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イノウーの憂鬱 (11) ピクニック

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 6 月5 日の空は、まるで奇跡のように晴れ渡っていた。ここ数日のぐずついた天気がウソのようだ。平日の金曜日、有休取得日、ピクニック当日、そして雲一つない晴天。きっと日頃の行いがいいからに違いない。
 ぼくは午前11 時ちょうどに身支度を終えた。長袖シャツとチノパンにリュック。寒くはなさそうなのでジャケットはなし。習慣で壁にかけてあった不織布マスクを取ったが、すぐに気付いてゴミ箱に放り込み、苦笑しながら新しいマスクを取り出した。すでにドラッグストアやスーパー、はてはコンビニにまでマスクは購入制限なしで並んでいて、先月までのマスク不足騒動はなんだったのかと思わせるほどだ。体温計や消毒液は、たまに在庫切れになっているのを見かけるが、翌日には入荷していることが多い。
 駅までの道をゆっくり歩き、久しぶりの日中の空気を満喫した。どちらかといえばインドア志向の人間なので、外食や旅行などが制限されることには苦痛を感じたりしなかったし、通勤電車に乗らなくていいのは至福の日々だといえるが、たまに外を歩くと気分が軽やかになることは確かだ。
 電車に乗るのは、GW 前、ノートPC 申請フォーム構築作業のため出勤したとき以来だった。車内は空いている。平日の午前中、ということもあるが、テレワークや時差出勤が推進されているためだろう。乗客のほとんどはマスクをしているが、例外もあった。ぼくが乗った車両の中央シートに陣取った中年男性が、マスクを顎の位置までずらし、缶コーヒーを口に運びながら、隣の女性とかなりの大声で喋っていたのだ。どんなご時世であっても非常識な人間は一定数存在する、という事実を証明するかのようだ。ぼくが見ていることに気付いた中年男性が、威嚇するような視線を向けてきたので、余計なトラブルを避けて隣の車両に移った。
 横浜駅で京浜東北線に乗り換え、山手駅で降りた。改札を出ると、待っていたマリがぼくを見つけて大きく手を振った。明るい色のT シャツとクラッシュデニムだ。
 「おつかれさまでっす」マリはちょっとマスクをずらして、ニッと笑った。「生身で会うのは久々っすね」
 「ほんとだね。ぼく自身、久しぶりに外出たって感じだよ」
 「わかります。スーパーとかは行っても、こういうお出かけって、長らくなかったですからねえ」
 「さてと」ぼくは周囲を見回した。「バス乗ろうか」
 「それなんすけどね」マリはぼくの顔をじっと見つめた。「せっかく天気がいいんだし、歩いていくってのはどうっすか?」
 「歩いて......ちょっと待って」
 ぼくはスマートフォンで、山手駅から本牧山頂公園までの経路を調べた。1km ぐらいだ。
 「そうだね。まあ、これぐらいなら」ぼくは頷いた。「運動不足解消になるかな」
 「ですよね。じゃ、行きましょう」
 マリはにっこり笑うと、先に立って歩き出した。ぼくは2 メートルの距離をおいて、その後を追った。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 幸いなことに、マーズ・エージェンシーの社員に、新型コロナウィルスの陽性者が続出することはなかった。インデックス・ケースとなった営業一課の社員は、重症化することもなく、二週間の入院の後、無事に退院したことが報告された。彼の濃厚接触者に該当する20 名ほどもPCR 検査を受け、全員が陰性だったことが明らかになった。このことは当人たちにとっては朗報だったに違いないが、ぼくを含めた関係者には、逆に一抹の不安として残った。感染経路が明確であれば対処方法もわかるが、不明では何も手が打てず、誰かが然るべき申告を怠ったのではないか、という疑心暗鬼が生まれただけだったのだ。
