高村ミスズの事件簿 コールセンター篇(5)
ボスからの連絡がない。ユカリはモニタを見つめながら、何時間も沈黙しているイヤピースに触れた。これまでは、軽く指で弾けば何かの応答があった。それが無機質な電子音1 つだったとしても、見守ってくれていると知るだけで心強かった。
困るのは、この沈黙がハード的なトラブルによるものなのか、単にボスが多忙なだけなのか、もしくは何らかの妨害によるものなのか、ユカリには判断ができないということだ。
妨害か。ユカリは唇に小さな笑みを刻んだ。ナツメシステムの須藤との短い対面と、マドカから聞いた常駐エンジニアたちの話が、B 級スリラーのような想像をかき立てたようだ。ナツメシステムが、あたしの正体に気付いて、ボスとのコミュニケーションを断とうとしている、なんて……
昨日の夜は、ユカリはマンションに戻ってから、ボスと連絡を取ろうとしたが、何度電話をかけても応答がなかった。こんなことは初めてだったので不安になったが、深夜零時を過ぎたころには、疲労に負けてベッドに転がり込んだ。
朝になって目が覚めたとき、Twitter のDM で連絡が入っていた。
『連絡できず申しわけない。DLコンタクトに出勤してくれ。後で連絡する』
すぐに電話をかけてみたが、やはり応答はなかった。ユカリは諦めて、指示された通り、DLコンタクトへ出勤したのだった。そして、マドカの隣のブースで顧客対応の業務を続けていた。
午前中にはボスからの連絡は入らなかった。昼休みに連絡してみたが、やはり音沙汰がない。
――まさか、このままずっとこの会社で働くってわけじゃないよね
そんな不安を隠しつつ、ユカリはとりあえず目の前の業務に集中していたのだが、午後の業務を開始してすぐ問題が発生していた。
着信が入った。ユカリは小さく息を吸って応答した。
「お電話ありがとうございます。K モバイルお客様サポート、担当前園でございます」
『あーすいません。えーと土曜日に買ったスマホなんだけど、留守電機能のオプション入ってるはずなんだけど、なんか入ってないみたいなんだよね』
「かしこまりました」ユカリは淀みなく答えた。「お調べいたします。まずお客様の契約されましたスマートフォンの番号をいただけますか?」
『今かけているのがそれなんだけど』
「失礼しました。お待ちください」
ユカリは受付システムを操作した。着信している電話番号から、顧客データベースに登録されている契約者情報が表示されるはずだが、画面は「検索中……」の表示のまま固まっている。
「お待たせしております」10 秒後、ユカリは検索を諦めた。「大変申しわけないのですが、こちらのシステムの不具合のため、お客様の契約情報をお調べするのに時間がかかっております。おそれいりますが、お名前をいただけますでしょうか」
ユカリは顧客から訊いた氏名と電話機に表示されている電話番号をメモすると、ピッと頭上に掲げた。たちまち木原SV が飛んできて、それを掴むと、自席に戻っていった。立ったままキーボードを叩いている。
昼過ぎからこの状態だった。検索システムがまともに動作しないので、契約者情報の認証は紙ベースで行うよう指示が出されている。木原SV のPC に全契約者情報を出力したExcel ファイルがあり、オペレータが書き留めた電話番号と氏名で検索をかけるのだ。幸い、平日の午後でコール数はそれほど多くはないが、気の毒に木原SV はトイレに立つこともままならない状態だった。契約者情報のExcel ファイルは、SV 席以外では閲覧できないルールだからだ。途中、館脇センター長が30 分だけ交替してくれたが、すぐに会議のため戻っていってしまった。
ユカリが見つめていると、木原SV は指でOK サインを作った。ユカリは頷いて、顧客との通話に戻った。
「お待たせして申しわけございません。留守番電話機能オプションでございますね。ただいま、お調べするのに少々お時間をいただいております。判明次第、こちらから折り返しのお電話を差し上げるということでいかがでございましょうか?」
『ああ、いいよ』相手の若い男は物わかりよく答えた。『いつでもいいから。じゃ、よろしく』
「はい、失礼します。前園が担当させていただきました」
通話を終えたユカリは、ふう、とため息をついた。開きっぱなしになっているExcel に、通話時間と問い合わせ内容を入力し、共有フォルダに保存する。このファイルは、別のオペレータルームのSV が内容を精査し、結果を追記することになっている。ファイルが更新されたら、木原SV を通してユカリに連絡が入るので、ユカリがコールバックする手順だ。
「前園さん」後処理を終えたとき、木原SV が足早に近寄ってきた。「悪いけど、またモニタルームに行って来てもらえないかな。さっきから電話してるんだけど、誰も出ないんだよ」
