罪と罰(10) その汚れた起源
それは荒木准教授が大手SIer――A社としておこう――で働いていた時の話だった。
A社は、いわゆる「元請け」の立場にあったので、在籍するシステムエンジニアの仕事としては、設計書を書いて下請けに実装を命じる、ということがほとんどだった。ほとんどのシステムエンジニアは、自分が手がけているシステムの言語の実装経験を持っておらず、SQLすらまともに書けなかった。それでも新入社員からそのような教育を刷り込まれているので、何の疑問を持つこともなく、上級職になって1000万円超の年収を得ることを目標に邁進している。
荒木氏が他のシステムエンジニアと少し違っていたのは、A社では珍しい途中入社だったことだ。通常、A社では中途採用をほとんど行なっていない。荒木氏が勤務していた小さなソフトハウスが倒産した際、その会社が所有していたいくつかのソフトの権利を、A社が買い取ることになった。荒木氏はそれらのソフトの仕様を、一番理解している技術者、ということで入社を請われたのだった。
給与はもちろん大幅にアップしたし、前職のソフトハウスとは比べものにならないぐらい大きな案件に携わることができる。しかも制限の多い下請け、孫請けではなく、元請けの立場から。元同僚は一様に羨んだものの、当時の上司は祝福しつつも首を傾げた。
「でも、荒木さあ」送別会の席で元上司が、ビールを勧めながら心配そうに言った。「うちみたいな自由な会社から、ああいう大企業に転職して、お前、やっていけるのか?あそこ、ほとんど実装は下請け任せだろ?」
「まあ、何とかなりますよ」荒木氏はグラスを掲げた。
「でもお前、プログラム好きだろ」
「好きですよ。まあ、でも、全くそういう機会がないわけじゃないと思いますしね」
元上司が言ってくれたようなことは、実は荒木氏も考えないわけではなかった。事実、A社から誘われたとき、一度は断ろうと思っていたぐらいだ。それでも最終的に転職を決めたのには、給与や立場とは異なる別の理由があった。
「それは何ですか?」クミが訊いた。
「それはね......なんか自分の口から言うのも気恥ずかしいんだが、IT業界を変えるキッカケを作りたいと思ったからなんだよ」
「つまりだな」五十嵐さんが補足した。「当時も今も、IT業界ってところはゼネコン構造なんだ。技術力のない大手SIerが、下請けに仕事を投げて、中間マージンで稼ぐ。先生はそれを変えたいと考えていらっしゃったんだ」
「そういうこと。それには、小さなソフトハウスにいたんじゃ何もできないからね」
A社に入社後は、荒木氏も他のシステムエンジニアと同様に、必要な情報処理系の資格を取得することと、要求分析手法と設計書を作成する技に長けていった。それは上級SE職を目指す他のエンジニアと変わることはなかった。ただ、他のエンジニアにとって、上級SE職は目標であったのに対して、荒木氏にとっては自分の目的のための手段に過ぎなかったのだが。
また、荒木氏はプログラマとしての経験から、下請け会社に対して、他のシステムエンジニアのように高圧的な態度を取ることはなかった。そのことは様々な軋轢を生んだものの、荒木氏は実績を出すことでそれらを跳ね返してきた。
20世紀も終わりに近いある年、荒木氏は名古屋市にある某電力会社の関連会社で、発電所の設備メンテナンスを専門にやっている企業の、基幹システムの再構築プロジェクトの要員に任命された。上級SEの指揮下で、人事給与サブシステムのサブリーダーとして、忙しい日々を送ることになったのだ。COBOLベースの基幹システムをVisualBasic6 のC/S型システムに置き換えていくプロジェクトで、人事給与サブシステムの移行はその中でも大きなウェイトを占めていた。協力会社――つまり下請け――は6社、孫請けも含めるとおそらく20社以上になり、最終的に投入されたエンジニアは、100人を超えていたと思われる。
そのプロジェクトに参加していたベンダーの中に、当時、五十嵐さんが所属していた大阪のソフト会社も含まれていた。荒木氏と、五十嵐さんの接点は、ここから始まった。
「ところが、その開発現場は、ちょっといつもと違っててね」
A社にとってはルーチン作業とも言える、いつも通りの開発案件のはずだったのだが、招集されたベンダーの質に偏りがあったのか、PMの上級SEの人間性に問題があったのか、独立気質が旺盛な人間ばかりが集まったのか、開発の進み具合はよくなかったのだ。実装担当のプログラマたちが、最初は陰で、やがては聞こえるようなところで、A社に対して文句を言うようになった。開発用PCがプログラマ2名に対して1台しか用意されておらず、昼と夜のシフト制での開発、といった設備面での不備も影響したのかもしれない。
