星野アツコのプログラミングなクリスマス (2)
モニタールームのさらに奧は、広い窓と明るい照明のカフェテリアのような空間になっていた。ティーサーバーとスナックなどが置かれている。アツコと東海林を窓際の席に案内した佐藤は「よかったら自由に飲み食いしてください」と言い、自分はポットからコーヒーを注いだ。
アツコは何か口に入れるような気分ではなかったが、神経を鎮静させるために、暖かいほうじ茶を選んだ。東海林はコーヒーを断ると、スナック類の中からミントガムを取って3 粒ほどまとめて口の中に放り込んだ。
「さてと」佐藤はコーヒーをすすると切り出した。「いろいろ訊きたいこともあると思いますが、まずはこちらの話を聞いていただいてもよろしいでしょうか」
アツコと東海林は顔を見合わせて頷いた。
「お願いします」
「星野さん、エヴェレットの多世界解釈をご存じですか」
いきなり意味不明の言葉をぶつけられてアツコは戸惑った。
「いえ」
「東海林さんはどうですか?」
「多世界解釈......」東海林は眉間にしわを寄せた。「量子論の?」
「そうです。まあ、詳しいことが知りたければ量子論の本なりサイトなりを見てもらうとして、簡単に言えば、この宇宙と同じような宇宙がいくつも存在している、という説です。並行世界と呼んだりしますね。流行の異世界ファンタジーを思い浮かべていただくといいかもしれません」
その言葉はアツコに向けられていた。アツコは「はあ」と頷くことしかできない。
「どう思われますか」
「どうと言われても」アツコは肩をすくめた。「そうですか、としか」
「ですよね。では、別の話をします。有史以前、この地球は別の種によって支配されていた、という話があります。これはどうでしょう?」
「......えーと」アツコは真面目に答えるべきなのか、笑い飛ばすべきなのか判断に迷った末に、思いつきで適当に答えた。「アトランティスみたいな?」
「アトランティスは」佐藤は真面目に応じた。「また面白い話があるんですが、それは別の機会に。人類ではない種族です」
「知りません。その話は一体......」
佐藤は、両手を軽く上げてアツコの怒り混じりの言葉を遮った。
「私のことをオカルトマニアか何かだと思っているのかもしれませんが、もう少し我慢して聞いてください」
それから語られた話は、リアリストでハリー・ポッターの物語世界にさえ、いちいち合理性を求めてしまうアツコにとっては、荒唐無稽以外のなにものでもなかった。佐藤によれば、数万年から数十万年前、地球を支配していたのは人間とは別の種族だったという。彼らがどのような姿形で、どんな文明を築いていたのか、それはもはや知りようがない。わかっている、というか、想像されているのは、人間のような単一の種族ではなく、複数の種族がいたということだ。地球土着の種ではなく、異星から移住してきたのかもしれないが、それも定かではない......
そこまで聞いたところで、耐えきれなくなったアツコは手を挙げて遮った。
「もう帰っていいですか?」アツコは冷たく言った。「私は仕事をしにきたんであって、そんな妄想を聞きにきたんではないので」
「まあ、星野さん」東海林が腕組みをしながら言った。「帰るのはいつでもできます。もう少しだけ話を聞いてみましょう」
アツコが席を立たなかったのは、その言葉に説得されたためではない。先ほどの映像に対する合理的な説明を聞かなければ、この先ずっと「あれは何だったのか」という問いに悩まされ続けることになる、ということに気付いたためだ。何事につけ、説明不足のまま放置されるほど、アツコを苛立たせることはない。
「わかりました。続けてください」
「やがてあるとき」佐藤は何事もなかったかのように続けた。「戦争が勃発しました。我々の戦争とは概念が違っていたかもしれませんが、とにかく種族間で争いが始まりました。長い戦いの末、一方が勝利し地球の永住権を獲得しました。負けた方がどうなったかというと、滅ぼされたり捕虜となったりしたのではなく、追放されたんです」
「どこへ?」
「むしろ、どこから、が重要です」佐藤は理解度を確かめるように、アツコの顔をじっと見つめた。「この宇宙からです。超科学か超能力か魔法か呪術かわかりませんが、この世界をコピーして、そこに負けた種族を放りこみ、この宇宙と切り離してしまったんです。そもそも死という概念がない種族だったので、滅ぼすという手段が取れなかったのかもしれません。この種族を我々は<旧支配者>と呼んでいます」
