イノウーの憂鬱 (31) 抽選会
少しだけ深く考えてみれば、きっとわかったはずだった。海外との往来が難しくなっているとはいえ、日本がロックダウンしているわけではない。観光目的での入国はほとんど不可能だろうが、ビジネス目的の入出国は14 日の待機期間を経れば可能になっている。木名瀬さんのご主人――元ご主人と言うべきか――も、その気になれば帰国することはできただろう。
木名瀬さんの元ご主人は、9 月の初旬に帰国を果たしていたが、自宅に戻ることはなく、今に至るまでその状態は変わっていない。木名瀬さんが慎重に言葉を選びながら語ったところによると、元ご主人は新型コロナ騒動を、天から与えられた人生を見つめ直す好機だと考え、過去と現在と未来を熟慮した。その結果、別の人物との生活を選択したのだそうだ。木名瀬さんは翻意を望み、何度もリモートで話し合いを重ねた。だが、元ご主人の決意は固く、話し合いは弁護士を仲介しての離婚協議へと変わることになった。元ご主人はエミリちゃんの親権を望まず、木名瀬さん側が提示した養育費の支払や財産分与の条件にも、ほとんど異を唱えることがなかったため、協議はスムーズに進んだそうだ。
「つまり」帰りの電車の中、マリは囁いた。「伊牟田課長が流していたっていうウワサは、ある程度、事実だったってことっすね」
逆に、事実を知った伊牟田課長が、悪意から社内に広めたという可能性もありうる。エミリちゃんの扶養を、元ご主人から木名瀬さんに移す手続きを耳にしたか何かで。建前は人事課に所属する社員は、職務上で知った社員の情報を口外してはいけないことになっているが、何事にも例外はある。人脈とか派閥という不快な構造は、ときにルールや道徳を超越し、特定の集団の利益のために全てを正当化する。
「あーあ」マリはため息をついた。「あたしにとっても、よろしくない展開っすよ、これ。ホントに」
「どういうこと?」
マリはぼくの顔をチラリとみた。
「これで壁が崩れたじゃないすか」
「壁?」
「木名瀬さんとイノウーさんを隔ててた壁です。相手が既婚者、っていう事実ですよ」
「なんだよ、それ」ぼくは苦笑した。「今は、そんなこと考えてる余裕なんかないよ」
実際、ぼくの頭の中は、元の職場、サードアイとどのように接すればいいのかで一杯だった。他の悩みを上乗せする余裕などない。
「エミリちゃんもイノウーさんに懐いてるしなあ」ぼくの言葉を無視してマリは呟いた。「しかもかわええし。なんであたしには寄って来もしないんだろうなあ。やっぱ、胸の大きさと何か相関関係があるんすかね」
何とコメントすればいいのかわからなかったので沈黙していると、マリは頭を一つ振って話題を変えた。
「これで伊牟田課長がまた変なウワサ広めないといいんですけど」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マリの懸念は的中した。11 月の第三週までには、木名瀬さんの離婚の話は社内に知らない者がないくらいに広まっていた。積極的にウワサを広めているのは、伊牟田課長以下のマネジメント三課の連中らしい。マリは憤慨したが、木名瀬さん本人は何も言わず、粛々と仕事を進めていた。
幸いと言っていいのかわからないが、サードアイに対する発注処理は難航していた。11 月のカレンダーが終わりに近付いているというのに、システム開発室に手綱を渡される段階までも進んでいない。どうやら総務課の作成したRFP の完成度が低く、双方が納得できるだけの見積がまだ出ていないようだ。
これが受託業務での下請けベンダー選定であれば、これほど手間をかけることはないだろう。一方的に単価と工数を決めて通知し、形式だけの見積書を提出させればいい。単価交渉に応じることは基本的にない。仕事が欲しいベンダーは星の数ほどいる。条件に合わなければ他のベンダーに声をかけるだけのことだ。ベンダーに支払う金もマーズが出すわけではない。元請け、さらに言えばエンドユーザからのお金だ。この会社のような中間業者は中抜きするだけだ。
ぼくのようにプログラミングが好きな人間、何かを作ることが好きな人からすれば、どこに面白みがあるのかさっぱりわからない仕事だが、この構造に恩恵を受けているサラリーマンが大勢いる。全く不条理な業界だ。
