ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

夜の翼 (12) ライナスの毛布

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 防衛レベル3 が発令されたことで、8 月5 日の午後から翌8 月6 日にかけ、横浜ディレクトレート全体は慌ただしい雰囲気に包まれた。
 各部門のマネージャたちは、間近に迫った対グールオペレーションの準備作業、装備の受領、訓練に駆け回ることになった。特にPO 課は、ミスカトニックから提供されたばかりの対グールライブラリの使用方法に習熟しておかなければならず、私とサチは全セクション共同の説明会に参加したり、ソード・フォースとフォーメーションの打ち合わせを行ったりと、朝から夜遅くまで予定が埋まっていた。
 突如として割り込んできたオフェンスオペレーションは、当然、防衛本部のルーティンである防壁構築を圧迫することとなった。とはいえ、防壁構築オペレーションを完全に停止することはできない。私はペアのアサインスケジュールを調整し直したが、構築作業そのものはPO たちに任せざるを得なかった。本来なら、マネージャなしでの構築作業は推奨されないが、今回は防衛管理室も黙認していた。
 セクションF の福崎チーフ(本物)が出勤してきたのは、誰もが忙しく駆け回っていた8 月6 日の午前10 時過ぎだった。ATP が派遣した弁護士の尽力もあって痴漢行為の冤罪が晴れ、暴力事件についても一方的な被害者であることが、防犯カメラの映像などから証明されたためだ。勾留されていた警察署から、着の身着のままで横浜ディレクトレートに直行してきた福崎は、一息つく間もなく、今度は内部監査室と警備二課、防衛管理室による事情聴取に加え、身体と精神の精密スキャンを受けることになった。福崎にとって決して楽しいとはいえないこれらの時間は、幸いにも数時間で終了した。防衛管理室が対グールオペレーションの準備に忙殺されていなければ、あるいはもっと長時間にわたったかもしれない。
 14 時少し前、ランチタイムの終了間際に、暖かい食事を求めてカフェテリアに現れた福崎は、控えめにいってもひどい外見だった。トラブルに巻き込まれたとき、着ていたシャツが破かれたとのことで、身につけていたのは薄汚れたTシャツに、膝の部分が破れたチノパンで、顔は無精ひげに覆われていた。私とサチは遅めのランチを取りながら、シュンのことを話し合っていたのだが、何人かの職員による冷やかしの声を浴びている福崎が気の毒になって、同じテーブルに招いてやった。
 どうしても誘惑に勝てず、「お前、人間だろうな」「証明してみろよ」などとからかった後、サチに目顔でたしなめられ、カツカレーの激辛大盛りセットをガツガツとかきこむ福崎に、私はアイスティーをおごってやった。
 「いや、すまんかった」福崎は汗を浮かべながら言った。「これから女には気をつけることにする」
 佐藤管理官が話したわけではないだろうが、出会い系云々の話は、いつの間にか横浜ディレクトレート内で知らない者がいないぐらいの話題になっていた。カフェテリアを通り過ぎる職員の中には、わざわざ寄ってきて卑猥な冗談を言い、サチから冷たい視線を突き刺された者もいた。
 セットのサラダと福神漬け、デザートのヨーグルトまできれいに胃袋に納めると、福崎は流れる汗をハンカチで拭きながら言った。
 「サクラギ・エイト・アルファのことは聞いた。セクションD は誰を出すんだ?」
 サクラギ8A は、今朝早くに発表された、対グールオペレーションのコードネームだ。分析二課が、グールが事を起こす可能性が高い日を、二日後の8 月8 日と絞り込んだのだ。
 「シュンだよ」
 「新人をか」
 「ご指名だからな」
 私が佐藤管理官の指示であることを説明すると、福崎は首を傾げた。
 「どうしてシュンくんを指名したんだろうな」
 囮に使う、ということは厳秘事項だったので、私は「さあね」と言葉を濁すしかなかったが、福崎が気にしていたのは、人選よりもシュン本人のことのようだった。
 「あの子、ちょっと変わってるよなあ」
 私とサチは顔を見合わせた。
 「変わってるって」サチが慎重に訊いた。「どのあたりがですか?」
 「えーと、おとついの昼だったか、あの子がここでメシ食ってたんだよ。一人で。メシといっても、ここで買った物じゃなくて、弁当だったけどな」