「ちょっと待った」東海林が考えながら言った。「記憶が正しければ、多世界解釈というのは、量子論の観測問題に対する解釈の1 つで、何かのタイミングで世界が分裂していくという考えじゃなかったでしたか?」
「そうです。有名なシュレディンガーの猫を例にすると、古典的なコペンハーゲン解釈では、観測するまで、つまり波動関数が収束するまでは猫は『半分生きていて、半分死んでいる』というゾンビみたいな状態にいると考えられます。一方、多世界解釈では『猫が生きている世界』と『猫が死んでいる世界』の両方が存在することになる。さっき話した戦争の勝者となった種族を、我々は<旧神>と呼んでいます。彼らは世界を任意のタイミングで分裂させ、特定の要素、つまり<旧支配者>だけをコピーではなくムーブすることができたのではないかと思われます。ただ、慌てていたのか、まだ未完成の技術だったのか、そのときにミスをしました」
「ミス?」
「二つの世界が完全に分離されず、量子もつれ状態が、無数のポイントに残ってしまったんです」
量子もつれ? アツコがそれは何かと訊こうとしたとき、佐藤に機先を制された。
「量子もつれが何かを説明し出すと数時間ではきかないので、仕事が終わった後、ご自分で調べてください。今は、二つの世界を結ぶリモートアクセスポイントが残ってしまったと想像してもらえばOK です」
「リレーションが残ってしまった、というわけですか」
アツコよりは話の内容について行っているらしい東海林が言い、佐藤は頷いた。
「それでも特に問題はありませんでした。リレーションといっても、ネットがつながっているようなもので、物理的にトンネルが通っているというわけではないので。ところが21 世紀になって間もなく、侵略が始まったんです」
アツコは先ほど目撃した鋭い爪の生えた手と、粘液に覆われた触手を思い出した。
「さっきの変なのですか?」
「そうです。あれは我々がSW――separated world と呼ぶあちら側の世界に住む、生物の一種です。ナイトゴーントと呼称しています」
「物理的につながってないなら」東海林が訊いた。「どうやって」
「情報です」
「というと?」
「私たちがメールを送ったりツイートしたりするとき、手元の端末から物理的な活字を送っているわけではなく、データとしての文字情報を送りますね。受け取った側では、それを再構成します。それと同じで、あっちの世界から生物の情報だけを送り込んでいるんです。本社から工場に設計図をデータ転送するイメージですね。工場側では設計図に基づいて製品を作ります」
「こちら側に工場があると?」
「ないですよ。SW 側からリモートで操作して組み立ててるんです」
「それでどう......」東海林が首を傾げたが、すぐに何かを思いついてたような顔になった。「ああ、量子もつれですか」
佐藤はサムズアップして頷いた。
「すいません」アツコは手を挙げた。「全くついていけてません」
「あまり時間がないので」佐藤は時計をちらりと見た。「簡単に言うと、重なりあった状態になった2 つの粒子があり、片方をボブがここで持っていて、もう片方をアリスが持って遠く離れた場所に移動したとします。1 キロでも100 キロでも数光年でも構いません。このときボブが手元の粒子の状態を変化させると、対になる変化が同時にアリスの持つ粒子にも起こるんです。どうやら、SW では量子力学がこちらの世界より進んでいるらしい。こちらでは粒子単位での実験で結果が確認された程度なのに、SW ではかなり自由にコントロールできているので。わかります?」
「......わかったとは言い難いですが」アツコは理解を諦めた。「いいです。後でネットで調べてみます。で、私たちが作ったプログラムと、その何とかもつれが、どう関わってくるんですか?」
「我々は、進歩したSW 側の技術のいくつかを盗み、研究し、独自の改良を加えてきました。その目的は、侵略に対する反撃です。とはいえ、こちらからSW に逆侵攻するようなことはまだ不可能です。できることは、アクティブになった量子もつれポイントを崩壊させるだけです」
