鼠と竜のゲーム(21) まっ白な嘘
「対談だと?」野崎は顔をしかめて訊き返した。「誰が、どこと対談するんだ?」
「うちと、例の会社ですよ」城之内は薄ら笑いを浮かべながら、こともなげに言った。「サードアイです」
「それをデジタルITがセッティングするというのか?」
「そういう申し出です」
野崎は、だらしなく座っている城之内の顔を凝視した。
「それで?」
「もちろん了承しましたよ」城之内はいじっていたスマートフォンを机の上に放り出した。「あ、よかったら野崎さんも参加してください。場所はうちの会議室です。日時はまたメールしますんで」
城之内のとぼけた表情に、野崎は心の中に苛立ちが沸き起こるのを感じた。それをこらえながら、低い声で注意する。
「そういうことは、私の許可を得てからにしてもらえないか」
「はあ。この程度のことで、野崎さんのお手をわずらせるほどでもないと思ったものですから」
殺意にも似た苛立ちを抑え、野崎はかろうじて怒りの声を上げるのを思いとどまった。
「それで、対談の内容は?」
「例のT市立図書館の件でのウワサについて、ということでしたね」
「デジタルITは、最初に例のコネクション漏れの件を報道したメディアだぞ」野崎は指摘した。「書き方も、うちの味方をしているとは言えなかったじゃないか」
むしろ、五堂テクノの非を鳴らしていたという方が正しい。
「まあ、そうでしたかねえ」
「そうでしたかねえじゃないだろう。そういうメディアが仕切る対談なんて、うちが一方的にあれこれ言われるだけになるんじゃないのか?どうして、そんなものにうちが協力する……」そう言ったところで、野崎はある可能性を思いついた。「まさか、こちらから提案したんじゃないだろうな?」
「いえいえ、むしろ、サードアイの方から申し出てきたのに、何とかいう記者が飛びついたみたいですよ。記事になれば、なんだっていいんですよ、マスコミ連中は」
野崎は少しも安心できなかったが、城之内は楽観的な口調を崩さなかった。
「大丈夫ですよ。本当のところは誰にもわかりゃしませんから。サードアイだって、うちを非難したところで、証拠も何もなければ、1円の得にもならないことぐらいわかってるでしょうしね。おおかた、この前のみじめったらしいお願いを繰り返すだけですよ。記者の前なら、うちが断ったりしないって踏んでるんでしょうね」
確かに証拠は何もない。野崎はかなり高い確率で、このウワサの発信源であり、積極的に拡散を企図しているのが城之内であることを、サードアイ側が知っているだろうと考えていた。だが、あくまでも状況証拠でしかない。
「そういえば」城之内が、着信ランプが点滅しているスマートフォンに手を伸ばしながら軽い口調で言った。「例のソース一式は、もう削除してもらったんでしたっけ?」
「消したよ」城之内から顔をそむけながら、野崎は苦い口調で答えた。「プロジェクトごと、さっぱり消した」
「プロジェクトごとですか?」
「そうだ。ソースはもちろん、アクセス記録、差分、管理記録まで全部な。君のリーダーとしての実績が1つ消えたわけだ」
「そうですか。まあ、そんなのは大したことじゃないですから、いいんですけどね。いや、万が一、証拠を見せろという話になったとしても、安全なようにと思いましてね」
「見せろと言われて、こちらが見せるわけがないだろう」
「そうなんですけどね」城之内はスマートフォンを、器用に両手で操作しながら、野崎の顔を見もせずに言った。「社外の人間を招き入れるわけですからね。誰かが何かの拍子にソースを開いてしまって、それをたまたま通りがかったサードアイの奴らとか、記者がチラ見しちゃうかもしれないですからね」
全く、自分の保身に関わることだと、よく細かいことまで気付くものだ。心の中でそうつぶやいた野崎は、低い声で答えた。
「君に言われなくてもわかってる。業務命令だからな」
「そうですか。まあ、そうですよね。じゃあ失礼します。ちょっと用事があるんで」
「ほう」野崎は皮肉な口調で答えた。「ネットで商取引か?」
歩き出しかけた城之内が凝固した。振り向いたその顔からは、つい今までの余裕が欠けていた。
「なんのことですか?」
野崎は城之内に顔を近づけ、可聴範囲ギリギリの声で囁いた。
「いくらつぎ込んだんだ?自分の金とはいえ浪費だな」
