ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (43) カットオーバー

»

 結局、私はセレモニーでのアテンド業務を全うすることができなかった。
 今枝さんがパスワードを入力した直後は、KNGSSS に何の変化も現れず、私は不安と緊張を等分に味わいながら待った。高杉さんや今枝さんも同じように待っていたが、緊張度合いは私の比ではなかったに違いない。白川さんがどのような仕掛けを組み込んだにせよ、エースシステムの基準に則ったテスト工程を経ていないことは確実だ。つまりぶっつけ本番になるわけで、些細なケアレスミス一つで停止してしまう可能性は決して低くない。復元処理が途中で失敗するようなことがあれば、白川さんが病院へ直行してしまった今、時間までに修復することは、もはや誰の力を持ってしてもかなわないだろう。そのことはエースシステム社員の二人も痛いほど承知しているらしく、今枝さんはホール内をうろうろと不規則に蛇行し、高杉さんは中央で腕組みをして立っていた。
 数分後、私が耳にはめたままだったワイヤレスイヤホンから、軽やかな電子音が流れた。私はすぐにイヤホンをタップした。
 「はい」
 『ああ、俺だ』東海林さんの落ち着いた声が聞こえた。『鳩貝さんによると、ついさっき、また見たことがないプロセスが稼働を始めたそうだ。かなりのCPU リソースを占有して何かガリガリやってる。時間的には、そっちで例のaaa にパスワードを入力した時刻と一致するな』
 「復旧プロセスですよね」
 『たぶんな。白川さんが別のジョークプログラムを仕込んだんじゃないといいんだが。とにかくプロセスが終了したら連絡する。それはそうと、ケガはなかったか?』
 「先に訊いてくださいよ。大丈夫です。連絡、待ってます」
 エントランスでは受付が開始されていて、招待客や報道関係者たちがホールに足を踏み入れつつあった。市の幹部職員たちは、すでに演壇後方に用意された椅子に座っている。市長はつい先ほど市役所を出たとの連絡が入ったから、じきに控え室に案内されるはずだった。
 到着した市長が最初にやることは、KNGSSS の状態を確認することだろうから、高杉さんらエースシステム社員は、その前にproduction 環境が復旧することを必死で祈っているに違いない。「まだ壊れたままですが、間もなく復旧する見込みです」などという報告をしたくはないに決まっている。
 やがて来賓の方々が席に着き、市長が到着したことが告げられた。高杉さんは一瞬天を仰いだ後、確認するように私の方を見る。私が首を横に振ると、高杉さんは目を閉じて、苦痛に似た表情を浮かべた。控え室の方から市長補佐官の男性が急ぎ足でやってくるのが見えた。状況を確認しに来たのだろう。高杉さんは表情を消して、そちらに向かって歩き出した。
 再び着信音が流れたのは、そのときだった。私は応答しつつ、小声で高杉さんを呼び止めた。
 『復旧した』東海林さんは事実だけを告げた。『パターンチェッカーはクリアした。今、こっちのテスト機で一連の動作確認をしているが、おそらく問題ないだろう。イマージョンコンテンツも正規のものに変わっている』
 「伝えます」
 私は、足を止めてこちらを見ている高杉さんにOK サインを送った。高杉さんは小さく頷くと補佐官に向き直り、何事もなかったかのように報告した。
 ええ、現在は正常に動作しています......いえ、何も問題はありません。ちょっとした問題が発生したのは確かですが、すでに解決済みです......KNGSSS は完全に正常です。
 補佐官が納得した顔で戻っていくと、高杉さんは安堵したように小さく息を吐いた。今枝さんもうろつき回るのを止めて、まるで自分の手柄のようにガッツポーズをしている。私もようやく緊張が弛緩していくのを感じていた。
 不意に視点が急速に下がった。ん、と思う間もなく、お尻に衝撃が走った。身体が不自然に傾いている。右の掌が床に触れていた。自分が座り込んでしまったことに気付いたのは数秒後だ。
 「川嶋さん」ユミさんが訝しげに訊いた。「どうしたの?」
 「あ、いえ......」
 ともかく立ち上がろうとしたが、脳からの指令を下半身が受領しなかった。まるで腰から下の骨が軟質化してしまったかのように力が入らない。
 「大丈夫ですか?」