「さっきのグリッド状のあれ?」
「あれです。詳しい技術詳細は機密なので話せませんが、特殊なコンパイラを通して最適化された中間言語を作成します。これは通常のJIT コンパイラに渡しても何も起きませんが、専用にカスタマイズされた量子コンピュータで実行することで、量子もつれポイントの破壊プロセスを作動させることができます」
「量子コンピュータ?」東海林が疑わしい表情を浮かべた。「まだ実用化には、ほど遠いと思ってましたが」
「一般的な意味ではそうです。つまり素因数分解を可能にするような高速コンピュータとしては。しかし、量子もつれ破壊に特化したものはあるんです。ほとんどはSW 側から盗んだ技術です。原理が理解できているか、と言われるとできていません。ただ重要なのは、それが使用できる、ということです」
「もしかして、あの変なコーディング制約は......」
「そう、コンパイラそのものの制約です」佐藤は頷いた。「コンパイラもSW 技術に依存しているので。特定のメソッドを通しているのも同じです。原理はまだ解明できていないのですが、一定の手順を踏んでメソッドを実行すると、目的の中間言語が作成できることがわかっているので。いろんなプログラムを作ってもらっているのは、量子もつれポイントによって、作用する方法が異なるためです」
「人間がプログラミングする意味は?」東海林が訊いた。「もらった仕様は、面倒ではありましたが、やり方がわかればコーディングは簡単です。自動プログラミングできそうじゃないですか」
「それも解明できていない問題の一つです。自動プログラミングは試したのですが、どうしてもコンパイルが通らないんです。観測問題が絡んでいるんじゃないかと思われるんですが」
アツコは冷めてしまったほうじ茶を飲んで、混乱した精神を沈静させようとした。短時間に一気に叩き込まれた情報で、脳細胞が飽和状態だ。
「何だか、みんなグルで、ドッキリを仕掛けられているような」アツコは紙コップを両手で包んだ。「もっとも私なんかにそんなことして、何の得があるんだかわかりませんけど」
「長年の研究と試行錯誤の成果で」佐藤はコーヒーを飲み干した。「どの量子もつれポイントが、いつ、どこでアクティブになるかを、ある程度予測できるようになっています。その規模も。大抵はナイトゴーントみたいな雑魚が侵入してくるだけですが、たまに巨大なポイントがアクティブになることもあります。今回、急な募集をかけたのは、近々、かなり大きなポイントがアクティブになるというアラートが上がったからです。大きなポイントを崩壊させるには、多重にロジックを組み込んだ攻撃プログラムが必要なんですよ。言い換えると、プログラミングを行う手が必要になるということです」
「いつ、どこでですか?」
「それはまだお話できません。これも観測問題が絡むんですが、多くの人間がその情報を知覚すると、量子もつれポイントの性質が変化したりするので。ただ、今回はナイトゴーントみたいな雑魚ではなく、<旧支配者>のうちの一体、または直属の<従者>であると予測されます」
「それはどんなものなんですか?」
佐藤はかぶりを振った。
「誰も知りません。おそらくゴジラみたいに巨大で、想像を絶するようなパワーの持ち主でしょう」
「それを阻止できないとどうなるんですか?」
「人が死にます」佐藤は真剣な眼差しでアツコと東海林を見た。「大量に、数千人単位で。それだけではなく、完全に量子もつれポイントが完全にオープンして固定されると、そこを橋頭堡として、SW から大軍が送り込まれてくる可能性があるんですよ。そんなことになったら、種の存亡を賭けた全面戦争です。我々の責任は重大です」
アツコと東海林は顔を見合わせた。
「もし失敗したら?」
「我々が阻止に失敗した場合の保険も一応かけてあります」佐藤は安心させるように微笑んだ。「今は言えませんが」
アツコは、ふと思い出して訊いた。
「さっきの人、あの荷物を下ろしていた人ですけど」
「はい?」
「ナイト何とかを目撃したわけですよね。騒ぎになったりしないんですか?」
佐藤は面白そうな顔でアツコを見た。
「いい質問ですね。まず物理的な証拠は何も残っていませんから、誰かに話したとしても、せいぜい何かの動物を見間違えたんだろう、ぐらいにしかなりません」