 他のPO はカフェテリアで日替わりランチなどを食べているが、シュンはいつもランチボックスを持参していた。ナナミが毎朝作って持たせているのだ。それほどバラエティ豊かというわけではなく、大抵は茶色いお弁当だが、シュンはうまそうに食べている。
 「一人なのは、別に変じゃない」私は言った。「うちのPO は5 人だから、休憩は一人になることが多いんだ」
 「いや、そういうことじゃなくて。セクションM に髪が変な色のPO いるだろ。前は半グレにいたとかいうやつ」
 顔はすぐに浮かんできたが、名前が思い出せなかった。髪の色が月単位で変わる20 代半ばの男性PO だ。対面したことはないので、よく喋る奴だ、というぐらいの印象しかない。
 「それはテルキヨくんですね」サチが言った。「甲斐テルキヨくん。言葉遣いがやや乱暴ですけど、別に悪い人ではないですよ。彼がどうかしたんですか」
 福崎の話によると、シュンが本を読みながら一人で弁当を食べていると、テルキヨが別のPO と一緒に通りかかった。どういうわけかシュンを構ってやろうと考えたらしいテルキヨは、シュンの前に座ると、何やら話しかけたそうだ。福崎は少し離れたテーブルにいたので、全ての言葉が聞き取れたわけではなかったが、話しているのはもっぱらテルキヨの方で、シュンは「はあ」「いえ」と短く応じるだけだった。テルキヨはシュンが読んでいたPython の本を指して、Java は明確でいいぞ、というようなことを言っていた。セクションM のPO はチーフの薫陶が行き届いているらしく、ことあるごとに型宣言が明確なJava の優位性をアピールする努力を怠らないが、そのときは、単にシュンの反応を引き出すためだけに挑発しているだけだったようだ。
 部署は違っても職場の先輩ということで遠慮があったのか、それとも早くやり過ごして読書と食事の時間に戻りたかったのか、いずれにせよシュンは、テルキヨにいくら挑発されても、一音節以上の言葉を発しなかった。その態度に、テルキヨが次第に苛つき始めているのが、福崎には見て取れたという。
 プログラミング言語論にはシュンが乗ってこない、と見て取ると、テルキヨは話題を変えた。シュンがつついているお弁当を指して、構成内容をけなす言葉を並べ始めたのだ。やはり具体的な名詞や形容詞は、ほとんど聞き取れなかったが、ただ一つはっきりと福崎の耳に届いた言葉があった。「貧乏くさい」という表現がそれだ。シュンが顔を上げてテルキヨを睨み、テルキヨは勢いづいて、嘲笑の対象をお弁当から、その作成者、つまりナナミにまで拡大した。どうやら、JK が頭に付く店でバイトをしてるんだろう、と言ったらしかった。
 その言葉を耳にした途端、シュンはいきなり静から動へと相転移した。置いてあった紙コップの中身を、一瞬の逡巡もなしでテルキヨの顔に浴びせたのだ。中身はただの水だったが、テルキヨは怒るよりも驚いて凝固した。シュンは素早く立ち上がると、各テーブルに置かれているボトルトレイからプッシュ式の醤油差しをつかみ取り、またしても躊躇うことなくテルキヨに投げつけた。本体はクリスタルガラスで、大容量のためそれなりの重さがある容器だ。至近距離からの投擲だったが、テルキヨが反射的にダッキングでかわしたため、醤油差しは壁に叩き付けられて粉砕し、大きなしみを残すことになった。シュンは次の武器に手を伸ばしていたが、近くでテルキヨを待っていたセクションM のPO がとっさに突き飛ばしたので、バランスを崩して床に転倒した。
 「まあ、それで」福崎はアイスティーをすすった。「近くにいた人たちが驚いて立ち上がると、シュンくんも頭が冷えたらしい。椅子に座り直して、何事もなかったかのようにまた弁当の続きに戻ったよ」
 「テルキヨくんはどうしたんですか」サチが訊いた。
 「そっちもすっかり構う気をなくしたらしいな。憶えてろとか、何とか言いながら出てったよ。ちょっと怯えた顔だった」
 「くそ」私は呻いた。「どうして誰も報告してくれなかったんだ」
 「よくあるケンカか何かだと思ったんだろ。どっちにも実害はなかったんだからな」
 「そうか」私はサチと頷き合った。「ありがとう。後で、シュンと話してみないとな」
 「時間取れますか」サチは時計を見た。「今頃、ソード・フォースとフォーメーション訓練に行ってますよ。午後はずっと訓練ですよね」
 「私も1500 に合流するからな。時間を見つけて......」