 駆け寄ってきたチハルさんが手を差し出してくれた。私は手を伸ばそうとし、それを目の前で止めた。腕全体が小刻みに震えている。少し吐き気を感じるようだ。冷静に自分を観察していられたのはそこまでで、続いて全身がガタガタと震え出すに至って、私はパニック状態に陥った。
 緊迫した叫び声が聞こえる。誰かに肩を揺すぶられていた。胃の中に大きな氷塊が生じたような不快感がせり上がってくる。私の視野は急速に暗くなっていった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 後で聞かされた話によると、私は意識を失いこそしなかったが、自分の身体に両腕を巻き付けながら涙を流して喘いでいたそうだ。高杉さんは2 台目の救急車を呼ぶべきか迷ったが、私がチハルさんの助けを借りつつも自分の足で立ち上がったため、様子を見ることにした。私はイベントホール内の救護室に連れていかれ、待機していた産業医の診察を受けた後、点滴を受けてベッドに寝かされた。目が覚めたときには、すでにセレモニーは終わっていて、会場の撤去作業が行われているところだった。この間の記憶は全く残っていない。私にはキョウコさん、ユミさん、チハルさんが交代で付き添ってくれていたとのことだ。
 「きっと緊張から解放された途端に」私が目覚めたとき付き添ってくれていたユミさんが、ミネラルウォーターのペットボトルを渡してくれながら言った。「さっきの恐怖が一気に蘇っちゃったのね。あのときの弓削は、どう見ても、ちょっとイっちゃってたもんね。私もマジでビビっちゃったからね」
 私はミネラルウォーターを一気に半分ほど喉に流し込んだ。砂漠の探検旅行から帰還したばかりのように喉がからからだった。壁の電波時計は、14:02 を表示している。
 「ま、睡眠負債もたまってたのかもしれないけどね」
 「情けない」私はため息をついた。「肝心なときに寝ちゃって。あ、片付けの手伝いとか......」
 「あー、いいのいいの」ユミさんはベッドから出ようとする私を押しとどめた。「それはプロがやってるから。それより、もう大丈夫?」
 「そうね。もう平気。食欲はないけど」
 「男子が何人か様子を見に来たんだけど」ユミさんは面白そうに言った。「みんな追い返しておいた。いびきかいて爆睡してる姿なんか、見られるのはきっとイヤだろうなと思ったから」
 「え、マジ?」私は赤面した。「いびきなんかかいてた?」
 「安心して。誰にも言ってないからさ」
 「......」
 「それより、話はできそう?」ユミさんは私の表情を観察した。「弓削の件なんだけど」
 答える前に、私は自分自身をデバッグしてみた。先ほどの記憶をプレイバックし、パニックが再発しないことを確認したのだ。幸い、おおよそ客観的な映像として見ることができた。
 「大丈夫だと思うけど、話って、誰に?」
 「警察の人」ユミさんはジャケットをつかんで立ち上がった。「誰かが通報したみたい。まあ、あれだけ人の目がある中で、あんなことしたんだから仕方ないわね。じゃ、呼んでくる」
 ユミさんはドアに向かったが、ふと立ち止まると、サイドテーブルに置いてあったタブレットを渡してくれた。
 「少し時間かかると思うから、それ見てて」ユミさんは含み笑いした。「今朝の件、ネットに上がってるからさ」
 礼を言った後、私はあることを思い出して、慌てて声をかけた。
 「あ、ねえ、白川さんは?」
 ユミさんはかぶりを振った。
 「今のところ、何の情報も入ってきてないよ」
 ユミさんが救護室を出て行った後、私はベッドの背にもたれると、タブレットに目を落とした。KNGSSS 用の機種ではなく、少し古いAndroid タブレットだ。「ICT 先進都市 くぬぎ市 - EH-03-10A031」のシールが貼ってあるから、イベントホールの備品なのだろう。
 ブラウザを開き「くぬぎ市」で検索してみた。トップに表示されたのはTogetter のURLで、「くぬぎ市の式典で判明したQ-LIC の陰謀の件について」のタイトルだ。クリックしてみると、『くぬぎ市監視団 @kcity-watcher』というアカウントのツイートが先頭に並んでいる。どうやら、今朝、開場前に来ていたインフルエンサーの一人らしい。

twitter.pngくぬぎ市監視団 @kcity-watcher 2時間
くぬぎ市の新学校情報システムのお披露目式典があったので行ってきた。あるツテで開始前に入れてもらうことができたが、そこで見たのはQ-LIC のちょっとした陰謀とそれを指揮したと思われる人物のぶざまな失態だった。まずは動画一本目。

