「人と組織」という切り口で、経営と現場の課題解決についてカレンコンサルティングが分かりやすくお伝えしていきます。

プロフェッショナルの仕事っぷり

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 2012年6月以降…… ずいぶんと長い中断となっていました。

 さすがに1年を超えてくると、「申し訳ないなぁ……(誰に対してと突っ込まれそう?)」と感じながら、どのタイミングで再開しようかと見計らっていた感もあります。

 実はこの1年以上、アイティメディアさんのEE Times Japanにて、こんな記事を書かせていただいていました。

・2012年4月~2013年5月:「いまどきエンジニアの育て方」
・2013年8月~現在:「“AI”はどこへ行った?」

 再開第1号は『プロフェッショナルの仕事っぷり』というテーマです。「っぷり」というところがミソで、プロフェッショナルの仕事うんぬんについて書くのではなく、「それでもプロなの?」という疑問符付での内容です。

 皆さんの身近に似たような「自称プロフェッショナル」…… いませんか?

 ※話のトーンをこれまでの「です・ます調」から「である調」に変えていきます(→変えていく)。


■専門家と先生

 筆者の周りには何人か、その道では専門家と呼ばれる人がいる。システム開発の専門家、人事制度等の制度設計の専門家、法律の専門家、生産管理の専門家、業務改善の専門家などなど…… 挙げればキリがない。

 仕事の形態もさまざまで、ごく普通に企業に属している人もいれば、会社を起こし社長をやっている人、士業としてやっている人もいる。

 こういう専門家が、例えば講演をするときには司会進行役に「○×先生」と紹介されることも少なくない。筆者の場合も、「先生なんて柄じゃないし照れ臭いなぁ」と思いつつ、セミナーやコンサル現場で「先生」と呼ばれることも少なくない。自分の場合は都度、先生じゃなく、「世古さんでいい」と言ってはいるものの、呼び方がなかなか直らないときもある。

 さて、こうなると専門家が先生と呼ばれると思ってしまいがちだが、他には、政治家のことは昔から先生と呼ばれている。それがなぜかと言うのはここではどうでもよいので割愛する。

 このように素直に考えれば、先生とは学校の先生をイメージし、教鞭を振るう人のことだ。教える中身の専門性はもちろん、教えることについては専門家であるはずだ。

■「それでも先生なの?」…… 教える分野だけは専門家の教師

 次に、専門家とプロフェッショナルということについて考えてみたい。

 例えば、学校の先生は「教育の専門家」かと問われれば、普通はノーだろう。教育の専門家としては、大学や大学院で教育そのものをアカデミックに研究している人が山ほどいるわけだ。

 また、学校の先生は、

  • 学校内でいじめ問題の対応についての担任の責任追及
  • モンスターペアレントから難癖をつけられる
  • 普通に怒ったつもりが体罰だと言われる

 などなど、最近の先生は大変だと思うが、上記の対応に際して、どれか1つでもまともにできないと、ボロクソ言われ、マスコミやネットでつるし上げを食らう。セリフは決まってこうだ……「それでも先生なの?」「教育者の資格なし」とまで言われる。

 ここでちょっと考えてもらいたい。先生は教えることは専門家だけど、いじめの問題解決の専門家ではない。モンスター相手のクレーマー対策の専門家でもないわけだ。教職課程や実習によって、頭の上では学んできてはいるものの、こういう場面に出くわすと対応できないのだ。

 子どもの親などからすれば、「先生=教えるだけではなく、生徒の学校生活に関する全ての責任元」だと信じているから、上述したような行動をとる。特に、クレーマーの場合は、親の躾(しつけ)や子どもの素行に原因があろうがなかろうがお構いなしだ。

 したがって、先生と言えども学校で発生するあらゆる問題解決ができるわけではない。全能を親は教師という名の先生に求めるが、学校の先生は教える分野だけが専門家なのだ。

■専門家とは何か?

 先生、専門家、プロフェッショナルとややこしいが、ここからは先生は除外しよう。では、専門家とプロフェッショナルは何が違うのかである。筆者なりの独断的な簡単な数学的解釈では、「専門家<<プロフェッショナル」である。専門家はプロフェッショナルよりもはるかにできることの範囲が狭く限定的だという意味である。

 専門家はその名の通り、特定の分野において、豊富な知識や経験を有している。すなわち、特定な分野以外では使いものにならない。極端な例だが、法律の専門家がシステム開発やネットワーク設計など普通はできない。当たり前のことだ。

 ここで一考したいことが「専門家」という言葉だ。すごくあいまいで、いいかげんな定義だと思っている。

 ここ何年か、やたらと電車のドアや網棚の上部の広告に、「借金を取り返そう」的なものが多い。いわゆる不当に払いすぎた金利を取り返す手伝いをしますよというものである。

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 広告に共通している記述としては、「法律の専門家」である。では、誰が取り返す手伝いをしてくれるのかとよくよく広告を見るとそこには、弁護士・司法書士・行政書士などの事務所が名を連ねている。まぁ、弁護士は分かるが、数年前からは司法書士や行政書士がこの類いの広告を多く出し始めている。費用も弁護士よりも低い設定が多い。

 法律の専門家でも、司法書士は通常は登記業務が多く、あとは訴訟などの文書作成がメインだ。行政書士もお役所向けの書類作成代行がメインだ。両者ともに、弁護士が取り扱う法律の範囲よりも限定的だ。それでも、法律の専門家と自ら言い切るが、実際にはこの3つの士業では動ける範囲が異なる。こういうことを普通、借金を背負込んで悩んでいる人は知らない。

