ハローサマー、グッドバイ(13) 私とワルツを
ドアが開くと圧倒的な陽光と熱気が襲いかかってきた。ほとんど殺人的な熱量だ。思わず後ずさりしたが、外にブラウンアイズが立っているのが目に入った。こちらに手を差し伸べている。考えるより先に手が伸びた。指先が触れあう寸前、ブラウンアイズが、その小柄な身体からは想像もできないぐらい強い握力で、ぼくの手首を掴んでグイと引っ張る。降りるのを手伝ってくれたのか、それともぼくの躊躇を読んで引きずり下ろしたのか。とにかく、1 秒後にはぼくの両足は路面を踏んでいて、背後でドアが閉まる音が聞こえた。
「あちー」
思わず声が出るぐらいの暑さだった。指揮車両の屋根のソーラーパネルはさぞかし喜んで発電・蓄電していることだろうが、光合成もできないぼくは、たちまち全身に汗がにじむのを感じた。速乾性のインナーはありがたかったが、これで間に合うんだろうか。
「こっち」ブラウンアイズは、ぼくの手首を乱暴に引いた。「歩き方、注意して」
「あ、ああ」
ブラウンアイズは例の不規則な歩き方なのに、早足と変わらないスピードでぼくの手を引っ張りながら進んだ。ぼくはその動きを真似ようとしたが、足がもつれるだけだったので、諦めて手を引かれるままについていった。
幸い、ブラウンアイズの目的地は10 メートルほど先にある、立体歩道橋の昇り口だった。ブラウンアイズは素早く周囲の安全を確認すると、ぼくの身体を電柱に押しつけた。
「あんた、あたしに何か恨みでもあんの?」ブラウンアイズは燃えるような目を向けた。「なんでこんなときにデバッグなんかする必要があるのよ。みなとみらいに到着してからでも、充分に時間はあるでしょうに」
「いや、そう言われても。何を怒ってるんだ?」
「何を?怒ってる?別に怒ってるわけじゃないわよ。ただ、余計な手間をかけさせやがって、と思ってるだけよ」
「そりゃすまんね」ぼくも少しムッときて言い返した。「このバグだか何だかを早く解決しろとのお達しなんだから、仕方がないじゃないか。ぼくはあの中じゃ一番下っ端なんだからな。それに君たちだって、ソリストが正常に機能した方が安全だろ?」
ブラウンアイズは何か言い返そうとしたようだったが、思い直したように一瞬、指揮車両の方を見て、続いて周囲をぐるりと見回した。ぼくもその視線を追った。指揮車両の周囲に展開したバンド隊員たちは、それぞれ開けた場所に立ち、油断なく周辺を警戒していた。上空には再びドローンがほとんど無音で飛行している。とりあえず、哨戒を再開させることにしたのだろう。
ブラウンアイズは、さりげない動きで歩道橋の下に入った。その場所だと指揮車両からは死角になる、と気付いたとき、ブラウンアイズがヘッドセットを外した。
「本音が聞きたい?」ブラウンアイズは小声で言った。「バンド隊員の戦闘職種の間じゃ、ソリストなんてものに期待している奴は1 人もいないのよ。ただの1 人だってね。これまでだって、そんなものはなくてもやってこられたんだから。どんな政治的な理由があるんだかしらないけど、そういう苦労を押しつけられるのは、いっつも現場のあたしたちなのよ。わかる?」
「まあね」ぼくはにじみ出てくる汗に、早くもうんざりしながら答えた。「そういうことは、戦闘じゃない職種にだってよくあることだから、わからないでもないけど。だからって、どうしようもないだろ」
「そんなことはないわよ」
「というと?」ぼくは汗を拭った。
「これは提案なんだけど」ブラウンアイズは上目遣いでぼくを見た。「ソリストに不具合があるなら、直せないってことにして、放置しておいてくれない?そうすればオペレーションを中断して、基地に戻ることになるかもしれないでしょ」
「そんな......」ぼくは唖然となってブラウンアイズを見返した。「それは無理だよ」
「なんで?あんたには何の損もないじゃない。むしろ、早く基地に戻りたいんじゃないの?」
「それは否定しないけどね」
「じゃあ何?職業的なプライドか何か、そういうクソの役にも立たないものが邪魔してるわけ?」
あいにく、ぼくが気にしているのは、もっと散文的な理由だ。
「もうデバッグに入ってるわけだから、今さらなかったことにはできないじゃないか。ぼくが大体のあたりを付けたことは、もうバレバレなわけだしね。それなのに、正当な理由もなしに作業を放棄したら、それは悪意だとみなされるかもしれないじゃないか」