「ただ荒木先生の評判は悪くなかったよ」と五十嵐さんが口を挟んだ。「最初は実装にまで口を出してきたから、また何も知らないエスイーさんが余計なことするもんだ、と思ってたんだけどな」
「悪かったな、あのときは」荒木准教授はニヤニヤ笑いを浮かべた。「余計な時間を取らせてしまって」
「いやあ有意義でしたよ。VBにおけるクラスの意味なんて議論を元請けの人とできる機会なんか、そうそうなかったですからね、あの当時は」
「VBにもクラスってあったんですか?」足立が不思議そうに訊いた。
「一応あったが、名ばかりクラスだったかな。まあ、それはまた別の機会にでも話すとして、荒木先生の話を聞こうか」
五十嵐さんを始め何人かのプログラマが、いくつかの意見上申を行った。それらは複数画面で使用する機能を部品化するとか、データベースへのアクセスが多い計算処理をストアドに置き換えるとか、入力項目の全組み合わせパターンのテストを省略した方がいいとか、長い目で見れば理にかなったことばかりだったので、荒木氏も賛成して上級SEへ取り次いだ。しかし、それらの上申は全て却下された。綿密に組み上げられたタスク管理を崩すことはできない、というのが理由だった。
「あのとき、先生にはご迷惑をおかけしてしまいました」
「私だって賛成したことだしね」荒木准教授は苦笑した。「短期的には確かに余計なタスクを増やすことになって、スケジュールの線を引き直すことになっただろうが、その後のタスクは逆に短縮できたかもしれない。そう思ったから賛成したんだ」
それどころか、継続して受注する予定だった他のサブシステム開発でも、それらの部品やストアドは有効に使用できたはずだった。顧客側にも利益があっただろうに、やはりスケジュールの遅延を怖れた顧客側のシステム担当者からも否定されてしまった。
そんなことが繰り返され、開発現場には微妙に緊張した空気が形成されていくことになった。
「ひょっとすると20世紀の終わり頃というのは」荒木准教授は回想するような目になった。「ITゼネコン式の方法で酷使されてきた現場のプログラマたちが、それにうんざりし始めた最初の時期なんだろうな。いや、うんざりしてたのはずっと前からかもしれないが、実際に意見を言ったり、何らかの行動に出たりし始めたと言うべきか。アジャイルソフトウェア開発宣言が発表されたのが2001年だから」
A社の上級SEが、開発現場の雰囲気に気付いていないはずはなかったが、それまでのやり方を変えようとはしなかった。人事給与サブシステムのサブリーダーは、荒木氏の他にもう1人いたが、彼女も上級SEのやり方を支持していた。
「そのやり方というのは、まあ、想像つくとは思うけど、元請け様に逆らうなら出て行け、代わりはいくらでもいる、って方法でね。孫請けで来ているようなところには、A社の営業から下請けに一言苦情を言うだけでよかったし」
「うちも、つまり私の前の会社も、それやられました」五十嵐さんが顔をしかめた。「あの五十嵐ってのは何なんだ、と言われたそうです。まあ、幸い、元請けが理解あるところだったんで、軽く注意されただけですみましたが」
「実際、それで引き上げさせられた孫請けもあったしね」
「下請けに対する法の整備も遅れてましたし」
「まあ、そんなこんなで」荒木准教授は話を元に戻した。「とにかく開発は進められたんだが、あるときちょっとした問題が発生したんだ」
それは賞与計算部分で発生した問題だった。厚生年金計算で使用しているDLLモジュールが、想定されていた機能を発揮しないことが判明したのだ。小さなソフト会社が販売しているパッケージだったが、それを採用することを決定したのはA社だった。
「まあ当然、そのソフト会社に連絡を取って修正してもらおうとしたんだが、開発担当が転職してしまったとかで対応できない、他の人ではわからん、ということでね」
顧客のシステム担当はA社の責任を追及してきたが、上級SEは「導入の最終決定権は御社にあったから」という理由で、責任はないと明言した。顧客のシステム担当は怒り狂ったが、結局、A社の責任は問われないことになり、賞与計算では厚生年金の計算を考慮しない形でのリリースが決定した。
「それで支障はなかったんですか?」私は訊いた。
「うん。当時はまだ賞与では厚生年金は考慮しなくてよかったからね。賞与での厚生年金計算が必要になってくるのは、数年後だったから、それまでに何らかの手を打てばよかったんだよ」
「なるほど」
「ただ、それは表面的な話でね」
このことで、それまでは良好だった顧客システム部との間に溝が生まれてしまった。大手SIerさんだから安心して任せられる、と言ってくれていたシステム担当も、不信感を抱くようになったらしい。以前はスルーしていたエビデンスなどを、急に細かくチェックするようになった。
