間じゃ無理ですよ」
 「そこのところは、こっちで何とかするから。ってことで、これどうぞ」
 星野が差し出したのは、アーモンドに似た形状とサイズの半透明なデバイスだった。受け取ったイノウーは、それを何度かひっくり返してみた。滑らかな表面を指で撫でてみたが、全く使い方がわからない。
 「ここ」星野は楕円形の先端を指した。「ここを長押しすると開くからやってみて。そう。その突起をつまんでそっち側にひねる。いえ、反対。そうそう。そしたら最後にもう一度、そっちに戻す」
 言われた通りに操作すると、デバイスは音もなく変化し、ワイヤレスイヤホンのようになった。星野に言われて耳に突っ込むと、デバイスがさらに変形するのが感じられた。耳の中に水が入ったような違和感が数秒続いた後、薄いガーゼを貼り付けたような感触だけが残った。一週間もすれば自然に分解する、と説明してから、星野は声を潜めた。
 「それを通じて、私が指示を出すから」
 「無線なんですか?」
 「まあね。さ、次で降りるよ」
 ノヴァ・エンターテインメントの本社は、渋谷駅から徒歩3 分の高層ビルの5 フロアを占めていた。すでに手配が整えられていたらしく、星野が受付で来意を告げると、受付嬢が笑顔で二人分の入館カードを差し出してきた。
 エレベーターで14 階に上がると、星野は清掃の行き届いた廊下を勝手知ったる顔で進んでいった。足を止めたのは「DOD βテスト」と手書きの紙が貼られたドアだった。星野はイノウーを見て囁いた。
 「私は一般レベルのテスターとして参加することになってるから。必要以上の危険を避けるために、知り合いだって素振りは見せないように。いい?」
 「はあ」
 「あ、忘れるところだった。何時間かは外部と接触できなくなるから、誰かに連絡するなら今のうちに」
 イノウーはさっき返却されたスマートフォンを取り出し、LINE アプリを開いた。文章を考えながら、マリに向けて事情を入力し始めた。その様子を見ていた星野が、ニヤニヤ笑いながら訊いた。
 「彼女?」
 「え、はい」
 「いいなあ、若いって。可愛い?」
 「まあ」
 「うまく誤魔化してね」
 何とか文章を入力し終え、送信しようとしたとき、後ろから声がかけられた。
 「あれ、イノウーさん!?」
 ここで聞くはずのない声だ。慌てて振り向くと、自分に劣らず驚いた顔のマリが立っていた

(続く)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係なく、たとえ実在の人物に似ているとしても偶然です。また登場する技術や製品が、現実に存在していないこともありますので、真剣に探したりしないようにしてください。

Comment(14)

コメント

匿名

通常は接触するはないが → 通常は接触するは「ずは」ないが、でしょうか。

じぇいく

おお、なんかてんこ盛りの短編きたー(^^)
Happy Holidays!!

匿名

「私たちが手配できたプログラマで、ノヴァの社員と知り合いなのは井上さんだけ」つまりマリさんは別ルートでの手配。
若しくは、マリの相手が「史上最大の作戦」と。

匿名

オールスター劇場版感ありますね
期待

匿名

加瀬さん、局に復帰してたのか!

h1r0

イノウーだけ呼べばマリもついてきてお得だな

h1r0

これってイノウーのプロポーズ大作戦になったりしますか?

ご祝儀用意しておきますね!

匿名

マリちゃんとノヴァの接点といえば古里氏か…
痴話げんかになりませんように。

とりすがり

いつかアベンジャーズなのが来るのかしら。
ハウンド絡みが、映画版バイオハザードみたいなグダグダなまのにならないことを願っております。
てか、インシデントZってナルミンの話?あれって、別の世界線の話なの?

Y

そういえば、インシデントZの客船の話、どこかで読んだと思ったら
第二進化というSFがありましたね

リーベルG

匿名さん、ありがとうございます。
「接触することはないが」でした。

匿名D

星野女史は結局あっちがわに所属することにしたのか。
えらいダメージ食らったらしいから、そのケツをもたせるの正当性はある。
壊れた職員の面倒見は良い組織らしいし。


それにしても、出てきた名前がとっさに結びつかん。・・・トシか。orz
加瀬氏って、どこで出てきた人でしたっけ?

匿名

> 加瀬氏って、どこで出てきた人でしたっけ?

「クリスマスプレゼント」に出てきた人ですね

匿名D

5年も前でしたか・・・。

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