「なんのことですか?」
城之内は繰り返したが、声がいくぶん震えている。野崎は哀れみと情けなさを同時に感じた。流出ソース買い取り交渉のために、会社のネットからアングラサイトに何度もアクセスしておいて、バレていないつもりだったのだろう。アダルトサイトを含めた要注意サイトへのアクセスは、インフラ保守部門にアラートが投げられ、上長に報告されることも知らなかったのか。それとも、知っていても、自分には適用されないと思い込んでいたのか。
「へ、変なことを言わないでくれませんか」
「思い当たる節がないならそれでいい」
「……」
城之内は少しの間、野崎を見つめていたが、不意に踵を返して足早に開発室を出て行ってしまった。
思わずため息をつきそうになったとき、自分を見つめる西尾ミドリの視線に気付いた野崎は、唇をかんで横を向いた。
「野崎さん」ミドリは小声で訊いた。「ソース、本当に消したんですか?」
「業務命令だからな」野崎は平板な声で答えた。「もう、あそこのソースが必要にならんだろうしな」
個人情報流出の件が発覚して数日後、T市立図書館側から、<LIBPACK>の保守は延長しない、という通達があった。つまり、今年度いっぱいでソースは不要になる。加えて、過去1年以上、カスタマイズやバグ対応も発生していないので、今年度の残りでソースが必要になる可能性も低かった。
「でも……」ミドリはつぶやくように言った。「……その、証拠になるのに……」
「やめろ」野崎はつい鋭い声を出した。「君が気にすることじゃない」
「そうですか……」ミドリは目を逸らした。「野崎さんも、管理職になられてしまったんですね」
その言葉は、思いもよらず鋭く、野崎の心に突き刺さった。
「失礼しました」
感情のこもらない声でそう言うと、ミドリはモニタの中のソースコードに注意を向けた。野崎はかける言葉を思いつけず、開発ルームから出た。
対談は翌週の月曜日、14:00から、五堂テクノの会議室で行われた。
参加者は、五堂テクノ側がソリューション本部の担当取締役、野崎、城之内、広報課の和田課長の4名。サードアイ側が田嶋社長、他2名。うち1名は先日来社した井上という社員だったが、残りの1名は、所用があって遅れるということで現れていなかった。
主催した神代記者は、地味なスーツを着た中年女性を伴っていた。産業技術総合研究所の情報セキュリティ研究センターの、高村ミスズ研究員である。先週、参加者一覧が届けられたとき、今日の参加者を集めての方針確認会議の席で、野崎は懸念を表明した。
「この人はIT業界では有名人ですよ。影響力が大きいブロガーでもある。しかも、最初にクロラ氏が逮捕されたとき、原因がプログラムにあるんじゃないかという意見を表明しているし、例の個人情報流出時にも、一役買っています。どう考えてもうちの味方にはなり得ない。参加はご遠慮願った方がいいのではないでしょうか?」
「それは大丈夫じゃないですかね」和田広報課長が発言した。「こちらの許可なしで、この対談に関する情報を、いかなる媒体に対しても発表しない、ということで同意しているんですから」
「しかし……」
「大丈夫ですよ」城之内が楽観的な声で遮った。「いざとなったら、対談を中止にしちゃえばいいんだし、何かつぶやかれても、そんなことは言っていないと否定すればいいでしょう。いざとなれば、上の方からその、なんとか研究所に圧力かけてもらう手もありますよ。公務員なら上からの指示には弱いでしょう」
その三流政治業者的思考には、野崎のみならず、和田課長や担当取締役も呆れたようで、室内に白けた空気が流れた。
「前にどっかの市長が同じような恫喝をしたが、高村氏に無視されて、ネットで失笑されてたぞ」野崎は皮肉な口調で指摘した。「それに、産総研は独立行政法人で、高村氏は公務員じゃない」
「そうですか」城之内は少しムッとした様子で答えた。「まあ、でも、何とでもなるんじゃないですか?言わせたい奴には言わせとけばいいんですよ」
「どっちみち、そんな曖昧な理由じゃ、参加を拒否することなんか無理ですよ」和田課長がとりなすように言った。「あくまでもオブザーバーとして、ということなので。高村氏の発言の機会はほとんどないはずです」
「だといいんですがね」野崎の不安は消えなかったが、それでも広報課長の顔を立てて、自分の意見を取り下げた。