「トイレか何かじゃないんですか?」
「いや、いくらなんでも長すぎるよ。手が離せないでいるのかもしれないから、様子を見てきてほしいんだ。ちょっと、これじゃあ業務にならんからね」
「はあ、わかりました」ユカリは電話機を離席モードに変えた。「でも、あたしじゃモニタルームは入れないですよ」
「うん。これ使って」木原SV は自分のID カードを外して差し出した。「入室コードは裏に貼ってあるから。あ、水野さんも一緒に行ってあげてください」
「わかりました」マドカはヘッドセットを外した。「確かにこれじゃあ、ちょっと仕事にならないですね」
「業務終了後のレポート作成が大変だよ。CMS からコール数を出して、手入力したExcel 履歴とチェックしなきゃならんからね。じゃ、頼んだよ」
木原SV は別のオペレータがメモを掲げたのを見て、慌てて飛んでいった。ユカリとマドカは顔を見合わせてクスリと笑うと、揃って立ち上がった。
廊下に出ると、マドカは歩きながら囁いた。
「モニタルームで死んでたりして」
もちろん冗談のつもりだったのだろうが、ユカリは笑えなかった。死んでないまでも、床に倒れている可能性だってある。
モニタルームの前に着くと、ユカリはまずノックしてみた。
「すいませーん」そういえば、勝呂さんの交代要員の人の名前を知らないな、と思いながらユカリは呼びかけた。「K モバイルセンターの者ですけど」
応じる声はない。それどころか、耳を澄ましてみても、物音ひとつ聞こえてこない。
「入りましょ」マドカが促した。
ユカリは、木原SV から預かったID カードをセンサーにタッチし、暗証番号を入力した。小さな電子音とともにロックが解除され、ドアがスライドする。
「うわあ」マドカが思わず、といった感じの声を出した。「湿気くさい」
ユカリは壁際のPC の方を見た。昨日、何時間かユカリ自身が座っていた場所には、誰もいなかった。
「いませんね」
「やっぱトイレかな」
モニタを覗き込むと、昨日使っていた管理ツールが立ち上がっている。グラフのラインは赤で、リソース使用率は99% で横這いになっていた。
「これが何とかツール?」マドカが物珍しそうな顔でモニタを覗き込んだ。「何やってるのかさっぱりね」
「あたしも詳しくはわからないんですけど。とにかくGC かけてやらないと」
ユカリがGC ボタンを押すと、使用率は50% 台にまで急降下した。残りの2 つも同じくGC をかける。
「これで受付システムが使えるようになったはずなんですけど」
ホッと一息つくと、電話の着信ランプが点滅していることに気付いた。ディスプレイを見ると、音量はゼロになっている。マドカは顔をしかめて受話器を取り上げた。
「はい……いえ、私は水野です。K モバイルセンターの。木原さんに言われて様子を……え?はあ……いや、私に言われても……」
何か文句を言っているらしい電話の相手に、マドカは辛抱強く対応した。どうやら受付システムが重すぎるので苦情をぶつけているようだ。
「……はい、はい、わかりました。戻ったらすぐに連絡するように伝えますから」マドカは電話を切った。「あたしに文句言われても知らんがな。どうしよう?」
「あたしちょっと見てますから」ユカリは椅子に座った。「マドカさん、ナツメの人、探してきてもらえませんか?このままじゃ……」
「そうね」マドカは頷いた。「男子トイレに堂々と入るチャンスね。じゃ行ってくる。カードは……置いていった方がいいか。戻るとき、ノックするから開けてね」
マドカが出て行ったのを確認し、モニタに向き直ったとき、突然、イヤピースから声が聞こえて、ユカリは飛び上がった。
『ユカリ、遅くなってすまん』
「ボス?」
『ああ、すまん』気が急いているような声だ。『手が離せなかった』
「心配したのよ。何かあったんじゃないかって」
『悪かった。音声だけはずっとモニタしてたんだが』
「あの、ナツメの人がいなくなってるんだけど」
『わかってる。ユカリ、すぐにそこを出ろ。管理ツールを閉じて、部屋から出るんだ』
「え、でも、このままだと、すぐにシステムが重くなって……」
『詳しく説明している時間はない。いいからすぐ出ろ』
「まだマドカさんが……」
ドアの方から物音が響き、ユカリはビクッと顔を上げた。何か重い物が床に落下したような鈍い音だ。
『どうした?』
「わからない」そう答えたものの、ユカリの脳裏に浮かんだのは、オペレータルームで勝呂が倒れたシーンだった。「ちょっと見てくる」
『気をつけろ』
ユカリは足早にドアに向かうと、脇にあるセンサーにタッチした。スライドしたドアの向こう側には、出て行ったばかりのマドカが倒れていた。
「マドカさん!」