「......」
「別に無能だと思われるのは構わないけど、怠慢野郎だと思われるのはゴメンだよ。下手したら業務妨害か何かで告訴されるかもしれないし、そんな状態で会社に戻ったら、良くて減給、悪くすればクビだ。その理由が、君たちが気に入らないから、というだけじゃ割に合わないと思わないか」
怒鳴り返されるか、と思ったが、ブラウンアイズは少し考えてから、口調を和らげた。
「それもそうね。悪かったわ」
「いや......」
「そういうことなら」ブラウンアイズは、数秒前の会話を忘れたかのような事務的な口調で言い、ヘッドセットを装着した。「さっさと済ませるわよ。何をすればいいの」
「ええと」ぼくはさっき受け取ったUSB ケーブルを取り出した。「これを、ヘッドセットに挿してくれるかな」
ブラウンアイズはケーブルをつまむと、見もしないで右耳の下にあるポートに差し込んだ。
「次は?」
「ちょっと待って」
ぼくはノートPC を開くと、USB ポートにケーブルを接続した。すぐにデバイス認識のウィンドウがポップアップし、いくつかのアプリが起動する。数秒でリアルタイムモニタモードに切り替わった。
「ちょっとカメラでいろんな場所を見てみてくれる?」
ブラウンアイズは、ゆっくり頭を動かした。モニタ上に表示される映像が変化していく。ぼくはいくつかプロパティを調整して、データの保存モードに切り替えた。
「よし」ぼくはブラウンアイズの後ろに回った。「じゃあ、赤外線とソナーもオンにして、ちょっと歩いてみようか」
「どっちへ?」
「どっちでもいいから、このあたりを歩いて」早速、赤外線と超音波による測定データが、ものすごい勢いで流入してきた。「そうだな、あっちのパチンコ屋の方へ動いてみようか」
ブラウンアイズは頷いて歩き出した。エンコードしていない生データがSSD に書き込まれていく。いいぞ、と口にしようとしたとき、突然、ノートPC が引っ張られる感触とともに、全てのウィンドウがブラックアウトした。
「くそ」
「何よ」
「ごめん。ケーブルが外れた」
「当たり前でしょう、こんな短いケーブルで」ブラウンアイズはため息をつきながら、外れたケーブルを差し出した。「あんたも一緒に動くのよ」
「......わかった」ぼくはケーブルを挿入し直し、全ツールを再起動した。「じゃ、そっちへ歩いていってくれ。ついていくから」
「行くわよ」
ぼくたちは歩き出したが、1 メートルも進まないうちに、またもやケーブルが外れた。
「クソ!」
「あんた、のろまなカメ?」ブラウンアイズは苛立たしげに舌打ちして振り向いた。「カタツムリだってもう少し歩くの速いわよ」
「ごめん」
ブラウンアイズはもう一度小さく舌打ちすると、左手で持っていたショットガンをくるりと背中に回して、スリングで固定した。
「手を出して」
「え?」
「手よ、手」そう言いながらブラウンアイズは、右手を伸ばしてきた。「あたしの手をつかんで」
ぼくはおずおずと手を伸ばした。ブラウンアイズは少しも躊躇することなく、ぼくの汗ばんだ手をしっかり握ると、自分の脇腹近くまで引き寄せ、細い腰の上に当てた。
「このベルトを掴んでいて」ブラウンアイズはそう言うと、ぼくの右肩に小さな左手を載せた。「絶対離さないで。あたしが足を止めたら、すぐに止まって。わかった?あんたは普通に歩けばいいから。それで充分不規則な動きになる」
「あ、ああ」
「じゃ、行くわよ」
ブラウンアイズは宣言し、ぼくたちは向き合ったまま、ゆっくりと動いた。つまずいたら押し倒してしまう、と緊張したが、ブラウンアイズは器用に足を運び、後ろ向きに歩いてくれたから、ぼくはその動きについていくだけでよかった。しかもブラウンアイズは、例のZ歩行を後ろ向きでやっていた。数歩進んで止まり、足を引きずり、歩幅を変え、小さくジャンプ、と足の運びは見事にランダムなリズムを刻んでいる。数値化したら、きっと美しい物理乱数になることだろう。ひょっとして、ぼくがやらされたテストは、こういうことに関連していたのかもしれない。
その複雑な動きにもかかわらず、モニタに表示されるヘッドセットカメラの映像は、意外なほどブレがない。イメージスタビライザーが組み込まれているためでもあるが、ブラウンアイズが足の動きに合わせて、リアルタイムで補正しているのだ。