口にはしなかったものの、野崎が秘かに懸念していたのは、例のソースを高村氏が保有しているのではないか、ということだった。なんと言っても、個人情報流出の件を突き止めたのは、この人だからだ。ついでにソースが公開されていることに気付いても不思議ではない。ただ、もしソースが手元にあるなら、とっくに公開して五堂テクノの非を盛大に鳴らしていても不思議ではないのだが。
その高村ミスズ女史は、隣に座った神代記者と、小声で何かを話していた。ときおり会議室を見渡すものの、とりたてて五堂テクノ側の人間に敵意を向けたり、サードアイ側に同情的な素振りは見せなかった。評判通り公正な人物であることを、野崎は秘かに祈った。
「えー、では時間になりましたので始めましょうか」神代記者が宣言した。「本日は、ご多忙の中、お集まりいただいてありがとうございます。まず、参加者をご紹介させていただきます」
神代記者は、五堂テクノ側から順に、参加者の名前と役職を読み上げていった。名前を呼ばれた参加者は軽く頭を下げるぐらいで、一様に硬い表情のままだった。野崎は何か場を和ませるような言葉を考えたが、思いつかないまま、結局、無言のまま頭を下げただけだった。サードアイ側の反応も似たようなもので、なごやかさとは対極の空気が充満した。
「……最後に、オブザーバーとして参加していただいた、産業技術総合研究所、情報セキュリティ研究センターの高村さんをご紹介いたします」神代記者の紹介に、高村女史は小さくうなずいた。「ご存じの方も多いと思われますが、高村さんはT市立図書館の事件の直後から、この問題について様々な意見を、公平な立場から述べておられます。今回は急な招請にもかかわらず、快く引き受けていただいたことに、感謝したいと思います」
できれば参加してほしくなかったがな、と野崎は心の中でつぶやきながら、同僚たちの様子を観察した。担当取締役と和田課長は、それぞれ微妙な表情で黙礼したが、城之内は軽蔑したように鼻を鳴らしただけだった。
「高村です」神代記者に促されて、高村女史が挨拶をした。「このように興味深い対談に参加する機会を与えていただきありがとうございます。基本的にわたくしが発言するつもりはありませんので、いないものとして対談を行っていただければと思います。もちろん、技術的な問題などでアドバイスを求められればその限りではありませんが……ここに集まっている方たちには、その必要はないでしょうね」
「ありがとうございました」と神代記者。「さて、それでは早速対談に入りたいと思います。まずは、これをご覧ください」
全員の前に1枚のA4用紙が配布された。そこには、野崎がもはや見慣れてしまった、一連のツイートが印刷されていた。
「まずは、このつぶやきについて、本当のところを聞きたいというのが、サードアイ側の希望です」神代記者は五堂テクノ側に顔を向けた。「いかがでしょう?」
「いかがでしょうも何もねえ」城之内がバカにしたように、プリントアウトを指で弾いた。「うちはこんなウワサと何の関係もないですよ。サードアイさんには前にも同じことを言いましたがね」
「ですが」サードアイの社長が反論した。「このウワサで得をするのは、御社しかないと思うのですがね」
「それはそちらの推測でしょうが。そんなことをするほどヒマではないんですよ、おたくと違ってね」
その言いぐさに野崎は顔をしかめたが、サードアイの2人は予想していたように顔色ひとつ変えなかった。そのかわりに、田嶋社長が、カバンから数枚のプリントアウトを取り出すと、テーブルの上を滑らせてきた。
「なんですか、これは?」
「どうぞ、ご覧ください」
野崎は先頭の1枚を取った。やはり数件のツイートだったが、内容が異なっていた。
「これは?」野崎は訊いた。
「日付と時間を見てください」田嶋社長は落ち着いた声で指摘した。
言われた通りにツイート日時を確認した野崎は、思わず唇をかみしめた。先日、サードアイが来社した日時だ。隣の城之内に目をやると、おそらくツイートの内容から今頃、真相に気付いたらしく、穴が空くほどプリントアウトを凝視していた。
「先日、御社を訪問させていただいた日時です」田嶋社長は城之内の反応を見ながら続けた。「城之内さんが、同じ時間に携帯をいじっていたことを、我々は見ています」
