ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (15) 白川さんがキレた日

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 マギ情報システム開発の杉浦さんの件について、東海林さんは白川さんに報告した。東海林さんによれば、白川さんは、その話を軽く受け止めたりはしなかったものの、即座に何らかの手を打つことはできない、と申し渡したそうだ。確かに「意図的に手を抜いた」というのは東海林さんの推測でしかない。プログラムの中に、何らかのバグがあったとして、それが単なる見落としなのか、意図的に混入されたものなのかを確実に見極める方法はない。状況証拠で排除していたら、このプロジェクトからプログラマが一人もいなくなってしまうだろう。
 当面は推定無罪の方針、という白川さんの決定に、とりあえず納得した私たちだったが、翌日からアサインされ始めたチケットの内容にはうんざりさせられた。表向きは単体テストのチケットだったが、過去にマギ情報システム開発とFCC みなと開発の人たちが実装するか、単体テストを終えたコンテナばかりだったのだ。チケットそのものには特記事項が書かれていたわけではないが、込められた白川さんの意図は明確だった。同様の「妨害工作」の痕跡を探し出せ、というわけだ。
 これはとても神経をすり減らすテストだった。テストというものは、性善説に基づいて実施するものだ。つまり実装者が仕様をコードに変換する作業を、真面目に行ったことが前提になる。その上でバグがないか、仕様を誤解していないか、などを探していくわけだ。while(true) {} の中にbreak があれば、break に到達するように処理を分岐させているはず、という想定でテストを行うのが普通だ。たとえ到達しない条件を発見したとしても、テスターは「ああ、見落としたんだな」とは思っても、「わざと到達しないルーチンにしてやがる」とは考えない。よく「全てを疑え」というが、疑いを前提としたテストばかりやっていると心の荒廃度が日々拡大していくようだった。
 「まあ、念には念を入れたホワイトボックステストをやっていると割り切ればいいんだが」GW 明けの5 月10 日、ブレイクルームで東海林さんがぼやいた。「現に成果も出ていることだし」
 確かに再度の単体テストの結果、私たちは各コンテナについて、平均して4.7 個のバグを発見していた。さすがに致命的なバグではないが、軽微と言えるレベルでもない。ただ、いずれも結合テスト、総合テストの段階で発覚したのではないかと思われるものばかりだったから、それらのバグが悪意の元に意図的に混入されたものなのか、うっかりしただけなのかまでは判断ができなかった。「僕たちがやりました」とかコメントが残っているわけもないから、2 社の参加者たちの手が汚れている、とは断言できないのだ。
 「実は、本当にミスっちゃっただけじゃないんですか」
 疲れた顔でそう言ったのは、この再テスト作業に引きずりこんだ細川くんだ。今のところ、この件を知っているプログラマは、東海林さんと私、それに草場さんだけだ。再テストのチケットがアサインされていたのも、同じ顔ぶれだった。白川さんにしてみれば、他の参加者は信頼できなかったのだろう。それを3 人だけでは手に余る、と判断した東海林さんが、細川くんの保証人になる形で白川さんを説得したのだ。
 「だったらいいんだけどね」私は小さくため息をついた。「さっさと終わらせて、真っ当なコンテナ開発に戻りたいもんだわ」
 「エースシステムと関わると、ろくなことがないですね。ところで、本当にあの2 社がバグを作り込んでいるんだとしたら、その目的は何なんでしょう」
 私も東海林さんも答えなかったが、考えていることは同じだろう。マギ情報システム開発とFCC みなと開発が、こんなことをやっても1 円の利益にもならないのだから、誰かに依頼されて、もしくは命令されて、というのが一番筋が通る。
 「やっぱりQ-LIC ですかね」
 「他にないだろ」東海林さんがブラックコーヒーを飲みながら、忌々しそうに言った。「全く、エンジニアの風上にも置けん奴らだ。エンジニアですらないんだろうが」
 「システム会社じゃないですからね」
 「あいつら、最近、ちょっと図に乗ってやがるからな。おい」東海林さんは細川くんに言った。「あの話、してやれよ」
 それは、昨日の午後の出来事だった。私は、私用で早めに帰ったので知らなかったが、ちょっとした騒ぎがあったらしい。
 昨日の午後、細川くんに打ち合わせのチケットがアサインされた。図書館システムのコンテナで、利用者に対してアンケートを行う管理機能の一部だった。相手はくぬぎ市地域振興課の井ノ口課長だ。先日、私に地毛証明書の画像を<Q-FACE>に送信するよう要求した人だ。やはり弓削さんも同席していた。こちらからはサブリーダーの佐野さんが同行していた。
 仕様確認が終わった後、井ノ口課長は、管理機能に若干の機能追加をしたい、と言い出した。何、大した機能じゃない。集計したアンケートの回答内容を編集する機能が欲しいんだ。いや、当初の要件定義に含まれていないことはわかってるよ。そこを何とか頼めないかね。