「いいね」ぼくは歩きながらモニタを眺めて、生データが順調に記録されているのを確認した。「その調子。少しあっちの日陰と日向の境目の方を向いてくれ。うん、そうそう」
周囲に点在するバンド隊員たちは、一様にニヤニヤしながら、ぼくたちの奇妙なダンスを眺めていた。ぼくは少し恥ずかしくなったが、ブラウンアイズは気にする様子もなく、ぼくをリードして死者の街の交差点を回った。ぼくは右手でノートPC を掴み、左手をブラウンアイズの腰にあてたまま、リードされるままに足を動かしていた。
「他の隊員は休憩してるのに、すまないね」
「別に」ブラウンアイズはぶっきらぼうに答えた。「若いから疲れてないし」
「へえ、いくつ?」
「あんたより若いことは確かよ」
身体が密着するまで数センチ、という位置で行う会話としては、いささか友好的要素が欠けているが、会話を拒否されるよりはマシだと言えるのかもしれない。
「ここまで、そんなにZがいなかったね」
「定期的に山下公園あたりで花火を上げてるからね。鶴見川防衛ラインから、できるだけ遠ざけておくのよ」
「じゃあ、これから増えてくるってこと?」
「そういうことになるわね」ブラウンアイズは唇の端をつり上げた。「心配しなくても、もうすぐうんざりするぐらい遭遇するから」
「......あ、ゆっくり左の方を向いてくれる?」
「はいはい」
突然、耳元で小さな電子音が鳴った。
『鳴海さん』谷少尉の声だった。『今、あなたのヘッドセットをアクティブにしました。分隊LAN とつながってます。どうですか、調子は?』
「暑いです。汗だくです。確か、誰かに、座ってるだけって言われた気がしますけど」
『そうでしたか?誰だかしらんが、後で叱っておきます。ところで菊名駅方向に銀行見えますか?』
「はあ、りそなですね。見えますが」
『そこから、今、Zが2 体出てきますが、第2 分隊の方で対処してもらうので、慌てないように』
「は?」
「いいから続けて」ブラウンアイズが落ち着いた声で囁き、ぼくの肩を掴む手に力を入れた。「危険な状況ならそう言ってるから。そっちにカメラを向けておく?」
「......頼む」
ブラウンアイズはステップを踏み、ヘッドセット後方のカメラを銀行に向けてくれた。ぼくから見ると、正面10 メートルだ。
『テンプル、アックス』第2分隊の柿本少尉の声が聞こえた。『スマートに抑えろ。レインバード、援護しろ。シルクワーム、バックアップ。出るぞ』
銀行の壊れたガラス戸から、2 体のZがよろめき出た。大人と子供のZだ。Zの例に漏れず、ボロボロになった衣服を引きずるように歩いている。2 体のZは、ぼくたちに気付いたらしく、うなり声を上げながら、こちらに向かってきた。
「こ、こっちに来るんですけど」
「慌てない」ブラウンアイズはステップを踏んで動きを止めた。「すぐに対処できるから」
その言葉通り、第2 分隊のテンプルとアックスが、左右から素早く近寄った。Zたちが気付いてそちらを向いたとき、すでに2 人の隊員は行動に移っていた。まず、アックスが子供のZを、軽く押して地面に倒す。続いて両側から大人のZの両腕を掴んだ。次の瞬間、Zは路面に組み伏せられていた。
「ほらね」ブラウンアイズが囁いた。
アックスが膝でZの背中を押しつけている間に、テンプルが白い手錠のようなものを出して、Zの両足首にカチリとはめて固定した。同時にアックスが立ち上がると、ちょうど起き上がろうとしていた子供のZを、もう一度転倒させる。すぐにテンプルが足首を拘束した。
「あれは何?」
「アンクレット」ブラウンアイズは動きを再開しながら言った。「要するに足を一定時間拘束しておく使い捨て器具。晴天なら4時間ぐらい外気にさらしておくと、分解しちゃうバイオ素材でできてて、引っ張り強度はシリコンぐらいだったかな」
『お騒がせしました』谷少尉が言った。『続けてください』
「あのZはどうするんだ?」
「どっかの建物の中にでも転がしておくんだと思うわ」ブラウンアイズは興味なさそうな顔で答えた。「あたしたちがいなくなったら、また自由にうろつき回るんでしょう。まあZだから熱中症で死ぬことはないわ」
ぼくたちはデバッグ作業を再開した。ぼくは、日向、日陰、建物の間、電柱など、いろいろな場所に赤外線とソナーを向けて、生データを収集した。思ったより時間がかかったが、ブラウンアイズは疲れも見せずに、ぼくの指示した方向に動き、積極的に協力してくれた。
