「できることをする」の範囲は?能力の過小評価による機会損失(2)
こんにちは、蓑原です。
今回も引き続き、日本で一番人口が少ない県、鳥取県の片田舎から、IoT導入のための社内改革について、情報発信をしたいと思います。
前回、仕事について、私なりの定義をしましたが、「できることをする」とは一体どういうことなのか、上司と部下の関係からいろいろ考えてみたいと思います。
■ 「できること」の範囲を分析
野球選手を例に挙げ、野球という売り上げに直接貢献する業務を「直接業務」、野球の勉強や練習など、バットやボールを使わないけど上手くなるための業務を「付帯業務」として、簡単な定義をしました。
野球選手は志が高い人たちばかりですので、できることを自ら貪欲に探し出し行動されると思いますし、勉強や練習の方法も自ら構築されます。しかし、我々一般人はなかなかそうはいきません。ダイエットもなかなか始められませんし、続けられませんよね・・・っていうレベル。
そこで、我々が一般的に考えている「できること」とは一体何なんでしょう?
現場レベルでの「できること」とは、その基準は、「今やっていること」「今の能力・スキルでできること」など、がんばらなくても普通にやっていればいいことばかりじゃないかと思うのです。
とりわけ製造業においては、「生産すること」だけが「できること」になっているんじゃないかなと・・・。直接業務だけが仕事?
なので、今溶接やっているとしたら、溶接の作業が「できること」になり、溶接をするということが「できることをする」になります。
「勉強をする」という付帯業務については、「上司から指示されたことを覚える・身につけること」になっているように思います。それ以上も以下もない。
どちらも継続的に必要なことではありますし、生産に必要な技術を身に着けることは、働く上で最低限必要なことではありますが、その継続の先に、「成長する」ということができるでしょうか?今の能力・スキルは「変化」「向上」するでしょうか?また、技術を習得した本人は「成長」するでしょうか?
「今やっていること」「今の能力・スキルでできること」とは、「今から1分前までの経験の積み重ねの結果」ということが言えます。
「できること」とは、言い換えれば「経験上これくらいまでしかできないこと」と自然と定義され、そう決めつけている人がかなり多く、私は、これがもったいなくて仕方がないのです。
確かに今はそこまでしかできないかもしれません。
しかし、今この瞬間に今までと少しでも違うことをすれば、さらにその1分後には1分前とは違う能力を身につけられる可能性があるのに。
■ 上司の評価と部下の反応
では、なぜその「少しでも違うこと」ができないのでしょうか?
その原因は、現場のみなさんが、「能力を過小評価」してしまっているからではないかと思うのです。
「自分にはそんなことできるはずがない」、「自分のできる範囲はここまで」と自分の能力も、仕事の範囲も自分自身で勝手に決めつけるのです。そして上司から指示をされると、「えっ?それも私の仕事ですか!?」「今までやったことない、言われたことないし・・・」と、瞬時にして拒絶する。・・・この瞬間に上司からは次の仕事、次のステップの仕事の依頼は来なくなるでしょう。
その昔、仕事の報酬は仕事・・・って言われてたんですけどねぇ。
また、上司も部下に対して、「まだそこまでやらせることはできない」ときちんとした基準もなく感覚的に過小評価したり、やらせたとしても、自分の思い通りになるかどうかの属人的な評価をしてしまうことで、次のステップへ進む可能性を封じてしまっているのです。
このような悪循環に陥る原因は、前々回のコラムで書いた、5S活動の「躾」の仕業。
上司が「指導したこと」「指示をしたこと」「言ったこと」が仕事で、自分で考える機会が与えられない。自分で考えないからわかりそうなことでも上司が指示する・・・。上司から見れば、いつまでも「言ったことしかしてくれない」「自分で考えて行動してくれない」という負のサイクルです。
部下から見れば「言われたとおりにやったのに!(怒)」って思いますよね。
さらに、言われたとおりにやって結果が出てもインセンティブとして返ってこなければ、「言われた以上のことやっても意味ねーな」ってことになり、さらなる負のサイクルに陥るのです。
■ ホントの「できることをする」の範囲は?