 動画は私が見た沢渡レナのイマージョンコンテンツを7 分弱に編集したものだった。私が見たものと、セレモニー会場で公開された動画は、少し細部が違っていたらしい。沢渡レナや加藤文具店といった固有名詞は、少女A、B 文具店に差し替えられている。さすがにイマージョンコンテンツほどの臨場感はないが、被害者となった少女の絶望感は十分に伝わってきた。
 さらに4 つのツイートが続き、いずれにも動画が貼ってある。2 本目はQ-LIC や弓削さんの名前をマスクする配慮なしで流され、3 本目も同様だった。4 本目は、グリーンリーブスのデータセンタービルの映像だ。「くぬぎ市ICT システム データセンタービル(詳細な場所は非公開)」というテロップが入っている。ドローンから撮影した映像と、ビルの防犯カメラの映像が、二分割されて表示されている。防犯カメラ映像の方は、元々解像度が低く、ドローン撮影の映像はブレが目立つが、どちらも弓削さんの顔と声は鮮明だ。ご丁寧に「Q-LIC 地方自治体ソリューション部所属、くぬぎ市市政アドバイザ 弓削氏」とテロップが入っている。
 5 本目は今朝の映像だ。スマートフォンのカメラで撮影されたようで、縦向きの映像になっている。撮影者は私の斜め後ろにいたようで、私に向かってくる弓削さんの顔がはっきり映っていた。やがて白川さんが登場し、プロジェクターに4 本目の動画の一部が映し出される。弓削さんが花鋏を投げつけ、私が抜け出し、チハルさんが左ミドルを叩き込む。弓削さんが床に両手をついたところで映像は終わっている。
 すでに100 を越えるリプライが付いていて、私が動画を見ている間にも、その数は少しずつ増えていた。ざっと眺めた限りでは、それぞれの映像の真偽を問題にしているツイートはごく少数で、前市長によるICT 先進都市戦略の失敗を論じている人、別の自治体でQ-LIC が計画している図書館運営について批判している人、高村ミスズ先生の発言を引用している人、Q-LIC の運営している書店には足を向けないと宣言する人など、総じてQ-LIC に批判的な意見が目立った。
 Togetter からTwitter に移動しても、同様のツイートが相次いでいる。高村ミスズ先生や神代記者のように、何らかの組織人としての立場で来場した人の発言はまだ出ていなかったが、フットワークの軽い個人ブロガーやYouTuber は本番のセレモニーそっちのけで映像を編集してアップロードしていた。それらは各種SNS で拡散され、次々にQ-LIC を批判する発言が再生産されている。過去にQ-LIC によるDMCA で削除されたページを、「どうせこれもすぐにDMCA されるんだろうけど......」という注釈付きで再掲載する人もいた。
 対照的にQ-LIC は沈黙を続けていた。HP でも、Twitter やInstagram の公式アカウントでも、何事もなかったかのようにセールやキャンペーン、店舗情報を流しているだけだ。いわゆる電凸を試みた人は何人かいたようだが、具体的なコメントを取る事に成功した例は見つけられなかった。過去の散発的な批判には強圧的に対応できたかもしれないが、同時多発的に大量発生した証拠映像に同じ要領で応じても藪蛇になりかねない。今頃、必死で対応策を検討しているのだろう。どんな結論が出るにせよ、弓削さんの将来が明るくないことだけは確かだ。
 弓削さんがセレモニー会場に現れたのは、例のコンテンツをインフルエンサーたちに視聴させることを知らされたからに違いない。まさにさっきのような醜態をさらすことを期待してだ。そもそも、うかうかと防災センターに来てしまった時点で、すでに弓削さんは白川さんのコントロール下にあったようなものだ。弓削さんがもう少し冷静だったら、すぐにQ-LIC 本社に報告して広報部門や法務部門に対応を任せてしまうこともできたはずだ。Q-LIC と関係が深い企業経営者やメディア関係者は大勢いるし、くぬぎ市役所の中にもQ-LIC の息がかかっている職員はまだまだ多い。先手を打ってなりふり構わず圧力をかければ、イマージョンコンテンツのブースを閉鎖するとか、場合によってはセレモニーそのものを延期させることも可能だったかもしれない。自分の失点を自分でリカバリーしようとあがいた挙げ句、オウンゴールを決めてしまったのは誰の責任でもない。
