ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (64) 去就

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 8 月から9 月にかけて、日本国内の新型コロナウィルスの感染者数は、少しずつではあるが減少傾向にあった。20,000 人前後で推移していた数字が、9 月14 日には6,000 人台にまで下がった。
 マーズ・エージェンシー社内では、8 月末に都内在住の社員の感染が報告されたのを最後に、新たな感染者は出ていない。過去3 ヵ月の累計は3 名で、濃厚接触者に該当する社員もいなかった。ある意味で、これは伊牟田さんの功績かもしれない。課長の肩書きを失い人事課付に落とされたのは、表向きはクラスター発生を誘因したことが主要因となっていたからだ。次に同様の失態を犯した社員には、より厳しい処分が待っていることは想像に難くない。一罰百戒の効果が確かにあったのだ。ああいう人でも世間では何かの役目がある、と引用した木名瀬さんが正しかったわけだ。
 ぼくと斉木室長の対談にどれほどの効果と意味があったのか定かではないが、9 月になるとシステム開発室に関する環境がいくつか進み始めた。まず、停滞していた人員増が正式に動き始めた。人事課主導でプログラマ職2 名から4 名の採用が正式決定したのだ。募集要項の作成にあたっては、ぼくとマリの意見も十分に反映されている。
 「Java、またはPython」マリは完成原稿を嬉しそうに読んだ。「上記の言語による開発(実業務)経験があり、HTML5、JavaScript、CSS3 の最低限の知識を有していること。jQuery、BootStrap、Vue.js 等のフレームワークの経験者は優遇。あたしにもやっと後輩ができそうですねえ」
 わざわざ括弧付きで「実業務」と強調しているのは、昨今では、オンラインのプログラミングスクールを卒業しただけで、「経験者」と堂々と名乗るエンジニア志望者が増えているらしいからだ。スクールの卒業生全員が必ずしも「使えない」とは限らないが、マーズ・エージェンシーでは、7 月に職域接種申込フォームを作成した際、夏目課長が実業務経験ゼロの自称コンサルを連れてきたことで先入観が生まれている。
 「即戦力だと助かるね」ぼくは答えた。「さすがにイチから教えている余裕はないからなあ」
 今回の採用にはもう一つ条件が明記されている。来年4 月に創立予定の新会社に出向となることが前提となる、という就業条件がそれだ。新会社とはもちろんJV 準備室が進めているジョイントベンチャーのことだ。
 ぼくとマリの評価については、人事課長から「手続き上のミス」で正確な評価プロセスが働いていなかった、と連絡と謝罪があった。遡及しての昇格・昇給は人事規程により不可なので、来期の評価で上乗せする、ということだ。斉木室長は何も言わなかったが、何らかの働きかけがあったことは明らかだった。ぼくたちは、それを斉木室長からのメッセージだと受け止めることにした。