このままだと以降のサブシステムの開発にも支障が出てくる。そう考えた荒木氏は、何らかの手を打つべきだ、と上級SEに進言した。上級SEから返ってきたのは「客なんかいくらでもいる」という暴言だった。
「今でも憶えているよ。そのときの言葉を」
上級SEになりたければ不良客は切り捨てるぐらいでいろ。うちは日本でもトップクラスのベンダーだ。客はいくらでも向こうから寄ってくる。
それを聞いたとき、荒木氏の心に浮かんだのは絶望感だけだったが、同じ部屋にいた五十嵐さんが激烈な反応を示した。
「確か、そういう言い方はないんじゃないか、って怒鳴ったんだよな」
「怒鳴ってはいませんよ」五十嵐さんは反論した。「少し声が大きかったかもしれませんが」
それに対する上級SEの反応も激烈だった。
「プログラマごときが出しゃばるな、でしたね」
五十嵐さんと上級SEの言葉の応酬は続き、同席していたプログラマたちが参戦してきそうになった。
「あのままやり合ってたら、たぶん売り言葉に買い言葉で、致命的な事を口走ってただろうな。当然、開発からは外されて、下手すればペナルティということもあり得た」
その直前で事態を収拾してくれたのが、荒木氏だった。
荒木氏は机を叩いて立ち上がると「もうやってられない」と宣言したのだ。その勢いに室内の怒りは沈静し、上級SEの関心は荒木氏に集中した。
結局、荒木氏は開発現場から立ち去り、翌日、退職の手続きを取った。現場での様子が伝わったのか、A社から慰留の言葉はなかった。
その後、いくつかのつてを辿って、荒木氏は愛知県にある私立大学で、情報工学を教える臨時講師となった。もともと人に教えることに適性があったらしく、また実際のIT業界で働いていた経験を生かした講義は好評で、他の大学からも引き合いが続くことになった。そして2年前、今の美和学園大学の開校と同時に、准教授として迎えられた。
五十嵐さんがSELCAイニシアティブを設立したのは、荒木氏がA社を退職した2年後だった。
「以前からずっと考えてはいたんだがな。だけど、直接のキッカケになったのは、やっぱり先生のことがあったからだなあ。オレ自身、あの会社にはムカついていたからな。何とかギャフンと言わせる方法を考えてたんだ」
「ギャフンって」五十嵐さんが口にした古い言い回しに、私は思わず笑った。「じゃあそれが起源というわけですか」
「そうだ。がっかりしたか?」五十嵐さんはニヤリと笑った。「普段、さんざん業界を変えるだなんだって言ってて、実は私怨だったのかって思っただろ?いいから正直に言ってみ。ん?」
「まあ、多少は......」
「人間なんてそんなものだよ」荒木准教授が苦笑した。「理想だとか思想だとかは、後からついてくるんだ。人が何かを成し遂げようとするとき、その原動力は理想なんかじゃない。人の思いだよ」
「じゃあ、ひょっとして荒木准教授も......」
「いや」私のつぶやきに五十嵐さんは首を横に振った。「先生はイニシアティブのメンバーじゃない。ただ、我々の目的には共鳴してくれているので、何かと助言や手助けをしてもらってる。今回みたいにな。イニシアティブの正式メンバーでなくても、IT業界以外に協力してくれる人は多い。何事もそうだけど、何かを変えるには中側からだけじゃなくて、外側からの働きかけも有効だからな」
「IT業界を変えたい、変えなければならない、と思っている人は大勢いると思うよ」荒木准教授も言った。「業界の中にも外にもね。ただ、目の前の業務をこなすのに精一杯で、そこから一歩踏み出せる人はなかなかいない。それに保守勢力というか、これまでだってそれなりにやってこられたんだから、このままで何が悪い、と考える人も多い。できあがってしまったものを変えるのは難しいからね」
「イニシアティブの目的は、そういう状況を打破することだ」五十嵐さんが付け加えた。
「それはわかりますが」守屋が発言した。「五十嵐さんがやっているようなコンサル形式だと、その会社はよくなっても、業界全体を変えるには至らないんじゃないかと思うんですけど。そこんとこはどうなんですか?」
「いい質問だね」荒木准教授が頷き、五十嵐さんを見た。
「イニシアティブのメンバーは、何人ぐらいいると思う?」五十嵐さんが守屋に訊いた。
「え......さあ、100人ぐらい?」
「残念。その20倍はいる」
「じゃあ、その人たちがみんなコンサル?」
「いや。それでは君が言ったように時間がかかりすぎるだろう?コンサルという方法は、イニシアティブが持つ手段の1つに過ぎない。我々の理想を広げるには、もっと多種多様な手段が必要なんでね。これは荒木先生の考えだ」