 もっとも白川さんのことだ。たとえ今日のセレモニーを弓削さんが何とか乗り切ったとしても、複数の代替計画が用意してあったことは確実だ。白川さんは「プランB」だと言っていたが、プランZ ぐらいまで準備してあったとしても、私は少しも驚かない。きっと白川さんの頭の中には膨大なパターンのif とelse が連っていて、そのカバレッジは100% だったのだろう。優秀な人間の策にはまると、人はこうも簡単に破滅するのか、と戦慄する思いだった。
 ノックの音がした。応えるとドアが細めに開き、ユミさんが顔を覗かせた。
 「警察の人来たけど、いい?」
 私は頷いてタブレットを置いた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 警察官による事情聴取は1 時間ほどで終わった。そろそろ空腹を感じてきた私は、とりあえず開発センターに戻ることにした。その頃には会場の原状復帰作業も終わりかけていて、市関係者やエースシステム社員、それに開発センターからのアテンド要員は、すでに全員撤収していた。
 控え室のロッカーからカバンとコートを出し、イベントホールの外に出たとき、植栽の化粧ブロックに瀬端さんが座っているのが見えた。瀬端さんはスマートフォンを操作していたが、私の姿を見ると軽く手を上げて近付いてきた。
 「ご迷惑をおかけしてしまってすみません」瀬端さんは頭を下げた。「本当はもう少し早く白川さんが出てきて、弓削さんの注意はそっちに向けられるはずだったんですが。体調の方、いかがですか?」
 「いえ、大丈夫です」私は慌てて答えた。「ちょっと滅多にない経験で腰が抜けちゃっただけなんで。ホントに。救護室で寝てたのは、単に寝不足だっただけです」
 「それならいいんですが」瀬端さんは顔を上げて、ICT センタービルの方を見た。「戻るんですか? 途中までご一緒しましょう」
 私たちは市役所の方に歩き出した。3 月の冷たい風が吹き抜けているが、午後の陽射しは暖かかった。
 「私のことより白川さんは大丈夫なんですか?」
 「今はICU で治療中だそうです。命に別状はないそうです。少なくとも今は」
 「やっぱり病気だったんですね」私は瀬端さんの実直そうな横顔に言った。「そんなに悪いんですか。長く生きられない、と言ってましたけど」
 「私も詳しいことは知りません。私たちは共通の目的のために手を組んでいただけですから」
 「Q-LIC ですか」
 「直接的には弓削ですね」瀬端さんは微笑んだ。「それぞれの理由で、彼だけは地獄に突き落としてやろうと意見が一致していたんです。前市長の政策に便乗して、さんざん美味しい汁を吸ってきた男です。そろそろ、それに見合った罰を受けてしかるべきです」
 「最初から今日のセレモニーを目標にしていたんですか」
 「そうでもないんですよ。あのコンテンツを最大の武器にする方針は固まっていたんですが、弓削にぶつけるタイミングはいろいろ考えていました。でも、弓削が4 月からは昇進して、くぬぎ市の市政アドバイザリから外れることがわかってからは、あまり選択肢がなくなってしまいました。くぬぎ市からいなくなってしまうと、直接攻撃するチャンスがなくなりますから」
 しばらくの間、私たちは無言で歩みを進めた。
 「エースシステムを辞める白川さんはともかく」私は思いついて訊いた。「瀬端さんは今後、市役所に居づらくなるってことはないですか? タスクフォースのメンバーの方たちは、お二人の計画を知らなかったんですよね」
 「実は今月末で退職予定なんです」
 「え?」
 「タスクフォース自体、KNGSSS とKNGLBS が稼働した後は、組織としては縮小される予定なんですよ。Q-LIC の影響下にないICT システムが完成すれば、その役割を終えるわけですから。メンバーの半分も4 月からは異動です」
 「瀬端さんはどうされるんですか?」
 「教師に戻ります」
 そう言った瀬端さんは、くぬぎ南中学校の方角を懐かしそうに見やった。