 驚くようなことではなかったが、GW 明けに予定されていた緊急事態宣言の解除は延期が発表された。次第に減少傾向にあるとはいえ、東京都の感染者数は100 人前後を推移していて、感染の収束にはほど遠い状況であることは明らかだ。例年であれば、GW には、有給休暇と組み合わせて2 週間近い連休を設定して海外旅行に行っている、という社員も、今年ばかりはカレンダー通りに休んだだけで、遠出は控えていたらしい。ぼく自身もGW はほとんど外に出ず、ネット配信の映画を観たり、手をつけていなかったタイタス・クロウ・サーガを一気読みしたり、自炊に挑戦したりしていた。
 5 月1 日にリリースした検温登録フォームは、GW 明けには全社員のルーチンになっていた。不正な数値の入力を弾くように改修したこともあったが、総務課から登録の意義について、かなりきつい言葉で通達があったためだ。GW 中、ぼくは異常な数値が登録されていないかと、毎日チェックしていたが、ほとんどは常識的な範囲にとどまっていた。中には30.0℃のような数値も登録されていたが、翌日には修正されていたところを見ると、悪意による入力ではなく、単純な入力ミスだったようだ。
 5 月中旬までの統計値では、最高値は38.2℃で、38℃台が2 日以上、継続した例はなかった。この結果が全社員に通知されると、社内のコロナウィルスに対する警戒心は一段階下がったようで、安堵の空気が広がっていた。ただ、総務課に言われてデータを抽出していたぼくは、少なくない数の社員が、毎日、判で押したように同じ数値を入力していることに気付いていて、データの信憑性には疑問を抱いていた。よくある体調不良や軽い風邪などであっても、今はコロナウィルス罹患の疑いを向けられるので、当たり障りのない数値を登録した可能性も充分にある。
 その傍証となるのが、例の営業一課の社員だ。彼は退院後も自宅待機だったが、5 月25 日の人事課からの翌月の人事異動連絡で、6 月末で退職することが発表されたのだ。6 月末で退職といっても、残りの日々のほとんどは、貯まっていた有給休暇の消化になるため、5 月22 日が最終勤務日だった。
 ぼくは顔と名前が一致するぐらいで接点がなかったのだが、元は営業三課にいたマリは、何度か話をしたことがあったそうで、ビデオ会議で打ち合わせをしていたときに、その話が出ると首を傾げていた。
 「営業の同期の話じゃ、戻ったら普通に仕事する気でいたそうなんすけどね。陽キャな人で、彼女もいたみたいだし、クライアントからの評判もよかったから、辞める理由なんてなさそうな人でしたし。あ、でも、コロナに感染したのは風俗行ってたからだって噂もあったから、もしかすると......」
 マリは語尾を濁したが、あるいは一種の職場いじめ的な何かで、半ば強要される形で退職を選ばざるを得なかった可能性もある。彼のSNS は全てアカウントが削除されていて、確認しようがなかった。ただ、公言されることはなかったが、彼の退職が5 月25 日の緊急事態宣言解除と相まって、社内の安堵感を大きく上昇させたことは確かだった。翌日、朝夕二回に義務づけられていた検温結果の登録を、6 月からは朝のみにすることが、総務課から通知された。今後の状況によっては、登録を隔日にすることも検討する、とも書かれていた。まるで彼の退職とともに、マーズ・エージェンシーにおけるコロナ騒ぎをなかったことにするかのようだった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「わあ」マリは両手を挙げて胸を反らした。「誰もいなくていいですね」
 ぼくは息が切れて返事をするどころではなかった。マリはサディスティックな笑みを浮かべて、へたり込んだぼくを見下ろした。
 「イノウーさん、ほんとに運動不足っすね」
 「......」
 距離としては1km 弱だったが、うかつなことに高低差を見逃していた。山手駅から本牧山頂公園までの行程は、そのほとんどが坂道だったのだ。しかも晴天で気温が高く、ぼくはあっという間に汗だくになった。運動不足は自覚していたものの、ここまでとは思わなかった。アメリカ坂からの入り口に到達したときには、心臓がバクバクと鼓動を繰り返していた。今、検温登録したら、たちまち総務課から折り返し連絡がかかってくる数値になるだろう。
 「マリちゃん」ぼくは何とか息を整え、マリを恨みがましい目で見た。「君、体育会系だった?」
 「高校までは陸上部でしたけど大学は特に何も。定期的にジョギングはしてますけどね」
 「健康のため?」