 前後して、経営管理部よりJINKYU のリニューアルについてのオーダーがあり、ぼくたちは早速、要件定義に入った。リリースは来年5 月のGW 後を予定している。長年に渡って、少しずつ機能の追加・拡張が繰り返されたため、人事課でも全ての仕様を把握できておらず、当然、役に立つドキュメントも残されていないので、かなり苦労することは目に見えていた。ぼくたちはまず、全テーブルの再定義と、ソースと画面の紐付けから始めなければならなかった。人事課がシステム開発室の増員に動いてくれたのは、JINKYU のリニューアルが人手不足を理由に失敗されては困る、というのも理由の一つだったに違いない。
 人事課では以前よりJINKYU リニューアルの要望を出していたのだが、どうやら斉木室長は外注を前提に話を進めようとしていたらしい。システム開発室には、JINKYU レベルの開発を受ける体力がない、というのが理由だった。人事給与システムは他のシステムとの関わりも深く、機能数でいけばダリオスの数倍になるから、ぼくとマリだけで開発を行うのは無理があるのは確かだ。だが、部分的に外部協力会社を入れるという方法もあるのに、斉木室長は最初からぼくたちに話すらしなかった。その行動自体が、システム開発室に対する認識を明確に表しているような気がする。ダリオスに続いて、JINKYU までシステム開発室主導でリニューアルを行い成功するようなことになれば、ぼくたちの功績は誰がみても明らかなものになることは間違いない。斉木室長はそれを望まなかったのではないだろうか。斉木室長はシステム開発室を、職域接種申込フォームのような小規模なWeb アプリケーションをいつでも作れる程度のチームに留めておきたかったのだ。本人に訊いても認めることはないだろうが。
 JV 準備室でも動きがあった。夏目課長が来年4 月からエースシステムに出向となる件が正式に発表され、JV 準備室の兼務は9 月末日で終了となった。夏目課長が社長の前で演じたパフォーマンスは、マリによると裏SNS でトピックスのトップだったそうだが、8 月後半から急速に鎮静化したとのことだった。夏目課長が出向する発表の前だったから、忖度しての沈黙ではなさそうだ。ぼくは、もしかすると大竹社長が何か手を打ったのか、と考えたが、何の証拠もなかった。
 斉木室長は宿敵の事実上の昇進の報について、会社からの連絡事項の一つとして、事実のみをぼくたちに伝え、個人的な感情や意見を付け加えることはなかった。出向期間は最低2 年となっている。当面の間、手を出すことができない場所に行ってしまう相手だ。これを機会に、長年抱き続けてきた憎悪を切り捨ててくれるといいのだが。
 ぼくとマリは、毎日のようにJINKYU の要件定義とソースの解析に追われ、ときにはTeams で何時間も連続して相談や議論を続けていた。あるとき、マリはふと思い出したように言った。
 「そういえば、牧野社長......前社長の考えてたゲーム、企画にゴーサインが出たらしいっすよ」
 「お、そうなんだ。よかった」
 転職を提案した人間として、気になっていたところだ。
 「一応、原案者として、企画会議にも参加させてもらってるらしいです」
 「例の元カレ情報?」
 「ただの元先輩ですってば」
 そんな慌ただしい9 月が残り数日になった頃、ぼくにとって重要な二人の人物の去就が明らかになった。