 「くぬぎ市の中学校ですか?」
 「いえ、横浜市内のフリースクールです」
 「フリースクールというと、不登校とかの......」
 「ええ」瀬端さんは頷いた。「いろいろな事情で普通に学校に行けなくなった子供を支援する民間教育機関ですね」
 「聞いたことはあります。地域の小中学校と連繋している場合もあるんでしたっけ」
 「そういうところが多いんですが、私が行くのはもう少し年上の子たちがいるスクールです。高校と同等の勉強ができる環境を提供することを目的としています」
 「......もしかして、沢渡レナさんが......」
 「通っているところです」
 贖罪ですか、と訊きかけて、私は口を閉じた。瀬端さんが感じているだろう後悔は、所詮は部外者の私などが軽々しく定義付けできるものではない。白川さんと同じように、瀬端さんも逃げ場を自分で切り捨てたのだから。
 「白川さんも瀬端さんもいなくなってしまうと」私はわざと軽い口調で、グチっぽく言った。「今後のシステムのメンテナンスが苦労しそうですよ。私たちに面倒なことを押しつけて、自分たちだけ去って行くってことですね」
 瀬端さんは声に出して笑った。
 「いや、ほんとにそうですよね。でも、タスクフォース側の業務は情報システム課と企画課に移管するので。去年から引き継ぎをやってますからご心配なく。現タスクフォースのメンバーの異動先も、そのどちらかの課です」
 なるほど。そのあたりは抜かりなく考慮済みというわけだ。
 「新システムのメンテナンスについては」瀬端さんは意味ありげに私を見た。「まあ、それほど心配することはないんじゃないですか。川嶋さんをはじめ、優秀な人員が揃っていることですしね」
 「そう仰っていただけるのは嬉しいんですが、やっぱり白川さんがいないと不安ですよ。Vilocony 環境の設定は白川さんが握ってたんですから」
 自分で言っておきながら不安になってきた。結局、Vilocony の設定は白川さんが復活させてくれたのだから。同じような事態になることはないだろうが、今後発生するだろう機能追加や修正などの際、あれこれ試行錯誤しているようでは困る。
 「それはエースシステムさん側の問題ですからね」瀬端さんは優しい声で突き放すような言葉を口にした。「でも、まあ、大丈夫ですよ」
 その根拠を是非とも知りたいところだったが、私たちは市役所の前に到着していた。瀬端さんは、ではまた、と言い、さっさと市役所に入っていってしまったので、私は仕方なく交差点を渡った。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 開発センターに戻ると、まずチハルさんが、続いてキョウコさんとユミさんが、温かく迎えてくれた。私は礼を言った後、自分のデスクに座った。細川くんが心配そうな顔を向けてくれた。
 「大変でしたね。大丈夫ですか?」
 「うん。ありがとう。逆に睡眠が取れてよかったよ。セレモニーのアテンドもやらなくて済んだし」
 「連絡受けたとき」細川くんは囁いた。「草場さんが飛び出していったんですよ。でも、救護室には入れてもらえなかったらしく、落ち込んだ様子で戻ってきましたけど」
 「そうだったんだ」ユミさんがニヤニヤしていた理由はそれか。「じゃ、後でフォローしておくわ」
 「ひゅーひゅー」細川くんはおかしな擬音で私をからかった。「優しくフォローするわけですね」
 「ほっといて」私はカバンをしまった。「ところで、君はお世話になってる優しい先輩の身体が心配で、様子を見に行こうとは思わなかったの?」
 「行こうと思ったんですけどね。でも、東海林さんに言ったら、どうせ疲れて爆睡してるだけだろうから邪魔しないでおいてやれ、って」
 「......」
 私は東海林さんのデスクを見た。離席中だ。草場さんも席にいない。
 「二人ならコマンドルームにいますよ」細川くんが、今はドアが閉じているコマンドルームを見た。「高杉さん、今枝さんも一緒です」
 「ふーん。何だろ」
 「たぶん、これですね」
 細川くんはそう言って、自分のPC でマウスを何度かクリックすると、モニタを私の方に向けてくれた。そこに表示されているのはExcel で作成された表だ。