 私は言葉を切って、カフェテリアの入り口を見た。トレーニングウェア姿のホレイショーが姿を現したのだ。私は首を傾げた。サクラギ8A において、シュンはホレイショーの指揮する分隊と一緒にオペレーションを行うことになっていて、基礎訓練を始めている時間のはずだ。
 ホレイショーはまっすぐこちらに歩いてきた。昨日の早朝に銃弾を撃ち込んだ生物と同じ顔に気付くと、唇の片方がピクピク動いた。吹き出しそうになるのをこらえているらしい。
 「おい」ホレイショーは親指を福崎に向けると、ニヤニヤしながら私に訊いた。「こいつは何のクリーチャーだ」
 「面白いな」福崎はうんざりしたように言った。「実に面白いよ。あと何回、そのくそ下らない冗談を聞かなきゃならんのだ。じゃあ、またな」
 福崎がトレイを持ってテーブルから離れていくと、ホレイショーは空いた席に座った。
 「訓練中じゃなかったか?」
 私が訊くと、ホレイショーは周囲を見回してから小声で言った。
 「シュンが来てないぞ」
 「え?」
 「シュンが来てないんだよ」ホレイショーは静かに繰り返した。「時間になってもトレーニングルームに来ない。セクションD を呼び出したが、誰も応答しない」
 「誰も? まさか」
 私はタブレットでセクションD を呼び出した。すぐに通話ウィンドウが開き、カズトの顔が映った。
 「出るじゃないか」私はカズトに言った。「おつかれさま。シュンはいるか?」
 『シュン?』カズトは背後をちらりと見てから答えた。『えーと、いないよ。訓練じゃなかった?』
 「来てないそうなんだ。どこかに寄り道してるのかな。訓練に行くと言って出て行ったんだよな」
 『そう、そうだよ』
 「わかった。呼び出してみる」
 私は通話を切ると、シュンのスマートフォンを呼び出した。連絡用に支給したものだ。ヨネヤマの職員は、スマートフォンを持たせるのは高校生になってから、という規則を持ち出して渋ったが、サチが丁寧に説得すると、フィルタリング機能を有効にすることを条件に認めてくれた。市販のAndroid スマートフォンに、製造技術部技術D 課がカスタマイズを施したものだ。
 アプリの表示は「呼び出し中......」のまま、いつまで待っても変化しなかった。
 「出ないな」私はサチを見た。「そっちでかけてみてくれ」
 サチはすぐに自分のスマートフォンでシュンに発信した。ATP 内からシュンのスマートフォンに発信できるのは、佐藤管理官など少数の管理者を除けば、セクションD のメンバーだけだ。
 「出ませんね」サチは首を傾げた。「マナーモードにしてて気付かないんですかね」
 私は首を横に振った。私かサチからの連絡は、どんなモードでも音で通知される設定になっているし、通話中でも優先的に割り込みとなる。
 「続けてくれ」
 私はそう言い、デバイスマネージャアプリを起動した。シュンのスマートフォンを一覧から選択し、現在位置を確認する。横浜ディレクトレートはGPS 電波は届かないが、インドア位置測定システムが完備されていて、誤差10cm 以内で現在位置が取得できる。
 横から覗き込んでいたホレイショーが身を乗り出した。私も小さく唸った。位置情報によれば、シュンはセクションD にいることになっていたからだ。
 私はもう一度、セクションD を呼び出した。再びカズトが応答した。
 『チーフ? どうしたの』
 カズトの声は必要以上に大きかった。私は違和感をおぼえたが、そのとき別の音に気付いた。
 「カズト、そっちで何か鳴ってないか?」
 『さあ』カズトは今気付いた、という顔で左右を見回した。『何も鳴ってないと......』
 「ちょっと待て」私は遮った。「今、防壁構築中だよな」
 『そうだけど』
 「ペアは......」私はアサインスケジュールを思い出した。「リンだったな。姿が見えないようだがどうした」
 『いるよ』カズトは慌ててカメラを手で覆った。『いま、ちょっと水分補給に。今日、暑いから』
 あまりにも見え透いた言い訳に苦笑しそうになった。
 「そうか。わかった。シュンが戻ったらすぐ連絡してくれ」
 『はい』カズトは安堵の表情を作った。『はい、了解』
 アプリを閉じた私は、タブレットを掴んで立ち上がった。
 「行くぞ」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 オペレーションルームのドアがスライドしたときの、カズトの反応はまるでマンガのワンシーンのようだった。私とサチの姿を見た途端、だらしなく足を投げ出して座っていた椅子から、床に転げ落ちたのだ。シットコムドラマなら、観客が爆笑するところだ。