 佐野さんはやる気なさそうに、私の一存では追加できません、と答えたが、井ノ口課長は執拗に迫った。私は顧客だ。顧客が要求しているんだ。顧客の要望をかなえることが君たちシステム屋の仕事じゃないのかね。
 私のときと同じ論法だ。相手が違えば成功するかもしれない、とでも思ったのだろうか。一戸さんは短い時間悩んだ末に白川さんに助けを求めたが、佐野さんの決断はもっと早かった。あるいは単に面倒になっただけだったのかもしれない。できません、を数回繰り返した後、あっさり席を立ち、唖然となった井ノ口課長と弓削さんを残して、さっさと開発センターに戻ってしまったのだ。細川くんは一言も発するチャンスがないまま、佐野さんに従うしかなかった。
 その直後、怒り心頭に発した井ノ口課長が、頭から湯気を立てながら開発センターに乗り込んできた。佐野さんにそのつもりがなくても、軽く扱われた、と思ったようだ。夕刻の開発センターに井ノ口課長の罵声が響きわたり、全員の作業がしばし中断した。
 白川さんは会議室の1 つで、タスクフォースのメンバーと打ち合わせ中だったが、騒ぎを聞きつけて飛び出してきた。井ノ口課長をフリースペースに誘い、佐野さんも呼んで、簡単に経緯の聞き取りを行った。事情を把握した後、白川さんは佐野さんを解放し、井ノ口課長に訊いた。アンケート結果データの操作については、フィルタリング機能などが充実しているし、不要データを削除することもできるが、なぜさらに編集機能が必要となるんでしょうか。井ノ口課長は答えた。市政に批判的な文言をアンケートに書いてくる奴がたまにいる、そんな意見を少しソフトな表現に書き換える必要があるんだ、削除だと全体の回答件数が変わってしまうからな。
 呆れた白川さんは、丁寧な言葉で拒否した。要件定義に含まれていないことだし、何よりも、そのような改修を加えることは、匿名のアンケートという本質を否定するものだ。そのしごく常識的な意見は、しかし、井ノ口課長には届かなかった。顧客の要望を拒否するのか、システム業者にすぎないお前らが何様になったつもりだ、と喚いた。
 騒ぎに驚いたタスクフォースのメンバーも顔を出し、井ノ口課長をなだめようとした。瀬端さんは、仕様を決める最終決定はタスクフォースにある、と正論を述べたが、井ノ口課長は納得するどころか、ますますいきり立った。タスクフォースのことを、妥協の産物だの、市長のエクスキューズにすぎないだの、近視眼的な考えしかできないだの、悪口を並べ立てた。白川さんとタスクフォースのメンバーが、筋道だった反論を諦め、白けたような沈黙で応じたところ、井ノ口課長はようやく気が済んだのか、失礼する、と吐き捨ててドアに向かった。
 鼻息も荒くID カードをリーダーに押し当て、そのまま足を踏み出した井ノ口課長は、閉ざされたままのドアにぶつかりそうになり、素っ頓狂な声を上げた。ちょうど休憩から戻ってきたプログラマを押しのけるように入ってしまったため入室記録がなく、APB が作動したのだ。井ノ口課長は唖然とした顔でセンター内を振り返った。その顔があまりにも滑稽だったためか、何人かが思わずクスクス笑い、井ノ口課長の怒りを再燃させることとなった。
 瀬端さんが小走りに入り口に向かい、自分のID カードでドアをスライドさせた。井ノ口課長は瀬端さんを睨み、礼も言わずに外に出たが、一緒に出た瀬端さんに捨て台詞を言って去っていった。大きな声ではなかったが、たまたまロッカー近くにいた細川くんの耳には届いた。
 「何て言ったの?」
 「あんたらもどっちに付いた方が後々有利か、よく考えた方がいいぞ、って」
 「どっちに付くか......」
 井ノ口課長が省略した固有名詞は、Q-LIC かエースシステムか、だろう。
 「Q-LIC のアドバイザリ契約はあと3年ぐらいで切れるわけよね」私は考えを口にした。「その後、再契約されるとは思えないから、普通に考えれば、Q-LIC と仲良くしても仕方ない気がするけどね」
 井ノ口課長こそ先が見えてない気がする。追加したがったアンケートの編集機能にしても、くぬぎ市の要望というよりは、Q-LIC に忖度したものだろう。くぬぎ市政への批判的意見の要因は、そのほとんどが前市長とQ-LIC にあるのだから。
 「Q-LIC に忠誠を尽くしておけば、天下り先を世話してもらえるとでも思ってるんじゃないのか」東海林さんが毒のある言葉を吐いた。「前の市長が悪しき前例を作ったせいだな、これも」
 「そういうことですかね」
 私は同意したが、どこか釈然としない思いは残った。陰で根回しをするならわかるが、タスクフォースのメンバーの前で公然とQ-LIC に荷担する行動を取るには、それなりの理由があるのではないか、と気になったのだ。
 その疑問に対して、間接的な解答が得られたのは、翌週だった。
 5 月19 日、金曜日。いつものようにブレイクルームでランチを終えた私が開発ルームに戻ると、モニタに見入っていた細川くんが顔を上げた。
 「川嶋さん、Q-LIC 図書館のことがニュースになってますよ」
 「なに、また何かやらかしたの?」
 笑いながら言ったが、Yahoo! ニュースに上がっている記事を見て驚いた。