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 9 月24 日、一件の人事連絡が全社員に通知された。横目で目を通していたぼくは、コーヒーを口に運ぶ手を止めて、モニタに顔を向け直した。それは菅井先輩が9 月末日をもって退職する、という内容だった。
 驚きはなく、やはり、という思いだった。人事規程では休職が認められるのは最大一年間だ。これまでその状態が維持されていたのは、マネジメント部の岸川部長があれこれ理由をひねり出して、延長を認めさせてきたからだ。これまで休職が規程の月数を超えた前例がないので、会社としても黙認してきたのだが、どうやら本人から申し出があったようだ。
 その数時間後、ぼくのスマートフォンが震動した。表示された名前は「菅井先輩」だった。メールは数ヶ月おきに受け取っていたが、声を聞くのはほとんど2 年ぶりだ。
 『イノウーにはすまんことをしたな』挨拶と近況報告を交換した後、菅井先輩はそう謝ってくれた。『誘っておいて、何もしてやれなくて』
 「いいんです。結果的に、満足のいく環境で充実した仕事ができてますから。お辞めになるんですか?」
 『おう』闊達な笑い声が届いた。『ビシッと辞める。決めたわ』
 これからどうするのか、と訊くと、広島県で親戚が旅館を経営していて、そこで営業兼事務をやることになった、と答えた。
 『ま、小さな旅館じゃがの、そこそこ繁盛もしとるし』
 母親のリハビリは続いているが、簡単な家事ならできるようになっているとのことだ。親戚の好意で、旅館の敷地内にある離れを住まいとして提供してもらえることになったので、当面はそこで暮らしていく。
 「横浜、というか、首都圏ではいけないんですか」
 『元々、母もこっちの出じゃけな、親戚も知り合いも多いし、安心するんよ。コロナのことも首都圏よりは安心だしな』
 「そうですか」ぼくは頷いた。「一緒に仕事ができなくて残念ですが、そういうことなら。いろいろ大変かと思いますが、ぼくにできることあったら、何でも言ってください」
 『実はな』菅井先輩は声を潜めた。『来年、結婚する予定なんじゃよ』
 「え、そうなんですか」ぼくは驚いて、思わず立ち上がった。「それはおめでとうございます。お相手はそっちの人ですか?」
 『幼なじみでな。向こうはバツイチで子持ちなんじゃけどな。こっちの事情を全部わかった上で、一緒になってくれるちゅうんじゃ』
 「それじゃあ、こっちに戻ってくる理由なんてないですね」
 『そういうこっちゃな。イノウーのことだけは、ちいとばかり気がかりじゃったが、まあ、せわーない......心配なさそうじゃな』
 ぼくたちは10 分ほど話をし、メールや年賀状で連絡を取り合うことを約束して通話を終えた。スマートフォンを置いたぼくは、小さくため息をついた。
 仮に菅井先輩が復帰したとしても、元々の予定通り、ぼくがマネジメント三課に異動することはあり得ない話だ。双方が望んだとしても現実的に無理だ。ぼくはシステム開発室での業務を放り出すことはできないし、菅井先輩がマネジメント三課の課長職に戻れる保証もない。それでも菅井先輩のステータスが休職中である間は、そのごくわずかな可能性が、心の奥底に小さな棘となって刺さったままになっていたのだ。それが解消された今、一つの大きなトランザクションがCommit されたような気分だった。ぼくは菅井先輩の今後を明るい光が照らすことを祈りつつ、仕事に戻った。

