株式会社ジーワンシステムの代表取締役。 新しいものを生み出して世の中をあっといわせたい。イノベーションってやつ起こせたらいいな。

「みんなが言ってる」は技術者が口にする言葉じゃない!

»

 起業していろんな壁にぶち当たってきました。

 もちろん、一番辛いのは資金繰りです。

 それはこっちに置いといて、私は「起業しようか」と思うような変わり者ですから、やはり社員との「価値観の違い」という壁は非常に大きい。

 それに、ITバブル崩壊後の起業ですが、ベンチャー企業に何か妙な期待感を持ってくる人が多く来るので、大変苦労しています。

 困るのは、ベンチャー企業にいるだけで自分が伸びると勘違いしている人です。当たり前ですが、自分で努力して悶絶するほど考え抜かないと伸びないです。

 それに、社内で「提案してください」と話しますけれど、ほとんど何も出てきません。

 私が聞く耳を持ってないのでしょうか?

 それもあるでしょうが、提案の仕方を教えてもらえるのを待っているように思います。提案書のフォーマットを作って、手取り足取り教えないといけないかもしれません。8割ぐらい書いて「後を埋めなさい」って言ってやらないと出てこないんじゃないかと(笑)

 私としては、提案したくてしたくて仕方がないことがあるから、5年で95%は潰れるという危険なベンチャー企業に来るのだと……。勝手な勘違いがあるのでしょうね。

 若い人たちは、本当に引込み思案です。まぁ、半分ひきこもりを採用していますから当然か(笑)

 それに、会社の空気というものを、ものすごく気にするようです。社長に何か言って、気まずくなるのは耐えられない。これはイジメで無視されて自殺してしまう小中学生と似ています。無視した友達(?)を自分の命より大事に思っているか、と言えばそんなことはないのですから……。

 社長を尊敬しているわけでも、社長が言ってることを正しいと思っているわけでもなく、ただただ、議論を避けているようです。

 逆に、私はこう考えます。

 気まずい空気に耐えるのと、納得いかない仕事をすること、どちらが大変かと。

 私にとっては、納得いかない仕事をすることの方が何倍も耐え難いことですから、相手が誰であっても納得するまで議論を挑みます。

 それに、そもそも「何か意見を言って気まずくなる」という感覚が、私には理解できないのです。

 私と同い年の人を採ったときの話です。幸いなことに、彼は私に意見を言ってきました。しかし、残念なことに、どれも愚にも付かないことばかりです。

 意見の内容は、一般には正しいことかもしれませんが、その論拠が

 「大手でやっていた」

 「こんな大きな現場でやっていた」

 「××に書いてある」

 「Aさんが言ってる」

 「みんなが言ってる」

 ……これらは、自分の頭ではまったく考えてない思考停止状態です。

 ベンチャーとしても、技術者としても、思考停止になったら終わりでしょう、そこから何かが生まれるはずもない。

 思考停止になった時点で、技術者から作業者に変わっているのです。

 つまり、私にとっては愚にも付かないことで、最も忌み嫌う意見です。

 それに、私は業界を変えたいと思っているぐらいですから、大手でやっていること、誰かが言っていることなど、ほとんどすでに検討済みです。即「×××の理由で却下」となります。

 そうすると、彼は「私の意見は何でも却下する」と怒るのです。

 私はこれがまた理解できない。

 却下の理由に異を唱えるなら、そこからが議論ですけれど、「私の意見は何でも却下する」と言われては、私は「ちゃんと却下の理由を説明したじゃないか」と、噛みあわない議論と呼べない言い合いが続くことになる。

 議論の最中に出た意見で「誰が言った意見」というのは、判断の根拠にはなり得ません。これは私にとっては、議論をする上で最も重要なことで、当たり前のことと思っています。

 社長が言おうと、アルバイトが言おうと、「良い意見」か「悪い意見」かを論じ合うのが議論だと信じています。私に反論しても、社長の意見にケチをつけたではなく、単に意見を言っただけで、それで空気が悪くなる(と考える)というのはおかしな話ですし、そんな考え方を持つ方がおかしい。

