シンガポールでアジアのエンジニアと一緒にソフトウエア開発をして日々感じること、アジャイル開発、.NET、SaaS、 Cloud computing について書きます。

漢字最高!

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 最近、仕事帰りに近所のスーパーで買い物をすることが多い。郊外の駅の小さなスーパーだが、いつ行ってもレジの前には長蛇の列ができている。仕事帰りで疲れていて、うんざりするが、仕方がない。

 昨日、そうやってレジの前を並んで見回していて、気付いたことがある。魚売り場にある広告のインパクトがやけに大きいのだ。シンガポールの人口の80%程度は中国系。それに合わせてか、スーパーの至るところにある広告は、漢字と英語の併記だ。タミル語を話すインド人、マレー語を話すマレー系人もいるわけだが、なぜかこの種の広告にタミル語やマレー語は使われない。そして、英語と漢字が併記された広告では、漢字の方が私の目に飛び込んできたのだ。

 「新鮮魚貝」と「Fresh seafood」とあって、どちらが「海から上がったばかりで、今にも跳ねそうな銀色に光る魚」を思う浮かべられるかだ。やはり「新鮮魚貝」の方だろう。「Fresh seafood」からはどうしてもみずみずしいイメージはわいてこない。表意文字と表音文字。文字自体からイメージがわいてくるのは、表意文字の中国語。当たり前のことなのだが、感動した。日本人は、漢字を中国から輸入して日本語に取り込んで使っているわけで、「これは結構幸せ」なことなのかもしれない。

 昔、学生時代に、友人と韓国を自転車で旅行したことがある。韓国の釜山に向かうため、関釜フェリーが出る下関に向かうべく、大阪の南港から夜行フェリーに乗ったわけだが、夜行フェリーに乗っていた一晩でハングル文字を覚えた。また、当時の韓国は町に書かれている広告、新聞などで目にする韓国語はすべてそのハングルだけで、漢字は一切使われていなかった(今はどうか知らないが)。それを見て道中、友人と激論を戦わせた。私の主張は「韓国人は幸せだ。漢字を覚えなくていいのだから」というものだった。

 何を隠そう、私は漢字をまったく書けない人なのだ。なぜかというと、小学校時代に、机に座って勉強ができない子供で、当然漢字の練習をなどまったくと言っていいほどしなかったからだ。今、この文章を書いているが、もしパソコンにかな変換機能がなければ、絶対書く気にならない。書けない漢字に出合うたびに、いちいち辞書を引いて漢字を調べることなど、面倒くさくてやってられない。思い起こすに、学生時代の論述試験。これが本当に困った。書きたい内容の漢字を思い浮かべられない時、何とか漢字を思い浮かべられる別の同意語を必死で探した。そして、それがどうしても無理な時は、仕方なくひらがなで書くしかなかった。とにかくつらかった。

 最初にイギリスに駐在した1987年から1991年ごろは、海外と日本のコミュニケーション手段はまだFAXだった。手書きの文書をFAXで送って、文書のやりとりをするのだ。私が書いたFAXは、やはりひらがなが多かった。特に、顧客の現場から文章を送るような時、時間的に辞書を引いている時間がないことが多く、ひらがなが極端に多かった。受け取った人は「また山本か。こいつ漢字を知らんな。ひらがなが多くて読みにくて困る!」と思っていたことだろう。

 また、日本で行うミーティングで、ホワイトボードに書きながら何かを説明する時など、今でも困る。私が漢字を書けないことが「ばればれ」になる。この点は、シンガポールに移ってからは、全部英語なので問題ない。

 閑話休題。韓国旅行中の友人との議論に戻ろう。私は、「日本から漢字をなくしてしまえば、苦労して覚える必要がなくなる。そんなにいいことはない」と主張するが、友人は「漢字は文字のLSI。こんな素晴らしいものはない」と主張するのだ。LSIとは、Large Scale Integration。つまり、多くの情報が小さなチップに入った集積回路だ。友人は、漢字をLSIと例えるのだ。漢字1文字にものすごく多くの情報量が詰まっているわけで、アルファベットや平仮名やカタカナの薄っぺらさとは比較にならないという主張だ。今でもよく覚えている。確か釜山に近づいて、とにかくだだっ広い道路を、自転車で2人ちんたら並走しながらの議論だった。当時の韓国はとにかく道がひどかった。そんな時、珍しくきれいに舗装された道路を走って快適だったのだ(後から聞いたところ、その道路は戦時中には軍用機の発着に使うことを目的としていたため、無駄に広くなっていたらしい)。

 あれから30年近くたって、私の意見は変わった。やはり、漢字はいい。確かに覚えるのはつらい。しかしいったん覚えてしまったら、非常に重宝するのは事実だ。これは私の独断と偏見だが、日本人や中国人の漢字文化の人と英語のネイティブが、片方は漢字を含んだ文、片方は英語で、同じ情報量を読み取る競争をしたとしよう。多分、漢字文化圏の人のダントツ勝利ではないかと思う。情報量を読み取る速度は、表意文字が圧倒的に優れている。

 現在、少なくともサイエンスの分野では、英語で情報交換が行われる。人類の歴史全体から見たらほんの数百年足らずの歴史の流れによってそうなったわけだが、もし歴史が違う方に転がっていたらどうなっていたのかと、最近よく思う。

 帝国主義時代にヨーロッパが世界を支配するに至ったきっかけの1つは、ヨーロッパが先に大航海時代を迎えられたからだと言われる。ところが、この大航海、実は中国の方が早かったという説がある。何でも、中国の明時代の1405~1433年の間に、なんと7回も大艦隊で世界を巡ったそうだ。コロンブスより100年早い。明時代の中国が、この時世界の植民地政策を始めていたとしたら、世界は今とは全然違ったものになっていただろう。

 少なくとも、英語で生物学を勉強しなければならない私の悩みはなかっただろう。しかし、漢字を書けないという悩みが、今のような逃げ道がない形で、私を強烈に襲っていたであろうことは間違いない。

 ところで、あまり関係ないかもしれないが、最近、日本と中国の間がギクシャクしている。漢字を教えてくれた中国。師匠ということで、もう少し仲良くしてもいいのではないかと思う。

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