 「美しいプロポーションを保つためっすよ」
 確かにマリは肥満のきざしもない均整の取れたスタイルだ。ぼくは、そろそろ余計な脂肪が増えつつある腹部に目を落とし、何か運動した方がいいのではないか、と考えた。リュックに入れてきたペットボトルのお茶で水分補給していると、ポケットから電子音が聞こえた。ぼくとマリは、同時にスマートフォンを開いた。
 「木名瀬さん、着いたみたいっすよ」マリはぼくを急かした。「ほら、早く行きましょう」
 ぼくはよろよろと立ち上がった。公園の案内図を確認し、中央に向かって歩き出す。屋外だし、互いの距離には気を付けているので、二人ともマスクはなしだ。
 本牧山頂公園は、高級住宅地の山手の高台にあり、東西に長く広がっている。駅から遠く、普通の人なら、車かバスを利用するのだろう。今はほとんど人がいない。親子連れが数組と、犬を散歩させていた老人の他は、米軍関係者らしいタンクトップ姿の白人男性が芝生に寝転がっているぐらいだ。
 ぼくとマリは、手を伸ばしても届かないぐらいの距離を保って、公園を貫く歩道をゆっくり歩いていった。目指すのは公園の中央にある、見晴山という高さ45m の山だ。近くにトイレや自動販売機などが併設されたレストハウスがある。レストハウス脇の階段を昇った先の花壇の近くで、木名瀬さんが待っていた。
 「おつかれさまです」木名瀬さんは変わらぬ笑顔を見せたが、ぼくを見て怪訝そうな顔になった。「イノウーくん、死にそうな顔してますが、どうしたんですか」
 山手駅から歩いてきたことを説明すると、木名瀬さんは呆れた顔でマリを見た。マリはペロッと舌を出して笑った。
 木名瀬さんは淡いグリーンのワンピースに、白のストローハットという出で立ちだった。レディースファッションには詳しくないが、マリが感心したような顔で、ブランド名を口にしたので、安物ではないことはわかった。一通りの挨拶が済むと、木名瀬さんは花壇の方を見て呼んだ。
 「エミリ」
 花壇にしゃがみこんで、何かを観察していた女の子が顔を上げ、立ち上がると、ちょこちょこと駈け寄ってきた。身長は90cm ぐらいか。水色のブラウスにギンガムチェック柄のショートパンツ、ポニーテイルにした髪にはピンクのシュシュ。
 「娘のエミリです」
 木名瀬さんが紹介すると、女の子は恥ずかしそうにこちらを見たが、すぐに母親の後ろに隠れてしまった。マリはしゃがみこんで微笑みかけた。
 「可愛いですねえ。エミリちゃん、よろしくね。マリです。こっちのお兄さんはイノウーさん」
 エミリちゃんはちらりと顔を覗かせ、マリとぼくを交互に見たが、問いかけるように母親の顔を見上げた後、また引っ込んでしまった。
 「ここだと少し暑いかもしれないから」木名瀬さんは近くの木立を指した。「あそこの下にシート敷いてあります」
 ぼくたちはカラフルな色のレジャーシートが敷いてある場所に移動した。バスケットが2 つ置いてあり、木名瀬さんは蓋を開けて中身を取り出して並べ始めた。たくさんのサンドイッチと、ウインナーや唐揚げ、色鮮やかなフルーツ、冷えたレモネードのボトル。
 「斉木さん、遅いですね」
 ぼくがそう言うと、木名瀬さんは思い出したように顔を上げた。
 「ごめんなさい。さっき、連絡があって、午前中、急な会議になったので会社に行ったそうです。少し遅れるけれど、必ず合流するとのことでした」
 「システム開発室のおつかれさま会ですもんね」
 マリの言葉に、ぼくたちは頷いた。そもそも、今日の集まりを言い出したのは斉木室長だ。システム開発室のキックオフというわけだった。本来なら、会社の帰りに、どこかの居酒屋で、というのがこの手の集まりの定番だが、今の状況では難しいし、そもそも、斉木室長以外の全員がテレワークだ。木名瀬さんは、自分の家で、と申し出てくれたが、消毒などの手間をかけさせるのは申しわけない。普段からモニタの中で会話しているので、オンライン飲み会というのも、いまさらという気がする。代替手段として提案されたのが、今日のピクニックだ。平日を選んだのも、場所を屋外にしたのも、人との接触を避けるためだった。
 ぼくたちはレジャーシートのコーナーに座った。木名瀬さんがレモネードを注いだコップを配る。