 もっとも、意見の論拠が「みんなが言ってる」とかだと、私も論理的ではなく、極めて感情的に「根拠になってない! アホかお前は!!」って罵倒しますけどね……。

 もちろん、同じ意見を言っても、自分で考えた論拠が出てくれば、そこから新たな議論ができる非常に有意義なものになりますから、罵倒したりはしません。

 それは、一見愚にも付かないような意見でも、本当の議論ですね。だから、若い人だろうが、アルバイトだろうが意見を求めてはいます(空振りですけど……)。

 ともかく、彼の「私(自分)の意見は何でも却下する」という愚痴は意味不明です。

 裏を返せば、彼の頭の中では、誰が言ったかで意見の価値が変わるのでしょうが、私の中では意見の内容が重要であり、論拠が重要であって、誰が言ったかは無意味です。

 もちろん議論の結果、私が言った意見がどこにも残っていなくてもまったく構いません。ですので、「私(自分)の意見は何でも却下する」の意味がまったく理解できなかったのです(今も、彼が何を言いたかったのか悩んでいます)

 上海に赴任していた頃は、口角泡を飛ばして議論しても、チャイムがなったら一緒に笑ってご飯を食べに行きます。

 研究所にいたときも、派遣の私も意見を言ってました。

 もちろん、私の意見が通ることはないというか、通ったとしても原型がないほど、しっかりブラッシュアップされて返ってきました(それを通ったとは言わないね)。

 当たり前ですが、研究所では「誰の意見」ではなく論拠が重要です。

 それこそが議論だと信じているのです。

 そういえば、私がいた会社の社長は戦前生まれで、コンピュータなど超が付くほど大嫌いですから、コンピュータの導入を説得するには本当に骨が折れました。

 で、何回もチャレンジする間、他の社員は居酒屋では応援してくれましたが、会議では足を引っ張ります。

 「社長側に付かないといけない」と、「誰が言ったか」が重要と考えているのでしょうね。

 それが日本で言うところの大人の対応なのでしょう。

 と考えると、世代の問題ではなく、私が日本において異常なのだと分かります。

 私は浪花節の人間ですけれど、この辺の感覚はアメリカ人に近い考え方なのかもしれません。というか、子供なんですね。

 しかし、不況に対応していこうと思えば、人も会社も、変われることが重要でしょう。

 特に技術者であれば、自分の意見を持って、自分も組織も変えていくぐらいのバイタリティが必要じゃないかと思うのです。

 おそらく、ホンダやソニーも初期の頃は同じだったんじゃないかと思います。そして、本田宗一郎氏でなくても、議論に参加する誰もが『みんなが言ってる』なんて言い出す人間を認めなかったんじゃないでしょうか(今でも認めないでしょう)。

 私と比べたらいけませんね。自分の小ささを表している話です……。

 弊社の社員は、全員ではないけれど、ひきこもりがちのデジタルネイティブです。

 完全に違う人種ですが、彼らをバイタリティー溢れる本物の技術者にするにはどうしたらいいんだろうと、押したり、押したり、押したり、引いたりしながら、試行錯誤してやっています。

 彼らが本当に小鳥のようにナイーブと分かっているんだから、もっと柔らかく当たればいいのでしょうけれど、弊社はベンチャー企業ですから、そんなことはしていられない。

 そんなやり方で5年もよくもったよね~(笑)

 助けてくれた皆様のお陰で、運も良かったです。ハイ。

 ……もちろん一方で、マーケティングにおいては、空気を読むこと際に「みんな」が非常に重要です。

 そこは否定しませんよ。

Comment(7)

コメント

三年寝太郎

人は、インプットだけでは思考できないもの。
思考になるには、どんなに小さくてもアウトプットが必要でしょう。
議論したり意見を言えるかどうか以前に、疑問や不安や不満を、
恐る恐るでも言える環境なのでしょうかね?
悪い話が聞こえなくなったら、経営者としては終わりだ、という方もいらっしゃいます。
たとえマイナスであってもアウトプットには変わりはない。
アウトプットがなければ、誰も、何も判断できない。
コミュニケーションとはアウトプットの連鎖のことを言うらしいです。