 Q-LIC 図書館、次々とオープン

 レンタル・映像配信大手のQ-LIC が、2 年後にオープンを予定している愛知県新城市の市立中央図書館の運営を担う指定管理者に決定した。また、数年後にオープン、または改装を予定している静岡県下田市、鳥取県米子市、新潟県十日町市の各市立図書館も指定管理者の最終選考過程に入っており、いずれもQ-LIC が有力だと見られている。
 Q-LIC は20xx 年に神奈川県くぬぎ市の市立図書館の指定管理者に選ばれ、ICT 先進都市を宣言した同市の市政アドバイザリも兼任している。くぬぎ市立図書館は、リニューアルオープン直後は独自の分類方法などに不満の声が上がったものの、その後改善され、くぬぎ市民からも好評を得ている。
 新城市選定委員会の田中委員長は「Q-LIC は山に囲まれた新城市の特性を生かし、単なる図書館に留まらず、新たな滞在型施設としての地域活性化につながる提案をしてくれた」と、Q-LIC を選定した理由を語った。
 Q-LIC の広報室によれば、新城市立中央図書館は5 階建ての複合施設になる予定で、2 階から4 階が図書館となり、1 階にはクリックブックスやカフェの他、スーパーなどを誘致する。5 階には子どもが遊べる遊具スペースや、ドッグランスペースを作る予定......

 「この記者」細川くんが呆れたように言った。「ネットを使えないんですかね」
 私は頷いた。今でもネット上には、くぬぎ市問題クラスタがQ-LIC に対して批判の声を上げ続けている。全てが正確な事実を述べているとは思わないが、それだけの声が上がっていること自体が何かを物語っている、と考えるのが普通だろうに。
 すると東海林さんが苦笑した。
 「Q-LIC がそれぐらい考えてないわけないだろう。これ、見てみろよ」
 私と細川くんは立ち上がると、東海林さんのPC のモニタを覗き込んだ。Google の検索結果の一覧だが、検索結果の一番下にこんな文章が表示されている。

 米国のデジタル ミレニアム著作権法に基づいたクレームに応じ、このページから5 件の検索結果を除外しました。ご希望の場合は、LumenDatabase.org にて除外するに至った DMCA クレームを確認できます。

 「これがウワサのDMCA ですか」
 「そう。前から悪い評判を隠すのに使われることが多かったんだが、これなんか悪用の例として教科書に載せてもいいぐらいだな」
 「そのリンク」細川くんが、"DMCA クレームを確認"の部分を指した。「クリックするとどうなるんですか?」

 東海林さんはやってみせた。www.lumendatabase.org のページが開き、DMCA (Copyright) Complaint to Google の項目がずらりと並んでいる。