 「これ何?」
 「Vilocony の設定シートです。さっきグループウェアに届いたんですよ」
 「届いたって、誰から?」
 「もちろん白川さんです。日時指定送信みたいですね。東海林さんによれば、production 環境の完全な設定シートだそうです。今、クローン環境で設定を試しているんだと思いますね」
 「白川さんの置き土産か」
 「しかもVilocony のコンテナコーディネータ、コンテナドライバの完全詳細マニュアル付きです。いつの間にこんなの作ってたんでしょうね。例の計画でヒマなんかあったはずがないのに」
 それは違う、と私は思った。このマニュアルは、白川さんの計画の一部にすぎない。白川さんの計画にはゴールが二種類あった。弓削を社会的に破滅させ、Q-LIC のビジネスに対抗することが一つ。もう一つは、若宮さんが構想していながら実現できなかった、KNGSSS とKNGLBS の理想型を完成させることだ。若宮さんは、白川さんに宛てた最後の言葉の中で、自分の理想を誰かが実現してくれれば、と願っていた。白川さんがプラットフォームとしてVilocony を選択したのは、自分が全てをコントロールするための他に、若宮さんの理想的システムを実現できる可能性が高い開発環境だと判断したためでもあったのではないだろうか。
 「とにかくこれで」私は小さくため息をついた。「無事にカットオーバーを迎えられそうね」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 翌週の日曜日、4 月1 日に、くぬぎ市立図書館が装いも新たにリビルドした。前市長との差別化を図ったのか、派手な式典は行われず、準備期間のため3 週間休館していた後、いつもと変わらず開館しただけだった。白川さんを疑っていたわけではないだろうが、高杉さんは水曜日から総員体勢でKNGLBS のインテグレーションテストのやり直しを命じ、私たちはその作業に忙殺された。テストは何事もなく終了し、当日の朝もスムーズにproduction 環境が稼働していた。
 これでKNGSSS とKNGLBS は一応のカットオーバーを迎えたことになる。1 日の夜、全てのプログラマとエース社員は、開発センターでささやかな打ち上げを行った。ささやかな、というのは、高杉さんが手配したケータリングの料理こそ豪華だったが、アルコール類は最小限に抑えられていたためだ。もちろん車通勤している人が多いためで、ドライバーはソフトドリンクで我慢しなければならなかった。もっとも、本番の打ち上げは、後日、改めて行われる予定だ。営業関係者やくぬぎ市の元タスクフォースメンバーも招かれている。最大の功労者である白川さんは未だに入院加療中のため、おそらく参加はかなわないだろうが、たとえ招待されてても姿を見せることはないだろう。
 私がウーロン茶を手に女子チームと歓談していると、後ろから肩をつつかれた。振り向くと草場さんが立っている。
 「川嶋さん、ちょっといい?」
 女子たちから浴びせられる歓声を背に、私は草場さんの後についてブレイクルームに入った。全員が開発センターにいるため、今は無人だ。私たちは向かい合う椅子に座った。
 「どうしたの?」
 二人の今後について話がしたい、などと言われるのかと、私はドキドキしながら草場さんの言葉を待った。
 「うん」草場さんは珍しく躊躇いを見せた。「実は一つ告白をしなければならないことがあるんだ。カットオーバーが無事に済むまで待ってたんだ」
 「告白って」私は笑った。「何? 実はバツイチってウソで、離婚が成立してないとか言わないわよね」
 草場さんは苦笑した。
 「それならまだマシだったんだけどね」
 「え、じゃ、何なの」
 草場さんは考えをまとめるように沈黙した。私の心の中から、ついさっきまでの浮かれた気分が一掃され、不安が取ってかわるには充分な時間だった。
 「ね、言ってよ」
 私が促すと、草場さんは心を決めたように頷き、口を開いて話し始めた。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(51)