 「チ、チーフ!」
 「こんなことだろうと思った」私はカズトを見下ろした。「他の3 人はどこだ」
 オペレーションルームにいるのは、カズトの他にはマイカだけだった。マイカは気まずそうな顔で立ち上がろうとしたが、私はそれを制して、もう一度カズトに訊いた。
 「リンとハルとシュンは?」
 「あ、そのトイレかな......」
 私はタブレットでシュンのスマートフォンを呼び出した。すぐに小さな呼び出し音が耳に届いた。休憩用ソファの上でスマートフォンが音と光で存在を主張している。
 「カズト」
 「......外だよ」カズトは観念したように言い、椅子に座り直した。
 「外?」サチが疑わしそうに言った。「外って、横浜ディレクトレートの外ってこと?」
 「そうだよ」
 「そんなはずない」サチはタブレットを確認した。「3 人が外に出た記録はないわよ。出たら通知が来るから」
 カズトは視線を逸らした。その顔を見て、私はあることに気が付いた。
 「カズト、お前」私はカズトを睨んだ。「またパーソントラッカーに侵入したな」
 横浜ディレクトレートへの出入りは、ID の所有者なら24 時間自由だが、顔認証、歩容認証、その他の生体認証を組み合わせたパーソントラッカーというシステムで記録される。強固なシステムではあるが、企業向け製品のライセンスを、警備一課が独自に改良・拡張したもので、対SPU の防壁などとは異なり、一般的なオフィスLAN と同等の環境だ。
 ATP にスカウトされるまで、企業や官公庁への侵入をゲーム感覚で繰り返していたカズトが、自分の手が届く範囲にあるパーソントラッカーに興味を示さないはずがなく、私とサチが気付かない隙間時間に、ひそかに侵入方法を試行錯誤していたらしい。セクションD で勤務を開始して数週間後、セクションM の誰かにスキルをバカにされたカズトは、その日の深夜、蓄積した技倆を発揮するために端末の前に座った。そして、わずか45 分後、セクションM のPO 全員の出勤記録から、前日の出勤レコードだけを残し、過去一ヶ月分をきれいに削除してしまったのだ。翌朝、出勤してきたセクションM のPO たちは、全員が警備二課の聴取を受けることになった。前日の出勤記録はあるのに退勤記録がないので、データ上は横浜ディレクトレートから出ていないことになるからだ。これは警備プロトコルでは、重要アラートに該当する。
 当初はパーソントラッカーのバグだと思われたが、アクセスログ解析やバックアップとの差分チェックなどから、やがてカズトの犯行が明らかになった。激怒した諸見里チーフはカズトの追放を要求したが、最終的にはカズトに対する厳重注意と、管理者責任を問われた私の減俸に落ち着いた。私はしばらくの間、カズトの動向に注意していたが、PO たちのトレーニングが終わり、本格的にオペレーションが開始され、多忙な日々が始まったこともあって、カズトの興味はそちらに移ったようだった。終わったゲームには興味がないらしい、というカズトの性格が把握できてきたこともあり、私もサチも、すっかり警戒を解いてしまっていた。
 「カスタマイズして、侵入はできなくなったと思っていたが」
 「あんなの」すっかり開き直ったカズトはバカにしたように笑った。「開けた穴塞がずに、ブルーシートかぶせて土かけただけだよ。バカみたいに簡単に侵入できた。警備部ってバカばっかりいるんじゃないの?」
 「カズトくん」サチが悲しそうに言った。「あのとき、もうやらないって約束したよね。あれ、ウソだったの?」
 「そんなの信じる方がバカじゃん」
 怒りよりも、寂しそうな表情を浮かべたサチに、カズトは何かを言おうとしたが、思い直して目を逸らした。それを見たマイカが、たまりかねたように立ち上がった。
 「サチさん、違うの」マイカは足を引きずりながら、サチに近付いた。「カズトくんは、シュンくんのためにやったんです」
 全員の視線が最年少の少女に集中した。
 「どういうことだ?」
 マイカはソファの上から、シュンのスマートフォンを取り上げると、小さな指を走らせた。ロック解除のキーを知っているらしい。それも規則違反だったが、私は黙ってマイカの行動を見守った。
 「今朝、これが届いて」
 マイカが差し出したスマートフォンには、SMS の画面が表示されていた。

