知識を得ることの、その先
先日の記事のあとですが、
あーつまり自分はこう言いたかったんだ、
というフレーズが頭に思いかびました。
要は、
「他人に自分を定義されたくない」
これですね。
さて。
今回のお話は、あくまでも私個人のスタンスです。
では、この名言から。
尽く書を信ずれば、則ち書無きに如かず
書物の内容を全て信じてしまうのであれば、
それは書物を読まないことの方がマシだ
孟子の言葉です。
ここでは書物と言っていますが、
要は他人の知識、知恵、情報を得た際に、
それをそのまま鵜呑みにしてしまうことへの警鐘なんでしょう。
とはいえ、人に与えられた時間は有限です。
その前提で出来る限り車輪の再発明をしないで済むには、
また、様々なノウハウが積み上がった上での新しいイノベーションを生み出すには、
こういった「情報の共有」があってこそ成立するものでしょう。
生物学的、また進化論的には、この「情報の共有」の高度化が、
そのまま人口増加のスピードに直結しているのかもしれません。
※人口増加が良いのか、という議論もあるでしょうが、それは置いておくとして。
いずれにしても、他者が消費したリソースを効率良い形で吸収出来たとして、
「そのまま」であればそれは既知であり、既知なものには高い値段はつかないわけです。
ですから、自分なりのエッセンスを付加したり、
様々な「情報」を組み合わせて別な活用方法を見出したりすることで初めて、
その人自身の価値が向上するんじゃないかなと、そう思っています。
そのためには、自分が必要だと認識して接した情報については、
出来るだけその根本的なところまで理解して、
自分の血肉にしていくことを意識していく必要があるんじゃないかな、と考えています。
重いかもしれませんけど、結局のところ、常日頃から地道に積み重ねていく以外に、
地力は上がっていかないと思うので。
コメント
匿名
同意ではなく申し訳ありませんが私の感じたこととして
他人に定義されたくないではなく
間違った定義をされたくないのではないでしょうか?
名前にもありますとおり、かなりのユニーク個体なので
未発見生物をテンプレ定義することはできないはずです。
なのに~型だよねとかいわれるとその時点で間違っているわけです。
だれしも間違った定義は受け入れがたいものがあると思います。
ところで鵜呑みはよろしくないというのが昔の諺にもあるのがおもしろいですね。
また一つ賢くなれた気がします。