「そうでしたかね」城之内は少し固い声で答えた。「憶えていませんがね。スマホはいつも触ってるものでね」
「その、desert_force15というアカウントは、うちで用意したものです。あらかじめ時間を決めてツイートさせました。ご覧の通り、どちらも1分後にリプライが返って来ています。ほぼ同時刻に、城之内さんが携帯を操作していましたね。うちの井上が時間を見ていたので間違いありません」
担当取締役と広報課長は意味がわかっていないようだが、野崎は頭を抱えたくなった。やっぱりあれは、サードアイの発信したPINGだったわけだ。城之内はそれに律儀に応じてしまった。
「記憶にないですね」城之内は言い募った。「そうでしょう、野崎さん」
野崎は城之内を睨み付けた。城之内は、野崎に口裏を合わせろと暗に訴えているのだ。
「一応言っておきますが」野崎が口を開く前に、田嶋社長が身を乗り出した。「そのときの様子は録画させてもらっています。野崎さんが、城之内さんに、マナーにしろと言った様子が記録されていますよ。城之内さんの携帯の着信音もね」
城之内はフンと鼻を鳴らした。
「あれは女にメールしてたんですよ」城之内は田嶋社長から目を逸らしながら言った。「ちょっと女のことでトラブってましてね。打ち合わせ中に申しわけないと思ったんですがね」
「そうですか。携帯を見せてもらうわけにはいかないでしょうね?」
「あたりまえでしょう。プライベートなことですからね」
「では、全く同じ時刻に、たまたまメール操作をしていたと、そう仰るんですか?」田嶋社長は追求した。「御社では、来客との打ち合わせの際に、そのような非常識な行為が許されているんでしょうか?」
その真剣な顔を見て、ふと野崎は違和感を感じた。サードアイ側が言っているのは、あくまでも状況証拠にすぎない。城之内のスマートフォンの履歴を確認すれば、おそらく一致するのだろう。だが常識的に考えて、城之内がそんなことを了承するはずがないことぐらい、わかりそうなものだ。
ひょっとすると、城之内を怒らせて、ぽろりと口を滑らせる作戦なのだろうか?だとすると、それは見通しが甘いとしか言いようがない。城之内はエンジニアとしては三流かもしれないが、自己保身能力は与党の政治業者並だ。
「来客といっても」城之内は薄ら笑いを浮かべた。「おたくとは、今現在、取引があるわけじゃないし、うちから求めた打ち合わせでもないですからね。そこまで真剣になれなかったんですよ」
その上から目線は何とかならんのか、と野崎は城之内の注意を引こうとしたが、傲慢な部下は野崎のことなど無視しているようだった。神代記者の様子を窺ってみると、特にどちらに味方をするでもなく、メモを取っているだけだった。両社の合意で、この対談の様子は録音されているのだが、参加者の様子などを書き留めているらしい。
「野崎さんはいかがですか?」城之内を相手にしていても進展しないと思ったのか、田嶋社長が野崎に矛先を向けてきた。「城之内さんの仰っているような偶然が、本当にあると思いますか?」
「さあ」野崎の声は乾いていた。「私には何とも。彼の携帯を見る権利はありませんし」
「そうですか」
田嶋社長はあっさり引き下がり、野崎は拍子抜けした思いを味わった。
「では、別のことをお訊きしたいのですが、よろしいでしょうか?」田嶋社長は話題を変えた。「例のT市立図書館の事件で、プログラマの男性が逮捕されてしまった直後、城之内さんから弊社にお電話をいただきました。ここにいる井上が受けた電話です」
城之内はうなずいた。
「ええ、もちろん憶えていますよ。それが何か?」
「井上によると、T市立図書館向けカスタマイズ関係のソースがなくなってしまったので、うちが保有していないか、というお問い合わせでした。間違いありませんか?」
「間違いないですよ」
「そこのところをお訊きしたいのですけどね」田嶋社長は城之内の顔をじっと見つめた。「御社はソース管理システムで、ソースを分散管理されていらっしゃるそうですが、それでも消えてしまったんでしょうか?」
「そうですね」城之内は肩をすくめた。「まあ、人間のやることですからね。ミスは誰にでも起こりますよ」
「ミスと仰いますが、ソース管理システムというものは、ヒューマンエラーでも、簡単に消えないような仕組みになっているんじゃないんでしょうか」