「ネットで発言力が強い個人が、業界を変えようという意見を発信するのもその1つだ」荒木准教授が続けた。「その際、イニシアティブの名前はおおっぴらに出さない。ネットユーザというのは、何らかの組織が発する意見より、個人の意見を重視する傾向があるからな。それにイニシアティブという組織が中心になってしまうと、どうしても反発も集中しやすくなる」
「なるほど......」
「つまりイニシアティブの活動はゲリラ戦が中心なんだな」荒木准教授はコーヒーを飲みながら続けた。「表面上は何事もなく、いつのまにかSEとプログラマという壁がなくなっていて、いつのまにか顧客とシステム屋がWIN-WINの関係になっている。そういうのが理想だ。な?」
「そのとおり」と五十嵐さん。「イニシアティブでは、少しずつだが、いろんな企業にメンバーを送り込んでいるんだ。IT企業に限らず、ユーザ企業にもね」
「なんか秘密組織みたいですね」守屋が笑った。
「別にある日一斉蜂起して、テロ活動をやろうとかいうわけじゃないぜ。開発プロセスやドキュメント、コーディング基準、採用基準なんかに少しずつ影響を及ぼしていってくれればいいんだよ」
「ずいぶん気長な話に聞こえますけど」クミが遠慮なく言った。
「うん。それは認める。でもまず始めなければね」
しばし沈黙が私たちを覆った。
「今日、ここに連れてきたのは」五十嵐さんが締めくくるように言った。「まあ商談もあるんだが、イニシアティブ誕生秘話を聞かせておきたかったからでもある。だからといって、別に君たちをイニシアティブに勧誘しているわけじゃないぞ。自分の仕事をやりながら、少しずつでも意識を変えていってほしいと思ってるだけだ」
少なくとも、Aチームに関しては変わりつつある。それは間違いない。問題はAチームだけ変わっても、うちの会社の体制にはそれほど変化がないだろうということだ。
私がそう言うと、五十嵐さんは笑った。
「うん。だから、何としてもプロジェクトAを成功させる必要があるわけだよ。実績はそのまま発言権になるからな。逆に言うと、実績のない奴が何を言っても説得力がないだろう。チームリーダーの箕輪さんの責任は重大だな」
う......またプレッシャーを。私が呻くと、五十嵐さんは笑いながら立ち上がった。
「さて、すっかり長居をしてしまいましたな。そろそろお暇しましょうか」
「ああ、おつかれさま」
私たちはカップを片付け、帰り支度をすませた。
「今後、この件は、箕輪が窓口になりますから」五十嵐さんは帰り際に告げた。「連絡などはこちらにお願いします」
「よろしく」
荒木准教授は手を差し出した。日頃、握手という習慣がない私はどぎまぎしながら、荒木准教授の大きな手を握りかえした。
帰り道、日吉駅のホームで五十嵐さんは私たちに告げた。
「オレはこのまま別件で用事があるから直帰する。みんな、今日の先生の話を忘れないようにな。オレから付け加えることは特にない。それぞれ自分で考えるように」
そう言うと、五十嵐さんは私たちに背を向けて、出口の方に向かっていった。
私たちは東横線に乗った。行きは騒がしかった3バカたちは、人が変わったように押し黙り、何事かを考えていた。
(続く)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術・製品の優位性などを主張するものではありません。
コメント
LG
>A社
エースシステムですね(笑)
>サブリーダーは、荒木氏の他にもう1人いたが、彼女も上級SEのやり方を支持していた。
高杉さんだろうか…
orchis
サブマネージャの女性ってもしかして・・・高○女史!?
ntm
あの大手SIer A社や上級SE様の話題に思わずニヤリとしました。登場自体は無さそうですね。
今後の展開に期待!
通りすぎた
准教授が途中から助教授になってますよ
BEL
あ、人形つかいも電子書籍になったんですね。
しかも、"今回の話とリンク"とは!
DumbObj
荒木さんは、文化人類学者に転身したのかと思い、その経緯が気になってたのですが、
教えてるのは情報工学だったんですね。
書きおろしの「ビギニング」すごく面白かったです。
いろいろ考えさせられました。
意外にも、もう一人のサブリーダーのセリフにも共感できる部分が多々ありました。
MUUR
今回はどんな展開になるのかまだ読めなくて、毎週楽しみです。
>当時はまだ賞与では厚生年金は考慮しなくてよかったから
正確に言うと、月の給与と同じ保険料率でまともに控除されるようになったのは2003年からなんですが、1995年から特別保険料という名目で低率(1%を労使折半)ながら、賞与からの保険料控除が一応はありました。
まあ、回想が何年の出来事と明記されているわけではないですし、あんまり本筋とは関係ないですね。