てんま ろくさい です。イキバタですみません。

僕の履歴書? プロレスラー目指してました

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 みなさん、こんにちは。天馬鹿才です。

 僕はアキバ系でドバシ系です。

 アキバ系は説明不要ですね。ドバシ系はわかりますか? 某カメラ屋さんのことじゃないよ。

 おそらく僕の造語だと思いますが、ドバシ系とは「水道橋系」の略です。プロレス、格闘技系の人たちのことです。水道橋にはプロレスの聖地と言われる後楽園ホールがあって、その手のショップも集まってますので、そう呼ばせてもらいます。

 で、今回は、ちょっと異色な、僕の経歴を紹介します。

【きっかけは長州力】

 僕の年代でドバシ系の人はタイガーマスクではまった人間が多いんですが、僕は違います。僕が見始めたときは、すでにタイガーマスクは引退していました。

 僕の場合は長州力です。維新軍を率いて、反体制の雄として活躍していました。しばらくして、なぜか長州と維新軍がTVから姿を消しました。当時は全然、事情が飲み込めなかったのですが、新日本プロレス(以下、新日)からオポジションの全日本プロレス(以下、全日)に移籍していたのです。

 それまでは新日だけで、全日は見ていなかったんですが、両方見るようになりました。さらにプロレス誌も読むようになり、少しずつ色々なことがわかってきました。

【プロレスラーになりたい】

 だんだんと見るだけでなく、僕もプロレスラーになりたいと思いはじめました。ですが、当時言われていた、身長180cm以上というのがネックとなって(僕の身長は175cmでした)あきらめていたのです。

 しばらくすると状況が変わってきました。それまでは新日と全日の2団体しかなかったのですが、徐々に団体が増えてきました。団体が増えると、人手不足になりますから、プロレスラーになるためのハードルが下がってきたのです。

 20歳のときでした。2つの団体に履歴書を送ったところ、1つの団体から返事があったのです。入門テストを受けて、入門を許されたのです。見習い入門のような形でしたが、すぐに仕事を辞めて入門しました。

【現実は厳しい】

 入門といっても、実際に入ったのは合宿所ではなく、某建築派遣会社の「飯場」でした。建築現場で働かされてました。団体の代表の小遣い稼ぎに使われていたんですね。現場で働いた給料もかなりピンハネされていました。

 練習は、同期入門の2人と自主練習だけ。すべてを知りながらも、デビューしたい一心でみんな頑張っていました。そのうちの1人は現在、プロレスラーとして頑張っています。

 しかし、僕は体を壊してしまったのです。入った当初は85キロあった体重も80キロを切りました。血尿が出ました。プロレスラーになるのはあきらめました。このまま、デビューもできずに体だけ壊して終わりなんて悲しすぎると思ったんです。

【次は総合格闘技】

 プロレスラーになるのをあきらめた後も、本当は未練たらたら、ぶすぶすとくすぶった思いがあったのです。27歳のときでした。プロレスでなくとも何かやりたい。

 ちょうどそんな時、某選手の主催する総合格闘技のジムがオープンしたのです。こういうタイミングというものを重視してしまうのです。

 そこにはいちジム生として、2年ほど通いました。けっこう、一生懸命やっていたのですよ。ジムの定休日である月曜日以外の平日は、毎日通っていました。定期まで買いましたから。

 あわよくば、認められて、声をかけてもらえればなあと、淡い期待を抱いたいりしていました。何もありませんでしたが。

【現在】

 38歳になった今でも、懲りずにチャンスがあればと思ってたりします。

 ジムに通ったりはしていないですけど、ほぼ毎日、トレーニングしています。ストレス解消の意味もあるんですけどね。

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