イノウーの憂鬱 (37) キーマン
結婚を考えるどころか、相手すらいないのに、住宅ローンの話などされても実感が沸くはずもないし、まだこの世に存在してもいない子供のことで、エゴイスト呼ばわりされる筋合いはない。少しムッとしたが、大竹専務の口調に揶揄の成分は混入していなかった。それにシステム開発室の行く末は、この人に握られていると言っても過言ではないのだ。ぼくはマスクの下で深呼吸して副交感神経を活性化させた。
「ご心配いただいてありがとうございます」ぼくは大竹専務に頭を下げた。「結婚して子供ができたら真剣に考えようと思っています」
「子供ができたら、だと? なぜ、今から考えない」
「そう言われても......」
「いいかげん気分を切り替えろ」大竹専務は鋭い声を出した。「君は、まだベンダー勤務気分でいるようだな。うちに勤めている以上、きちんと将来設計を考えてもらわないと困るんだよ」
「あの、どういうことでしょうか?」
「以前はサードアイにいたんだったな」大竹専務は東海林さんを挑戦的な目で見ながら言った。「うちの会社に来て、給与面での待遇はどうなった?」
「......上がっています」
事実、ぼくの銀行口座に振り込まれる給与は、サードアイ時代に比べてかなりアップした。福利厚生面も比較にならないほど充実している。
「仮に、仮にだ、システム開発室が存続したとしても、君がプログラマ職を続ける以上、昇給は少なくなる。それでもいいのか」
「それは、まあ」ぼくは肩をすくめた。「大幅な給与増が見込めなくても、下がることがなければ、何とかやっていけると思いますが」
「下がることがなければ、か」大竹専務は笑った。「君は、就業規則を全部読んだのか」
「就業規則ですか」ぼくは戸惑いながら答えた。「入社時に一通り目を通しましたが......」
「役職定年についても読んだのか」
「えーと」ぼくは記憶のページを慌ただしく繰った。「55 才になったら、役職手当がなくなるという規則ですね。でも、あれは部長以上の役職者に対して適用されると読みましたが」
「夏目くん」大竹専務は顔の向きを変えた。「部下に社則を徹底させるのも上司の仕事だぞ」
「はい」夏目課長は大きく頷いた。「申しわけありません」
「説明してやれ」
「あの」夏目課長は、東海林さんの方をちらりと見た。「この場ででしょうか」
「構わん」
「わかりました」夏目課長はぼくの方を見た。「あのね、去年の4 月に制度が改訂されて、役職なしの社員についても、55 才の誕生日の月から一定率で基本給から減額することになったのよ。4.1 付けで通知があったはずだけど」
そういえば4 月1 日には、人事関係なども含めて大量の通知が来ていた。後で読もうと思っているうちに、緊急事態宣言とテレワーク開始のゴタゴタにまぎれて、つい放置してしまっていた。何通かは目を通したが、役職定年の規約改定については自分に関係ないと思い込んで読み飛ばしてしまっていたようだ。
「見落としていたようです。でも、減額といっても10% 程度だったと思います。それほど生活に影響が出るとは......」
「だから目の前しか見えていない、と言っているんだ」大竹専務が苛立たしげに声を荒げた。「1 年や2 年の話ではない。10 年単位で生活を考えろ。人間は年を取ってからの方が金がかかる。人間ドックの数値はどんどん悪くなってくるし、歯や目の機能は下がってくる。日常生活だってそうだ。生活水準を下げることは、なかなか難しいからな」
「......」
「このままシステム開発室でプログラミングなどやっていては、君の昇給は難しい」大竹専務は少し優しい声になった。「サードアイよりも給料は上がったかもしれないが、それでも他部門と比較すれば低い水準だ。この会社の社員である以上、そんな不平等を放置しておくつもりはない。システム開発室をなくしたいのは、そのためだ。わかってくれるな」
確か、この会社の経営陣は、開発部門の復活を望んでいるのではなかっただろうか。ぼくはその話をぶつけてみようかと考えたが、この場でする話でもないか、と思い直した。
「同じことは」ぼくの思いをよそに、大竹専務は話を続けた。「もう一人、笠掛くんにも言える。彼女だって昇給が低く抑えられる。まだ年次が若いから目立たないが、そのうち同期との差が明確になってくる。それでいいと君は思うのかね」
マリのことを持ち出されて、ぼくの心は確かに揺れ動いた。ぼくは好きな仕事を続けていけるなら多少の給与格差は我慢できる。だが、マリはどうなんだろう。フロント技術の勉強は好きなようだが、開発業務そのものをどう思っているのか。戦力になりたい、とPython の勉強を始めたのは......