 お前の彼女が万引きしたぞ。俺たちが見た。通報しない口止め料は10 だ。今日の午後3 時に学校に持ってこい。

 添付ファイルを開いてみると、どこかのドラッグストアを出るナナミの姿を、スマートフォンで撮影した縦長画像だった。Tシャツにブロークンデニムで、肩にセシルマクビーのキャンバストートバッグをかけている。最近のスマートフォン搭載カメラの標準からすると解像度の低い画像だが、ナナミだと判別できる程度には鮮明だ。
 「こんな画像」サチが呆れたように言った。「万引きと何の関係もないじゃない。無視しなかったの?」
 「次のメール見て」
 私は次のメールを開いた。メール本文はなく添付ファイルだけだ。リップが並ぶ棚に女性の手が伸び、一本に触れている。これが何か、と訊こうとしたとき、同じ時刻でもう一通届いていることに気付いた。やはり添付ファイルのみで、リップを手の中に包み込んでいる画像だ。いずれもかなり近距離から撮影されている。女性の手首には地味な黒のヘアゴムがついていた。最初の画像に戻すと、トートバッグを掴むナナミの手首には、やはり黒のヘアゴムがあった。
 「なんだこれ」ホレイショーが唸った。「この子が万引きしたって言いたいのか。何の証拠にもならんだろう」
 「わかってないなあ」カズトが笑いながら言った。「その3 枚が警察に送られたらさ、どうしたってナナミさんは警察に呼ばれるって思わない? 学校にだって通報されるかもしれないし、ネットにも拡散されるに決まってるじゃん。そしたら、どうなるのかわかんない?」
 「でも無実で......」
 「そんなの関係ないんだよ。そういうの拡散したがるバカが、事実かどうかなんて気にすると思う?」
 「シュンくんの話だと」マイカも悲しそうに言った。「前にナナミさん、学校でクラスメイトの財布とスマホがなくなったとき、疑いをかけられたことがあったって。結局、それは別にやった人がいたんだけど......」
 「施設の子だから、やっても不思議じゃない。そう言われたんだって」カズトの声に憎しみが混じった。「表面上は明るくしてても、夜、泣いてるところを見たって言ってた。そういうのってさ、やる方は違ったら謝りゃいいやってぐらいのノリでやるけどさ、やられた方はすっげえ傷になるんだぜ。おっさん、わかる?」
 「シュンは、このメールを見て、怒り狂って飛び出して行ったわけか」私は訊いた。「で、お前はパーソントラッカーに侵入して、シュンが、ずっとこの部屋にいるように見せかけた。そういうことだな」
 「夕方までには戻ってくるって言ったんだよ」カズトは私とサチを見た。「チーフたちは夜まで留守のはずだったからさ」
 「リンとハルは?」
 「一緒に付いてった。シュン一人に行かせたら、何するかわからないって」
 「そうか」私はため息をついた。
 シュンがPO としての勤務を開始する直前、私とサチは医療技術部の臨床心理士から話を聞いた。ナナミの存在がシュンのPO としての勤務に対して、プラス要素なのかマイナス要素なのか、はっきりしなかったからだ。
 臨床心理士によれば、シュンとナナミは、互いに恋愛感情はなくても、それ以上の結びつきを持っている。口数の少ないシュンに対して、ナナミは自分の感情を隠そうとしないので、ナナミが一方的に保護者としての意識を持っているように見える。だがヨネヤマから通うことを選択したことからわかるように、シュンもナナミから離れたい、と考えてはいない。仮にシュンの勤務地が横浜市内ではなく、たとえば長崎支部しか許されないとしたら、佐藤管理官の謎めいた呪文があろうがなかろうが、シュンは決してアーカムで働くことを了承しなかったに違いない。
 PO として働くことで収入源を得るのは、一見してナナミからの自立を願っているようだが、実はそうではない。早く一人前になってナナミを守る立場になりたい、とシュンは考えているのだ。
 最初にコンタクトした公園で、シュンは読んでいた本を奪われたことで、怒りを燃やしていた。後で聞いたところによれば、あの技術書を購入するにあたっては、ナナミが代金の半分を負担してくれたそうだ。だからこそ、フィジカルでは勝ち目のない相手に立ち向かったのだ。
 ライナスの毛布ですね、と話を聞いたサチは呟いた。互いに相手を手放せないんですよ。無理に引き離せば、取り返しのつかない傷を負うことになるかもしれませんね。