DMCA (Copyright) Complaint to Google
April 14, 20xx Q-LIC ->> Google Inc.
クオリティ・ライフスタイル・イノベーション・カンパニー
下記URLは、弊社の商標物を無断引用しています。 http://www.xxxx.com/20xx/03/179131.html Q-LIC という会社のロゴ 弊社のプレスリリース文章の無断引用
DMCA NOTICES, COPYRIGHT

DMCA (Copyright) Complaint to Google
April 19, 20xx Q-LIC ->> Google Inc.
クオリティ・ライフスタイル・イノベーション・カンパニー
下記URLサイトが弊社の著作物であるサイトのスクリーンショットを、無断引用しています。 サイトURL→http://hogauyyy.dot.jp/topics/213746460463
DMCA NOTICES, COPYRIGHT

DMCA (Copyright) Complaint to Google
June 2, 20xx Q-LIC ->> Google Inc.
クオリティ・ライフスタイル・イノベーション・カンパニー
下記URLには弊社のHPおよびプレスリリースからの無断転用が多数存在します。 https://ice-two-mink.lion-heart.jp/?p=44
DMCA NOTICES, COPYRIGHT

 「こうやって」東海林さんはマウスを放り出して、頭の後ろで手を組んだ。「悪い評判を書いてるサイトを、片っ端からつぶしていくわけだ。もちろん元のサイトが消えたわけじゃないから、直リンクを知ってれば参照できるんだが。普通、何か調べようと思ったら、まずググるわけだからな。Google とTwitter を抑えておけば、一時的には人目に触れないようにできる」
 「そんな手が」細川くんは怒るより先に感心してしまったようだ。「じゃあ、いわゆるデジタルタトゥーも消せるんですね」
 「お前、何か、恥ずかしい過去でもあるのか」
 「いえいえ」細川くんは慌てて手を振り回した。「ないですよ、そんなの。でも、これ、ずっと消えたままですか?」
 「Google に異議申し立てを行えば復活するケースもあるみたいだな。もちろん、明確な著作権法違反の場合は戻らないが。おそらくだが、Q-LIC はこれらの図書館へ提案する期間だけ、ヤバそうな記事にDMCA 申請したんだろうな」
 東海林さんはブラウザの戻るボタンで、元の記事に戻した。
 「問題なのはここだな」
 そう言いながら、マウスカーソルで記事の末尾をくるっと囲んだ。

 また、Q-LIC は図書館運営および地方自治体ICT サポート事業拡大にともない、広く人材を求めていく考えも表明していて、今年度下期にも事業に特化した子会社を設立する予定だ。新会社の社長には、小牟田マサヒロ前くぬぎ市長が就任することが内定している。