「こういう下世話な話はしたくないが」大竹専務が言った。「彼女がシステム開発室にいるのは、開発業務が好きだからというよりも、個人的な感情によるものだという噂も耳に入っているぞ」
したくないならしなければいいのに。ぼくはうろたえた。東海林さんたち、社外の人がいる席で披露するような話題ではない。それとも、これは大竹さんの計算なのだろうか。
「君は彼女の好意に甘んじて、今の状況を維持しているようにしか見えん。そんな自分勝手で、笠掛くんの将来を潰してしまっていいと考えているのか。彼女の実績を見る限り、君のようにプログラミングがやりたい、という強烈な動機はないように思えるがね」
「それは」ぼくはやっと言葉を絞り出した。「笠掛さんの自由意志で......」
「なるほど便利な言葉だな。自由意志か。その自由意志で、笠掛くんが開発業務を楽しんでいると、本当に思っているのか。単に君を失望させたくないだけで、開発業務をやっているのかもしれないとか考えもしないのか」
「......」
「キーは君だ。井上」大竹専務は容赦なく続けた。「システム開発室の実質的なキーマンは君だ。それは、社内の全員がわかっている。君がシステム開発室から離れれば、あの部屋は存続できない。笠掛くんのことを考えるなら、早めに営業なりマネジメントなりに戻してやるのが、彼女のためだ。プログラマなどという将来性のない部門で塩漬けにしておくのではなくな。どうだ。そうは思わないのか」
「大竹さん」東海林さんが口を挟んだ。「プログラマがプログラムを作ることが、IT 業界の基礎であり土台だ、と昔、仰っていましたね。その頃の大竹さんは、プログラマを土方ではなく、尊敬される専門職に格上げしたい、と考えていたことを憶えています。その思いはもうなくしてしまわれたんですか」
「夢と現実は別のものでしょう」大竹専務は醒めた口調で答えた。「それに人間は変わるものだ。ほんの些細なきっかけでも変わる。私も変わった。それだけのことです」
「そうですか」少し寂しそうな声で東海林さんは言うと、口調を切り替えた。「少し話が逸れてしまったようで申しわけございません。御社ではJava での構築をご希望ということですか」
「そうです」
「わかりました。フレームワークは妥当なところで、Spring でどうでしょうか」
「そのあたりはお任せしますよ」
Spring Framework か。これまで触る機会がなかったのだが、いい機会なので勉強するか、と考えたとき、大竹専務が付け加えた。
「ただし、うちのシステム開発室の手をわずらわせるようなことがないように願いたい。さきほどのSQL 文を流す程度は構いませんが、コーディングレベルの作業はNG とします。いいですね」
斉木室長が小さく咳払いした。
「リリース後の保守はどこが行うことになりますか」
「外注だ」
「サードアイさんに、ということですか」
「価格と実績を考慮して、最善と思われるベンダーを選定する。改修の規模によっては複数社に依頼することもあるかもしれんな。いずれにせよ、システム開発室の出番はない」
「では、システム開発室は何をすればいいんでしょうか」
「ベンダーコントロールだ」大竹専務はもはや興味をなくしたように、感情のこもらない声で答えた。「スケジュール厳守とクオリティの担保だ。もちろんシステム開発室が存在している間は、ということだがな」
絶望がぼくの全身から力を奪っていった。もはやシステム開発室の消滅は、少なくとも大竹専務の中では既定事項のようだ。
「もちろん、異存はございません」夏目課長が自分の存在をアピールするような声で言った。「では、下請法対応の件で、いくつか質問がありますが、よろしいですか」
話題はダリオスの改修ポイントに移っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
打ち合わせが終わり、斉木室長とぼくは、東海林さんたちをエレベーターホールまで送った。ボタンを押したとき、斉木室長が何かを思い出したように、ポンと手を打った。
「おっと、ちょいと総務に寄るんだった。イノウーくん、後はよろしく。では、失礼します」
そう言うと、斉木室長は足早に戻っていった。どうやら気を利かせてくれたようだ。ぼくはちょうど到着したエレベーターの扉を手で押さえ、東海林さんたちが乗り込むと、後から一緒にケージに入った。
「下まで一緒に」
東海林さんは頷いた。西山くんは少し驚いたような顔になったが、何も言わなかった。
エントランスに出ると、東海林さんは近くのコンビニを指した。
「コーヒーでもどうだ」
客とベンダーではなく、以前の同僚としての口調だった。ぼくは喜んで頷いた。
「あ、ぼく、ちょっと」西山くんがスマートフォンを取り出しながら言った。「電話してきます」
やはり気を利かせてくれたのだろう。ぼくは離れていく西山くんの背に一礼すると、東海林さんに続いてコンビニに入った。