慌てて抱き起こすと、マドカは眩しそうな顔で目を細く開いた。半開きになった唇からは、意味不明の濁った音声が洩れている。
『始まってしまったか』イヤピースから声が聞こえた。『彼女の状態はどうだ?』
ユカリはマドカの細い首筋に指をあてた。脈が今にも消えそうなほど弱い。
「脈が弱いよ」ユカリは怒りをこらえて言った。「ボス、どういうこと、これ?こうなることがわかってたの?」
『わかったのは、ほんの数分前だ。じゃなければ、ユカリを送り込んだりしないよ。命に別状はないはずだから、壁際にでも寄せておくんだ』
ユカリは言われた通り、マドカの身体を壁にもたれかけさせた。防火壁の出っ張りに肩をあてて倒れないようにする。
「次はどうするの?」
『モニタルームに戻ってくれ』
「わか……あ!」
『どうした?』
「カードが中だ」ユカリはいつの間にか閉じていたドアを茫然と見つめた。「入れないよ」
『そうか……まあ、いい。仕方がない。オペレータルームに戻って……』
「待って」ユカリは囁いた。「誰か来る」
廊下を走る音が近づいてくる。ユカリは思わず身構えたが、現れたのは木原SV だった。
「前園さん」木原SV は慌てた様子で駆け寄ってきた。「大丈夫?あ、水野さん!」
「勝呂さんと同じです。救急車呼んでください」
ユカリの言葉が終わらないうちに、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。それも1 台ではない。複数のサイレンが重なり、さらに増えていっているようだ。
「何かあったんですか?」
「少し前から、オペレータさんたちが何人も気分が悪いと言い始めてね」木原SV は狼狽した口調で言った。「3 人がいきなりぶっ倒れたから、救急車を呼んだんだ。君たちが戻ってこないし、電話は話中だったから心配になって」
「みんな同じ症状なんですか?」
「そう。急に倒れて。何だろう。食中毒か何かかな。インフルエンザってことはないだろうし……エアコンに毒ガスとか……」
「そんなことより」ユカリは現実逃避しかかった木原SV の手を引っ張った。「マドカさんを連れていきましょう」
「あ、ああ、そうだね」
ユカリは木原SV に手伝わせて、マドカを背負った。普段から劇団で大道具を運ぶこともあるので、細身のマドカ1 人を背負うぐらい何でもない。
「あ、ごめんなさい」ユカリは思い出して言った。「木原さんのカードを中に置いてきちゃいました」
「あれ、ナツメの人はどうしたの?」
「いなかったんですよ」
2 人はそのままエレベータに乗り、1 階に降りた。エレベータのドアが開くと、途端に喧噪に包み込まれ、ユカリは思わず足を止めてしまった。
エントランスの前はロータリーになっているが、そこに4 台の救急車が赤い警告灯を点滅させて停車している。ガラスのエントランスは開放され、床に並んだストレッチャーの上に、マドカと同じように意識を失っているらしい男女が寝かせられている。横浜市消防局の文字が背中に入った水色のディスポーザブルガウンを着た救急隊員が、その横にしゃがみこみ処置をしていた。
「こっちもお願いします!」
ユカリはよく通る声で叫んで、救急隊員の注意を引いた。1 人が足早にやってきた。
「そこに寝かせてください」中年男性の救急隊員は指示すると、マドカの脈を取った。「いったい、何が起こってるんですか?」
「わかりません」
ユカリはマドカを寝かせながら答えた。何が起こったのか知っていそうな人間が、1 人いるがこの場で聞くわけにはいかない。
短いチャイムが鳴り、エレベータが到着した。扉が開くと、また意識を失っているらしい女性を、男性2 人が抱えて降りてくる。男性の片方は館脇センター長だった。
「お、木原くん」館脇は女性オペレータを救急隊員に引き渡すと、ユカリたちの方へ近づいてきた。「来てくれ。まだ倒れてる子がいる。前園さんも悪いけど手伝ってもらえるか?」
「もちろんです」
ユカリたちはエレベータに乗り込んだ。扉が喧噪を閉め出し、束の間の静寂が狭い空間を満たす。
「そういえば」館脇が木原SV を見た。「ナツメシステムのことを聞いたか?」
「何ですか?モニタルームにはいなかったみたいですが」
「だろうな」館脇は吐き捨てるように言った。「あいつら、手を引きやがったんだ」
「は?」ユカリと木原SV は思わず顔を見合わせた。「手を引いた、とはどういうことでしょうか」
「さっき本部長宛に電話が入った。保守契約を一方的に破棄し、うちの会社から手を引きたいと。いや、引くと」
「はあ?」ユカリは思わず声を上げた。「いきなりですか」
「手を引くって……」木原SV は状況を理解できない顔だった。「そんなことできましたっけ?」
