増8.プログラマの困難について
●今回の発端
どう考えても、プログラマ/プログラミングには困難があります。しかし、それがなんだか分かららないのも事実だと思います。今回は、それについて考えたいと思います。
●困難に関する表層的な考察
プログラマ/プログラミングについて、以下のような困難があると思います。
- 自分がこの仕事に就いた20数年前には、「職業プログラマにならなければならないなら死んでやる」という考えの人間が多くいた。
- その反動か知りませんが、自分がこの仕事に就いた20数年前には、ちょっとしたプログラミング上のアドバイスだけで10万単位の小遣いをくれたりすることがあった。筆者はそのようないい目にあっていないし、現在ではさすがにそのようなことはないかもしれない。
- その反動か知りませんが、「プログラミングはワンパターンだ、単純だ」、「そのような単純作業に金は出せない」などという考えの人も(特に実務を経験した人に)多くいた。現在では、さらに多くの人がそう思っているように見える。
などなどです。このようなアンビバレントなことになるには、
- プログラミングは確かに単純だ。それ自体、困難なことはない。それはまぎれもない事実だ。
- しかし、プログラミングとは直接的に関係はないが、必ず付随する、思ってもいない困難があり、それを理解しないとプログラミングに“恐怖すら”覚える。
という条件が必要です。
●自分のこと
自分は、小学生の頃から、(オリンピック10年後で、良い国道、都道が整備され、しかし歩道などはまだ整備されておりませんでした。さらに自動車も道路のキャパシティに比べて、全然少ない)自転車で遠乗りするのが趣味で、その結果、「前方数百メートル、左右数メートルの他車の加速度を常に認知できる」ようになりました。これは、俺SUGEEというわけではなく、事実です。ただし、これは良いことばかりではありません。「非常にくたびれやすい」という致命的な欠点があります。
このように、視点がが違っている私ですが、大学を2年留年しています。きっかけは、電算機実習(パンチカードではなく、マークシートでプログラムを入力し、TSSでFIBGETしてエディタで修正する感じでした)をしていると、右腕が固まって動かなくなってしまったためです。
その時は単なる気疲れだろうと、スルーしていました。その後、社会人になり、プログラマになって今に至るのですが、ある時、また(2年留年する程ではないにせよ)右腕が固まることが起きました。それはだいたい、こんな時でした。
- プログラムについて考えていた時
- 目の端に、急な加速度を思わせるものを続けて見てしまう時
他人がペン回しをしている時、他人が団扇を使っている時、もっと言うなら、“自分が字を書いている時の手の動き”でも同様のように、右腕が固まりました。
その後、会社でお世話になっている大先輩に頼み込んで、仕事中に(いそづり用の)サイドガードを着用することを認めてもらいました。はじめ、工作用の安全めがねのサイドガード部分に段ボールの破片を貼り付けたものを使っていましたが、さすがにそれでは通らず、「ビジネスマンとして相応しい(それなりに高い)めがね(伊達めがねですが)を入手し」、「段ボールではなく、それなりのメーカー物を使う」ことで許してもらいました。
その後、半年後の健康診断で、なにか“血液検査で分かる、健康にかかわる指標が”改善されたみたいです。問診のお医者さんもはっきりとは言いませんでしたし、筆者も何のことだか分かなかったので、それもスルーしていましたが、今にして思えばサイドガードの効用だったかもしれません。
●困難にかかわる踏み込んだ考察
この考察の要諦は、『自分だけが特殊というわけではなく、他の人も同じようなストレスを感じているにもかかわらず、感知していないだけではないか?』ということです。
- プログラムについて考えている時、
- 人はかならず「きちんと見ず」、(「瞳孔開きっぱなしになる」とか「見るとはなしに見る」とか「一階上から目線で見る」とか)別の状態になり、
- その時に、急な加速度を思わせる物をみると、心気症になるくらいのストレスを感じる。
- 年中、そのように感じている人間より、(リア充の)年中、「きちんと見て」過ごしている人間の方が、いったんそうなった時の症状が劇的で、しかもなんでそうなったか全く見当もつかない。
のではと思います。だとしたら、プログラミングに恐怖を覚えてもおかしくはありません。
さらに問題なのが、プログラミングは実業で、目をつぶっていればできることではなく、必ずコミュニケーション(資料や他人を見ること)が必要になる点です。この点で、見えない物を扱っているにしても、旧来から有る座禅などと一線を画すると思います。
●なぜ非専門家は細部にこだわるのか
専門家でない人は、文書の細部にこだわります(図のずれとか、ページ数とか)。
それは、それらが「きちんと見」ていさえすれば分かることだからです。そうとしか思えません。「きちんと見」ないで、加速度を食らった時のインパクトがいやで忌避しているとしか思えません。これは侮蔑でもなんでもなく、事実の一端だと筆者は思います。
さらに“紙の”ドキュメントというのは、いろいろな方向にもって行きやすく、他人の加速度を見ないですむ角度に調節しやすいという利点も有るのが事実だと思います。非専門家が紙に固執する一因だと思います。
まぁ、今回はこんなところです。
●コラムのコメント欄の方針
コメントに対し、当意即妙の回答を、それなりのタイミングでする自信がありません。
ですので、このコラムで、
・わたしは基本的にコメントに答えない
・コメントを書く人は、回答がない前提で議論を進めていただく
とさせていただきます。