 そのときの話に加え、ある可能性に思い至った私は戦慄した。敵がシュンを重要なターゲットとして狙っているのであれば、ダメージを与える一番簡単な方法はナナミを傷つけることではないだろうか。シュンには警護が付いているが、ナナミはその対象ではない。本来ならとっくにナナミにも手配されているはずなのだが、PO 本人ではなく、その関係者への警備は、優先順位を低く見積もられがちで、ATP の官僚機構のどこかで停滞したままになっているのだ。このメールが敵の攻撃の一環だとしたら、シュンは後先考えずに飛び出していくことで、それが効果的であることを公言してしまったようなものだ。
 「いろいろ言いたいことはあるが、それは後だ。まず、このメールの送信元を特定する必要があるな。駒木根さん、警備二課と一般情報課に連絡して、送り主を......」
 「もうやったよ、チーフ」カズトが近くのタブレットを操作して差し出した。「送信元の偽装も何もされてなかったから、適当なサイトで検索かけるだけだった。それがスマホの契約者と使用者。これがそいつのTwitter アカウント。インスタはこっち」
 タブレットには、横浜市港南区港南台の住所と、苅田姓の男性名、そして苅田タケトという姓名が表示されていた。Twitter アカウントには、気取ってピースサインを向けている男子の画像がトップに登録されている。年頃はシュンと同年代で、どこか見覚えがある顔だ。誰だったのか思い出そうとしていると、サチが先に気付いた。
 「あ、これ」サチはタブレットを指でつついた。「シュンくんとコンタクトしたときの三人組の一人です。一番身体が大きい」
 「ああ」私も思い出した。「あいつか」
 B1 と変数名を付けたリーダー格の男子だ。名前も報告書に記載があったのを思い出した。記憶のオーバーライト処置を受けて帰されたはずだが、シュンに対する悪意は健在だったようだ。フォローしておくべきだったか。
 「あのときのガキの一人か」ホレイショーが画像を見ながら言った。「台場さんが命を救ってやったってのにな。しかし、こいつアホなのか? こんな脅迫の証拠になるメールを堂々と送ってきやがって」
 「考えなしのアホには違いないけど」カズトが軽蔑したように言った。「悪知恵だけは働くみたいだよ。このメールが、ホントに脅迫の証拠になるって思うの?」
 「金を要求してるじゃないか」
 「10 って数字だけじゃん。これなら10 円のつもりだったとか、うまい棒10 本のことだったとか、逆立ちでグラウンド10 周の意味だったとか、何とでも言い逃れできるよ」
 「詳しいじゃないか」ホレイショーはカズトを興味深そうな目で見た。「経験に基づく知識か?」
 「単なる常識だよ」
 「シュンは金を払いにいったのか?」
 私の質問に、カズトとマイカは顔を見合わせた後、揃って首を横に振った。
 「違うと思うな」
 「ぶっ殺してやる、とか言ってたし」
 「そもそも、あいつ金なんか持ってねえじゃん」
 話し合いで解決するつもりなのか、何らかの暴力を行使するつもりなのか、おそらくシュン本人も具体的な方針を立てているわけではないのだろう。もっともスマートフォンを置いていったのは、追跡されないようにと考えたのだろうから、少しは戦術的思考を働かせはしたようだが。
 「二人とも」私はカズトとマイカに言った。「出かける準備をしろ」
 「え?」
 「他の仲間が遠足に行ってるのに、留守番してるのはつまらんだろう。全員でシュンの回収に向かう」
 カズトとマイカは顔を輝かせ、ロッカールームに向かった。私はタブレットを取り上げ、まず佐藤管理官を呼び出した。サクラギ8A で私たち以上に多忙を極めているはずだが、事情を説明して、警備二課にPO たちを保護する人員を出してもらわなければならない。この忙しいときに、と他部署から文句を言われるのは必至だ。
 この出来事にいいことがあるとすれば、佐藤管理官の心配が杞憂だとわかったことだ。シュンはすでにセクションD のPO たちと深い信頼関係を築き上げている。PO 全員が、後で厳しい叱責があるとわかっていながら、シュンの共犯者としてサポートとバックアップをするぐらいに。私のフォローなど出る幕がない。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(10)