 なるほど、井ノ口課長の強気の源はこれか。ここでQ-LIC に利益誘導した実績を残しておけば、新会社とやらに引っ張ってもらえる、との目算だろう。
 これでくぬぎ市役所内で息を潜めていた親Q-LIC 派閥の動きが活発になるのか。そう思うと少々うんざりした。Q-LIC に有利な機能追加や改修を要求してくるに違いない。
 「さて仕事に戻るか」
 東海林さんはブラウザをグループウェアに切り替え、私たちも自席に戻った。
 私たちが「うんざりした」程度の感想しか持たなかったのは、Q-LIC が暗躍し、井ノ口課長やその同類が騒ぎ立てようとも、最終的には白川さんがセーフティネットになってくれると安心していたからだ。タスクフォースのメンバーも白川さんに味方することは確実だろう。
 だが、私たちは、ある人物の存在を失念していた。ほとんど開発センターに顔を出したことがないが、強大な力を有していて、しかもそれを行使するのに躊躇いを持たない人だ。
 5 月 25日、木曜日の朝。私は東海林さんの車に同乗して出勤した。開発センターに入ると、細川くんのデスクの横に草場さんが立って何か話しているのが見えた。私たちの姿を見ると、細川くんは慌てたように立ち上がり、挨拶も省略して焦った口調で言った。
 「すいません。すぐ、第5 会議室で打ち合わせです」
 「え、あたし?」私はジャケットを脱ぎながら首を傾げた。「何かあったっけ」
 「そうじゃなくて呼び出しです。ぼくと川嶋さん、草場さんも」
 「誰が呼んでるの」
 「白川さんがさっき呼びに来ました」
 「あ、そう」私は草場さんを見た。「何でしょうか」
 「わかりません」草場さんも困惑している。「とにかく行きましょう」
 第5 会議室に入ると、白川さんの他に、ビジネススーツで長身の女性が座っていた。エースシステムの上級SE、高杉さんだ。白川さんは無表情だったが、高杉さんは何かに怒っているような顔だった。
 「座ってください」高杉さんは私たちに言った。「いくつか訊きたいことがあって呼びました」
 私は不安がこみ上げてくるのを感じながら座った。高杉さんから一番遠い席を選んだのは無意識のうちに回避行動を取ったためかもしれない。
 「まず草場さん」高杉さんは手元のタブレットを見ながら言った。「4 月14 日、くぬぎ市地域振興課の井ノ口課長との打ち合わせに参加しましたね。同席したのは新美サブリーダー。対象のコンテナは、図書館システムの貸出記録抽出機能。間違いありませんか?」
 「はい」草場さんは首肯した。「日付までは思い出せませんが、そのコンテナの打ち合わせには参加しました」
 高杉さんは小さく頷くと、その視線を私に向けた。
 「川嶋さん。3 月21 日、同じく井ノ口課長との打ち合わせに参加。同席は一戸サブリーダー。コンテナは学校情報システムから<Q-FACE>へのデータ転送機能。間違いありませんね」
 「はい」私は頷いた。
 「細川さん。今月の9 日、同じく井ノ口課長との打ち合わせに参加。同席は佐野サブリーダー。コンテナはアンケート抽出機能。間違いありませんか?」
 細川くんが頷くと、高杉さんは私たちをジロリと睨んだ。
 「そのとき井ノ口課長から、追加機能の要望があり、最終的に白川が却下した。これは間違いありませんか」
 私たちはまた頷いた。白川さんの表情には、まだ変化がない。
 「白川」高杉さんは部下に厳しい声を浴びせた。「あなたは今回のプロジェクトの基本方針をよく知っているはずね。追加要望は可能な限り受ける。多少のコストオーバーより、顧客満足度を上げることを優先する。それなのに、なぜ、井ノ口課長からの機能追加要望を拒否したのですか」
 白川さんは顔を上げて高杉さんを正面から見据えた。
 「追加要望の内容から、Q-LIC への利益誘導が明確であり、くぬぎ市再生プロジェクトの基本理念に反すると考えられたからです。つまりくぬぎ市民への裏切り行為です」
 「白川」高杉さんは小さくため息をつき、頭を左右に軽く振った。「何を子どものようなことを言っているの。このプロジェクトの顧客はくぬぎ市民ではなく、くぬぎ市です。そのくぬぎ市の役職者が正式な要請として挙げた機能追加を、PL の一存で却下するとは何事ですか」
 「高杉さんに伺いを立てるまでもないと思いました」白川さんの声に熱がこもった。「だって、どう考えても......」
 「ああ、もうよろしい」高杉さんは苛立たしげに、白川さんの言葉を遮った。「私は先ほど井ノ口課長に連絡を取り、要望された機能追加を全て受けることを伝えました」
 白川さんはガタンと音を立てて腰を浮かせた。
 「そんな......」
 「白川、あなたにはPL として責任を持って、井ノ口課長からの機能追加を実現することを期待します。よろしいでしょうね」
 「納得できません」
 「誤解しないで」高杉さんは冷たい声で言った。「あなたはPL で、私はPM なの。私が戦略を立てる。それを実現する戦術を計画し、実行し、成功に導くのがあなたの仕事よ。今回の追加機能は、私が私の判断で受けると決定しました。あなたにその是非を問うた覚えはない」
 「......」
 「あなたは上級SE を目指しているんでしょう。だったら、憶えておきなさい。エースシステムの上級SE には、一部上場企業の事業部長クラスに匹敵する権限と責任がある。その目的は会社に利益をもたらすことに尽きます。そのためには、自分が納得していない業務でも、コンプライアンスに反しない限り、実行する必要があるのです。確かに井ノ口課長の要求は、社会通念上、首を傾げるものかもしれませんが、それは私たちが負うべき責任ではありません」
 「それでいいんでしょうか」白川さんの声は、これまで聞いたことがないほど弱々しかった。「私たちには、システム屋の責任というものがあるのではないですか」
 「もちろん責任はあります。エースシステムは日本でも屈指のSIer で、日本のIT 業界を牽引する役割が期待されているのです。このプロジェクトを成功させるのが、私たちの責任です」
 高杉さんは少し口調を和らげた。
 「このプロジェクトを成功裏に完了させれば、あなたの上級SE への道が開けます。次の選考会議でも、私はあなたを強力に推薦するつもりです。わかりますね」
 そう言うと、高杉さんはカルティエの時計を見ながら立ち上がった。
 「私は本社に戻らなければなりません。みなさん、ご足労かけました。仕事に戻ってください。それでは」
 高杉さんはカバンを掴むと、颯爽と会議室を出て行った。私たちはその後ろ姿を見送った後、おそるおそる白川さんを振り返った。白川さんが落ち込んでいたとしても、それはとても短時間だったようだ。私たちを見たその顔には、いつもの熱意が蘇っていた。
 「全く大人になんかなるもんじゃないですね」白川さんは笑みを見せた。「自分がやりたくないこともやらなきゃならない。すみませんでした。作業に戻ってください」
 私たちは会議室を出て、それぞれの自席に戻った。高杉さんの姿はすでになかった。
 「何だったんだ?」東海林さんが訊いた。
 細川くんと草場さんが簡単に事情を説明している間、私は白川さんの姿を目で追っていた。白川さんはエース席に立ち寄って、サブリーダーの何人かに短く指示を与えた後、しっかりした足取りでコマンドルームに入っていった。
 その数秒後、閉ざされたドアの向こうから、何かの破壊音が聞こえてきた。続いてもう1 度。コマンドルームはD-50 の遮音になっている。それを通り抜けてきたぐらいだから、室内で響いた音はもっと大きいはずだ。
 私たちが顔を見合わせていると、コマンドルームのドアが開き、落ち着いた表情の白川さんが姿を現した。白川さんはエース社員の一人を呼んだ。
 「すまないけど」子どもが悪戯を報告するような顔で白川さんは言った。「予備のモニタを2 台持って来て設置して。ちょっと壊しちゃって。私は打ち合わせに行ってくるから」
 白川さんが開発ルームを出て行った後、2 人のエース社員がコマンドルームから、中央で真っ二つに割られた23 インチモニタを2 台運び出していた。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(36)