「たまたま複数の人が見ていたとか、写真や動画をSNS にアップするとか......」
「それも対応済みです。さっき話した量子コンピュータを使うんですが、簡単に言えば特定の事象をなかったことにできるんです」
「まさか」
冗談を言っているのかと、アツコは佐藤の顔を見たが、そこには真面目な表情があるだけだった。
「どんな技術で?」
「それを理解するには量子論の基礎知識が必要だし、説明にも時間もかかります。あえて簡略化して言うなら、何も起こらなかった他の世界の一部と、この世界の一部を交換するんですが、アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスにおける非局所性を利用することで......」
「すいません。もういいです」
そのとき、ドアが開いて、戸川が顔を覗かせた。
「佐藤さん」戸川は焦った顔で言った。「すいません、ちょっと」
「ああ、今行く」佐藤は立ち上がった。「適当に休憩したら、次のプログラムをお願いします」
佐藤はカップを潰してゴミ箱に放り込むと、急ぎ足で出て行った。
「どう思います?」アツコは東海林に訊いた。「これ、何かの冗談?」
「どうかな」東海林は面白そうな顔で答えた。「さっきの映像は?」
「CG とか」
「あれぐらいの映像は、今どき作るのは難しくないですね。でも、さっき星野さんが言った疑問は残ります。こんなことして何の得があるのか」
「ですよね。それはそうと」アツコは思い出したことを訊いた。「東海林さん、以前にどこかでお目にかかりました?」
「初対面のはずですが......」東海林も首を傾げた。「私も何となく見覚えがある気がするんですよ。結婚してからは合コンにも街コンにも行ってないんですが」
「仕事関係でしょうね」アツコは笑った。「どちらにお勤めですか?」
「横浜市内のサードアイという会社です」
「ああ」アツコは手を打った。「川嶋ミナコさんのいるところですか。以前に、K自動車の案件で常駐したとき一緒に仕事しました」
「なるほど」東海林も頷いた。「そういえば、川嶋から話を聞いたことがある気がします。ずっとフリーランサーでやってらっしゃるんですよね」
「ええ。川嶋さん、お元気ですか?」
東海林が答えようとしたとき、ドアの向こうから大声が聞こえてきた。アツコと東海林は顔を見合わせ立ち上がった。
開発ルームに戻ると、佐藤と戸川が、室内にいた3 人のプログラマと向かい合っていた。いずれも若い男女で、困った顔の佐藤に詰め寄っている。
「とにかく明日は休ませてもらいますよ」一人が言った。「ライブがあるんで」
「自分勝手だろうが」戸川が怒鳴った。「自分の仕事をちゃんとやれよ! シフトはあらかじめ調整してるじゃないか」
「知るか」男の一人が嘲るように言った。「有休だよ。労働者の権利だ」
「何とかならないかな」佐藤は冷静に応じた。「半日だけでもいい」
「でもイブですよ」髪を赤く染めた女性プログラマが言った。「予定があるって言ったのに、強引にシフトに押し込んだのはそっちじゃないですか」
「助っ人もいることだし」太った男が、アツコと東海林の方をちらりと見た。「お任せしていいんじゃないですかね。優秀な方たちみたいだし」
「時給のことなら......」佐藤が言いかけた。
「そういうことじゃないんだよ」最初の男が遮った。「何も教えてもらえないまま、つまらないプログラムを延々と作らされるのは、もうごめんなんですよ」
どうやら元からいるプログラマたちは、さっきアツコたちに知らされた情報を、何も与えられていないらしい。
「わかった」佐藤は穏やかに頷いた。「少し考えさせてくれ。できるだけ希望に沿えるようにする。とにかく仕事に戻ってくれ」
プログラマたちは、ブツブツ言いながらもそれぞれの席に戻っていった。佐藤はため息をつくと、アツコたちの方へ歩いてきた。
「お騒がせしました」佐藤は小声で言った。「彼らにはSW のことを教えていないので。どうも機密保持に疑問があって。それにしても困りました。星野さん、24 日の昼まで、ということでしたが、もう少し何とかなりませんか?」
「なりません」アツコは冷たく答えた。
「横浜市の危機なんですがね。さっきの見たでしょう?」
「まだ信じたわけじゃありません。CG かも知れないし。それに明日は......」
