改良せよ! はじめての機械設計(1)
ここから数回のコラムは、情報技術をちょっと離れます……。
【最悪は連鎖する……】
平成3年……千葉市で百貨店のアルバイトをしていた僕は……最悪だった。東寺山町の県営住宅を出て行くように、重ねて親父が言った。
「出てけー!!」
「おう、出てっちゃるわい!!」
ぶち切れて喧嘩腰になって、何度目かの「出てけー!!」で、ついに別居は決行された。運送会社を手配し、とりあえず家財を輸送するようにはしたのだが、実際にはまだ行くところがなかった。母親と一緒に、古びたビジネスホテルを拠点に、千葉市内で70万円の敷金で済むような物件を探していた。……その物件が、また、最悪だった。
千葉市内の物件。そこには、尾崎金次郞(仮名)が住んでおり、上の階で好き勝手放題をしているのだった。夫婦で口論する千葉弁の汚い罵り、妻への暴力をふるう音、小銭をぶちまける音、夜な夜なエッチをする声……すべてが耐えられなかった。居住は、10カ月ももたなかった。泣く泣く、兵庫県の親戚に援助をお願いすることにした。母親の調停離婚はもうで済んでいた。そこで「子の氏の変更」を千葉家裁に申し立て、僕は初めて「田所」になった。
大家さんに訊いたところによると、尾崎某は前科があり、少年院や刑務所への入所歴があり、地元警察も「勝手知ったる相手」な、「要マーク人物」だったのだ。軽量鉄骨の住居を明け渡す際、「ごめんなさいね」と大家さんが言ったそうだ。敷金、礼金はすべて返却された。
【親戚を救済するにも礼儀あり】
兵庫県芦屋市の親戚に救済されたのだが、今度はその救済の仕方が悪かった。兵庫県尼崎市。商店街の裏通り。次の住環境は、ラーメン屋の真上。中国料理「華山」(仮名)の店主と騒音をめぐって話し合いを持ったのだが、それはやがて決裂し、一介の中華バカと、果てしないバトルになった。たとえ一晩でいい、静かなところで眠るのが夢だった。
中華鍋をこすり、叩く音はエスカレートし、こちらも防臭、防音対策に必死で、壁面一杯に発泡スチロールを貼る、眠れない旨、地元保健所に通報するなどしたが、解決することはできなかった。ちなみに、阪神大震災を経た約20年後の現在、その軽量鉄骨の住居も、中国料理「華山」も、跡形もなくなっている。最終的に、バトルは誰が勝ったのだろうか。
そんなこんなで、工業高校の情報技術科で電子製図しかしてこなかった人間が、ドラフターを操り、やがて機械系CADを操ることになろうとは、予想だにしなかった。
【最悪のコンディションで臨んだ、初めての正社員面接】
「きみは、絵を描くことは好きか?」と、面接で工事部長 兼 専務が聞いた。
「はい、電子製図ならやったことがあります。あと、シーケンス回路です」
「これから入るCADって言うんはなあ、コンピュータで絵が描けるんやで、どうや?」
「はい、向いていると思います」
……一通り、形式的な面接が済んで、こいつならばどうやら大丈夫そうだろう、ということで、何とはなしに、技術部への配属が決まった。……ここから始まる約1000日が、僕にとって最初のバトルの日々の始まりだった。
いろいろあって、親戚の製作所にお世話になることになった。そこで、初めての上司となる人物は、何というか、この製作所での「技術の教祖さま」的存在な、一種、独特の宗教じみたオーラを背負った、ひとくせもふたくせもある、ただならぬ人物だったのだ。当時の僕は、まだそれを知らない……。
【上司さまは教祖さま?】
わたくし田所が初めていただいた仕事は、なんと「機械の分解」だった。何を分解するのか。それは「業務用LPG液自動切替弁」だった。パテントの関係で詳しくは申し上げられないが、要は、片方の系統のLPG液の圧力をモニターして、圧力がもし大気圧になったら、それがトリガーになって、もう一方の新しいLPGガスボンベ系統に自動で切り替えられる仕組みなのだ。これにより、2系統の配管に切れ目無くLPGボンベを用意すれば、システムとして切れ目なくガスが供給できる、という理屈だ。
それを自力で開発し、社に貢献しているのが、この技術部長だった。課とか係は一切なく、単に僕の肩書きは「技術部員」だった。つまり、取締役技術部長から、日々ダイレクトに指揮命令が伝わるプレッシャーは底知れなかった。20歳かそこいらの若造が、しかも「前職は百貨店」な若造が、まるでどこかの「ヨガ道場の老師」いや、もっと言えば「どこぞの教祖さま」のような、取締役技術部長とサシでやりあうのだから、精神的にたまらなかった。
また、扱うモノが「爆発物」なので、もしもミクロン単位でも設計を誤ったら、そしてそれがガス漏れ、引火した場合、僕は直ちに「業務上過失致死傷罪」に問われかねなかった。あぶない、あぶない。
(次回、分解せよ! 初めての機械製図……に続きます)