 「さて」木名瀬さんはコップを掲げた。「GW からずっとおつかれさまでした。今日はささやかながらおつかれさま、ということで。乾杯」
 ぼくとマリは唱和しコップに口をつけた。ほどよく冷えた果汁が乾いた喉に染み渡る。木名瀬さんは手際よく、ペーパープレートに食物を取り分け、ぼくたちは楽しく、ただし、あまり大声で笑わないように注意しながら、優雅に平日のランチに取りかかった。話題はやはり最近のコロナウィルス情勢に関係したことになってしまうが、意識してテレワークで変わった日常生活での失敗などを話すようにした。電車に乗っていないために、PASMO のオートチャージが実行されず、残高がゼロになっていて、駅のホームでドリンクが買えなかったこととか。
 「そういえば訊くのを忘れてましたけど」マリが旺盛な食欲を発揮しながら言った。「あのリヴェンデルって何なんですか」
 マリが言っているのは、システム開発室が、5 月の大部分をかけて増改築を繰り返したシステムのことで、その大元は、5 月1 日にリリースした検温登録システムだ。
 GW 明け、社員の検温登録が順調に進み、システムの動作が安定してくると、それを待っていたかのように、総務課をはじめ、各部署からいろんな要望が入ってくるようになり、ぼくたちは機能追加に追われた。簡易掲示板、緊急通知、首都圏感染者数速報、(簡易ではない)掲示板、衛生商品(マスクや消毒液)販売店速報、衛生商品上げます・下さい、などなど。一般ユーザ向けに一つ画面が追加されれば、管理者用の画面も追加になる。元々、検温登録フォームだけの予定だったので、/kenonapp/form.html という単純なURL だったが、各種機能が追加されるに従って、form2.html、admin2.html、form3.html、admin3.html と増えていくことになった。
 やがて、kenonapp という名前はおかしいのではないか、と誰かが言い出した。すでに検温登録機能のみではないのだから、kenon はそぐわないということだ。このためだけに部課長による会議が開かれ、marsapp から、mars_emergency_app、mars_total_app、mars_netsystem などの候補が上がり、数時間にわたって議論が繰り広げられた。システム開発室に発言権はなかったが、斉木室長と木名瀬さんがLINE で密談し、すでに実装担当責任者――ぼくのことだ――が決めてしまって変更が難しい、という話をでっち上げた。
 当然ながら、そのシステム名とは何なのか、という質問が上がり、斉木室長は担当者に問い合わせるので5 分ほど時間をください、と言って会議室を出た。連絡を受けたぼくは、数分でシステム名を決定しなければならなくなった。とっさに選んだ単語が、rivendell だった。指輪物語で「裂け谷」と訳されている、エルフたちが住まう美しい場所だ。
 由来を説明すると、マリは少し寂しそうな顔で言った。
 「実はあたしも指輪物語、読んでみようとしたんですけど......」
 「一巻の第一章で挫折した?」
 「なんでわかるんですか」
 ぼくと木名瀬さんは顔を見合わせ、同好の士としての笑みを交わした。
 「初心者あるあるですよ、それは」木名瀬さんはレモネードのお替わりを勧めながら言った。「退屈なところは飛ばせばいいんです。第二章の<過去の影>から面白くなりますから」
 「映画から入るのも手だと思うよ」ぼくも助言した。「第一部だけ見てから、原作を読むと、かなりわかってくるから」
 「映画観てないんですよね」
 「ブルーレイ、貸そうか?」
 「長いんですよね、あれ」
 「スペシャル・エクステンデッド・エディションだと、200 分超えるね。でも逆にこういう時期じゃないと、なかなか観るチャンスはないかも」
 「うーん、じゃあお言葉に甘えて」マリはぼくに頭を下げた。「お借りしてもいいですか」
 「これでマリちゃんもマーズ指輪クラブのメンバーですね」木名瀬さんは笑ったが、傍らの娘に気付いてたしなめた。「エミリ、ちゃんと食べてください」
 エミリちゃんはサンドイッチをバラバラに分解し、キュウリをよけてハムとチーズだけ食べていたが、やがて満腹したのか、退屈したのか、パンを小さくちぎっては、近くに放り出していた。木名瀬さんが注意すると止めたが、キョロキョロと周囲を見回した後、なぜか、ぼくの方に歩いてきて目の前に座った。