アツコがさらに断りの言葉を続けようとしたとき、不意に開発ルーム中に、けたたましい警報音が鳴り響いた。部屋の四隅に設置されていた緊急灯が、赤と青の光を点滅させ始める。
「まずい」佐藤が飛び上がった。「侵入だ! 戸川、座標は!」
「今、出ました!」戸川が叫び返した。「ピンポイントでここに来ます」
「即応プログラムを全部ロードしろ!」佐藤は叫びながら、モニタールームに走っていった。
アツコと東海林も後に続こうとしたが、背後から別の音が聞こえてきたので、揃って振り返った。金属を引っ掻くような音だ。
東海林が息を呑んだ。開発ルームの天井に、さっき見たグリッドが出現している。
「おい、逃げろ!」
戸川が叫んだ。相手はさっきのプログラマたちだ。プログラマたちは、うろたえながらも立ち上がった。火事か何かだと思ったのだろう。どこが火元なのかを探すように、キョロキョロしている。
「早く出ろ!」
戸川がもう一度叫んだとき、グリッドから太い触手が飛び出した。さっきの映像のように周囲を探る様子ではなく、すでに目標を定めているようなスピードだ。その先には、太ったプログラマがいた。触手は躊躇いなくプログラマの胴に巻き付いた。
プログラマが絶叫した。さらに出現した触手が手足に絡みつき、100 キロはありそうな身体が軽々と持ち上げられる。触手が顔に巻き付き、魂が凍るような叫びは消えた。プログラマはそのままグリッドの中に連れ去られ、入れ替わるように別の触手が出現した。
「くそったれ!」
戸川が叫び、右手を前に突き出した。いつの間にか黒い拳銃が握られている。戸川がトリガーを絞ると鈍い銃声がアツコの耳に突き刺さった。連射された弾丸は、出現した触手に命中したが、傷を負わせることはできなかったようだ。触手は一直線に戸川に向かって伸び、狂ったように放たれる銃弾を無視して、拳銃を握った手に巻き付いた。拳銃が床に落ち、戸川の身体は、釣り上げられた魚のように空中に吸い込まれた。
残った二人のプログラマたちは、ようやく異常な事態が進行中であることに気付いたらしく、悲鳴を上げながらドアの方へ走り出した。その動きが触手の注意を惹きつけたのか、同時に数本の触手がその背中に追いすがった。再び悲鳴が上がる。
アツコは自分がいつの間にか床に座っていることに気付いた。すぐ隣に東海林も膝をついている。
「どうやら」東海林は小声で言った。「下手に動くと攻撃してくるようです。じっとしていましょう」
モニタールームから、佐藤の顔がひょいと覗いた。床にうずくまった二人を見つけると、小声で呼びかけた。
「東海林さん、星野さん」
「はい?」
「これを」
言葉とともに、1 台のタブレットが床を滑ってきた。その動きが触手の注意を惹くのでは、とアツコはひやりとしたが、触手は不幸なプログラマたちを、自分たちの世界に引っ張りこむのにかかりきりだった。
東海林がタブレットを掴んだ。電源が入ったAndroid タブレットだ。エディタが開いていて、Java のコードが数行入力されていた。
「続きをコーディングしてください」佐藤が囁き、顔が引っ込んだ。
東海林がエディタ画面をスクロールすると、仕様が表示された。
入力値として、131 から971 までの素数が107 個、ランダムに与えられる。これらの数値を降順にソートして出力値とする。ただし、末尾が9 の数値は出力値に含めないものとする。
東海林は頷くと、小声で何か呟きながら、ソフトウェアキーボードでコードを入力し始めた。アツコはじっとしていた。最初からペアプログラミングをやっているならともかく、すでに考え始めたプログラマに、横から口を出しても作業を遅らせるだけだ。
触手は戸川たちをどこかへ連れ去った後、また戻ってきて、次の獲物を探すように蠢いている。どうやら東海林が言ったように、動きを感知して襲いかかってくるようだ。東海林の指の動きに反応しないところを見ると、あまり細かい動きは無視しているのだろう、とアツコは考えた。モーションセンサー付きのモンスター。悪夢を見ているようだ。
ジリジリしながら待つこと数分。東海林が指の動きを止めた。
「佐藤さん」東海林は声を潜めて呼んだ。「できました」
佐藤の顔が、再び出てきた。
「助かりました」佐藤は囁き返した。「送出の準備をします。合図したら、タブレットごと、グリッドに放り投げてください」