マイナスでも取敢えずは受け取れる。では不十分で、
マイナスを積極的に取りに行く。でなければ、
今プラスを出せない人からは永久にプラスのアウトプットは引き出せないと思いますよ。
なぜなら、プラス以前に、0まで上がってこれない人が殆どなのですから。
出てる杭なんてそうそう見かけません。
世の中そんなものではないでしょうか。

数多いるエンジニアの中で、精神的にニュートラルな状態の人は、絶滅危惧種並みに数が少ないです。
だって、死の行進に疲れ果て、繰り返す悪夢を恐れてますから。
でも、疑心暗鬼が自己暗示となり、また繰り返すんですから救いようがないのです。
まあ、一部の業界の一部?の人たちだけたと思いますが。。。

私が知る限り、よく自爆してるやつの方が、よっぽど頭使って考えてますよ。
もちろん、いろんな意味で足りてないやつらです。
が、自分の持ってるモノを目一杯使って、何かをしようとしてますし、考えてます。
少なくとも、アウトプットする意思は強く、アウトプットする習慣が身に付いている。
問題はインプットの質と、インプットしたことの定着率なので、そこを上手くフォローすれば、
きっかけ作りぐらいは黙っててもやってくれたりもします。
時間はかかりますが、切り捨てるなんてもったいないぐらい出力に偏ったやつは、
探せば案外結構います。
自分の頭で考えて、自分の責任で言動出来るのは、
優秀な人意外では、変なやつかおかしいやつぐらいですから、
そういうのを積極的に使わないと、多様性が求められる世界ではじけるのは難しいのでしょう。

大半の普通の一般の当たり障りのない人達は、自縛してるか地縛してるか時縛してる人が殆ど。
なぜなら、その方が楽だとおもってるから♪
それなはぜかというと、エネルギー使わなくて良いですもんv(^_^)v

人間(というより生物かな?)の抱えてる本質出的な問題は、
いつの時代も、あらゆるレベルで「エネルギー問題」なのでしょう。

人に意見を言うのも、議論をするのも、大量のエネルギーを出力しますもん。
アウトプットに慣れてないと、出し切ったって、気持ちの切り替えや切欠一つで
すぐに補充できるってことすら判らないんです。経験してこなかったから。
化石燃料じゃないんだから、使ったってなくなるってものでもないんですけどね(笑)

真先に、失うことを恐る。そして失ったら取り戻せないと思ってる。
失わずにすむならいろんなものに縛られている方が良いと感じてる。
のではないですかね。

ご存知かもしれませんが、よろしければこういうのはどうでしょうね。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/pba/20080801/166981/

現場に熱があるということが、人が社会活動する上でどれ程大事なものか、考えさせられます。
特別な風が吹いていなくても、当たり前に空気があって、そこに熱があれば上昇気流が生まれる。
そういう話ですかね。

余計なお世話でした。

三年寝太郎さん

ありがとうございます。

イロイロと判ったことがあるのですが、あと、2つほど
書き溜めたことがあるので、その後に、書かせていただ
きます。

教育が悪いのですけれど、日本では自己主張しない画一的な
作業者を作る教育を受けてきました。
高度成長を支えるには大変寄与したと思います。

お陰で、自己主張するのが本当にへたくそですし、それで
空気が悪くなると考えるし、議論で自分を否定されたと
考えるようです。
案が否定されただけなのに。

当たり障りのない人というのは、つまり、作業者(歯車)
でその方が楽ということです。
歯車はそれと判らないように搾取されて使い潰されるの
ですけれど、それを望むんだから仕方がない。


もっとも、弊社に来るような人は、自分では歯車じゃない
と思って来るらしい。
これは、個性のゆとり教育のお陰ですかね。
しかし、個性のゆとり教育の根本は未だに歯車になること
を求めているから、KY(空気嫁)なんて言葉が出るので
しょう。
本当に個性を重視するなら、空気より自分の主張の方が
遙かに大事ですから。