コメント

匿名

キレ方、こわ!

もっこす

白川さん怖え…(´∀`; )
高杉さんが大人しすぎると思いましたが、なんとなく力関係が見えてきて、これからの活躍(笑)が楽しみですね。


ところで、iPhoneのSafariでスマホ版を読もうとすると、本文中の新聞記事や引用部が画面の水平方向にはみ出てしまいます。
viewportが固定されているためか横スクロールもできず、はみ出た部分を読む事ができませんでした。ご報告まで。

のり&はる

「中央で真っ二つ」「中央で真っ二つ」((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

匿名

「白川」高杉は部下に厳しい声を浴びせた。

ここだけ「さん」が抜けています

ドSマニア

高杉さんと白川さんの会話、つまり同じ会社の上司と部下の会話で、内容も注意というか叱責なのだから呼び捨てでも構わないかと
その他の台詞も全部呼び捨てだしね

Dai

> 陰で根回しをする
ちょっとニュアンスが違うような 「暗躍」とか「策動」あたりでは?

>くぬぎ市市立図書館
>新城市立中央図書館
「市」をダブらせない後者が一般的?

Dai

連投すいません

>間違いないありませんか

匿名

胸のあたりがもしゃもしゃしますね

公英

昨年のこの時期は、飛田が盛り返すかと思った翌週に長谷川が変貌して、胃袋を麻縄でぎゅうぎゅう縛られたような心持ちで年越しを迎えたのを思い出しました。
白川さんは超人だった分、俗人らしく感情を爆発させてくれたことに場違いに安心してしまったんですが…翌週が恐ろしい…

3STR

>このプロジェクトの顧客はくぬぎ市民ではなく、くぬぎ市です。

この場合タスクフォースが顧客なんじゃないのかな…
そんな抜け道要望受け続けたらどんな仕様組んでもたやすく破たんしそうだけど

匿名

高杉さんの態度は、会社の歯車としては間違ってはいません。
しかし「正しい」という表現を使いたくはないですねえ。
それにしても、高杉さんが会社を、そして高級SEという自分の椅子を、
とてもとてもとても愛しているのはビシビシと伝わってきます。