「は?」
「これだけ近距離だとリモートでコントロールできないんです。投げてください」
「いや」東海林が躊躇いながら答えた。「ちょっと肩が上がらないんです」
「......星野さん?」
「私がやります」アツコはタブレットを受け取った。「学生時代はソフトボール部でピッチャーでした」
最後にボールを投げたのが15 年以上前であることは黙っていた。
「お願いします。あと30 秒ほど待ってください」
佐藤はモニタールームに引っ込んだ。アツコはアンダースローの体勢で待った。
「何だろうな」東海林が呟いた。
「どうしました?」
「何というか......違和感があって」
何が、と訊き返そうとしたとき、佐藤の声が聞こえた。
「星野さん、投げて!」
アツコは立ち上がった。その動きを察知した触手が向きを変えたが、アツコは構わずタブレットを天井めがけて放り投げた。人差し指が引っかかる感触があり、一瞬、失敗したか、と思ったが、タブレットはくるくると回転しながら、天井に開いたグリッドの真ん中に吸い込まれていった。
バチッ、と部屋中の空気が帯電したような音と臭いが感じられた。触手の動きが止まり、反転していく。すでにグリッドは急速に崩壊し始めている。間一髪で触手が消え去ると同時に、天井はただの天井に戻った。
アツコと東海林はおそるおそる立ち上がった。佐藤がモニタールームから出てきて、疲れた笑顔を見せる。
「助かりました」
「あの」アツコは天井を見た。「あの人たちは?」
「SW 側に連れて行かれたようです」
「助け出す方法は......」
「ありません。こちらから量子もつれポイントを操作する技術はないんです」
「......」
「これでCG などではないことが納得できましたか?」
アツコと東海林は揃って頷いた。
「しかし困りました」佐藤は人間の数が減った開発ルーム内を見回した。「戦力がガタ落ちです。バイトくんたちはともかく、戸川がいなくなったのは痛い。東海林さん、戸川の代わりをお願いできますか」
「いいですが」東海林は困惑した表情を向けた。「具体的には何を」
「これから説明します。星野さん、申しわけないですが、今日、残業をお願いできますか?」
アツコは佐藤を睨んだ。
「あんな危険があるなんて聞いてないんですけど」
「それについては、ひたすら申しわけないです」佐藤は頭を下げた。「一応備えてはいたんですが、これまで敵が直接攻撃をかけてきたことは皆無だったので」
「また来るかも......」
「それはないです」佐藤は微笑んだ。「同じポイントに2 度来ることはないので。ここは世界一、安全な場所になったわけです」
「残業ということは、あの人たちの分までプログラム作成をやるってことですか?」
「そうなります。他の支部にも分散を頼んでみますが、他は他で忙しいので、期待はできません。お願いできないでしょうか」
「どちらかと言えば、今すぐ家に帰りたい気分です」アツコは迷いながら答えた。「もし、私ができないとなったらどうなるんですか」
「さっき話した、近々予想される大きなポイントの出現、あれを阻止することができなくなります。保険に頼ることになるでしょうね」
「保険って何ですか?」
「今は話せません」佐藤は先ほどと同じ答えを返した。「お願いします」
アツコは少し考えて頷いた。
「わかりました。今日は21 時まで、明日は16 時までなら」
「助かります。東海林さんは?」
「私は何時でも構わないですよ。終電に間に合えば。家はそれほど遠くないですし」
「ありがとうございます。では、仕事に戻りましょう」
(続)
この物語はフィクションです。
コメント
h1r0
やばい、リーガルGさんは実はこの組織の人で、
コラム読者を選別して優秀な技術者を組織へ引き入れるために
執筆活動をしていたのではなかろうか
匿名
続きが楽しみです!東海林さんの感じた違和感が気になる!!
完全に量子もつれポイントが完全にオープンして固定されると
完全に、が2回続いてますがどちらかは消し忘れでしょうか
タブレット毎→タブレットごと
リーベルG
匿名さん、ご指摘ありがとうございます。
p
読んでてにやにや笑いが止まらない
突然オフィスの天井から出てきた冒涜的な触手にプログラム入力したタブレットぶん投げるとかおもしろすぎる