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 翌週、9 月27 日は、システム開発室のメンバーが、揃って出社した。それぞれに打ち合わせや作業があるので、どうせなら上期最後のミーティングをやりましょう、と提案したのは木名瀬さんだ。ぼくたちは賛成した。全員が新型コロナワクチン接種を2 回終えていることも理由の一つだ。
 ぼくと顔を合わせた斉木室長は、以前と変わらない気さくな態度で声をかけてきた。
 「やあ、イノウーちゃん、JINKYU の件じゃ、迷惑かけちゃったね。イノウーちゃんと笠掛くんばかりに負荷をかけるのもどうかと思ったんだ。まあ、気にしないで、粛々と進めてもらえると助かるよ」
 ぼくは苦笑して、気にしてませんから、と答えるしかなかった。システム開発室に対する斉木室長の考えに共感はできないが、この人を嫌いになることはなかなか難しい。システム開発室を自分のために利用したとしても、伊牟田さんや夏目課長とは違う。あの二人はプログラマを劣った職種だと考え、上流たる自分の能力を持ってすればたやすくコントロールできると思い込んでいた。少なくとも斉木室長は、ぼくやマリをスペシャリストとして尊重してくれている。どうせ利用されるのであれば、斉木室長の方がマシだ。
 この4 人がリアルで集うのは、ずいぶん久しぶりだ。ミーティングをそっちのけで、ぼくたちは仕事とは無関係な世間話に花を咲かせた。
 「エミリちゃん、元気ですか?」
 世間話の途中で、ぼくが訊くと、木名瀬さんは頷いてスマートフォンを取り出した。
 「残念ですが、イノウーくん、エミリには別に意中の相手ができたようですよ。最近は保育園の男性職員さんに夢中なんです」
 木名瀬さんが開いた画像の中で、記憶より少し大きくなったエミリちゃんが、エプロン姿のやや太った男性の膝の上でニコニコ笑っていた。両手は男性の手を抱え込むように掴んでいる。
 「あらっ」マリがなぜか嬉しそうに画像を覗き込んだ。「イノウーさんとは顔も体型も全然似てない方ですね。年も50 歳ぐらい?」
 「それぐらいだったと思います」木名瀬さんは頷いた。「外見は違っていますが、ある意味で、イノウーくんと似ているかもしれません。この人、以前はキッズ対象のプログラミングスクールで講師をやっていたそうです。早期退職して保育園に再就職したとか」
 「なるほどねえ」斉木室長が言った。「イノウーちゃん、よかったねえ」
 「何がですか」
 「うちをクビになっても、そういう再就職の道もあるってことがわかって」
 「......そんな話があるんですか?」
 「あれ、心当たりない?」斉木室長はニヤニヤした。「上司にあんな暴言を叩いといて無事で済むとでも思ってたの?」
 「......」
 「なんつって。冗談だよ、冗談」
 「笑えないんですが」
 「でも」木名瀬さんは笑いながら言った。「まるっきりイノウーくんのことを忘れた、というわけでもなさそうです。たまに、思い出したように、いにょうーは? って訊いてきますから。美女と野獣見た後、いにょうーのお嫁さんになるって主張してましたし」
 「む」マリが腕を組んだ。「近いうちにエミリちゃんと真剣に話をする必要がありそうっすね」
 その口調と表情が9 割ほど真剣だったので、ぼくたちは笑い声を上げた。ひとしきり笑ったところで、斉木室長が小さく手を叩いた。
 「コロナ前だと、こういうとき咳払いしたんだけどね」斉木室長は肩をすくめた。「そろそろミーティングしようか。まずイノウーちゃんと笠掛くん、JINKYU の進捗状況、教えてもらおうかな」
 ぼくたちは順に報告を開始した。ぼくとマリでJINKYU の要件定義の状況を説明し、その後、それぞれで進めている業務について報告を行った。週報に書かれている内容だが、斉木室長と木名瀬さんから、リリース日や工数の質問が出た。特に斉木室長は、時間外労働時間について、穏やかにだが釘を刺してきた。
 「忙しいのはわかるけど、残業は控えめにね」
 「そんなに多くないはずですけど」ぼくは反論した。「今月はたぶん30 超えないと思いますよ」
 マリも同意して頷いたが、斉木室長は首を横に振った。
 「パートナーマネジメントも営業も、今期は全体的に業務量が減ってきてるから、その分、時間外も減少してるんだよね。それなのにシステム開発室は逆に業務が増えてて時間外も同じぐらいだから、突出して目立っちゃっててねえ」
 他の部門の状況を考慮して時間外勤務を抑えるのは難しい。そう言うのは簡単だが、ぼくたちの勤務を管理している斉木室長の立場もわかる。累計残業時間数を気にしなければならないのだ。ぼくはマリと顔を見合わせて、努力します、と答えておいた。斉木室長は安堵したような顔になった。