「法務が確認した。違約金を払えば即日、撤退できるらしい。契約書の中にそういう一文が紛れ込んでいた」
「違約金……ですか?」
「金額聞いたら驚くぞ」
館脇が口にした数字は、<キャナリー22C>導入でDLコンタクトが支払った額の5 倍だった。
「こっちからかけても、誰も出ないそうだ」
「……今のシステムはどうなるんですか?」
「そのまま、だましだまし使って、面倒見てくれる会社を探すしかないだろうな」
「なんでいきなり……この騒ぎと何か関係あるんでしょうか」
「わからんな」
オペレータルームのあるフロアでドアが開くと、廊下で右往左往するオペレータたちの姿が目に飛び込んできた。何人かは床に倒れていて、傍らに若い女性オペレータが泣きそうな顔でしゃがみこんでいる。
「木原くん、原口さんを運ぼう」館脇が上着を脱ぎながら指示した。「前園さん、オペレータルームの中に誰か残ってないか見てきてくれ。君の私物があるなら、ついでに持ってくるといい」
ユカリは頷いて、ドアが開いたままのオペレータルームに入った。ざっと見渡したが、誰も残っていない。各PC のモニタには受付システムの画面が表示されたままだ。
「ボス?」ユカリは囁いた。「一体、どうなってるの?」
『詳しいことはいずれ話す』ボスはすぐに答えた。『今はお仲間の救護にあたってくれ』
ユカリは自席に向かった。私物のほとんどはロッカーの中だが、ハンカチや筆記具などがブースに残っている。
「1 つだけ教えて。これ、ナツメシステムが関係してるの?」
『そうだ。ある意味では』
「わかった」
素早く私物をかき集め、ポケットに入れる。隣のブースを見ると、マドカのポーチがあったので、それもついでに掴んだ。後で病院に届けてあげるつもりだった。
最後にモニタを一瞥し、オペレータルームを出ようとしたとき、イヤピースの声がユカリの足を止めた。
『待て。画面を見せてくれ』
「え?」
何だろう、と訝しく思いながら、ユカリはモニタに視線を向けた。
「どうしたの?」
『昨日と画面が違ってないか?画面の上の方だ』
「ああ、これ」
受付システム画面の上部、ブラウザのアドレスバーのすぐ下に、1 行分のテキストボックスが、横幅一杯に出現していた。中にはランダムな数列が表示されている。昨日はこんなものはなかったし、研修でも教わらなかったが、マドカに訊いてみると「何か知らないけど、たまに出るのよ」と言われたので、そういうものか、と気にも留めていなかった。
『今朝からか?』
「うん。マドカさんは、たまに出るって」
見ていると数列の一部が変化した。
『数字は変わっていたのか?』
「そうね。気がつくと変わってる感じかな。なんで?」
何かの意味があるのかと凝視していると、急に視界が暗くなった。
「え?」
特注のGoogle Glass の視野全体が薄闇のように暗くなっていた。ボスが操作したのだ。
『見るな』イヤピースが言った。『モニタを切って、外に出るんだ』
「何なの?」
『ユカリが見たのは今日だけだし』ボスは話しながら状況を整理しているようだった。『たぶん影響はないだろうが、モニタルームの方も見ていたからな。とにかく外に出るんだ』
「わかった」
ユカリは足早にオペレータルームを出た。館脇も木原SV も姿が見えない。倒れたオペレータを1 階に運んでいったのだろう。倒れているのは、あと1 人だ。
『何とか、もう一度、モニタルームに入る方法はないか?』
「そう言われてもね……」
木原SV のID カードは、モニタルームに置いてきてしまった。オペレータたちのID カードは、ユカリと同じ権限しかないから、入ることはできない。後は強引にドアをこじ開けるぐらいか……
答えようとしたユカリの視線が、床に脱ぎ捨てられた上着に引き寄せられた。館脇が脱ぎ捨てた上着だ。胸ポケットから、カードホルダーが覗いている。
「何とかなるかも」ユカリは上着を見つめながら答えた。
(続く)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係なく、たとえ実在の人物に似ているとしても偶然です。また登場する技術や製品が、現実に存在していないこともありますので、真剣に探したりしないようにしてください。
コメント
名無し
急展開に驚き!
長谷部
ワクワクする~(^o^) 早く続き読みたい!
名無し
電子麻薬?
へなちょこ
いきなりの急展開キター
ハウンドによるサブリミナル的な電子攻撃の実験なのかな?
これは
カードキーおいていったらあかんだろ…
レモンT
このコラム全体のタイトルって『Press Enter■』ですよね…。
ひぇー(^^;;
user-key.
そんな切羽詰った状態で「…エアコンに毒ガスとか……」って発想する木原SV。。。ハウンド関係者か映画好き?