「あのですねえ」城之内は苛立ちを隠そうともしなかった。「あなた、実際に使ったことがあるんですか?あなた、プログラマじゃないでしょう?名刺見ると、取締役社長兼営業部長となってますよね。ソース管理システムのなんたるかを知ってるんですか?知らないでしょう?」
「はあ、まあ、確かに私は使ったことがありませんが……」
「だったら、ソース管理システムというものは、なんて、軽々しく口にしないでもらいたいもんですね」
「はあ、申しわけないですな。でもですね」田嶋社長は城之内の剣幕を、さらりと受け流した。「確か、ソース管理システムは、御社で開発されたものだとか」
「だから何だと言うんですかね」城之内はまくしたてた。「だいたい、あれは作りがいい加減で、使いづらいし、まだバグがいくつもあるんですよ。実際、他の部署でもソースが消えたとか、文字化けしたとか、よく聞きますしね」
余計な口は挟まないようにしよう、と決めていた野崎だったが、城之内のあまりの言いぐさに、思わず声を上げそうになった。五堂テクノのソース管理システムは、GitHubをベースに、社内の専門チームが独自のカスタマイズを加えたもので、その使い勝手はどこからも不満が出る余地がないぐらい完成度が高いものだった。五堂テクノの組織形態に特化しすぎていなければ、外販できる、という声もあるぐらいだ。ソースが消えるだの、文字化けしただのという話は、これまで一度も上がったことがない。
田嶋社長は、井上に視線を向けた。それを受けて、今まで無言だった井上が口を開いた。怒りなのか、それとも焦りなのか、その若い顔は強張っている。
「すみません。私は、T市立図書館カスタマイズで、しばらく開発を行っていました。御社の開発ルームでです。もちろんソース管理システムを使用していました。その経験からすると、どんなソースであれ、完全に消えてしまうということはあり得ないと思うのですが」
「いや、だからね……」
「確か、通常の分散/冗長化されたリポジトリとは別に、独立したリポジトリがあると聞きました。全てのコミットの差分を完全に保持しているそうですね。万が一、実装担当者のローカルリポジトリや、通常のサーバのリポジトリが失われたとしても、リカバリが可能だと説明を受けました。違うんでしょうか?」
城之内は沈黙した。
そういえば、この井上という男は、数年前に数ヶ月とはいえ、五堂テクノ内で実装作業をやっていたんだった。それを思い出した野崎は舌打ちしたくなった。協力会社からの人間を受け入れる際、当然、ソース管理のレクチャーも行っている。今、まさに井上が質問したような内容だ。どの協力会社にも等しく行っているレクチャーだから、ここで否定しても、裏を取るのは簡単だ。城之内も、それを知っているから、沈黙したのだろう。
野崎はソリューション本部の担当役員と広報課長に目をやった。担当役員は、何とかしろ、と言いたげな視線を野崎に送り込んでいるし、広報課長は全く意味がわかっていないようだ。やむなく、野崎は口を開いた。
「確かに井上さんの言われる通り、独立したリポジトリはあります。ソースが消えたと言ったのは、そのリポジトリから消えたということです」
「そうなんですか?」井上は野崎に向かってではなく、城之内に確認した。
「ええ」城之内はホッとしたようにうなずいた。「そうです」
「私が聞いたところによると、独立リポジトリの内容を削除するのは、管理権限を持った方が、明示的に削除コマンドを実行する必要があるとのことでしたが、どなたかが削除されたということでしょうか?」
城之内が勢い込んで何かを言おうとしたが、野崎は鋭い視線で黙らせた。
「そういうことです。残念ながら」野崎は城之内を無視して答えた。「誰かが間違って削除してしまったようです。もっとも、そこのところは、あくまでもうちの管理上の問題です」
「つまり、あくまでも偶然だと仰るんですか」田嶋社長が身を乗り出した。「T市立図書館カスタマイズ案件で問題が発生し、その原因がうちのプログラミングにあるというウワサが広まり、真相を突き止めるにはソースを確認するしかない。そのソースだけが消えてしまったと」
「そういう偶然もありますよ」城之内がまた参戦した。「とにかく消えてしまったものは仕方がないでしょう」