 少し驚いて見ていると、エミリちゃんは小さな手を恐れ気もなく伸ばし、ぼくのシャツの袖をめくりだした。まるで中に何が入っているのか確かめているかのように。続けて、もう片方の袖も肘までめくると、今度はチノパンの裾をめくりはじめた。臑までめくると、危険なものがないと納得したのか、ぼくの膝の上にちょこんと座り、小さな目でぼくを見上げてにっこり笑った。なんだ、このかわいい生きものは。
 「あら珍しい」木名瀬さんが驚いたように言った。「エミリが初対面の人になつくなんて。男性を見るのが久しぶりだからですかね」
 「子供と動物にはモテるんですよ、なぜか」
 木名瀬さんとマリは揃って笑い声を上げた。
 「おとなしいんですね」マリがエミリちゃんを見ながら言った。「いつもこうなんですか?」
 「そうなんです。別に話せないとかではないんですが、外ではあまり口を開かない子です。でも気に入らないことがあると、すごい声で悲鳴上げたりしますが。イノウーくんのことは気に入ったみたいですね」
 ぼくはエミリちゃんを木名瀬さんの元に戻そうとしたが、どこをどう掴んだらいいのか見当もつかなかった。うっかり抱き上げて叫ばれたりしたら、こっちがパニックになってしまいそうだ。困って母親の方を見たが、木名瀬さんは肩をすくめた。
 「イヤでなければ、そのまま抱っこしてやってください」
 エミリちゃんは、ぼくの皿に載っていた手つかずのサンドイッチを勝手に取り、材料単位に分解する作業を熱心に再開していた。好き嫌いで選り分けているというより、ままごとをしているようだった。ぼくは諦めて、木名瀬さんが渡してくれた新しい皿からランチを再開した。
 「ぼくも前から訊きたいことがあったんです」
 「なんですか」
 「木名瀬さん、どうしてあんなにシステム開発の知識があるんですか?」前から疑問に思っていたことだった。「言語やフレームワークの知識まで。失礼ですけど、庶務グループに必要だとは思えないんですが」
 「そのことですか」木名瀬さんはエミリちゃんを愛おしげな目で見た。「まだ話したことはなかったでしたね」
 「もしかして」ぼくは訊いた。「以前、開発関係の会社にいたとかですか?」
 「いえ、そういうことではありません」木名瀬さんは首を横に振った。「私も転職組ですが、その前は人材派遣会社でエージェントをやっていました」
 かつてのマーズネットにも派遣社員を送り込んだことがあったそうで、その縁で転職したそうだ。
 木名瀬さんが話を続けようとしたとき、遠くから「おーい」と呼びかける声が聞こえてきた。顔を上げると、斉木室長が歩いてくるのが見えた。ぼくたちとは逆の方向からだ。どうやらタクシーか何かで来たらしい。
 「遅くなったね」斉木室長は暑そうにマスクを外して座った。「あ、ありがとう」
 木名瀬さんが差し出したレモネードを一気に飲み干すと、ハンカチで額の汗を拭った。渡された皿に載ったサンドイッチをつまみ、ウィンナーと一緒に口の中に放り込む。
 「おつかれさまです。何の会議だったんですか?」
 「うん、それは後で話すよ」斉木室長はもぐもぐと食物を咀嚼しながら言った。「何の話をしてたの?」
 ぼくが木名瀬さんの過去について訊いていたことを話すと、斉木室長は意外そうな顔になった。
 「あれ、二人とも知らなかったんだね。ソリューション業務本部、あの頃はシステム事業部だったかな、そこで独自システムの提案業務をやってたんだよ」
 「そんな部署があったんですか」
 現在のソリューション業務本部は、大手SIer からの仕事を受けるだけだが、当時は顧客に対してシステム構築の提案を行う業務もあったとのことだ。要件定義から始まって、必要とするハードウェアやネットワーク、ミドルウェアやフレームワークの選定を行い、顧客の環境にマッチしたシステム一式の構築を提案していた。提案が通れば、一次請けとして引き続き構築に入る。
 「うん。木名瀬さんはトップセールスエンジニアだったよね」
 「私一人の力ではありませんよ。チームメンバーがみな優秀だったおかげです」
 「どうして今はないんですか?」