 次に斉木室長からJV 準備室について説明があった。こちらも定期的に斉木室長や他のメンバーから情報共有されているので、概要は頭に入っている。斉木室長もわかっているので、無駄なリピートをすることなく、最新情報だけを伝えてくれた。現在、ジョイントベンチャーへの参加を伝えてきたのは、サードアイを含む4 社。大竹社長からはリスク分散の観点からも、最低でも7 社の参加が必須と言われている。打診した県下のベンダー20 社のうち、6 社が回答を保留しているから、まだ見込みはあるが、斉木室長としては早めに7 社確定の報告を大竹社長に上げたいところだ。
 「もし残りの6 社が全部断ってきたらどうするんですか?」
 「ベンダー選定と打診のプロセスをもう一回やることになる。スキルを含めたサーベイを何週間かかけて、やらなきゃならないってこと。コスト的にもスケジュール的にも、できればそれは避けたいところなんだよね」
 「そりゃそうですね」
 「で、先週、別のベンダーから参加の申し出があったんだよね。あったんだけど、ちょっと問題もあってね」
 「なんですか、問題って?」マリが訊いた。
 「うちが打診したベンダーじゃないんだよ」
 どこからかジョイントベンチャーの話を耳にして、向こうから参加を申し出てきた、という事情のようだ。
 「経緯はともかく、一社には違いないでしょう?」ぼくは首を傾げた。「何が問題なんですか。サーベイが済んでないからとか?」
 「その会社」頭が痛い、という顔で、斉木室長は社名を口にした。「マギ情報システム開発なんだ」
 マギ情報システム開発といえば、ダリオスの再構築のとき、当時の課長だった伊牟田さんがパートナー企業として引っ張ってきたベンダーだ。
 「あ、もしかして」ぼくは思いついて言った。「伊牟田さんがマギに知らせたんじゃないでしょうか」
 「私もその線を考えたんだけど、まあ、それはどうでもいいんだよね。問題は受け入れるかどうかってことで」
 一応、参加決定済みのベンダーにも意見を聞いてみたところ、一斉にネガティブな回答が返ってきたという話だ。同業者の間でも、あまり評判はよろしくないらしい。
 「イノウーちゃんはどう思う?」
 「スキル的に難しいんじゃないでしょうか」ぼくは即答した。「ジョイントベンチャーだと、一つの案件を複数のベンダーが対応することがあるわけですよね。一社が遅れたら、他の担当者の足を引っ張ることになります。不和の種にしかならない気がします」
 「加えて言うなら」木名瀬さんが小さく手を挙げた。「マギ情報システム開発って、かなり経営が危なくなっている、という話を耳にしました。別の大型案件で何かやらかして、予定していた支払を受けられなかったとか」
 「うん、そうだね」斉木室長は深く考えることもなく頷いた。「じゃあマギさんは断ることにしよっと。報告には二人の意見を書いといていいかな? いいよね」
 ぼくと木名瀬さんは視線を交わした。木名瀬さんも同じ考えに至ったらしい。きっと斉木室長は断ることを決めていたのだが、補足意見が欲しかったのだろう。
 その他、何件かの連絡事項を伝えた後、斉木室長は口調を改めた。
 「じゃあ、木名瀬さん」
 「はい」木名瀬さんは進み出た。「すでに斉木室長と人事の方には話をしてありますが、10 月いっぱいでこの会社を退職することになりました」
 ぼくの思考は停止状態に陥った。隣でマリが息を呑む音が聞こえた。
 「この会社でやるべきことは全てやり終えたと判断した、というのが理由です」木名瀬さんの声は遠距離から聞こえてくるこだまのようだった。「やるべきことの一つは、前社長の牧野さんのゲーム開発に対するサポートです。この会社でゲーム開発を行うことは難しい、とわかっていたので、牧野さんがご自分でその夢を断念するまではお付き合いするつもりでいました。でも、イノウーくんとマリちゃんのおかげで、思いがけない形で牧野さんの夢が実現することになりました。先日、牧野さんからはメールを頂きました。長年、暖めてきた設定を元にしたゲームの開発企画が無事にスタートし、牧野さんもスタッフの一人として参加しているそうです。私も肩の荷を降ろすことができました」
 ぼくは言葉を発することができないまま、木名瀬さんの顔を見つめていた。