そんなマーズ・エージェンシーでも、自社の資産になるシステムリニューアルとなると、途端に厳格さのレベルがはね上がる。関係者の責任問題になるからだ。できあがった新システムのクオリティが低ければ最終決定者の選定眼に疑問符がつく。いいシステムができても、開発コストが許容範囲を超えれば、コスト管理能力が問われる。
ダリオスのリニューアルは、総務課が主導する案件だったが、ベンダー選定の実質的な責任者は夏目課長だ。本来なら総務の矢野課長が選定すべきだったが、前任者の伊牟田課長が「開発業務についてはシステム開発室が一番詳しい」と主張することで主導権をさらっていったためで、夏目課長はその権限を引き継いだ形だ。サードアイを選定したときは、前任者の失敗を見事にV字回復させてみせる、ぐらいにしか思っていなかったのかもしれないが、これほど交渉が難航した現在では、その決定を後悔しているかもしれない。
ともあれ、開発スケジュールが後ろ倒しになり、システム開発室の予定にも空白期間が生じることになった。この機会にマリの特訓を一気に進めておくか、と考えていた矢先、新たな業務が飛び込んできた。その指示が斉木室長から伝えられたのは、12 月2 日、水曜日のリモート定例ミーティングのときだった。
「クリスマス大抽選会」ぼくは共有された指示書のタイトルを声に出して読んだ。「クリスマスパーティって中止になりましたよね?」
例年なら年末年始は行事が目白押しだ。今年度の年間行事予定には、25 日にクリスマスパーティ、29 日に年末社員集会と納会、年明けの4 日は年始集会が載っている。その他、各業務本部、部、課単位の忘年会や新年会も予定されていたはずだ。今年はそれらが全て中止になった。それどころか、29 日と4 日は有給休暇取得奨励日となっているぐらいだ。
「うん、集まってはやらないんだけどね」画面の向こうで斉木室長は残念そうに言った。「そりゃちょっと残念ってことで、オンラインでやることになったんだよ。いろんなイベントが中止になってるから、せめてクリスマスぐらいはやろうって話になって」
クリスマスパーティは夕方からの業務時間外に行われるが、今年は15 時から17 時の業務時間中に実施される。すでに社員の半数はテレワーク勤務になっていて、このイベントのために出社させるのはおかしいし、出社した人だけに料理やアルコールを振る舞うのも不公平なので、オンライン開催に統一された。また、今年は業務本部単位ではなく、全社一括になる。
「内容はあまり変わらないよ」
社長や役員の挨拶や、社員表彰、有志による出し物などの演目は例年と変わらないが、それらは全て事前に収録した動画の配信となる。最後に控えているのが大抽選会だ。
「例年はビンゴですが」木名瀬さんが訊いた。「今年は抽選会なんですか」
「シス管からの意見でね。ビンゴシステムで全社員が一斉に接続すると、ネットの負荷が心配ってことで」
ぼくは去年のクリスマスパーティで、斉木室長――当時は係長だった――から依頼されて作ったビンゴシステムのことを思い出した。構築を手伝ってくれた木名瀬さんに「来年は同じシステムを流用できる」と言った記憶がある。木名瀬さんは「だといいですね」と答えてくれたが、残念なことに流用はかなわなかったわけだ。
ぼくの思いをよそに、斉木室長は説明を続けた。社員は開始時刻になったら、会社支給のスマートフォンか、ノートPC でオンライン参加する。もっとも参加と謳ってはいるが実態は視聴に近い。
「で、大トリの抽選会なんだけどね、そこだけはリアルタイムでやるってことになったんだよ」
「具体的にはどうやってやるんですか」
「誰か、たぶん庶務の人だと思うんだけど、時間になったら順番に抽選をやっていくって形だね。そのためのシステムを作ってほしいってことで」
「えー」マリが首を傾げた。「それなら、事前に抽選だけやっておいて結果を発表すればよくないですか」
至極当然なマリの提案に、斉木室長は首を横に振った。
「そういう意見もあったんだけど、それじゃあ面白みがないってことになってね」