「削除はソース管理システムのバグによるものですか?」井上が訊いた。「それとも、どなたかが削除を明示的に実行したんでしょうか?それなら、ログが残っているんじゃないでしょうか?」
「残念ですが、それも今となっては不明です」野崎は苦労して平静を保ちながら答えた。
「わかりました」井上は短く答え、田嶋社長と視線を交わすと、そのままおとなしく引き下がった。
「他には何か?」神代記者が水を向けたが、田嶋社長は首を横に振った。
「井上さんはどうですか?」
井上は首を横に振りかけたが、不意に思い直したように顔を上げると、身を乗り出すように腰を浮かし かすれた声で発言した
「城之内さん、あなたは本当は全部わかっているんじゃないですか?」その視線はまっすぐ城之内に突き刺さっている。「某ネットの掲示板で、流出ソースの買い取りを呼びかけたのは、城之内さんじゃないんですか?」
城之内は軽蔑するような薄笑いを浮かべた。神代記者と高村女史がいなければ、遠慮なく嘲笑していたかもしれない。
「某ネットの掲示板って何のことですかね」
「それもとぼけるんですか」井上が冷静さを失いかけていることは明らかだった。「金にものを言わせて証拠隠滅するつもり……」
「いい加減にしてくれませんかねえ」城之内がうるさそうに遮った。「証拠もないのに誹謗中傷するのはやめていただきたいですね。私がその何とか掲示板に書き込みした証拠でもあるんですか?」
「私は、その、あるサイトで、流出ソースを買い取るという書き込みを見ました。金に糸目はつけないという内容でした。御社以外にどこがそんなことを書き込みするというんですか?」
「さあ知りませんねえ。ちなみにサードアイさんは、なぜ、そんなサイトにアクセスしてたんですかね。それこそ、不法な手段でソースを入手しようとしたんではないですか?」
「……」
井上は悔しそうな顔で口をつぐんだ。それを見た城之内は、かさにかかって語を継いだ。
「そもそも、なんでソースを探そうと思ったんですかね」
サードアイ側の2人は顔を見合わせた。田嶋社長がちらりと野崎の方を見て躊躇いの表情を見せた。が、そのとき、別の人間が発言したので、全員がそちらに視線を向けた。
「一点、よろしいでしょうか?」
それまで黙って会話に耳を傾けていた高村女史だった。神代記者が驚いたように応じた。
「どうぞ」
「例のFTPサーバによる個人情報流出の直後のことですが」高村女史は落ち着いた声で述べた。「利用者情報だけではなく、いくつかのソースファイルなども同時に公開されていた、という情報が寄せられました」
「高村さんはそのファイルを確認されたんでしょうか?」神代記者が訊いたが、高村女史は首を横に振った。
「いいえ。残念ながら、わたくしが確認したときには、すでに問題のFTPサーバーは閉じられていました。しかし、その前にダウンロードしたという匿名の情報が何件か寄せられています。いずれもわたくしに買い取ってくれないか、という内容でした」
「応じられなかったんでしょうね」
「もちろんです。明らかにデタラメだと思われるものがほとんどだったので」高村女史はきっぱり断言したが、少し笑って続けた。「ただし、中にはかなり具体的なファイル数や内容などを載せている情報もあったので、一概にいたずらだと切り捨てることはできないでしょう」
「つまり、ソースファイルの流出は実際にあった可能性が高いということでしょうか?」
「わたくしはそう考えています」
「ありがとうございます」神代記者は城之内に視線を戻した。「いかがでしょうか?五堂テクノ側では、その事実を認識していらっしゃったのでしょうか?」
「推測に過ぎませんね」城之内は話にならない、とでも言うように肩をすくめた。「こちらではそういう事実は把握していません」
「ではネット上で、流出ソースの買い取りを求めたことはないと仰るんですね?」井上が全く信じていないような顔で訊いた。「そういう書き込みがあったことは事実なんですよ」
「うちだという証拠はないんでしょう?」城之内は余計なことを言うな、とでも言いたげに野崎の方を一瞬だけ見た。「証拠があるなら、こちらもそれなりに真摯に対応させていただきますがね。おたくの会社は、これまで状況証拠しか上げてませんよ。対談を申し込んで来るからには、何か材料があるのかと思ってましたが、これじゃあ私の貴重な時間のムダでしたねえ」