 「もう一つ、私が懸念していたのは、システム開発室の将来です」木名瀬さんは穏やかに微笑みながら続けた。「うちの会社にプログラミング部門を発足させたのは、牧野さんの夢に対するアンサーという意味もあったんです。もし牧野さんが夢を断念する、または会社を去る、という状況になったとき、システム開発室の存在意義が失われてしまうのでは、という心配は当初からありました。ジョイントベンチャー構想は、私なりにシステム開発室の行く末を案じてのことでしたが、大竹さんの反対というハードルを、どう乗り越えるかは全く目処が立っていなかったんです。でも、イノウーくんもマリちゃんも、私の予想を超えて、自らその存在意義を証明してくれました。JV 準備室はもう動き出しているので、私が協力できることはないと言ってもいいでしょう。これが第二の理由です」
 「そういうわけなんだ」斉木室長が言った。「私としても、もちろん慰留はしたんだけどね。何回も何回も。でも、本人の意志が固いということで、最終的には了承ということになりました」
 「木名瀬さん......」マリが涙を浮かべた。「マジですか」
 木名瀬さんは優しく頷いた。
 「あたし、木名瀬さんがいなかったら、もう一度、フロント技術を生かした仕事なんかできなかっただろうし、システム開発室にも異動してなかったと思います。その恩を何も返せてないじゃないですか。そんなあんまりです。ねえ、お願いです。辞めないでくださいよ......」
 マリの言葉は語尾が泣き声に変わった。
 「ありがとう、マリちゃん。でも、もう決めたことだから」
 「次って決まってるんですか?」マリは泣きながら訊いた。「まだなら、決まるまではうちにいてくださいよ。今、そんなに簡単に転職なんかできないんじゃないですか?」
 「決まってるんですよ、それが」木名瀬さんはハンカチをマリに差し出しながら答えた。「以前に勤めていた人材派遣会社の上司だった人から、以前から誘われていたんです。都内で新しい会社を立ち上げるから手伝って欲しいと。イノウーくんが菅井さんから、うちの会社に誘われたのと同じですね」
 「そうなんですか......」
 マリは繰り返し懇願したが、木名瀬さんを翻意させることはできなかった。とうとう言葉が尽きると、非難するような目でぼくを見た。肘でぼくを突きさえした。止めなくていいんですか! その視線はそう言っている。だが、ぼくは口を開くことができなかった。
 「じゃあ、今日はこれぐらいにしとこうか」斉木室長が終了を宣言した。「木名瀬さんの送別会は、また別途、相談しよう。木名瀬さんは遠慮したんだけどね、これは室長権限で強行させてもらったから。じゃ、解散」
 斉木室長とマリは自席に戻ったが、木名瀬さんはカバンを掴むと、一礼してドアから出ていった。その後ろ姿が消えた途端、ぼくは呪縛が解けたように走り出していた。
 「木名瀬さん」ぼくは必要以上に大きな声で呼んだ。
 木名瀬さんは足を止めて、ぼくに微笑みかけた。
 「よかった。怒って何も言ってくれないんじゃないかと思っていました」
 「そんな......」まだ混乱した頭で、ぼくは何とか言葉を絞り出した。「本当にうちを辞めちゃうんですか」
 「ええ。さっき言ったように、この会社に私がいる理由はもうないので」
 「ぼくはその理由になりませんか?」
 しばらく続いた沈黙は、もしかすると木名瀬さんの優しさだったのかもしれない。
 「ごめんなさい」
 そう言い残して、木名瀬さんはエレベーターホールの方へ歩き出した。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(8)

コメント

h1r0

菅井さんの結婚相手かと思ってしまった

匿名

同じく…

匿名

>昨今では、オンラインのプログラミングスクールを卒業しただけで、「経験者」と堂々と名乗るエンジニア志望者が増えているらしいからだ。

バズツイート連発のイキり技術者ネタ…いやな予感が

匿名

てっきり最終回の流れだと思って読んでいましたが、まだまだ続くのですね。

今思えば、最終回なら(終)ってつきましたね。

匿名

来週のタイトルは
ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない
ですね

ゲーム開発者

他社案件を見て「自分がディレクターかプロマネだったらデバグをちゃんとするのに」と開発スタッフの前で言い放った(デバグしか経験のない30歳オーバーの)アルバイトを見たことがあります。

匿名D

さあ、イノウーはどっちを取るか。

なんなんし

〉(デバグしか経験のない30歳オーバーの)アルバイト

本職が品質マネージャー、コンサルですけど
開発PMやってる時は、経験活かして(?)どこまで品質落としても問題出ないかと
ギリギリセーフのライン攻めますので
「うるせー黙ってろ」って言いそう(´・ω・`)

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