ITエンジニア30年の物語 その1
<ITエンジニア30年の物語の主旨>
今回から、私のITエンジニアとしての約30年の経験を、自伝的物語風にして語っていきたいと思います。そして、その中から、コーチングが当時あったとしたら、どのように変わっていたか、または、対応できたか述べていきたいと思います。
<就職>
私は1953年の8月生まれですが、大学は1978年の3月に卒業しました。1年浪人し1年留年し、計2年の遅れとなり、大学を卒業しました。
1年浪人したのは、一流といわれる大学に入学したかったからです。しかし、結果は滑り止めとして受けた大学に入学し、1年浪人した結果を出せませんでした。そして、1年留年したのは、希望した大学に入学できなかった挫折感、その他、青春時代特有の色々な悩みがあり、やる気が起きなかったからです。
もともと、性格がのんびりしていたのも影響したように思います。
大学は工学系の大学で機械工学科を卒業しました。専門の機械工学にはあまり、興味が持てませんでしたので、就職情報で、信用金庫からの求人が来ているのはとても興味を引きました。
しかも、同じ大学の昨年の卒業生が2人、採用されているとのことで、入庫(信用金庫の場合、入社ではなく入庫といいます)できるかもしれないと思いました。
入庫試験を受けたら、(他の会社、数社は落ちましたが)、難なく合格し、入庫できることになりました。
当時は、10月に就職活動が解禁され、信用金庫の就職試験を受けたのが11月上旬で、合格発表は11月中旬にありました。当時は不況で就職難の時代でしたので、給料が良い金融機関である信用金庫に合格できた時は、とてもうれしかったです。
その信用金庫は千葉県にありました。
入庫前の12月頃から、事前の通信教育があり、希望に胸を膨らませて一生懸命に取り組みました。ペン字の練習もあり、字が少しはうまく書けるようになりました。そして入庫前の1週間程の合宿研修もありました。
<入庫1カ月目>
いよいよ、1978年4月1日、信用金庫の入庫日です。
もともと、のんびりタイプで、いつも時間ぎりぎりに物事を行う癖がある私は、当日も時間ぎりきりに家をでました。信用金庫の入庫式会場についた時間は、AM9時ちょうどで、どうやら新人約60人の中で1番最後のようでした。
到着したとたん、すぐに入庫式が始まりました。入庫式は2時間ほどで終わりました。そして、配属先の発表があり、私は信用金庫の本部(店舗でない部署)の事務部システム開発課でした。
新人は私も含め4人、配属されました。事務部システム開発課は、信用金庫本店のビルの2階にありました。課の部屋に案内され、入室したとたん、十数名の課員から好奇心に満ちた目で見られました。新しい机と椅子のセットが4つあることに気がつきました。
課長と思われる人が、「皆さん、好きな所に座ってください」と言いました。私は、なんとなく近くにある椅子に座りました。
しかし、あとで気がついたのですが、それがそのまま、自分の席になってしまい課の中のグループの所属も決まってしまいました。
その偶然の出来事によって、その後の私の運命に大きな影響を及ぼしたのです。
午後に、課長から(やはり課長と思われる人が課長でした)、課の業務の内容や目標について話がありました。
次のような内容だったと思います。
「当信用金庫では、初の自営オンラインの稼働に向けてシステム開発を行っている。これから、とても忙しくなるが頑張って欲しい」
事務部では、電子計算課という部署もありました。電子計算課に新人4人は案内され、業務の内容について説明を受けました。
電子計算課の課員は穴のあいている紙テープを指差しながら、説明をしました。今となっては、何を話したか覚えていませんが、多分、「信用金庫の各店舗から集まった伝票を元に、紙テープにパンチ入力して穴をあけ、これを読ませて、コンピュータで処理を行っている」というようなことを話したのだろうと思います。
入庫した1978年4月は、まだほとんどコンピュータの知識がなく、また、私たち新人に任せられるような仕事もないようで、毎日、とても暇でした。しょうがないので、信用金庫入庫1年目用の通信教育のテキストを毎日、読んでいました。
課は十数名でしたが、全員男性でした。私を含めた新人4名は全員、男性で女性がいないため、朝のお茶汲みを交代でやるはめになりました(当時は、現在と違い、女性が職場でお茶くみをやるのは、当然のような雰囲気がありました)。
システム開発課の隣の部屋は総務部の部屋でした。総務部に配属された新人が3名で、全員女性でした。彼女らもお茶汲みの仕事があり、流しで彼女らと会うことが日常茶飯事となりました。でも、私は、大学は理科系で女性がそれまで周りにいなかったこともあり、また、交際した女性もいなかったので、何を話したらいいか分かりませんでした。
しかし、課に配属された私以外の3人は文科系出身ということもあり、女性との会話に慣れていたらしく、フランクに話をしていて、とてもうらやましい感じがしました。
「理科系を出ると、こんなところで損をするのか!」と内心、後悔しました。
<コンピュータの研修>
5月になりました。5月1日に新人が課に配属になりました。確か4名の配属だったような気がしますが、今度は、営業店からの異動です。その中に女性が1人いました。
そして、直ぐに、コンピュータに関する研修が始まりました。当時、渋谷に富国生命ビルがあり、そこで3週間の研修を受けることになりました。
5月に営業店から異動になった人も含め、7人(課に配属になった女性は受講の対象ではありませんでした)、参加しました。
ほかの会社からも大勢の方が参加されて、合計で数十名だったと思います。
1週間目は、「電子計算機入門」(当時は、コンピュータというより、電子計算機という言葉がよく使われていました)です。2週間目は「システム設計入門」、そして、3週間目は「COBOL言語入門」でした。それぞれ、緑色したユニバック(現ユニシス)の自習書でした。インストラクターがいましたが、参加者のチェックや、昼休み、終了の指示、受講生が分からない時に質問に答えるためにいるようでした。
3週間、自習書に取り組んでみて、「自分にコンピュータは向いているな」という感じがしました。もともと、数学が好きでした。「数学の法則に基づき理論的に考えて、正解を導き出す」そのことにとても快感を覚えた時期が中学生、高校生時代にありました。
システム設計書入門でのシステム設計の感覚、COBOL言語自習書でのコーディング(システム設計に従い、コンピュータを動かす言語を書くこと)が、その数学の問題を解く感覚にとても似ていたのです。
社会人として、ちゃんとやっていけるか、まだまだ不安な時期でしたが、なんとかやっていけそうな気がしてきました。
3週間のコンピュータの研修が終わり、その翌週から、いよいよコンピュータの実務が始まりました。それから、波乱万丈なITエンジニアとしての人生が始まりました。
次回に続く!
<コーチングが当時あったら>
30年前もコーチングがあって私が学んでいたら、青年時代も、もう少し、人とのコミュニケーションがうまくなっていたでしょう。お茶汲み仲間の女性達とも、もっとフランクに話し合い、もっと青春時代を謳歌したと思います。
今日は、コーチングについては深くなく、浅い話ですが、だんだん、コーチングについても掘り下げていきたいと思います。
では、次回をお楽しみに!