「何か運動とかやってるの?」ブラウンアイズが小声で訊いた。
「いや、別に。本業は運送業だから、自転車で配達とかはしてるけどね。なんで?」
「案外、足腰はしっかりしてるみたいだから」素っ気ない返事だった。「ちょっと意外だっただけ。技術屋なんて、みんなオタクで引きこもりで体力が子供以下かと思ってたからね」
「......それは偏見じゃないか。それを言うなら、ぼくだってちょっと驚いてるよ。バンド隊員に」
めまぐるしく足を交差させながらも、周囲への警戒を怠らなかったブラウンアイズの視線が、ちらりとぼくの顔を走った。
「どういう意味?」
「もっとならず者の集団かと思ってた」ぼくは汗が目に入らないように顔を傾けながら答えた。「銃でZを蹴散らしながら、ドカドカ突進していくみたいな」
「偏見ね」ブラウンアイズは、転がっていた空き缶を軽いヒールキックではじき飛ばした。「こういう動きを身につけるために、あたしたちはダンスのクラスを受講させられるのよ」
「ダンス?」
「そう。ワルツとかタンゴ。いつでも社交界にデビューできるわ」
容赦なく照りつける強烈な陽射しと、荒廃した街全体に漂う死の雰囲気。全身汗だく。片手にはノートPC。相手の背中にはショットガン。本来なら楽しみの要素など米粒ほども見出せなかっただろうが、ぼくは、自分がいつのまにか楽しんでいることに気付いて驚いた。何でも経験してみなければわからないことはあるものだ。デバッグを主張してみて本当によかった。
「データは?」ブラウンアイズが訊いた。
「もうちょっと」少し息が上がってきていたが、ぼくはやせ我慢して何とか平静な声で答えた。「ソナーの強度を1 秒おきに上げていってもらえるかな」
「はいはい」
実のところ、データ収集は終わりに近づいていた。可視と不可視の領域で、デバッグに必要な生データは充分すぎるぐらいに採れていた。残念だが、そろそろダンスの時間は終わりになる。そう言おうとしたとき、周囲の空気が一変した。
何がどう変わったと明言することはできなかったが、ブラウンアイズは急に――ただしぼくが対応するための充分な余裕を持って――足を止め、背中に回してあったUTS-15J をコンマ5 秒ぐらいで、レディポジションに構えた。
「どうした?」
「Zの群れがこっちに向かってるらしいわ」ブラウンアイズは小声で答えた。「綱島街道を接近中。だいたい200 体以上」
「え?」
ぼくは交差点から上り坂になっている綱島街道の先を見たが、0.6 の視力では何も捉えることができなかった。
「どれぐらいの距離なんだ?」ぼくは背伸びをしながら訊いた。
「だいたい160 メートルね。第2 分隊のテンプルが発見したの。いつもならポイントマンは分隊から200 メートルは先行するから、もうちょっと早めに発見できたはずだけど」
「今日は違うの?」
「ソリストの機能テストだから、100メートル先だったはず。ドローンが先に発見してくれることになってたからね」
ことになってた、の部分を、ブラウンアイズは強調した。
「ソリストからのアラートやワーニングは上がらなかったんだね?」ぼくは確認した。
「上がってないわね」当然だろう、と言いたげな顔だ。「上がってたら、そもそもあんたはCCV から降りてきてないでしょ。事前の説明じゃあ、半径1 キロ以内のZは屋内・屋外を問わず探知できて、リアルタイムでアラートが上がるとか言っていたんだけど」
「......ごめん」
「別にあんたを責めてるわけじゃないけどね。あんたが作ったわけじゃないんでしょ。いいからCCVに 戻るわよ」
ダンスの時間は終わりだ。ぼくたちは急ぎ足で指揮車両に戻った。
(続)
コメント
いち技術者
B級映画やゾンビ映画が大好きですが、まさかそれがIT技術者視点で描かれるとは思ってもみなかったので、楽しく読ませてもらっています。
> みんなオタクで引きこもりで体力が子供以下かと思ってたからね
自分自身もIT業界に入る前はこう思っていましたが、実際に入ってみると思ったほどそういう方が少なくてびっくりしたことを思い出しました。
oni
鬼束ちひろですね。
えの
デマルコ先生登場ですか。>タイトル
リスクを愉しめたのかな?