「いっそ抽選会なしってわけにはいかないんですか」
「景品用の予算はもう取ってあるからねえ。使わないわけにはいかないんじゃないかな」
「全社員対象なんですよね」ぼくは訊いた。「だったら笠掛さんが言ったみたいに、事前抽選で当選者を順番に発表しても同じじゃないですか?」
「それがそうじゃないんだな。パーティ開始前と、途中2 回の点呼に、それぞれチェックインしないと、抽選会の対象にならないってルールにして欲しいって。じゃないとサボる奴がいるからね。全員参加が建前だから」
「そのチェックイン処理はどうやってやるんですか」
「もちろん、その仕組みもいるね」
「さっき、全員一斉のアクセスはネット負荷的にNG とか言ってませんでしたっけ」
「うん。だから負荷分散するように、適当な人数にプッシュ通知するとか、そういう処理も必要になるだろうね。あ、あと、エースシステムの人たちも何人か参加予定だけど、その人たちはチェックインなしで抽選会参加ってことで。できるかな?」
詳細な仕様は検討する必要があるが、技術的に難しいことはなさそうだ。去年はクリスマスパーティの数日前に依頼されたので、当日の午後までバタバタしていたが、今回は日程に余裕がありそうだ。
「大丈夫だと思います」
「じゃ後は、木名瀬イノウー笠掛トリオにお任せってことで。去年を思い出すねえ。あのときは今年のクリスマスがこんなことになるなんて想像もできなかったけどね」
斉木室長がビデオ会議から抜けた後、木名瀬イノウー笠掛トリオは、そのまま残って打ち合わせを続けることにした。
「不思議なんですけど」マリが訊いた。「斉木室長って、なんで毎年、クリパ担当になってるんですか」
「調整能力が高い人ですから」木名瀬さんが微笑んだ。「景品のうちいくつかは、毎年、取引のあるメーカーやSIer などからの提供ですが、あれは斉木室長が段取りしてるんですよ。ああ見えて、意外に顔が広い人です。まあ、唐突な思いつきもたまにありますが。さて、どのように進めますか。まず、何が必要でしょうか、イノウーくん」
「まずはチェックイン用のサイトを準備する必要がありますが」ぼくは考えながら言った。「会社支給のスマホかノートPC ということなら社内LAN なわけだから、sysDev01 でいいでしょうね。認証はRivendell と同じで」
「ログインフォームのデザインはやります」マリが手を挙げた。「どうせまた斉木室長チェック入るんですよね」
「その前提で。抽選会の方はどうですか?」
「抽選の画面を、そのまま配信するってことですよね」ぼくは言った。「操作する人がEnter キーを叩いたら、当選者の所属と氏名が表示される、みたいな仕様でいいんですかね」
「基本的な動きはそれでいいですが」木名瀬さんは頷いた。「もう何ステップか必要になるでしょうね」
「というと?」
「キーを叩く、景品の画像と説明が効果音とともに表示、キーを叩く、ドラムロール音とともに抽選中のアニメーションを表示、キーを叩く、当選者の部署と氏名表示、キーを叩く、次の景品、という具合でしょう」
ぼくとマリは同時に頷いた。
「効果音ですか......」
「ジャジャーンみたいなやつですね」
「アニメーションってどんなのがいいのかな」
ビンゴのときは、ネットから拾ったフリー素材の動画を使った。同じものでいいか、と思ったとき、ぼくの心を見透かしたように木名瀬さんが言った。
「去年と同じアニメーションだと、斉木室長はNG を出しますよ。それどころか景品ごとに、違うアニメーションにしてくれ、などと言い出すかもしれません」
「......景品って、何個ぐらいになるんでしょう」
「20 から30 ぐらい。今年はもう少し多くなるかもしれません」
「それだけのパターンのアニメーションを用意するのは難しいですが」
「そうでしょうね。だからうまく使い回すしかないでしょう。3 つか4 つ、できれば5 つぐらいのパターンを用意しておいて、色とかサウンドとかを変えましょう。これは純粋にcss とJavaScript の問題です。できますか?」
「できると思うんですが」マリは唸った。「どんなアニメーションにすればいいんでしょうかね」