もちろん、弊社では歯車になりそうもない変わり者を選んで
いますけれど、それにしてもみんなナイーブですよね。

三年寝太郎

こんばんは生島さん

たしかに教育の影響はあると思いますが、私は、自分を出すという点においては、どんな環境でどんな遊びをしてきたか?が、より重要なのではないかと思っています。
私は、四国のさびれた漁村で育ちました。周りにあるのは山。そして海。1ヶ月まとまった雨が降らないと、すぐに干上がってしまう小さな川もありました。そんな環境ですから、遊び場は主に自然の中。
いまでは絶対に味わえない、スリリングな遊びや冒険が思う存分出来ました。20メートルはある崖を滑り降り(落ち)たり、よじ登ったり、台風の日に港で泳いだり、増水した川に飛び込んだり、今考えたら空恐ろしくて出来ないことも、なんとなく思いつきで誰かが言い出して始めて、クリアできるまで、一緒に遊んでる皆でチャレンジしました。

都会でたとえるなら、団地の屋上から樋を伝って降りてみたり、逆に上ってみたり、交通量の多い国道の横断歩道ではない場所を、車が途切れた瞬間を狙って渡って見たり、というレベルの遊びになるのかもしれません。
しかし、必ずだれか大人が見てるでしょうから、恐らく絶対、止められるでしょう。
そしてこっぴどく怒られて、もうしません・・・になるのではないか、と思います。

幸いなことに、私たちの遊びのなかに大人が介在することは皆無でしたが、それ故か、一緒に遊んでいる仲間が出来ること、体力や得意不得意などを皆がなんとなく把握してましたし、命を危険にさらすことのない程度に、今、どこまでやっても大丈夫か?を試す日々を送っていたようです。
ただ、それも、皆が全力で遊びに挑んで、その上で楽しんでいたが故に把握できたことだと思います。

人が少ないので、遊ぶときは上は2,3歳、下は時には5,6歳年の違う人が一緒です。だから、自分達より小さい子がいるときは、一緒に遊べるように思い切ったハンデをつけるし、その場でルールも変える。そして、出来ないことは無理にやらせない。
逆に自分より年上と一緒のときは、年上のレベルに合わせようと背伸びして、不利を承知で必死でがんばりました。その方が楽しかったから。
当時は、小学生だったからかもしれませんが、年上と遊んでいても、中学高校のときに感じたような上下関はなかった。
2,3歳違っていても皆対等なんですよ。だから、年上だろうとおかしいと感じたら意見は言いましたし、それで遊んでもらえなくなるなんて事はなかったので、何年かたって自分が年下に意見を言われる様になっても、自分が悪かったならすぐに改めるし、相手がおかしいならちゃんとそれを言って納得させた上で一緒に遊んでました。

つまり、自己主張をするつもりはなくても、自分の思ったことを普通に言い、相手に意見を求めなくても、面白いかそうでないか、楽しいか楽しくないか、止めたいか続けたいか、皆、それぞれのペースで感じてることを言う。
自分の感じていることをそのまま言葉にしてるだけなのですが、それを拒絶したり、無理にやらせたりということも殆どなかった。
ときにけんかもしましたが、後腐れが残ったり嫌な思いをしたことはありませんでしたし、小学校のときは、そもそもいじめというものが概念としてなかった様に思います。
どこまでやったら、或いはやられたら嫌か?が判っていたからかもしれません。
今と比べて考えると、恐ろしく幸せな子供時代だったんだな。。。

かなり脱線しましたが、要するに、教育は確かに人の成長に重要な役割を果たしますが、しかし、一方的に教えられることよりも、遊びの中で学び取って、そこから自分で考え、アウトプットを全力で繰り返して身に付けるものの方が、実はかなり重要なのではないか?ということが言いたいわけです。
そこに本気や全力がないと、限界がわからないんですから。遊びに限定しなくても良いかも知れませんし、全力のインプットって言うのもありかと思いますけどね。