 「会社の体力がなかったからです。受注できれば大きな金額の仕事になりますが、できなければわずかな提案料だけで引き下がらざるを得ないので。当時は、各企業がIT 関係への投資を控えていた時期で、ギリギリ黒字になるぐらいの利益しか出せていなかったんですね」
 3 年前、木名瀬さんは出産のため休職した。とたんにチームの成績はガタ落ちとなってしまった。
 「それで大竹専務が業務中止を命令したってわけ」斉木室長は言った。「この唐揚げ、おいしいね」
 「産休中も、最新技術の知識だけはアップデートしていたんですが」木名瀬さんは肩をすくめた。「復帰しても元の業務は再開されることがなく、私は庶務グループに配属になったというわけです。システム開発室のおかげで、知識がムダにならずに済んで良かったと思っています。イノウーくんが入社してくれたおかげとも言えますね」
 「営業にいたときの先輩に聞いたんですけど」マリが考えながら言った。「大竹専務って、昔、マーズの業績が落ち込んでいたとき、それを立て直した人なんですよね」
 「前に話したと思いますが、マーズにも実装を行う部門があって、大竹専務はそこの部長だった人だそうです。大竹専務は採算が悪かった開発部門の廃止を断行し、今のような仲介業への転換を推進することで業績を回復させました。その功績で専務に昇格したんです」
 「エースとの事業統合を進めたのも、大竹専務なんだよね」斉木室長がため息をついた。「やり手なのは確かだけど、コストカットなんかを強引に進めることが多くてねえ。でも、結果をきちんと出す人だから、社長も役員の人たちも口を出せなくて」
 「不思議なんですが」ぼくは首を傾げた。「それなのに、よくシステム開発室なんて発足できましたね。専務が反対しなかったんですか?」
 「それは確かに不思議なんだけどね。まあ、外の会社のシステムを開発するんじゃなくて、社内システムだからね。庶務とか経理なんかと同じスタッフとみなしてるんじゃないかな」
 経理や人事でもアウトソーシングする時代だ。社内の開発部門など、真っ先に廃止リストに載りそうなものだが。
 「ま、とにかくシステム開発室の未来は、まあまあ明るいってことですよね」マリが陽気な声で言った。「総務や営業の要望をこなして、開発部門としての地位を確立したってことじゃないですか。実績出してれば、そう簡単に潰すことなんてできないですよ」
 その言葉を聞いた斉木室長は、またため息をつくと、カップと皿をレジャーシートの上に置いた。
 「そう単純な話でもないんだよね」
 「どういうことですか?」木名瀬さんが訊いた。「今日の会議で何かあったとか?」
 斉木室長は頷いた。
 「今日の会議は、来月の組織変更の話だったんだけどね」
 マーズ・エージェンシーでは、6 月中旬に株主総会が行われ、その結果を反映する形で、7 月1 日付けで組織変更や人事異動が行われることになっている。もっとも、上場もしていない会社の株主総会だ。たいていは大した変更もなく、形式的に経営陣の続投が問われるだけだと聞いていた。
 「経営陣に変更はないし、部門の統廃合もない予定なんだけど、ひとつだけ確定事項として連絡されたことがあってね」
 「システム開発室のことですね」
 何かを察したらしい木名瀬さんが、訊く、というより、確認するような口調で言った。
 「そうなんだ」斉木室長は肩を落とした。「来月から、システム開発室に、新しい管理者が来ることになったんだよ。私の上司ってことになるね」
 「誰だか決まってるんですか?」ぼくは訊いた。
 「マネジメント三課の課長が兼務する」斉木室長は乾いた声で呟くように言った。「伊牟田さんだよ」

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

Comment(6)

コメント

yupika

序盤の空気からもう終わりかなと思ったら…
一番嫌なやつが上司に!!!

h1r0

イノウーとマリちゃんデートかよ
と思ったけど違った~

予備役社内SE

「冷たい方程式」にいた渕上並みのクズがやってくるのか・・・!?

匿名

むしろここからが本番で、これまではプロローグだったか

匿名D

私は歴代最強のクズは首藤だと思います。

匿名

何だ最悪の展開に。

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