ぼくたちはレジでコーヒーを買い、アクリル板の仕切りが設置されたイートインスペースに座った。
「いつぞやはキーボードを送っていただいてありがとうございました」ぼくは礼を言った。「重宝しています」
「よかった」東海林さんは笑った。「元気だったか」
「おかげさまで」
ぼくたちはしばらく、思い出話とサードアイ社員の近況について話に花を咲かせた。細川さんが結婚したのは知っていたが、川嶋さんにも良さそうなお相手ができたらしい、という話は初耳だった。それが一段落すると、ぼくは気になっていたことを訊いた。
「大竹専務とお知り合いだったんですね」
「ああ」東海林さんは頷いた。「以前、仕事でな」
「開発部門にいた、という話は聞いてたんですけど」
「詳しくは話せないが、優秀な人だった」東海林さんは懐かしむような目を空中に向けた。「向こうが二次請けで、こっちはその下だったんだが、そういう枠を無視して、質の高いシステムをアップするために昼夜を問わず仕事してたよ。よく意見をぶつけあったもんだ。勉強熱心な人で、フレームワークを細かい実務レベルで比較したり、新しいJava の言語仕様を積極的に取り入れたりしていたな。同じやり方に固執するんじゃなく、いいと思ったことは、どんどん変えていくし、情報収集も怠らなかった。それは今も変わっていないようだがな」
「プログラミングもやってたんですか」
「ああ」東海林さんは頷いた。「いわゆるプレイングマネージャというやつだ。自分でできないことを、人に命じるのは仁義に反する、とでも思っているみたいだった。ツールでも、まず自分が使ってみて、そのメリットとデメリットを熟知してから、部下に使わせる、という方針でな。クライアントとプログラマの両方から、信頼されている人だった」
「そんな人が、どうしてああなっちゃったんですか」ぼくは訊いた。「東海林さんは知ってるんですよね?」
「知ってるが、俺の口から話すわけにはいかんな。知りたきゃ、自分で訊いてみたらどうだ」
「教えてくれるわけないでしょう」
「どうかな。案外、話してくれるかもしれんぞ」東海林さんは時計を見た。「そろそろ戻らないと。とにかく、イノウー、短い間だろうがよろしく頼むな。お互い、プロとして納得できる仕事ができることを願ってるよ」
「こちらこそ」ぼくは頭を下げた。「みなさんによろしく」
「コロナ騒ぎが収まったら、細川や川嶋も入れて飲みに行こうや。いつ収まるのか見当もつかんがな。お前、パンデミックの映画とかよく観てただろう。こういうのはどういう結末になるんだ」
パンデミック映画の結末など二種類しかない。人類が滅亡するか、特効薬か治療法が発見されてハッピーエンドか。ぼくがそう言うと、東海林さんは面白そうに笑った。
「そうか、滅亡するのか」
「復活の日だと、南極にいる人たちだけは生き残ったんですけど」ぼくも笑いながら言った。「この前、南極の基地でも感染者が出たって言ってましたから、どうなるのかわからないですね」
西山くんが戻ってきたのが見えたので、ぼくたちは立ち上がった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
システム開発室に戻ると、夏目課長が待ちかねたように立ち上がった。
「遅かったわね」
「すいません。つい昔話を」
「まあいいわ。専務がお呼びよ。すぐに行って」
「大竹専務が?」ぼくは驚いて、座りかけた椅子から立ち上がった。「何でしょうか」
「私が知るわけないでしょう」夏目課長は焦れたように手を振った。「とにかく、すぐ行って」
首を傾げながら、ぼくはシステム開発室を出て、役員室の方に向かった。何の用だろう。まさか、クビになるわけではないだろうが。システム開発室をなくすことを決定した、とでも告げたいのだろうか。いや、それなら夏目課長を通して話があるはずだ。
役員室をノックすると、すぐに応答があった。ぼくは「失礼します」と言いながら中に入った。
これまで入ったことはなかったが、役員室といっても、意外にこじんまりとしていた。窓際のデスクに座った大竹専務は、ぼくを招き入れると、用意されていたオフィスチェアに座るよう指示した。
「君はプログラミングが好きなんだな」大竹専務は確認するように言った。
「はい」ぼくは頷いた。
「その気持ちは私もわかるつもりだ。以前は、私も同じだった。自分の手でシステムを組み上げるのが、楽しくて仕方がなかった」
何が言いたいのだろう、とぼくは大竹専務の顔を見つめた。
「言っておくが」大竹専務はぼくの視線を受け止めた。「システム開発室の廃止は、ほぼ確定事項だ。つまり君がプログラミングを仕事として続けることは、少なくともこの会社では不可能になる」
「......」