コメント

勝手に校正

セクションD は良いチームですね(憶測だけど例えばセクションM にはこんな雰囲気はなさそう).
しかし,こういう単なるありがちな事件でも「裏」を考える必要があるパラノイア的状況(しかも実際起こ起こりうる),しんどそう.

>「開けた穴塞がすに、ブルーシートかぶせて土かけただけだよ。
塞が*ず*に,ですね

なる

この回だけで3話ぐらい作れそうなほど濃い内容だ

リーベルG

勝手に校正さん、ありがとうございます。
「塞がずに」でした。

hal

苅田タケト(?)がグールに3000点。
福崎が良いキャラすぎる。

よる

>親指を福崎を向けると
親指を福崎に向けると
ですかね。
もう1つ気になる箇所があったと思いますが、忘れました。
話に引き込まれるので誤字に気づいても先に進んでしまいます。。。

リーベルG

よるさん、ありがとうございました。
ついでに何カ所か修正しました。

「シュンには警護が付いているが、ナナミはその対象ではない。」
⇒(8)でナナミにも護衛が付く話になっていた筈では…?
タイミングか度合いの問題?

宇宙大帝

任務の遂行、という観点からすると、
警備部やらソードフォースやらを出してシュンを回収すべきなんだろうけど、
あえて子供たちを引き連れて行く、という熱い話がいいですね。

リーベルG

ああ、一行抜けてました。
鍵さん、ありがとうございます。

perc

>至近距離からの投擲だったが、テルキヨが反射的に
>ダッキングでかわしたため

 だめだ。全てがグールに見えるw。

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