私の世代は、ファミコンの第一次ブームのはしりで、私も結構早い時期、ブームになる前に買ってもらいました。しかし、ゲームも面白かったけど、外で五感全開、体力の限界まで遊ぶ方が遥かに多かったし、ゲームよりぜんぜん楽しかった。
だって、ゲームってクリアしたらおわりでしょ?新しいの買うったって、あの当時の子供の小遣いでは簡単に手が出せないぐらいの金が要るし。
それに比べて、自分達で考える遊びにエンディングはないし、しかも、ただ(笑)
一つクリアしたら次の関門を自分達で作って、筋肉も神経も脳みそも全部使って全力でクリアするために、無駄とも思える努力を真剣にしてました。

おそらく、自己主張や、自分にしかわからない、言葉にしたら上手く伝えられない感覚というものは、体を使って限界を知りながら自分の中に出来ていくものだと思います。

用意された遊びの中では、誰かが用意したものしか得られないし、用意されることに慣れると自分で考えなくなるから、ますます用意された遊びしか出来なくなる。
それは、「遊び」を「仕事」に変えても、きっとそっくり当てはまる。

経験とは、体験を知識化したものだと思います。体験が元ですから、体の感覚と頭で考えてることがリンクしているものです。だから、頭の中で思い出すことも含めてアウトプットは難しくない。
対して、学校教育は、知識を知識としてインプットします。体の感覚が伴わないから、殆どの人にはアウトプットが難しい。というよりどうすればアウトプットできるかもわからないことも多い。
生島さんの言う「ナイーブ」とは、そういうことなのではないかとおもいます。

生島さんは、よく遊んだ方でしょうか?
たとえあまり体を動かしてなかったとしても、少なくとも対人関係においては、積極的に本気を出してきたのではないかと思います。本気や全力、それをどれだけ経験してきたか。それも、ある程度の年齢になると恥ずかしがってやらなくなりますから、出来るだけ幼い時に出来た方がいいのだと思います。
ただ、成人してからでは遅いというわけではないと思います。

三年寝太郎 さん
おはようございます。

よく遊んだかと言われると…。
ファミコン世代ですが家にはなかった。
ファミコンよりザリガニやフナの方が好きでしたね(笑)

思っていることがあれば言えばいいのに、言う前にキレる。
世代間にギャップがあってもいいのですが、それを埋めるための議論にならないのは私が聞く耳を持ってないのでしょうけれど、議論というか、話し合いをしたことなくって、ものすごくうわべ(空気)の付き合いで幅広くというのを求めるのですね。

私は暑苦しいオヤジなので、うわべの付き合いは苦手です。

turbo

A:「私の意見は何でも却下する」
B:「ちゃんと却下の理由を説明したじゃないか」

正論です。

だからといって、却下し続けるのも士気低下につながる場合がありますので、
たまには、Aの意見を聞いて、Bの方でなにか閃くものがあれば、
そこから話を進めるということをやってもいいかもしれません。

turboさん
こんにちは。

まぁ、私も大企業の部課長クラスのように余裕かませる立場なら、たまには、Aの意見を聞いてって出来ますけれど、ベンチャーというのは5年で95%が潰れるのです。
そんな明日をもしれないベンチャーにとって、そんな悠長なことは言ってられません。
結果的にもっと悠長なことをしてますけれど(笑)

とおりすがり

社長が社員に対して一度でも罵倒した所を見れば、
そりゃ恐ろしくて発言出来ないって。

そんな簡単な事が理解出来ない社長が多いんだね。

ホンダやソニーも初期の頃から変わらず
ただの社員に対してはコレをやりなさいとおだてて指示するだけ。
意見を求めるのは幹部候補だけ。

ベンチャーってのを理由に逃げているだけで、
上司として仕事していない様に読み取れました。

また、社長になる様な人ってのは極少数派なので、
周りの考えが違うって感じるのが当たり前です。

世界中に社員の愚痴を書いて、この記事を読んだらモチベーションさらに下げ…

コメントを投稿する