「だったら前の会社に戻るか。そう考えているのかもしれないが、それもできないぞ。きっと入社時にサインした誓約書の内容などちゃんと読んでいないだろうから教えておくと、離職後、3 年間は同業他社への就職ができないことになっているんだ」
「そうなんですか?」
そう訊いた声が裏返った。明確に意識したことはなかったが、もし、この会社でうまくいかなかったら、サードアイに戻ればいい、と心のどこかで考えていたのかもしれない。
「さっきも言ったように、私はうちの会社の社員には、幸せな生活を送ってもらいたい。金銭的な充実だけが幸せな人生だ、などと言うつもりはないが、それでも世の中の問題の85% ぐらいは金で解決できる。給与が高いにこしたことはない。そうだろう?」
ぼくは頷いた。
「社員は君をイノウーと呼ぶそうだな」大竹専務の目元がほころんだ。「私もイノウーと呼んでいいかね」
「もちろんです」
「では、イノウー。君はプログラマが将来性のない職種だ、という私の考えに納得しているか」
「していません」ぼくは正直に答えた。「全く」
「だろうな。君の異動先がどこになるにせよ、不満を抱えたままでは、高いパフォーマンスを発揮することはできないだろう。だから、これから一つ話をする。私のエピソードだ。それを聞けば、君もプログラマなどを続ける気が失せるだろう」
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。
コメント
匿名
同業他社への転職規制、そもそも憲法上の職業選択の自由に反してるから余程悪質な事例(最近の楽天5Gのアレとか)と見なされない限り、企業側が負けるでしょ。
匿名
いつ収まるのか検討もつかん→見当
匿名
企業側が負けうる規約だとして、過払い金訴訟のように弁護士が喜んで引き受けるようなイージー案件でもなければ、個人で違憲性を盾に訴えるのは相当ハードル高いでしょ。
とおりすがり
いつ収まるのか●検討●もつかんがな。
↓
いつ収まるのか●見当●もつかんがな。
匿名
同業への転職禁止の契約は理由があれば認められるよ(競業避止義務契約)
よほど悪質じゃない限りはせいぜい補償金くらいになると思う
今はエース傘下だからその辺は抜かりないだろうし
匿名
そもそも明確な損害を受けたことを証拠付で訴えないといけないから、
単に同業他社へ転職しただけじゃ訴えられないんじゃないかな。
匿名
いわゆる競業避止義務。判例でも条件によって結果がわかれている。
井上は自分から特別何かする必要はなく普通に転職すればいい。
それで会社が訴えるのかどうかと訴えられたら勝てるかどうかという話。
会社が実害を被ったとか、在職中に得た会社固有の知識やスキルを転職先で相当使ってるとかなら井上川が負けるかもしれないけど、
そうでないなら特別待遇を受けていたわけでもない平社員が負けるということはなさそう。
匿名D
専務の立場でありながら、プライベートをネタに揺さぶりをかけるとは、
たちの悪い人物にしか見えないです。
イノウーのため社員のため、じゃなくて、
自分の選択や主張を正当化したいだけなんじゃないの?
それにしても。
マギシステムに発注しかけるとか、
WebアプリにID管理の案件を持ち込まれるとか、
こんなザマでアウトソースしたらどうなるんでしょう。
むしられっぱなしのような気がするんですが。
匿名
大竹専務が過去の経験に裏付けされた能力で仕事している現状で、
同じような能力を獲得する地盤を自社からなくしてしまうことに不安は無いんだろうか。
自分が危ない思いをしたから子供にはさせたくない、
という過保護な親みたいな印象だけど、どういう理屈なのか次週たのしみ!
匿名D
羹に懲りて膾を吹く、という感じなんでしょうかね。
直面した課題からは目をそらしたが、
善後策がそもそも解決になっていない、という。
リーベルG
匿名さん、とおりすがりさん、ご指摘ありがとうございました。
匿名9
3 年間は同業他社への就職ができない、ということは
退職してフリーランスプログラマになるのは問題ないんですかね?
なんなんし
CTOが同業他社のCTOに
なん前例もあるのに
バカらしい規約ですw
匿名
前職でも2年同業他社に行くなっていうのが退職時の書類にあったわ…
同業他社に行くから嫌だってごねてその文言だけ消してもらったのを思い出した。
匿名
ここで茅森課長あたりが開発職死守に立ち上がるか?
匿名
競合他社転職禁止なら、最低でも65歳までの想定収入の倍以上は退職金払わないと筋が通らんな。
読者
大竹専務のロジックは正論のようでいて、実装経験のない人ばかりだとマギの件みたいな事はよくある気がする。
大竹専務もそれぐらいわからないわけはない。
本当は開発部門推進派だけど、推進するのにあえて強力な反対派を演じているのかなあ。これぐらいはね返さないと推進していく強力な理由にならないとか。
匿名
来週のエピソードが気になる