井上はまだ何か言いたそうな顔だったが、田嶋社長が井上の肩を叩いて、椅子に引き戻した。
これで終わりなのか。野崎は自分が少し失望していることに気付いた。
「さて、これでは対談になりませんから」神代記者が苦笑しながら、五堂テクノ側の参加者を見た。「五堂テクノさんの方からは、何かございますか?」
和田広報課長が担当役員の顔色を窺いつつ、口を開いた。
「えー、弊社としましてはですね、例のFTPサイトの問題については非常に遺憾ではあります。しかしながら、それは運営を任せている別会社のミスであり、はっきり言えば弊社に責任がないことは明白でありますな。そもそも……」
しばらく広報課長の独演会が続いた。野崎が見たところ、見かけ上だけでも熱心に拝聴しているのは神代記者だけで、残りの人間は退屈そうな表情を浮かべている。高村女史など、露骨につまらなそうな顔でプリントアウトで折り紙をしていた。野崎自身も、広報課長の身のない言葉の垂れ流しには何の興味も抱けなかった。
サードアイの2人の様子も他の連中と大同小異だったが、野崎はふと違和感と既視感を同時に感じた。それが何なのか突き止めようとしたとき、会議室のドアがノックされた。
「はい、どうぞ」城之内が答えた。
「失礼します」
言葉とともに入ってきたのは、40代ぐらいの男性だった。
「遅れて申しわけありません」男性は一礼した。「サードアイの東海林と申します」
(続く)
この物語は事実を基にしたフィクションです。実在する団体、個人とは一切関係ありません。また司法当局の捜査方法などが、現実のそれと異なっている可能性があります。
コメント
名無しPG
対談の件は緊張かつドキドキしながら拝読しました。
この引きはずるい!来週が待ち遠しすぎです。
あと一応一点だけ。ここは「得」の誤変換かなと思いましたのでー。
> 1円の特
次回、東海林さんの活躍を楽しみにしています。^^
LG
>前にどっかの市長が同じような恫喝をしたが
某T市のH市長ですねw
どら猫ホームズ
>ソースを探そうと思ったんですかね
この人なんで知ってんだ?
豚
それこそ、不法な手段でソースを入手しようとしたんではないですか?
に対して無言だったからでしょう?
通りがかり
サードアイ側は城之内に対しては、
買取をしようという書き込みをしてましたよね?
という掲示板にある状況証拠となる客観的な事象を突いたのに対し、
城之内はうかつに
「探そうとした」とうっかり主観を述べてしまってることが、
何で知ってるんだ、ってことなんじゃないですか?
サードアイ側は探そうと思って掲示板を見た、
とは一言も城之内には言ってないわけですから。
うっかりボロを出した伏線が敷かれたわけですねwww
いぬこ
リーベルGさんはこれまでのものをKDPでだしたりなど考えたりはしてないのでしょうか?
まとまった形で読みたいです。
西山森
城之内の「商取引」の相手の1人が実は東海林さんで、ガセネタを高値で売り付けて迷惑料分ぐらいは巻き上げていたりして。
luv3tw
東海林さん、掲示板の書き込み記録をipとホスト名付きで印刷してたりして
みすと
会社からってのが城ノ内がまたアホ過ぎるがその線かなあ。
保身上手い設定なのにそういう気が回らないというのは
脇が甘過ぎる気もしちゃうけど。
どら猫ホームズ
来週いよいよ東海林VS城之内か。胸熱だな。
gao
システムエンジニアとは全く関係ない生活をしているのですが、読み物としてとても面白く読ませて頂いております。専門用語など???もありますが、それでも面白いです。元請け、下請け、外注、アルバイト。。。結局どんな商売も大変なんだなぁと全く違う畑から楽しませて頂いております。
ヒロポング
何かを検索してる最中にここにたどり着き、一気に読んでしまいました。
素晴らしく面白いです。続きが早く読みたいです。
ITがなんの略かもわからない僕ですが、この話のモデルとなった事件がすごく気になりました。大人になると保身や金のために、ミスに適当な理由をつけてミスでないとゴリ通すのはどこの世界でも一緒ですね。
これからも楽しみにしてます。
とおりすがり
ミドリのコメントがあまりに胸に刺さるな...