沖縄暮らししてます。
はじめまして。モッティと申します。
出身は沖縄ではないのですが、現在は沖縄でエンジニア生活を送っています。
どうしてこうなったのか? 何を考えていたのか?
自分自身を振り返る意味を込めて、マイペースにコラムを書いていけたらな、と思います。
■まずは自己紹介
東京生まれで、現在28歳(男)のエンジニアです。
大学は文系(社会学部)で、実は就職活動を始めるまで、システムエンジニアという言葉すら知りませんでした。そんな私はひょんなことからIT業界に入り、流れ流れて現在は沖縄でシステムエンジニアをしています。
大卒以来、IT業界にいますが、扱う言語は主にCOBOLです。
今時の若手でこのようなタイプは珍しいのではないでしょうか? あとは、Javaを少々使える程度です。
クレジットカードに関する業務知識がそれなりにあるため、汎用機の知識と組み合わせて開発業務をしています。
■このコラムの内容
社会人1年目~沖縄在住エンジニアとなる現在に至るまでの過程を中心にして書き進めようと思います。後は、気になる話題や面白かったことなどがあれば、随時、更新していきます。
そんなわけで(どんなわけで?)、今回は私の新人の経験(前半戦)を書いていきます。しばらくは、沖縄に直接かかわるようなコラムにはならないかもしれません。長くなりますが、気長にお付き合いいただければ、幸いです。
■社会人1年目(まさかの配属先)
私は、前述したとおり、沖縄県出身ではなく埼玉県で育ってきました。
就活中は、実家から通えそうな東京勤務ができるシステム会社をターゲットとしました。
そんな私が手にした内定先は、大手のクレジットカード会社を顧客に持つ社員数1000人程度の企業でした。
面接では、「あなたは99%東京で勤務になります」とのこと。
しかし、入社直後に手渡された辞令には、「名古屋勤務」の文字が!
今になって思い返してみると、内定式の日は奇しくも西武が中日を下して日本一になった日でした。生粋の中日ファンである社長の目の前で、西武ファンである私が中日を罵倒したことに一因がある気も……(無知な学生は怖いもの知らずです)。
私自身は大学生の時から1人暮らしをしていて、名古屋勤務であっても、案外すんなり受け入れることが出来たのですが……本当の衝撃はこの配属先にあったのです。
■初打席・初安打
よくある集合研修を終えて、部署に配属されました(実は、この新人研修もインパクト大で面白かったのです。いつかまとめて書こうかと思います)。
配属先はクレジットカードシステムの保守・開発を手掛けている部署。収益としては社内でも最大級で、花形と呼ばれていた部署でした。
そんな私についた教育担当さんは、気は優しくて力持ちタイプの兄貴タイプ。今時は珍しいかもしれない、熱い人でした。
配属されてすぐに、先輩のフォローの元で小さな案件を進めていったのですが、本番リリース後に障害が発覚しまして……。
新人の私では、気付けないような根本的な運用設計のミスでしたので、「私は」責められなかったのですが、先輩の落ち込みっぷりは今でも忘れられません。上の上司に届いた損害賠償請求書と記載された金額も……。
さらに、障害対応の大変さについても学びました。リカバリのために、山のようなお客様からの依頼をsばき、毎晩のように本番立合いで夜勤をして、事の顛末を報告して……と新人研修では決して教わらない、過酷な状況に追い込まれることとなりました。自分の仕事が与える会社(ひいては社会)への影響の大きさを痛感させられた経験でした。
そして、ひととおりドタバタが落ち着いた後に、諸先輩方から私に与えられた称号が「初打席・初安打」というものでした。
これは、今になってもかつての同僚に言われます。
でも、この称号は落ち込む新人の私の雰囲気を暗くしないように、周りの方々が気を使ってくれた結果なのかもしれません。
確かに、「初案件・初障害」よりも前向きな響きですから。
ちなみに、後日、先輩から聞いた話ですが、部長が「早い段階で失敗を経験できたのは良かった」と言っていたらしいです。
失敗をポジティブに受け止めることのできる部署だったのでしょう。この前向きでポジティブな姿勢は、今でも私の大事なポリシーの1つです。
■初のタクシー通勤
大きな障害を乗り越え、ふと周りを見渡してみると、フロア中がとてつもなく慌ただしい様子です。
どうやら、顧客であるクレジットカードが合併をするとのこと。主要なメンバーは、どうやらそのシステム対応に追われているようでした。
そんな中で、私に渡された新しい仕事は、約20人月の仕事。合併で他のメンバーがアサインできなかったらしく……納期は「2週間後」。
さすがに、新人の私でもクラクラしてしまいました。しかもアサインされたのは教育担当の先輩と私の2人だけ。仕事を振った上司曰く、「大丈夫。単純作業が中心だし、ボッタクリ案件だから」の一言。
なんだか、いろいろとあらゆる意味で徹底的に間違っている気がします! と反論する暇も余裕もありません。もうすでに、上司は他の仕事を死にそうな顔をしてこなしています。何とかしなきゃいけない。何ともならなかったら……走って逃げよう。
そう決意した瞬間でした。
さて、先輩と一緒にやるべき作業を全部切り出して、できることからやっていくことに。でも、やっぱり無理。だって、これまで磁気カードだったものをほとんど、ICカードに切り替えるって……無理ですよ。無謀ですよ。先輩。どれだけの作業があると思っているんですか!