「ダーツボード、流鏑馬、あみだくじ、スロット、ルーレット、ガチャガチャ、ガラポン......そんなイメージでどうですか」
「なるほど」マリは考え込んだ。「ダーツボードは画像の回転でいけます。あみだくじはdiv タグの組み合わせでborder の色を変えていけばいいと。スロットは数字をランダムに切り替える......面白そうですね。ロジックを少しイノウーさんに手伝ってもらえば大丈夫だと思います」
「日程に余裕はあるから」ぼくは言った。「練習も兼ねて、ゆっくり勉強しようか」
マリは嬉しそうに目を輝かせて頷いたが、木名瀬さんは苦笑しながら首を横に振った。
「残念ですが、そんなに余裕はないと思います」
「え? でも、今日はまだ2 日です。クリスマスパーティまで、3 週間以上ありますよ」
「追加仕様が出てくるに決まってます」
「ああ、去年みたいな裏ロジックですか」ぼくは思い出して訊いた。「当選率を上げるとか、特定の誰かを当選させるとか」
「そんなことやってたんすか?」マリが驚いたように言った。「マジで? 知りたくなかったなあ」
「大人の世界にようこそ、というところですね」木名瀬さんは笑った。「そろそろ真実を知ってもいい年頃ですね。世界は残酷なんです」
たとえ木名瀬さんが離婚による苦労に直面していたとしても、落ち着いた笑顔からは、その痕跡を見つけることはできなかった。ときどき木名瀬さんの神経細胞はセラミック製なのではないかと思うが、見えないところで苦悩しているのかもしれない。
各自が担当分の仕様をまとめ、後日、すり合わせて全体像を決めていく、という方針を決めて、その日の打ち合わせは終わった。ぼくはマリが会議から抜けるのを待って、木名瀬さんに訊いてみた。
「木名瀬さん、その、大丈夫ですか?」
「大丈夫とは」木名瀬さんは首を傾げた。「何がですか。今のところ、コロナにもインフルにも罹患してはいないと思います。エミリも元気ですよ。スポンジボブのぬいぐるみを、いにょうーと名付けて、毎日話しかけています」
「スポンジボブって何ですか。いえ、そんなことではなくて、つまり......」
「結婚生活が終わったのは、私のプライベートな問題です。ミカン狩りのときにお話したのは、他から誇張した話が耳に入る前に、事実を伝えておこうと思ったまでです。斉木室長も夏目課長にも同じ話はしてあります。心配してくれるのは嬉しいのですが、端的に言って、イノウーくんにできることは、あまりないんです」
「......なくはないと思うんですが」
「たとえば何でしょうか」
そう問われて、ぼくは言葉に詰まった。ぼくが木名瀬さんに何をしてあげられるのか、そもそも、木名瀬さんが何らかの助けを必要としているのか、全くわかっていないことに気付いたからだ。
「まあ確かに」木名瀬さんは微笑んだ。「私たちの間には、一度だけ、濃厚接触的な事実がありました。もしかすると、イノウーくんは、そこからの発展を望んでいるのかもしれませんが、あのときも言ったように、それはありません。これまで通り、同僚として良好な関係を維持できれば、と願います。よろしいですか?」
頷くことしかできなかった。頷くことしかできない自分が悲しかった。
「イノウーくんの頭を悩ましていた、サードアイ問題は先延ばしになりました。当面はクリスマスパーティの問題に集中しましょう。では、また、後日」
ぼくの返事を待たずに、木名瀬さんの姿は画面から消えた。
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。
※次回の更新は、12 月23 日の予定です。
コメント
匿名
主導権をさらっていったためで、目課長はその権限を引き継いだ形だ。になってます
年末の余興の度にわざわざシステム組むとか暇な会社ですねぇ
匿名
やはりマリちゃんはド貧乳
匿名
(今年もクリスマスか、ブラウンアイズたちに会えないかなぁ、とちょっと思ってしまいます)
匿名
台場さん達とか…
匿名
そういや斉木室長はドーン、バーンの人でしたね。
リーベルG
匿名さん、ありがとうございます。
「夏目」課長でした。