小さなことからコツコツ・・・って、毎日継続することを意味するのだと思いますが、小さなことの「レベル」までそのままでは、何も向上は望めませんね。「レベル」は少しずつでも上げていきたいものです。
「積小為大」という名言もあり必要なことではありますが、今の時代「小」が小さすぎて、いくら積み上げてもそれでは間に合わないかもしれません。
現状からなかなか抜け出すことができないのは、「できることをする」の範囲が狭く、1分前と全く同じことを同じレベルでしているからではないかと思うと、
ホントの「できることをする」とは、「自分はどこまでできるのか?」を試すこと
ではないかと思うのです。
自分がどこまでできるかはやってみないと分かりません。また、部下の能力はそんなもんじゃありません。しかし、これまで指示されたことをやることが仕事だった自分は、いったい何をすればいいのやら・・・ということも多々あるかと思います。
そんな時は勉強するしかありません。人に聞いたり、本を読んだり、実際にやってみたり・・・。勉強はだれでもできますよね。
しかしこの時も、自分の脳みそ能力を過小評価することで、「この本は難しそうだから・・・」「今までそんなこと習ったことないし・・・」と言って、勉強も始まらない・・・。
せっかく脳みそがあるのにもったいない!!!(回転速度は別にして)
せっかく生きているのに、時間がもったいない!(社長も新入社員も平等に1日24時間です)
■ 社員が成長する仕組みを考える
上司も部下も今までの「できることをする」の考え方を変えていかなければ、現状はなかなか変わらないでしょう。
・・・しかし、こんな精神論的な話だけではマネジメントにはなりませんので、例えば、社員の能力評価をどのようにするか、の視点から考えてみましょう。
- 今まで操作できなかった機械を操作できるようになった。
- 今まで対応することができなかった顧客対応ができるようになった。
- 今まで作ることができなかった資料が作れるようになった。
このような「できるようになったこと」について、社員のスキルアップを測ったりしますね。果たしてこれ、社員が「成長」した結果かどうか・・・。
上図は、上司と部下のOJTのサイクルでもあります。
機械の操作ができるようになるには、当然機械の操作説明が必要です。上図では上司の指示になりますね。初めは当然、言われたとおりにしか動かすことはできません。しかし、言われたとおりにしておけば、「今まで操作できなかった機械を操作できるようになった。」については達成できることになります。
ここでちょっと考えてみたいのは、上司はこれを、「社員の成長またはスキルアップ」とそのまま評価してしまってもいいのか?ということです。
これは「成長」ではなく「習得」であり、実はできる能力は持っていたけど、それを活かす機会がなかったということだと思います。その機会を提供できるかどうかは経営者や現場の上司次第ですね。
では、「成長」の定義は?ということになりますが、私が思う成長とは、
「今まで(自他ともに)できるはずがないと思っていたことを、できるようになった状態」
を「成長」としています。
指導されて機械操作ができるようになった・・・「でも、それくらい前からできそうだったよね」っていう状況は、それまで上司が部下の能力を過小評価することによる機会損失が起こっていたように思うのです。やらせてみればできたかもしれないのに・・・。
一方で、「まさか君がその機械を操作できるようになるとは・・・」は、ホントに社員ががんばって勉強し、上司が必死で教え込んだ結果、機械の操作ができるようになったとすれば、社員はとても成長したと言えるでしょう。同時に上司の指導力もアップし、会社全体の能力もアップしますね。
問題なのは、社員が「自分にはそんなことできませんから・・・」と、今までの経験上、自分の能力を過小評価していたとしたら、これはホントに機会損失です。会社の業績が上がらないどころか、本人の人生もそれ以上良いものになりません。やる気もないように見えますから、ひどければ周りに迷惑かけますよね。
しかし、やる気を出せと言って、直接的にその社員に働きかけても効果があるはずありません。
直接働きかけることができないのであれば、社員一人一人が持っているはずの個々の優れた能力を生かすも殺すも、会社の能力がアップするかどうかも、社長が構築する会社の仕組み、マネジメントシステムはとても重要だということが言えます。前々回のコラムのように、会社の風土というのもあるでしょう。
会社の業績不振や不正発覚を社員のせいにして「社員教育を徹底します。管理を徹底します」って言っている社長がよくテレビに出てきます。
社員教育と称してやたら研修機関に社員を送り込む・・・社員教育の丸投げです。
社員の自主性、主体性を重視します・・・ただの放置です。
先に社長が勉強して「人が育つ」仕組みの構築をしなければなりません。
急がないと、ホントは持っている能力を活かせないままの人生を、社員に過ごさせてしまいます。・・・相当な罪ですね。
有限会社ミノハラ製作所 蓑原康弘