コメント

匿名

白川さんに命令されて川嶋さんの監視をしていたとか。

匿名

白川さんに命令されて川嶋さんの監視をしていたとか。

匿名

最初の方の「草場さんは口を開いて話し始めた。」は不要かな

BASS1

いいなぁ、引っ張るなぁw
私も喜んで引きずられていくことにしますかな。

匿名

ちょ、ちょっとーーー!!
まさかの、そっちでどんでん返し!?
何が起きるのーー!!

サルーン

今更ですがKNGSSSってなんて読んでます?私は勝手にクヌギトリプルエスと呼んでますが

暁 紫電

レナさん死んでなかったのか……

匿名

なんちゅう終わり方をしてくれたんや。えらい気になるやないか。

VBA使い

くぬぎ市市政アドバイザ 弓削氏
→アドバイザリ、でしょうか? 意味的には問題ないですが。


オウンゴール、超旬ネタですね(笑)

匿名

結局、白川さんの全体最適化の能力云々は伏線でもなんでも無かったのか・・・
production環境もエンジニアが復旧させるのかと最初思ってたので少し残念

「どちらの弓削さんの顔と声は鮮明だ。」

「どちらも弓削さんの顔と声は鮮明だ。」
もしくは
「どちらの弓削さんも顔と声は鮮明だ。」
かなと思いました。

2009年から来た人

草場「私だ」
川嶋「お前だったのか。全く気づかなかったぞ」
草場「上の世界へ、戻るぞ」
ブレイクルームに光が差し込み、二人の横顔を照らした。
川嶋「暇を持て余した」
草場「神々の」
二人「遊び」

(次回楽しみにしてます!)

匿名

うわー草場さんまってくれー!
このどんでん返しはいかん。
実は草葉の陰の人間で初期型Zだったに一票


KNGSSSはそのまんまケーエヌジーエスエスエスと読んでました。

匿名

レナさんの父親が草場さんだったとか?
次回がすごく気になります。

コバヤシ

>KNGSSS
わたしは「クヌギエスエスエス」でした。
トリプルエスかっこいいですね

SQL

草場さん、結局どういう人だったんでしょう。
何か伏線が張ってあったかは分からないけど来週でそれが回収されるのか。
もしそうだったら始めの方から読み直してみたい。

匿名

>レナさん死んでなかったのか……
って・・・
前に、一命は取り留めたとか社会復帰を目指してるとか情報出てたよ。

魔女の刻 (11) 伏魔殿
>その後、精神的に不安定な状態が続き、一時は生活もかなり荒れたようですが、周囲の助けもあって、支援施設に入って治療を続けながら社会復帰を目指しています

魔女の刻 (39) 若宮カズオのナラティブ(後)
>僕は沢渡レナが自殺を図ったことを知った。君は慎重に言葉を選んで伝えてくれた。何とか一命は取り留めたものの、彼女はすっかり心を閉ざしてしまったのだと。

匿名

「実はバイでした」「実は男性不妊症でした」「実は内縁の妻が居ました」、さあ、どれが来るか。

匿名

この世界にhagexがいたらまとめてただろうなあ

noon

「YouYuber」→「YouTuber」かな?
草場さん、地方か海外に転勤とか

匿名

くんぐすすす

hir0

読み方は私は
くぬぎえすえすえす
くぬぎえるびーえす
と読んでました

匿名

けーじ… なんか仕組みのやーつ
って感じで、読み飛ばしてた

るんた

> 私は不安と緊張を等分にわいながら

味わいながら、でしょうか?
来週も気になる!

匿名

>KNGSSS
「くぬぎっっす」と読んでました。

匿名

草場さん、実は白川さん、高杉さん、今枝さんともデキてたとか?

匿名D

いくら俺でも、それには煽られないなあ。

匿名

草場さん:「実は、君のいびきがたえられなくて」

匿名 

意識失った後のいびきって脳が結構ヤバイ兆候だったような……

匿名

ところで、くぬぎ市監視団のアイコン画像は、何ですかね?

匿名

「冷たい方程式」のときのように、
結果的にでも利用者が満足できるシステムになったのなら、
それがせめてもの救いかな

匿名

アイコンは
レッドビーシュリンプでは。。
イニシアティブ?

MST

>アイコンは
>レッドビーシュリンプでは。。
>イニシアティブ?