逆にだからこそ、万引き冤罪やいじめを、
自分の領分ではないとスルーできるんでしょうね。


白川さんを応援したいのは山々ですが、
はてさて、何もかも背負い込むわけにも行かないし。
何より、誰しも子供のままで入られませんからねえ。
難しいところです。

kzht

Safariだと四角で囲んであらところの右側に見えない箇所があります。

匿名

破壊音わらった

匿名

androidのchromeで読むと、引用の体のところが右に切れて読め無いです。

pc版サイトで見るは問題ないのですが。

ちょい呑み

モニタを真っ二つ。。。
やっぱり白川さんは人ならざる者なのかしら。

匿名

第1話でコードがグチャグチャになってて白川さんが居ないってことは、これはもう白川さんが直々にデータセンターを物理的に真っ二つにしてる最中だからでしょう

VBA使い

キーボードだったら低コストで壊し甲斐があるのに。
さすがの白川さんもそこまで頭が回らなかったですか。

匿名

来週も誰かキレてほしいw
キレるとしたら誰だろ

匿名

まさか破壊工作の容疑者リストに白川さんの名前を載せることになるとは……

匿名

白川さん怖いw

匿名

Q-LICの破壊工作で白川さんが消されたか。
白川さんがキレてシステムを破壊したか。
はたしてどうやって第1話に繋がるのか...
月曜日が楽しみです。

KBC

>VBA使いさん

タピオカパンを食べながらイスラエルにトルネードスピンしつつ
「天皇陛下バンザァァァァイ!!!!」と絶叫する白川女史の姿を想像して変な笑いが出そうになった。

劇中の描写を見る限り、白川女史は26インチモニタ×2をそれぞれ一撃で(しかもおそらくは武器や凶器の類を利用せずに)粉砕してるあたり、
Press Enter シリーズのリアルファイト最強の一角に食い込んでるんじゃないだろうか。
もしかして、第一話で彼女が姿を見せなかったのも、プログラム言語(物理)を繰り出したのが原因なんj(compile error!

ねざーど

東海林さんと白川さんのダブルコンボで吹きそうになったじゃないですか(笑)
でもこの時の高杉さんはまだQ-LIC容認派なんですね。一話とどう繋がるのだろうか?

そして何も罪もない23型モニタに魔の手が。
お前に落ち度はない。そこにいたのが悪かったんだ。

サルーン

ああ、今回も読んでて順調に胃が痛い

リーベルG

匿名さん、Dai さん、ご指摘ありがとうございました。

囲みの部分、修正してみました。
どうでしょう、スマホで閲覧していただいたみなさん。

匿名

リーベルさんはテキストだけでなくてcssも書いてるのかしら

リーベルG

匿名さん、どうも。
基本、テキストだけなんですが、今回のような囲みなどの場合は、直接HTML 編集したりします。

通りすがり

白川さんって空手の達人か何かかw

匿名

リーベルGさん、キレた日3連発期待しています。
それにしても白川さんの攻撃力はどうなってるのか
Zの群れと戦っても圧倒できそうだな

fksk

男性上司でしたが、電話口でブチ切れてオフィスフォンの受話器をCRTに叩きつけ、すごい音とともにCRTの画面が割れたのをみたことがあります。
本体ごと割れるとは液晶はまだまだですね。

匿名

スマホ版は、少なくともiPhoneならば横長に表示すれば全部が見られますよ。

へにょぽん

この高杉さんのセリフを録音して、問題が起きた時に聞かせてやりたい...

匿名

いつも楽しく読ませていただいています。
荷担→加担、でしょうか?
荷担は古い表記、加担は現代的な表記らしいですね。意識的に書かれているかは分かりませんが。。

user-key.

歯をへし折られた前例は有りそうだぁ。。。

Ren.

筋肉は全てを解決する。タフすぎて そんはない。我々エンジニアに重要な示唆が秘められている回ではなかろうか。
嗚呼、白川さんがQ-LIC派閥を物理的に真っ二つにしておけばその後の被害は防げたんだろうなあ……。
それにしても高杉さん、この案件はエースとQ-LICのメンツ対決の側面もあるんだから、諾々と横槍丸呑みってのは風下に立ったも同然なので会社の利益にはならないんじゃないかなぁ。

じっじ

こういう時のモヤモヤした、スッキリしない気持ちって、何回経験しても慣れない。多分ストレスってやつなんだろうけど、ストレスじゃないって自分に言い聞かせて仕事してます。

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