しかし、組織の力とはありがたいもので、泣きそうな私を見かねたのか、走って逃げだしそうな雰囲気を感じ取ったのか、自分の案件で忙しい先輩方が最も効率の良いやり方を一緒にひねり出してくれました。
ICカード作成用のDBを作って、バッチ処理方式を決めて、と作業を進め、リリースまでの道筋を立てるその姿は、まさに職人たちの技でした。
ただし、当然のことながら私生活は悲惨なものとなりました。平日も土日もなく、終電なんてものは贅沢品。午前3時に仕事を終えて、タクシーで帰った後は翌朝9時に出勤。ひどい時には、朝に帰って、その日の昼間に出勤するとか。とにかく、眠いし体はダルいしで、新人ながらドロップアウト寸前でした。
これでも倒れなかったのは、先輩たちが、私よりも働いていたからでしょう。「あぁ、これが現実なのか」と諦めにも似た境地で毎日働いていました。
このような状況ですから、残業代はかなりの金額でした。事前に通知されていた新人に支給されるボーナス額を超えてたほどです。
でも、給与明細を見て思ったのは、「私の命って、こんなに安いんだ」ということ。正直に言って、まったくうれしくなかったのを覚えています。給与額は大事ですが、私にとってはすべてではない、とこの時点で感じました。
■そして沖縄旅行へ
何だかんだ言いながらも、無事に大きな山を乗り越えて人間らしい生活を取り戻し始めた矢先、先輩から「長期休暇とってもいいよ」との、ありがたい一言が!
心身ともに疲れ切っていた私は、大学の頃から毎年行っていた沖縄への旅行を決意しました。
前述のプロジェクト直後でしたので、お金の心配はまったくなし。ずっと、やりたいと考えていた、沖縄の離島めぐりを計画したのです。
もともと1人旅は好きだったので、沖縄へは1人で行くつもりでした。
ところが、そんな計画を同期に話したところ、「ズルイ! 俺も行く!」となり、瞬く間に同期の間に話が広り、結局は沖縄団体旅行となってしまいました。
といっても、同期全員が長期休暇は取れませんでしたので、まずは私が先行して1人で離島めぐりをした後で、沖縄本島で皆と合流して3日間ワイワイやるというものでした。
当時の同期は50名くらいでしたが、旅行の参加者は男女合わせて15名くらいになったと記憶しています(営業所は東京・名古屋でしたが、それぞれから参加者が集まりました)。
新人が申し合わせたように休暇を取るので、部門間ではちょっとした話題になったようです。社内で企画したものでもないのに、これだけの参加者が集まったのは奇跡に近いかもしれません。
会社に対して、「してやったり」と、少しだけ爽快な気分でした。若い社員が集まって沖縄でバカ騒ぎをして、大はしゃぎをして、夕陽を見て、と青春そのものでしたね。今でも、とても良い思い出として残っています。
そんな旅行中に、私は1人で竹富島へ行きました。夏のシーズンをずらした平日だったのでとても静かだったことを覚えています。
海岸の木陰で昼寝をしていると、そこにはたくさんの猫がいました。寄り集まって、寝転んだり遊んだりして、好き勝手に過ごしている様に見えます。
そこで、私はふと思ったのです。「猫より良い暮らしができているかな……」と。これが、数年後に決行される沖縄移住計画の出発点でした。
今回は、ここまでにします。思い出が多すぎて長文になってしまいました。もっと上手にまとめられるように精進していきたいですね。
では、失礼します。
コメント
通りすがり
投稿3回で終わりかよw
ham
現在も、フリーランスで活動されておりますでしょうか。
私自身も沖縄県内でフリーランスで活動しておりますので、色々情報共有させていただければと思い、投稿させて頂きました。
miri
こんにちはw 私も最近沖縄勤務に決まり、現在沖縄で新米プログラマーをしています!沖縄で軽めのIT勉強会やイベントなどを開催したいな〜と思い、お話うかがいたいなと思いました:)