 例えば、司法書士は債権額が140万円を超えると交渉権も訴訟代理権もない。つまり弁護士でないと扱えない。また、自己破産や民事再生の場合も同様、司法書士の場合は手続きまでで、以降は弁護士に頼むことになる。元から、この条件に引っ掛かる人は司法書士に頼み、途中から弁護士に頼む羽目になる。行政書士の場合はもっと範囲が狭いのは言うまでもない。

 果たしてこれで、司法書士や行政書士が「法律の専門家」と名乗っていいのか? と思うわけである。専門家の定義とは曖昧なのか、あってないようなものである。

■それでも、プロフェッショナル?

 専門家の物差しの1つとして、セミナーや講演活動を積極的に行っている、本を書いている(自著で出版している)、専門誌などへの寄稿がある、各種メディアからの取材実績があるなど、何らかの形で目立っている。なので、あえて自分が専門家ですと言わなくとも、周囲から専門家と言う目で見られる。結果的に「自他ともに認める専門家」に自然になってしまうことも少なくない。

 ここで、専門家とプロフェッショナルを比べてみたい。と言うのも、専門家とプロフェッショナルの境界が曖昧で、「専門家=プロフェッショナル」と思い込んでいる専門家が多いからだ。先に書いたように、「専門家<<プロフェッショナル」であるにもかかわらずだ。

(1)整理整頓できない業務改善コンサルのA社

 例えば、業務改善指導などで名が通っているA社。クライアントの指導で5Sをうたっておきながら、指導する人のデスク周りはぐちゃぐちゃだ。書類が多くて何が何だかさっぱり分からない。つまり、人さまには5Sが大事だと言いながら、自らの整理整頓ができない。

(2)自ら決められない人が意思決定研修を行うB社

 意思決定の研修を行っているB社。ここの会社と打合せをすると、なかなか具体的なことが決まらずに時間ばかりやたらとかかる。最終的に“決める”ということをなかなかやらないし、やろうとしない。

(3)開発業務設計はできるが、自らの業務設計はできないC社

 設計のコンサルティングを行っているC社。設計に必要な仕様書から、図面に落し込むまでのプロセス構築はでき、設計は開発業務の入口でとても大事だとクライアントには口をすっぱく言っているにも関わらず、日常業務のやり方はその場その場の思いつきで、開発業務の設計はできるが、自分たちの日常業務の設計は何もできない。

(4)顧客の悪口を言いまくるCS研修のD社

 CS(顧客満足)の教育研修で知られたD社。研修先の企業で熱心に指導し定評があるのだが、D社の社内では研修講師が研修先企業の悪口をボロクソに言っていることを、同社の部下はみな知っている。

 他にも山ほどこんな会社を知っているが、こんなものは氷山の一角だ。「できないことはできない」…… そうはっきり言う方が正義だし、他ならぬクライアントをはじめ顧客のためでもある。

 共通していることがあり、それは、この人たちは自らのことをプロフェッショナルと呼んでいる

 しかし、自分からすれば、「プロフェッショナルではなく専門家」である。冒頭、例に挙げた学校の先生で、教えることはできるが教えること以外はできないのと似たようなものだ。少なくとも、人に教える・指導する・コンサルティングをするのであれば、まずは自分自身や自社でできていないと無責任というものだろう。

 A社からD社まで、4つ例を示したが、皆さんの会社でも似たようなことは起きていないだろうか? 言うだけ番長じゃ、周りがいい迷惑だし、言行不一致は信頼に値しないものである。

■プロフェッショナルの仕事(っぷり?)

 「プロフェッショナル>>専門家」と書いたが、顧客・クライアントからすれば、自社にとってちゃんと指導をしてくれる、有用な見識やアドバイスをしてくれる。それだけで十分、専門家に値するし、プロフェッショナルのように見えるはずだ。コンサル会社、研修会社の社内できちんとできていようがいまいが関係ない。

 しかし、プロフェッショナルと言うからには、このような外向けと中向けの顔の差があってはいけないと自分は考えている。少なくとも「自分にできないことを人には言うな!」である。

 当社も経営コンサルティング会社として専門家であり、特に業務プロセス分野においてはほぼどんな場面や難題がきても大丈夫なプロフェッショナル性は持っていると思う。同業他社と話をすることも少なくないが、そのときに愕然(がくぜん)とするのが、Webや書籍でカッコいいことを書いておきながら、実際の中身の薄っぺらさや、人の話をこれっぽっちも理解できない問題児コンサルもそれなりにいることだ。これでよく「プロフェッショナル」と言えた義理かと気絶しそうになる。まだ、人の言うことを素直に聞く人なら救いようがあるが、専門家としてやってきたという自負、変なおごりやプライドが邪魔をして、ほとんど聞く耳を持たないし、変えようとしない。これはもはや中身うんぬんではなく、姿勢そのものがプロフェッショナルとは呼べない。


 あらためて、プロフェッショナルの仕事とは何か、プロフェッショナルの仕事っぷりは自社であっても、他社においても差があってはならず、似非プロフェッショナルを見極める目も必要だと思う次第である。

コラムニスト:株式会社カレンコンサルティング 世古 雅人

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