ということは、実は今回呼ばれたインフルエンサーの中に五十嵐(もしくはイニシアティブのエージェント)がしれっと混じっていて、
五十嵐「ほう、以前から撲滅対象の筆頭に挙げられていた Q-LIC の不祥事を、こんなところで公然リークしてもらえるとは、一度は撤退した関東にまた足を運んだ甲斐があった。何やらゴタゴタした事情があるようだが何だっていい、 Q-LIC にトドメを刺すチャンスだ!」(無言のツイッターアカウント作成&動画拡散)
…なんてことになっていたのだろうか。

リーベルG

匿名さん、雨さん、noonさん、るんたさん、ご指摘ありがとうございました。

VBA使いさん、「アドバイザリ」という単語はあまり一般的とはいえないので、
一般向けの映像のテロップは「アドバイザ」としたのです。

KNGSSS の正式な呼び方はありません。
たぶん、登場人物はそれぞれ好きな呼び方で呼んでいるんだと思います。

くぬぎ市監視団のアイコンは、匿名さんの仰るとおり、レッドビーシュリンプの頭部です。

匿名

若宮さんがイニシアティブメンバーで、共同での弔い合戦だったのかな
異常に多い白川さんの作業量もそれなら頷ける
よもや、五十嵐さんの技術者使い潰しへの憎悪の発火点だったりするのだろうか

Zの人

いつも楽しく読ませていただいています。

フィナーレも近そうだったので最初から読み返していたところ
人物背景が間違っていると思われる話がありました。

40話「不法侵入」

瀬端さんの経歴が下記の様になっています。
  南中学校→相模原市の中学校→東中学校→タスクフォース
また、「南中学校では責任の押し付け合い合戦が~」とも。

しかし、沢渡レナは東中学校だったはず(36話などから)なので、
全体的に東と南が逆になっていると思われます。

neco

ふと気になったので。
KNGSSS音声化してないです。(ので読みが与えられてない)
って人も結構居ますよね?

@ITの中の人

「キングス」と読んでました。

トメェト

>@ITの中の人
私もです。同じ人がいてほっとしましたw

トメェト

>@ITの中の人さん
さんをつけ忘れていました。
失礼しました。

yuji

>私たちは並んだ椅子に座って向かい合った。
並んだ椅子に座ったら、向かい合わないでしょっ!と思ってしまいました。
アレですかね。向きが変わる回転椅子のようなものですかね。

宇宙大帝

>過去にQ-LIC によるDMCA で削除されたページを、「どうせこれもすぐにDMCA されるんだろうけど......」という注釈付きで再掲載される人もいた。

誤:再掲載される人もいた。
正:再掲載する人もいた。

リーベルG

Zの人さん、ありがとうございます。確かに、逆でした。
東中学校→相模原市の中学校→南中学校→タスクフォース
が正しいですね。

yujiさん、宇宙大帝さん、ご指摘ありがとうございます。

ウェルザ

筆者さんがどう呼んでもいいと言われる中で
俺は東海林さんが「しょうじ」なのか「とうかいりん」なのか初登場時からずっと気になっている
(かっちょえぇだけに)
企業名と人名は読み間違えると恐ろしいことがw

m

> 対照的にQ-LIC は沈黙を続けていた。HP でも、TwitterやInstagram の公式アカウントでも、
Twitterの後に半角スペースがないようです。

匿名

いつも楽しみにしています。
ここまできたら、
・白川さんの後日譚
・弓削さんの後日譚
・瀬端さんの後日譚
・草場さんの後日譚
……
こんな感じで10回くらい引っ張って欲しいです!マジで。

リーベルG

m さん、ありがとうございます。抜けてましたね。

「東海林」は「しょうじ」です。
ちなみに、「Q-LIC」は「キューリック」です。

user-key.

草場さんにも子供がいるって事じゃないかな?
介護すべき人がいる可能性も有り。

ランド

草場さんが精神的にも相当負荷がかかる内偵を引き受けたのは、Q-LICやくぬぎ市と何らかの因縁があるからなんじゃないかな?来週も楽しみです。

ウェルザ

筆者さん!ありがとございます!
心置き無く暑い夏が乗り切れる!

おのちん

リーベルGさん、今回も楽しく読ませていただきました。
次作も期待しています。

コメントを投稿する